隼人たちの月神信仰 「一.甘南備山考」





  中国の伝説によれば、月の中には巨大な桂の樹があり、呉剛なる西河の人がそれを伐り倒そうとする姿が月面に見えるという。ここから転じて「月桂」の故事は、眼に見えながらも、手に取ることのできない想いの譬えとなった。

 『万葉集』巻四には、湯原王の作った「目には見て手には取らえぬ月の内の楓カツラのごとき妹をいかにせむ(635/632)」という歌が収められている。湯原王は天智天皇の孫で、光仁天皇の兄弟に当たるから、どうやらこの中国の伝説は、8世紀前半には、わが国に伝えられていたらしい。

 目には見えながらも、手には取ることのできない想い、あるいは、あこがれ。しかし、月に対して託されたそのような想いとは、いったい何に対して向けられるのであろうか。とりあえず、湯原王の歌の場合、今、ここにいない恋人に対してそれは向けられている。月に託して遠い場所にいる妻や恋人を思い遣る歌は、この他にも『万葉集』や八代集等にかなり収められており、月とは、遠く隔たった場所にいる人への想いを映す天体であったことを感じさせる。

 ところで、「眼には見えながらも、手に取ることのできない想い」が月に託されたのは、当の、遠く隔たった場所自体であることもあった。例えばそれは、都市に対して抱かれた。

 『源氏物語』の「須磨」では、政争に敗れた光源氏が、都をはなれ、へき地の須磨へと流れてくる。おりしも須磨の上空には中秋の名月がかかっており、それを見た光は華やかな都での生活やそこに残してきた人々のことを懐かしんで声をあげて泣く。そして「見るほどにしばしと慰むめぐり合はん月の都ははるかなれども」の歌を詠んでいる。

 「月の都」はこの場合、帝都の美しさを讃えて言う成語で、『源氏物語』ではこの他に「手習」にある歌の中にも登場している。中国では古くから月中に仙女の棲む広寒宮という宮殿があるとされ、唐の玄宗は中秋の夜、この広寒宮で遊んだという故事がある。こうした月にあるという夢のような都へのあこがれと、「眼に見えども、手が届かない」月桂の故事との観念連合からか、古来、月は、遠い場所に残してきた都へのあこがれを託す鏡となっていたように思われる。

 『平家物語』巻第五の「月見」の段には、福原(今の神戸)に遷都した平家方の人たちが、月見のためにほうぼうに出かける次のような記述がある。

 やうやうあきもなかばになりゆけば、福原の新都にまします人〃、名所の月を見んとて、或いは源氏の大将(※光源氏のこと)の昔の後は野となれ山となれしのびつゝ、須磨より明石のの浦づたい、淡路のせとをしわたり、絵島が磯の月を見る。或は白良・吹上・和歌の浦・住吉・難波・高砂・尾上の月のあけぼのをながめて帰る人もあり。旧都に残る人〃は、伏見・広沢の月を見る。

 『平家物語』はフィクションとはいえ、史実にもとづいたフィクションである。福原に遷都した平家方の人々が、須磨の光源氏を気取って各地に月見に出かけたというのも、作者が実際に見聞した実話がもとになっている感じがする。
 清盛によって強行された福原遷都は、多くの人たちを住み慣れた京都から引き離す結果になったが、そうした人たちは平安京に残してきた生活に対し強い郷愁を抱いていたに違いない。結局、この遷都は失敗に終わり、都は半年足らずで再び京都に戻るのだが、ここで月見に興じた人々は、光源氏と同じく、月を観ながら京都での生活を懐かしんだのである。

 遣唐使として唐に渡り、玄宗に仕えた阿倍仲麻呂は、日本への帰国を熱望しながらも結局、果たせず、身を切られるような望郷の想いを抱えながら唐で没した。有名な「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」は、唐土で月を見ながら、故郷の三笠山にも同じ月が昇っているのだろうかと詠う、望郷の歌である。

 異境の地にあった人が、故国を懐かしんで残した歌というと、何となく「うさぎ追いし、かの山」のような、故国の山河を詠ったもののような感じがする。が、この歌の場合は違うのであって、当時、阿倍氏の邸宅が平城京東部にあり、彼は日本にいる時にそこから見た、三笠山に昇っている月を歌にしているのだ。『万葉集』には、彼の歌の他にも、平城京生活者によって三笠山に昇った月が詠われた作例が少なくないのだが、いずれにせよ、ここで仲麻呂が月を観て懐かしんでいるのは、奈良にあった都とそこでの生活なのである。

 『竹取物語』のかぐや姫は、最後には「月に帰った。」とか「月の世界に帰った。」というふうに思っている人がけっこういるかもしれない。しかしあれは、正確には「月の都に帰った。」のである。『竹取物語』の末尾近くになると、かぐや姫は月を見あげて物思いにふけったり、泣き出したりするようになる。周りの者が問いただすと、「おのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり。」と答え、自分は月の都の住民であったのが、訳があって地球で暮らしてきた、しかし、今度の中秋の名月の夜には、月の都の者たちが迎えに来るので、故郷に帰らなければならないと答える。
 その後、月の都からの迎えが到着すると、迎え撃つ準備をしていた手の者たちも歯が立たず、かぐや姫は羽衣を着て月へと帰還してしまうのは周知のストーリィである。ここには、わが国古来の他界信仰と、上述した広寒宮のような大陸の神仙思想の習合が感じられる。

 ところで、月をみながら泣くというかぐや姫の所作は、須磨の光源氏が、中秋の名月を見ながら都での華やかな生活やそこに残してきた人々を懐かしんで泣いたのとよく似ている。しかも、「おのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり。」というかぐや姫の台詞とパラレルに、光はそこで「月の都ははるかなれども」の歌を詠んでいる。つまり、ここでの2人は同時に「月の都」という語を口にしているのであって、偶然の符合とは思えない。どうやら須磨を執筆した紫式部の脳裏には、月の都へ帰る直前のかぐや姫のイメージがあったものと見える。
 もっとも、ご存じの通り、かぐや姫が月を観て泣いたのは、光のように月の都(彼の場合は平安京のこと)を懐かしんだからではなく、自分を育ててくれた竹取の翁たちとの別離を悲しんだからであった。つまり、2人の涙の意味は全く逆であったことになるが、このことについてはいずれ別の場所で触れることになるだろう。





   




 京都府京田辺市の西郊に甘南備山という山がある。名前からも察しが付くように、この山は神体山で、山頂には『延喜式神名帳』山城国綴喜郡に登載のある小社、「甘南備神社」が鎮座している。
 ところで、甘南備山東麓の大住郷には、やはり式内社(大社)の月読神社や樺井月神社があり、これらは月神を祀った神社である。

 甘南備山々頂の甘南備神社も、当社の神宮寺である甘南備寺にある文書によると、月読尊を祀っているといい(※1)、志賀剛によれば甘南備山々麓の各村にある諸社も、この山の月読尊を祀ったものという。どうやら甘南備山は、壱岐の月読神社の旧社地であった男岳山と同じく、月神の神体山であったらしいのだ。

甘南備山
 この山は標高わずかに217mたらずであるが、付近の山並みが全体的に低いため、対称形をした秀麗なフォルムと相まって、平野部から眺めるとそびえたつような印象的な山容を見せる。そうじて、奈良県の三輪山をはじめ、全国の神体山はしばしば、「笠を伏せたような」と形容される平べったい円錐形をしていることが多いが、甘南備山の場合は山頂の両脇に続く稜線が極度になだらかであり、そうした平べったさがことのほか著しい。

 上代に甘南備山で月神を祀った人たちは、山の上にある月を信仰の対象としたのだろうか。その場合、ちょっと気になることがある。私はまだ、この山の上に月があるのを実際に見たことはないのだが、その様子を思い描くと妙に懐かしいような感じにおそわれるのである。

 写真家のアンセル・アダムスというと、北アメリカの奥地にある滝や湖、あるいは化石化した樹木の写真などがトレードマークであるが、彼に『ヘルナンデス、月の出』という作品がある。ニューメキシコ州ヘルナンデスの寒村と、その遠景にそびえる、なだらかな稜線の山並みの上に月が昇った写真である。
 この写真はアダムスの超絶技巧的な写真術がいかんなく発揮された名作であるが、村はずれの墓地に林立する小さな十字架や荒涼たる大地の広がりを確認した後で、もう一度、山の上に昇った月に眼をもどすと、やはりそこには同種の懐かしさが控えている。撮影者のアダムスじしんが、同じ感情に囚われているのも確かだと思う。

 この不思議な懐かしさの情調はきわめて親密であると同時に、きわめて非個人的である。あるいは、母胎の中で羊水に浮かんでいた時にわれわれが見た夢の中には、そんなような光景が出てくるのだろうか。アーキタイプというのか何というのか、とにかく、なだらかな稜線を描く山の上に月が出ている光景には、われわれが太古からずっと抱えてきた原郷意識を呼び覚ます効果があるらしい ── そんな気がする。そして甘南備山はまさに、その上に月があればそうした懐かしさを呼び覚ましそうな山容をしているのである。こんなことを言うと、「お前のそんな個人的な感覚なんて、どーでもいいじゃん。」ということになってしまいそうだが、しかし私はこの懐かしさに、月を眺めながら「月の都」を懐かしんだ光源氏やかぐや姫の所作を解明する鍵があるような気がしてならないのである。

 『竹取物語』の舞台としては、多くの候補地があがっているが、その中でも南山城の大住郷周辺であったという説は有名である(『「かぐや姫の里を考える会」ホームページ』参照)。論理の飛躍を承知の上で言うと、かぐや姫が大住郷辺りの住民であったとするならば、彼女が眺めながら落涙したのは、甘南備山の上に昇った月ではなかったか、と思う。そしてその時、彼女は今ここで述べたのと同種の懐かしさに囚われていたのではなかったか、 ── 。



 ところで余談である。今でもよく覚えているのだが、私が初めてこれと同種の懐かしさにおそわれたのは、高校だかの美術の教科書で、シュールレアリズムの画家、マックス・エルンストの『都市の全景』という絵を見た時である。この絵は平べったいフォルムをした山の上に巨大な満月(デフォルメされている。)が昇っているところを描いたものであるが、私はそれを見た時、今、ここで説明してきたのと同じ不思議な懐かしさを覚えたのであった。

 じつはエルンストの絵で月が昇っている小山は、本当は山ではなく、古代人が残したピラミッド状建造物の廃墟で、シュメール人が残したジッグラトと呼ばれる神殿の遺跡に似ている(※2)。ちなみに、ジッグラトの遺跡としてもっとも有名な「ウルのジッグラト」は、月神ナンナの神殿だったのであり、多分、エルンストはそのことを意識しているのだろう。

 いっぽう、『都市の全景』というやや皮肉なタイトルは、ロード・ダンセイニの短編、『バブルクンドの崩壊』を思い起こさせる。「大地と齢を同じくし、星々をその姉妹とする都(荒俣宏訳)」バブルクンドの不可解な終焉をテーマとしたこの物語においても、壮麗な月神シン(=ナンナ)の都のことが登場するのであり、それは玄宗が遊んだという月の都、広寒宮をも連想させる。ちなみに、稲垣足穂の『黄漠奇聞』は、ダンセイニによるこの小説を下敷きに執筆されたものだ。

 さて、エルンストの絵にせよ、ダンセイニや足穂の小説にせよ、月や月のシンボルと共に都市の廃墟が登場するのだが、総じて廃墟には月がよく似合う。これを読んでいる方の中には、アテネのパルテノン神殿やギゼーのピラミッド、パルミラやカルタゴといった地中海都市、あるいは、カンボジアのアンコール・ワットやシルク・ロードの桜蘭といった遺跡に月が昇り、月光が白々とそれを照らし出す有様が、ポスターやCMや映画や絵画や写真や紀行文や小説で描かれているのに接したことはないだろうか(『荒城の月』もそうだ。)。とにかく、こうした廃墟の上に昇った月というイメージは、かなり流通しているような感じがする。

 この主題でもっとも有名なのは、エドワード・トンプソンによるマヤ文明の遺跡、チチェン・イッツァ発見の場面であろう。
 1885年、25歳のトンプソンは、年少の合衆国領事としてユカタン半島に赴任してくる。もともと彼には、「マヤ族とは、消えた大陸アトランティスの子孫たちである」ことを証明しようという若い野心があったのだが、実際に現地でマヤ族が残した遺跡の数々を眼にしているうちに、そのような机上の空論を捨てて、自らもまだ発見されていない遺跡の探索に乗り出すようになる。シュリーマンが幼い頃に読んだ『イーリアス』の伝承を信じて、トロイア発見に情熱を傾けたのと同じく、彼は今、ディエゴ・デ・ランダの『ユカタン事物記』にある伝説の「栄光の都チチェン・イッツァ」発見のため、密林の奥深くまで分け入るのだ。
 案内人のインディオの叫びで、トンプソンはうなだれていた頭をあげた。行手の黒々とした樹海を突き抜けて、かなり高い丘の頂上に、巨大な石造りの建物がそびえていた。月光をあびて並び立つ無数の石柱と階段状のピラミッド、その上に半ば崩れながら立っている神殿 ── それは中央アメリカのジャングルの中に、ギリシアのパルテノン神殿が突如そびえ立ったかのような、異様な幻覚にさえ思えた。<中略>
 下草や灌木におおわれた階段が、丘の麓から神殿まで続いている。ところどころ崩れた石段を、トンプソンは登っていった。石柱や石壁に彫りつけられた翼のある蛇 ── ククルカンの浮き彫りが、月明かりに認められた。トンプソンは階段の中途に立ち止まって、目を下に向けた。一つ、二つ、三つ …… 全部で十を超える石造りの大建築物が月光を浴びて陰影もあざやかに浮かび上がって見えた。
 トンプソンの目の前から黒いジャングルは消え、美しい建物の立ち並ぶ街路と広場が浮び上がってくる。ホラ貝の音が耳の中に鳴りひびき、きらびやかな輿を中心にした神官たちと群衆のの行列がしずしずと進んでくる …… 。<中略>
 夜のしじまをやぶって、足元から案内人のインディオの声が聞こえトンプソンはわれに返った。ホラ貝の音は絶え、幻の行列は消えた。
  ・『失われたマヤ王国』カーネギー研究所、小泉源太郎訳、大陸書房p192〜194
 私は子供の頃、少年向けの探検記か何かでこの場面を読んで、非常に興奮したのを記憶している。

 それにしても、こうした廃墟と月という主題はいったい、どこから到来したのだろうか。思うにそれは、須磨の光源氏が中秋の名月を見あげながら、華やかな都での生活やそこに残してきた人たちを懐かしんだのと同じ主題なのである。
 ククルカン神殿の階段上にいたトンプソンが、聖なる泉に犠牲の処女を捧げるマヤ族の行列を幻視したのと同じように、壮大な古代の廃墟を前にわれわれは、かってこの都市を築いた王族や市民たちの生活を思わずにはいられなくなる。つまり、光源氏の場合、都との距離のへだたりを象徴していた月が、ここでは、まだその廃墟が栄えていた頃との時のへだたりを映す鏡となっているのだ。ようするに、廃墟における月のテーマは、前者における空間軸を時間軸に翻訳したものなのである。



 話を甘南備山に戻す。

 この山は山頂にある式内社で月神を祀っていただけでなく、神話的なある都市の名前とつながりがあることでも特筆される。その都市とは平安京、── つまり光源氏が中秋の名月を見あげながら懐かしんだあの「月の都」である。平安京の朱雀大路を延長すると甘南備山々頂を通過するのであり、様々な風水的・道教的な呪がこらされたこの都を建設するにあたり、桓武帝のブレーンは何らかの理由によって、甘南備山を重視したのである(※3)。


甘南備山頂の甘南備神社
甘南備寺跡
 都から隔たっているが、そことのつながりがあり、かつ、月とも関係している、── ここには須磨の光源氏的と同じシチュエーションが感じられる。とすれば、月を見ながら都へのあこがれに身を焦がすような人物が登場する伝承が、この山についても伝えられていなかったろうか。

 すでに述べたが、甘南備山々頂の甘南備神社には、甘南備寺という神宮寺があった。この寺は現在、山麓の市街地に遷っているが、かっては甘南備山の山中にあり、現在でも山頂から少し下りた場所に、「甘南備寺跡」という石碑が立っていて、付近には土段の跡などがみられる。さて、『今昔物語集』の「山城国神奈比寺の聖人法花を誦して前世の報を知る語」によると、かってこの寺に1人の僧が住んでおり、幼い頃から法華経を習い、また真言を受持して長年、その修行を続けていたので、それ相応の霊験をあらわしたという。
 ところが、この僧はつね日頃、「この寺を去って大きな寺に行きたい。」という希望をもっていた。ついに決心してこの寺を出てゆこうととしたその夜、夢枕に気高い姿をした老僧が現れ、彼に衝撃的な事実を告げる。何と、彼の前世はこの寺の前庭にいたみみずであるというのだ。当時、この寺にはある法華経持経者がおり、そのみみずは彼が読誦する法華経をいつも土の中で聞いていた。そしてその善根により、みみずの身をはなれ、人間に生まれ変わって僧となったのが彼だという。老僧は最後に、「これでわかるだろう。お前はこの寺に縁のある身なのだ。だから他の寺に移ってはならぬ。かく言うわしは、この寺の薬師如来であるぞよ。」と言い残し、呆然として僧は夢から醒めた。彼はそこで初めて、前世の報いを知り、この寺に縁があるのが分かって、他の寺に移るという考えを捨ててしまったという。

 いつも法華経を聞いていたみみずが人間に生まれ変わる、── 「んな、アホな!」と叫びたくなるが、それはともかく、今ではこの物語からは脱落しているものの、他の大寺に移ろうと決心した夜、彼は月を観ていたのではなかったか。そうして、へき地の山寺で月を観ながら、遠く離れた大寺にあこがれている彼の姿は、かぐや姫や光源氏が月を見ながら「月の都」を想った様子とそっくりである ── 、あえてこじつければそんな風に考えられなくもない。

 それにしてもその場合、月を観ながら「月の都」を想う彼らの所作はいったい、何を意味するのだろうか。しかし、そのことについて考える前に、隼人たちのことに触れておかねばなるまい。











※1  志賀剛の報告による。

 なお、神社明細帳によれば甘南備神社の現祭神は、「天照大神・葺不合尊・大国主命・天児屋根命」になっている。『綴喜郡誌』及び『田辺町史』もやはりこの四柱を祭神としているが、大国主命と天児屋根命は相殿に祀るとしている。いずれにせよ、『式内社調査報告』の西山克が言う通り、これらの祭神は近世になって決定されたもので、その根拠は疑わしい。

 この他、当社の祭神については「甘南備真人が祖神を祀った」とする『神社覈録』の説や、「神魂命」とする出口延経の『神名帳考証』の説があるが、「甘南備」という社名への附会以上には出ないと思われる。

※2  以前から気になっていたのだが、この『都市の全景』にでてくるピラミッド状建造物は、ル・コルビュジエによる実現しなかったムンダネウムの美術館と大変よく似ている。エルンストが『都市の全景』を制作したのは1935〜36年、コルビュジエがムンダネウムの設計にたずさわっていたのは1928〜29年。私はまさかエルンストがコルビュジエから盗作したとは思わないが、それにして両者間に何らかの影響関係があったとすれば面白いと考え、ちょっと調べてみた。したところ、コルビュジエがムンダネウムの着想を得たのは、 1925年にヘルムとコルベーによって復元・発表された『ソロモン王の城と神殿』からであることがわかった。してみると、おそらく『都市の全景』制作にあたっては、エルンストもこの復元案から着想を得たのであろう。

※3  月読神社の境内にあった看板によると、「本社は平城天皇の大同四年、天皇譲位の後、宮殿を平安京より平城京に遷されんとせられし時、造宮使がその途、大住山において、霊光を拝し、ここに神殿を造りしに創まる」という。ここに見られる「大住山」とは甘南備山のことだと思うが、その場合、この伝承は、甘南備山が平城京や平安京と繋がりがあるとの観念があったことを感じさす。



2006.10.03



主な参考文献

『幻想の地誌学』 谷川 渥 ちくま文庫
『ヰタ・マキニカリス(上)』から
  「黄漠奇聞」
稲垣足穂
ちくま文庫

『失われたマヤ王国』
カーネギー研究所
大陸書房

『式内社の研究』から
  「甘南備神社」の項
志賀 剛
雄山閣
『日本芸能の主流』
 〃
 〃

『日本の神々5山城・近江』から
  「月読神社」の項
大和岩雄
白水社

『式内社調査報告』第一巻から
「甘南備神社」の項
西山 克
皇學館大學出版部

『潤一郎訳 源氏物語』
中公文庫
『竹取物語』
角川文庫
『今昔物語集』
小学館日本古典文学全集
『平家物語』
岩波文庫



水晶とり




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