隼人たちの月神信仰 「四.水面に映った月影」 |
★「ミアレと水害」の続き
月神を祀る全国の式内社たちはしばしば水害に遭っているという話をした。そしてその原因は、どうやらそれらの神社が河原とか州の上のような、水の流れに極度に近接した環境で祀られていたからであると考えられた。
ところで何故、月神を祀る式内社たちの多くは、そんなに水辺に近い場所で祀られなければならなかったのだろうか。私は、後世にわが国で造営された観月のための建物が、こうした疑問に答えるヒントを与えると思う。
日本人は古来、月をこよなく愛した。詩歌や物語類を始め、美術や工芸、芸能等、わが国で古来、月が特権的な主題として現れてこなかった分野はないと言っても過言ではない。建築においても、平安末期に成立した『作庭記』に、軒の短い楼閣のことを「月を見むため」とする規定があることから、わが国には観月を意識して造営される建物の、かなり古くからあったことがわかる。しかし、わが国で観月を意識し、庭園と組み合わせて造営された建物の多くは、しばしば極度に水辺に接近しているのである。
銀閣
例えば、慈照寺の銀閣、建長寺の得月楼、桂離宮の月波楼、岡山の東湖園にある得月台、醍醐寺三宝院の松月亭などは、文献などによって観月を意識して造営されたことが明らかとなっている建物だが、いずれも庭園にある池の近くに営まれており、建物と池との間にスペースがほとんどないか、はなはだしい場合は、幾本もの支柱に支えられて水の上に設えられている。
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また、鹿苑寺の金閣や西本願寺の飛雲閣、横浜三渓園の臨春閣もまた、池との間が極度に近接している建物の例であり、これらの建物には観月を意識したとする具体的な伝承なり文献なりは残っていないものの、やはりそれを意識していた可能性が考えられる。
それにしても日本庭園の中にある建物というのは、そもそもが池の近くに建っているケースが多そうではあるが、これらの建築群はその度合いが著しすぎる。どうしてこんなことになるのか。
このことについては、「水面に映った月影」シリーズの「得月って何?」で論考したので、ここでは概略を述べるだけに留めたい。私はそこで、建長寺の「得月楼」、東湖園の「得月台」についた「得月」という語を手掛かりに、この問題に取り組んだ。そして要するに「得月」という語は、中国の蘇鱗という人が作った詩の一節 ── 近水楼台先水得 向陽花木易逢春(水に近き楼台はまづ月を得 陽に向かえる花木はまた、春に逢ひ易き) ── からとられたものであり、楼上から水面に映った月を観賞する含みがあるということを述べた。つまり、得月楼や得月台は観月を意識したとはいっても、上空にある月ばかりではなく、水面に映ったそれをも意識していたのである。そしてこのことから、観月を意識して建てられた上述の建築群が、池に対して極度に近接しているのも、水面に映った月影を観賞するためであったと思われた。
建長寺の得月楼は平成14年に竣工した2代目のもの
また、「得月って何?」では、わが国ではそもそも(わが国だけではないのかもしれないが)、こうした建築の場合に限らず、昔から月の名所とされてきたような場所は水辺であるケースが多いことも指摘しておいた。例えば、景勝地の池や川などに、しばしば「観月橋」「渡月橋」「月見橋」「待月橋」という名の橋が架かっていることなどがその一例である。おそらくこうしたことも、水面に映った月影を観賞する趣味から生じたことのように思われる。
さてこのように、わが国で観月を意識して造営された建造物が、水面に映った月影のイメージを観賞する目的で、必然的に水辺の近くで営まれてきたことから類推すると、月神を祀るあれらの式内社たちが極度に水辺に近接しているのもまた、同じイメージがその祭祀に何らかの役割を果たしていたせいではなかったか、と考えられる。
以下、水辺に近い環境で祀られていた月神の古社においては、祭祀面で水面に映った月影のイメージが何らかの役割を果たしてとして論を進める。
では月神の祭祀において水面に映った月影のイメージはどのような役割を果たしていたのだろうか。ここで、ひとまずそこからはなれ、ややまわり道になるのだが、大住郷の樺井月神社のことに話をもどす。
「ミアレと水害」でも述べたが、樺井月神社は現在、城陽市の水主神社に境内社としてひっそりと祀られている。が、かっては対岸に当たる「樺井」という場所に鎮座しており、志賀剛の報告によれば、そこはかつて「豊島トシマ(or戸島)」という地名で呼ばれ、木津川の流れに浮かぶ州であったらしい。つまり上代の当社はかなり水辺に近接した環境で祭祀されていたの訳であり、上述の前提に即して考えれば、その祭祀においては水面に映った月影のイメージが何らかの役割を果たしていたことになる。
いっぽう、これも「ミアレと水害」で述べたことだが、筑紫申真の『アマテラスの誕生』にある、天つカミが地上に降臨する過程を記述したテキストを大住郷に鎮座する3社の月神を祀る式内社(甘南備神社、月読神社、樺井月神社)の神社配置(山頂、山麓、水辺 )に当てはめると、かつての大住郷で行われた月神の祭祀とは、次のようなものであると考えられた。まず、月神は甘南備山々頂の甘南備神社のところに天降り、それから山麓に鎮座する里宮の月読神社で準備されたミアレ木に憑依せられ、さらにそのミアレ木が木津川のほとりにある樺井月神社のところまで御蔭ミアレ引きされて、月神とその一夜妻との神婚儀礼が行われたのである。
『アマテラスの誕生』によれば、その神婚儀礼は次のようなものであった。
「川のほとりに御蔭ミアレ木が到着すると、カミは木からはなれて川の流れの中にもぐり、姿をあらわします(幽玄)。これがカミの誕生です。このようにして、カミは地上に再生するのです。このような状態を、カミの御蔭ミアレorミカゲ(御生ミアレ)とよんだのです。
そして、カミが河中に出現するそのとき、カミをまつる巫女、すなわち棚機つ女は、川の流れの中に身を潜らせ(古典はこのような女性をククリヒメとよんでいます)、御生れするカミを流れの中からすくいあげます。そして、そのカミの一夜妻となるのでした。」──
がいして私は、筑紫が記述した天つカミ降臨の過程は説得力のあるものと思っている。ただ、ミアレ木に憑依したカミが水辺に到着すると、どうしてそんなに都合よく木をはなれ、川の流れの中に姿を現するのか、という点に多少の疑問を感じないでもない。そこで私なりにこれを補足する。
フレイザーの『金枝篇』には「影と映像としての霊魂」という章があり、影を生命の延長、あるいはその一部とみなす世界各地の民俗や信仰をたくさん紹介してある。面白いものをいくつか抜き出してみよう。
ウェタル島には人の影を槍で突いたり刀で斬ったりして、その当人を病気にすることができる呪術師たちがいる。
ベラクにある石灰岩の山々に生息する小さなカタツムリは、影を通して家畜の血を吸うと言われ、そのため、ひどい時には貧血でその家畜が死んでしまうこともあるという。
中国では葬列に参加した人たちが、いよいよ棺の蓋が閉じられようとするとき、自分の影が一緒に閉じこめられないよう、2〜3歩下がる。あるいは、別の部屋に引き下がる。影が棺の中に閉じこめられると、その人の健康が害されると信じているからである。同様のことは、棺が墓穴に納められるときにも守られる。
アラビアでは、ハイエナが人の影を踏むと、その人はものを言う力と動く力を奪い取られる、と古人は信じていた。また月夜に犬が屋根にのぼって地上に影をおとしているところをハイエナが踏むと、その犬は縄で引き落とされでもしたかのように落下してしまうと考えられていた。
ギリシアでは家を建てる時、犠牲にした動物の血を土台石に注ぎ、その遺体を下に埋めた。建物に安定と力を与えるためである。しかし、時としてそれを建てる者は、人間を土台石のところまで誘いよせ、秘密にその影の寸法をとってその石の下に埋めてしまうことがあった。こうすると、動物を犠牲にするのと同じ効果があると信じられていたのだが、いっぽうで、影の寸法をとられた人の方は年内に死んでしまうと考えられていた。
トランシルヴァニアのルーマニア人はこうして影を埋められた人は、40日以内に死亡すると信じていた。また、彼らの間には、壁を丈夫にするために建築家へ影を売る「影商人」と呼ばれる人たちまでいた。
いっぽう、ある人々が人間の霊魂をその影の中にあるものと信じているのと同じように、他の人々は水や鏡の中の映像にそれがやどると信じていた。
ニューカレドニア島では、水や鏡にうつる人間の姿こそ、その人の霊魂にほかならないと老人たちは考えていた。
ズールー族は深い沼には魔物がいて、そこに映った人の映像を盗み取り、その結果、その人は落命するというのでそこをのぞき込もうとしない(これと同種の禁忌がある池は、メラネシアのサッドゥル島にもある。)。バスト族は、鰐が水面に映った人の映像を引きずり込んで、その当人を殺す力をもっていると信じており、もし誰かが突然、死んでしまって原因が分からなかったりすると、いつか河を渡った時に鰐が影を盗んだためだと考えた。
ちなみにこれと似た伝承は、わが国にも「影取り沼」のそれとして全国各地に多く伝わっている。
さて、これらの事例は、水面に映った人の姿を、その人の生命や霊魂そのもの、あるいは延長と見なす古い信仰である。ところで人ではなく、水面に映った神の姿をその顕現(=ミアレ)とみなす信仰があったとしたらどうだろうか。
むろん、物理的実体のない神のことだから、彼がそのままで水面に姿を映すことはない。しかし、神が憑依したミアレ木の場合ならそれが可能である。つまり筑紫の天つカミがミアレ木に憑依し、ミアレ引きされて川のほとりに到着すると、木をはなれて川の流れにもぐり、姿をあらわしたというのも、ミアレ木の樹影が水面に映るからではなかったか。また、カミの一夜妻となる女性も、ミアレするカミを流れの中からすくいあげるために川の流れを潜るとはいっても、ただやみくもに水の中に飛び込めばよいのではなく、ミアレ木が映った水面において、そうする必要があったのではなかったか。
こういったことは、たんなる思いつきで言っているのではない。神話や伝承の中に、かつてそうした祭祀が行われていたことを暗示するようなものが残っているのである。
記紀にあるヒコホホデミ命とホノスセリ命の物語は、「海幸・山幸」神話として知られているが、『日本書紀』一書(第二)には次のようなエピソードがある、 ── 。海底にある海神の宮殿を訪問したヒコホホデミ命(山幸)が、宮殿の門の前にある桂の樹に登っていると、中から豊玉姫が水を汲むために出てきて樹の下にあった井戸に映る男の姿をみとめる。2人はこれがきっかけとなって結ばれるのだが、こうした伝承があるのも、神が憑依したミアレ木の映像を水面に映すことでそこに憑依していた神をミアレさせ、その水の中に、カミの一夜妻となる女性が身を潜らせる神婚儀礼の記憶を反映したものではなかったか。つまりこの伝承で、「神が樹に登る」とは、ミアレ木に神が憑依することの神話的表現であり、「その映像が下にある井戸に映る」のは、神の憑依したミアレ木の映像が水面に映って、神が水中に顕現することであり、その映像が「乙女から発見され、それがきっかけとなって2人が婚姻する」のも、ミアレ木の映像が映る水中に、神の一夜妻となる巫女的女性が身を潜らせ、聖婚が果たされるという儀礼の執行されていたこと伝えるものなのだ。
もっとも、この『日本書紀』一書(第二)の伝承には、神の憑依したミアレ木の映像が水面に映って水中に神を顕現させるまではともかく、そこに神の一夜妻となる女性が身を潜らせていたことまでは暗示されていない。しかし各地の伝承にはやはり、そのような神婚儀礼のことを伝えるものがあるのである。
例えば、恋に狂った女に追跡された男が、木に登って隠れていると、下にあった水面に姿が映ってしまい、男が入水したと勘違いした女は後を追って身を投げてしまう、とか、山奥で恐ろしい山姥の追跡を受けた男が木に登って隠れると、やはり下にあった水面に姿が映ってしまい、それを実体と誤認した山姥が水中に飛びかかって溺死したので男は助かった、とかいった伝承がそうである。これらの伝承は、「木に登った男の姿が下にある水面に映って女から発見される。」までは、紀の一書(第二)と共通するが、その後、「(動機はどうあれ)その映像に向かって女が入水する。」ことになっている。そして、こうしたことはやはり、カミの一夜妻が水面に映るミアレ木の映像に向かって身を潜らす神婚儀礼の記憶を伝えるものであろう。あるいはほんらい、紀一書(第二)の伝承にもこうしたモチーフがあったのかもしれないが、豊玉姫命と山幸のラブ・ストーリーを語る上では関係ないため、合理化によって脱落したのかもしれない。
菅田神社の一夜松伝説
一夜松 奈良県大和郡山市に鎮座する菅田神社には、恋に狂った娘に追跡された山伏が、当社の境内にあった松の木に登って隠れると、その木は一夜にして大木となり男を隠した、後から来た女は下の水面に映った男の映像を見て、男が身投げしたものと勘違いし、自分も後を追うつもりで入水して果てた、という伝承がある。現在、拝殿と本殿を結ぶ渡り廊下の中に古ぼけた木の残骸があるが、伝承にある「一夜松」の2代目のものであるという。
在原神社の業平伝説
在原業平姿見の井戸
在原神社は天理市市場垣内字在原に鎮座し、阿保親王と在原業平を祭神として祀っている。当社は在原氏の氏寺であった在原寺という大寺の跡である。 奈良県天理市に鎮座する在原神社には、「在原業平姿見の井戸」というものがあり、次のような伝承を伝えている。
「昔、河内姫が長谷寺参る途中、在原寺に水を飲みに寄り、水を汲んでくれた在原業平と恋仲になった。その後、業平が河内姫に会いに行ってそっと家をのぞくと、ちょうど食事中で、姫が父の給仕をしながら、ほこりのある畳の上に落ちたひとかたまりの飯を、手づかみで拾って口に入れた。業平はこれに愛想をつかして逃げ帰ったが、これを知った姫が業平の後を追った。業平は在原寺の柿の木にのぼってその身を隠したが、その影が下の井戸に写っていた。姫は井戸の中をのぞいて男が身投げしたものと早合点し、後追いのつもりで井戸に身を投げて死んだ。今、在原神社境内にある井戸は業平姿見の井戸の跡だという。(『日本の伝説13奈良の伝説』p36〜37)」
ちなみに、「海幸・山幸」神話は「紛失した道具が持ち主の所に戻る。」というモチーフの神話であり、世界の広い範囲にその分布が確認されている。このタイプの神話は、陸上型の「失われた槍型」と海上型の「失われた釣り針型」に分類されるのだが、「海幸・山幸」神話は後者に属する。私はわが国以外の地域に伝承された「失われた釣り針型」の神話に、「木に登った男の姿が、下にある水面に映って女から発見され、2人は結ばれる。」というモチーフが認められないかと考え、松本信広の『豊玉姫伝説の一考察』及び『南海の釣針喪失譚』に当たって確認してみたが、それはなかった(※1)。
では、「木に登った男の姿が、下にある水面に映って女から発見され、2人は結ばれる。」というモチーフは、わが国だけのものなのかというと、どうもそうではないらしい。アラビアン・ナイトの世界を舞台にした『バグダッドの盗賊』という映画があるのだが(サイレント時代に製作された同名の作品も有名だが、そちらではなく、アレクサンダー・コルダによって1940年に製作された総天然色の方。)、この映画に、バスラ王の宮殿に忍び込んだJ・ジャスティンが樹に登って隠れていると、下にある水面に顔が映り、それを魔神と勘違いした侍女たちの話を聞きつけ、王女のJ・デュプレイがやってきて2人は愛し合うようになる、というエピソードがある。
『バグダッドの盗賊』の映画用原作は、ラヨス・ビロという人のものだが、ベースになっているのはもちろん『千一夜物語』である。またこの映画の他の箇所には、瓶の中から現れた魔神を頓知で打ち負かすサブウのそれがある等、『千一夜物語』の中から有名な逸話がちりばめられているので、樹に登ったJ・ジャスティンの顔が、下にあった水面に映り王女と結ばれたという当該エピソードも、『千一夜物語』に元ネタがあるのは間違いない。そう思って、この物語にあたってみたものの、何せ膨大な原典のことなのでまだ探し切れていない。
なお、本論とは関係ないが、ここで参考のため、山幸と豊玉姫が出会う場面については、『古事記』、あるいは『日本書紀』の各一書間の異同を表にまとめておく。
a | 『古事記』 | 海神の宮殿の門にある香木カツラの上に登って山幸が座していると、豊玉姫命の侍女が、玉器をもって水を汲もうとし、井戸に光がさしていたので仰ぎ見ると、麗しき壮男がいたので不思議に思った。山幸が水を求めたので、侍女が器にそれを満たして奉ったが、山幸はみられる飲まず、首にかけた玉を口に含んで、その器に吐き入れた。するとその玉は器にくっついて離れなくなり、侍女はそれを話すことができなかったので、そのまま豊玉姫命にさしあげ、ことの次第を報告した。豊玉姫命はそれを聞いて、自ら外に出て山幸と出会い、たちまち恋におちた。 |
b | 『日本書紀』本文 | 海神の宮殿についた山幸が、門の前の井戸上にある湯津杜樹ユツカツラノキ(神聖な桂の樹)の樹下につき、「徒倚彷徨」していると、門から美人(海神の娘=豊玉姫命)が玉器をもって出てきた。そして水を汲もうとしたところを山幸が注目していると、驚いて宮殿の中に入り、父と母に報告した。 |
c | 『日本書紀』一書(第一) | 海神の宮殿の門の外に井戸があり、そのそばに桂の樹があった。木の下に立っていると、多くの侍女を従えた美人(豊玉姫命)が現れた。そして玉の壺で水を汲もうとして上を見ると、山幸がいた。驚いて宮殿の中に帰り、父(海神)にそのことを報告する。 |
d | 『日本書紀』一書(第一)の「一伝」 | 豊玉姫命の侍女が玉のつるべで水を汲むが、どうしても一杯にならない。井戸の中を覗くと、逆さまに人の笑った顔が映っていた。それで上を見ると1人の麗しい神がいて、桂の樹に寄り立っていた。そこで中に入ってその王に報告した。 |
e | 『日本書紀』一書(第二) | 門の前に一つの井戸があった。その井戸の側に「百枝杜樹(枝のよく茂った桂の樹)があった。山幸は跳ね上がってその樹に登り立っていると、豊玉姫命が玉の碗をもってやってきて、水を汲もうとした。すると人の姿が井戸の中に映っているので、仰ぎ見て山幸をみとめ驚いて手にした椀を落とし、それを割ってしまった。そして宮殿に戻って、両親にこのことを報告した。 |
f | 『日本書紀』一書(第三) | 山幸が海神の宮殿につくと、海神が自ら出迎えて宮殿の中に案内された。事情を説明し、海神の宮殿に逗留することになった。その間、海神のはからいで、その娘の豊玉姫命と結ばれることになった。 |
g | 『日本書紀』一書(第四) | 山幸が鰐の指示にしたがい、海神の宮殿の門の井戸上にある湯津杜樹ユツカツラノキ(神聖な桂の樹)の上に乗っていると、豊玉姫命の侍者が玉の碗をもって井戸の水を汲もうとすると、人影が水底に映っているのを見て、汲み取ることができず、上を仰ぎ見ると天孫がいた。そこで宮殿の中に入って海神に報告した。 |
また、樹に登っていたことにはなっていないが、水に映った映像に恋するというモチーフの神話なら他にもある。有名なのはギリシア神話のナルキッソスだろう。
やや風変わりなのは、ヌースについての、新ピュタゴラス派の神話である。この神話のことはユングの本の中で知った。新ピュタゴラス派によれば、ヌースとは人間の外にあって、人間を越え人間を支配する神的な力であるという。
「このヌースはアントロポス神と同一のものであると考えられる。アントロポスはデミウルゴスと並んで登場するが、しかし遊星圏の敵対者である。彼は天球を打ち砕き、そこから身をかがめて大地と水を見おろす(すなわち、自然の諸元素にいままさにみずからを投影しようとする。)大地には彼の影が落ちるが、水には彼の像がそのまま映ずる。この映像が自然の内に愛の焔を燃え上がらせることになるが、アントロポスの方でも、神々しい美しさに輝くみずからの映像が大変気に入り、あの映像の中に棲んでみたいと思う。しかしアントロポスが地上に降りるがはやいか、自然ピュシスが激しい情欲で彼の身を包み込む。この包容から最初の七つの両性具有存在(ヘルマプロディトス)が生まれる。<後略>『心理学と錬金術2』 p108〜109 池田紘一・鎌田道生訳」。
しかし、そういった寄り道はさておき、樺井月神社に話を戻すと、この神社について考える場合、重要だと思われるのは、一般的に言って、「海幸・山幸」神話は、もともと隼人たちの間で伝えられていたものとされることである。
この説の根拠はいろいろとあげられる。まず、この神話の舞台は南九州となっているが、言うまでもなく南九州は彼らの本拠地である。
また海幸は、記紀や『神撰姓氏録』において、隼人たちの始祖とされており、さらに海幸・山幸兄弟の母である神阿多都比売(鹿葦津姫、神吾田鹿葦津姫、豊吾田津姫、または木花開耶比売命)は、隼人たちの女神と考えられている。
それからまた、記紀にある「海幸・山幸」のテキストには、隼人たちが大嘗祭で俳優(わざをぎ)の民として隼人舞を奏したことや、呪的な能力を買われて宮門守護や発吠の任にあたったことの起源を説明している箇所があり、この神話が隼人たちと関係深いものであることを、とくに印象づけるものである。
さらに、「海幸・山幸」神話と同型の「失われた釣り針型」の神話は、インドネシアのパラウ島やミナハッサ島などにおいても分布が確認されているが、そのいっぽうで、隼人たちは古マレイ語系の言語を話すインドネシア系の海洋民族であったという有力な説があり、こうしたことを総合すると、かつて南洋方面で生活していた隼人たちの先祖が海を渡り、プレ「海幸・山幸」神話を南九州に伝えたのではなかったか、ということになってくる。
私は、隼人の出自がインドネシア系であったかどうかはともかく、プレ「海幸・山幸」神話がほんらい、隼人たちの間で伝承されていた伝承であることを疑っていない。
ただし、これも一般的に言われることだが、「海幸・山幸」神話の後半にみられる海神や豊玉姫命が出てくる部分は、この二柱の神が安曇氏の祖神と考えられていることから、安曇系海人族の間で伝えられていた神話と考えられている。つまり「海幸・山幸」神話は隼人族と安曇系海人族の神話が混交しているのであり、ベースとなっている「失われた釣り針型」のモチーフは前者の伝承からとられているにしても、豊玉姫命や海神の宮殿が登場する山幸の海神宮遊行の部分等については、後者の伝承からとられているらしいのだ。そしてその場合、京都府城陽市寺田水度坂に鎮座する水度神社という神社のことが注目される。
水度神社
この神社は『延喜式神名帳』山城国久世郡に登載のある「水度神社 三座 鍬靱」に比定され、『山城国風土記』逸文には当社の祭神について、「天照高弥牟須比命」であるとともに「和多都弥豊玉比売命」であるとされている。水度神社の鎮座地ふきんは7世紀後半に半島との外交や海戦にかつやくした安曇山脊連比羅夫の本拠地という説もあるが、いずれにせよ、「和多都弥豊玉比売命(=豊玉姫命)」を祀るこの神社のきんぺんが、上代において安曇系海人の拠点であったことは確かである。
この水度神社は大住郷から北東に4〜5qの地点にあり、こうしたことから大和岩雄は『日本の神々5山城・近江』において、「山城の安曇氏が水度神社にかかわるとすれば、隼人と安曇系海人の伝承の混合とみられる海幸彦・山幸彦神話が記紀に取り入れられた背景には、(※大住郷の)月読神社と水度神社の関係があるように思われる。(p242)」と述べている。つまり、隼人たちと安曇系海人の伝承が混交する「海幸・山幸」神話は、この2つの集団が活動していた大住郷から水度神社にかけての地域で成立した可能性があるというのだ(※2)。
大和が示唆したとおり、「海幸・山幸」神話に大住郷に居住していた隼人たちが関わっていたとすれば、記紀のテキストに、大住郷に鎮座する月神を祀る式内社で行われていた祭祀を伝える伝承が紛れ込んでいてもおかしくない。その場合、紀一書(第二)に、「木に登った男の姿が、下にある水面に映って女から発見され、2人は結ばれる。」モチーフがみられるのも、古代の樺井月神社で執行されていた「カミが憑依したミアレ木の影を水面に映すことでミアレさせ、その水の中に、カミの一夜妻となる女性が身を潜らせる」神婚儀礼の記憶を伝えているのかもしれない。
もっともこれに対しては、「「海幸・山幸」神話に樺井月神社の祭祀のことが反映しているのなら、どうしてこの神話に月神のことがでてこないのか。」という疑問が生じるだろう。大和は(こうした疑問を予想してであろうが)、ここで山幸が登っていた樹が桂であったことに注目し、「この神話でとくに桂が登場するのは、山幸彦に月神の要素があるからであろう。(同書p237〜238)」と述べている。
私は何かの本で、『山城国風土記』「桂の里」に出てくる桂の樹は、桂離宮の近くにある春日神社に生えていたというのを読んだ覚えがある。今、それをどの本で読んだのか捜しているのだが、みつからない。
中国の古い伝説によれば、月の中には巨大な桂の樹があるとされていた。『万葉集』にある歌から、記紀編纂当時、すでにこうした大陸の伝説がわが国に伝わっていたのは確かだが、湯原王の「目には見て手には取らえぬ月の内の楓カツラのごとき妹をいかにせむ(635/632)」などをみると、すでに当時の古代人にとって月と桂が連想によって分かちがたく結び付いていたことが感じられる。したがって、桂の樹に降臨する「天孫ヒコホホデミは、日の御子であると同時に「月人壮男」でもある(同書p238)」のだ。
ちなみに、『山城国風土記』逸文とされているものに(じっさいには古風土記の断片ではないとされる。)、「桂の里」とよばれるものがあり、「月読尊が天照大神の勅により、豊葦原中国に降りて、保食の神の許にいたった。その際、一本の桂の湯津桂のユツカツラノ樹があり、月読尊はその樹に寄って立っていた(月読尊乃倚其樹立之)。その樹のあるところを今は桂と号している。」という趣旨の記事がある。
この記事は桂離宮で有名な京都市の「桂」の地名起源説話であるが、そこにみられる「月読尊乃倚其樹立之」というフレーズは、「海幸・山幸」の紀一書(第一)一伝にある「有一麗神倚於杜樹」を連想させる。桂と月の連想を介した附会という感じもするが、桂地方は月神を祀る古社である葛野坐月読神社に近い土地であり、そうしたことを考えると、上代には桂の樹に月神を寄りつかせる信仰がほんとうにあったかもしれない。その場合、上代の大住郷で、甘南備山に天降った月神を山麓の月読神社で準備した樹木に憑依させる際、そのミアレ木に使用されたのはなかんずく桂の樹であった可能性も考えられる。
長々と月神とその一夜妻との神婚儀礼について述べてきたが、もうここでそろそろ、話を水面に映った月影のイメージのことにもどしたい。
月神の憑依したミアレ木が木津川の流れに影を映し、そこに一夜妻が身をくぐらせてカミとの婚儀を果たしていたとしよう。しかし、月神の祭祀と言うからには、そうした祭祀が行われたのは月の出ている夜であったような感じがする。その場合、木津川の流れに浮かび上がるミアレ木の影も、水面に映った月影のなかに生じるものであっただろう。また、月神の一夜妻が身を潜らせた水中も、その水面には月影が映っていたのであり、彼女はそこにさゆらぐ金波にむかって水に入ったのではなかったか。したがって、あれら月神を祀る式内社たちがしばしば極度に水辺に近い環境で祀られねばならなかったのも、こうした水面に映った月影に月神のミアレを観相する信仰が、上代に行われていたためであったように思われる。
ちなみに、古い時代に神婚儀礼が行われていた神社などでは、そうした儀礼の記憶が風化した後でも、神との婚儀や母子神の観念から、安産や子授け等、出産にまつわる信仰の行われるケースが多い。したがい、水面に映った月影とその一夜妻との神婚儀礼が行われていたとすれば、次のような習俗はそれを伝えている可能性がある。
松前健の『月と水』によれば、神奈川県足柄郡三保村(現・山北町)には、二十三夜待ち行事に関連した次のような俗信があるという。すなわち、子供の欲しい女性は、11月のこの日、夕方から屋根棟に登って、水をいっぱい入れた大きな茶碗を盆に載せ、頭でささえながら、月の出を待って祈ると願がかなうというのだ。松前はこうした信仰について、「その水面に映る月影が人間の生命と結びついていると言う信仰なのだろう。」と述べているが、この水を入れた茶碗こそは、山幸の映像が映って豊玉姫命から発見されたというあの井戸の等価物であったように思われる。
それにしても夜、たまたま庭の池などに月影が映っているのを見つけると、その蠱惑的な魅力にとらわれ、ずっと足をひきとめられてしまうことがある。「名月や池をめぐりて夜もすがら」だ。こうした水面に映った月影の魅力は、月という、ほんらい天にあって手が届かないはずの天体が、地上にあるので捉えられてしまうことによる逆説から生じるのかもしれないが、しかし、水面に映されたことによって月は、中天にある時よりも不思議な生々しさを身に纏うようになる。
月は、水面に映されることによってイメージとして純化される。水面に映った月影はそのような純化によって新らしい生命を吹き込まれるのだが、いっぽうそれをのぞき込んでいる観者の裡にも、何か強い生命感が沸き立ってくるのを覚えずにはいられない。松前の「水面に映る月影が人間の生命と結びついていると言う信仰なのだろう。」という感慨には深いものを感じる。
「ミアレと水害」で伊勢国度会郡の式内社、土御祖神社のことを紹介した。この神社の祭神は、『皇太神宮儀式帳』によると、「大国玉命・水佐々良比古命・佐々良比賣命」である。そしてこの三柱のうち、どうやら夫婦神らしい「水佐々良比古命・佐々良比賣命」の神名に含まれる「佐々良(ささら)」という語については、『万葉集』に月の美称としてある「佐散良衣壮士(ささらえおとこ)」と関連づけて考える説があった。この説でいくと、この二柱には月神格があったことになりそうだが、伊勢に月神を祀る神社が多いことを考えれば本当に注目すべき説である。
当社のすぐ背後は五十鈴川が流れており、若干の比高はあるものの河川との親近性がすこぶる高い立地である。当社でもまた、水面に映った月影に月神の一夜妻が身をくぐらす神婚儀礼が行われていたとすれば、雄神の方の「水佐々良比古命」というのは水面に映った月影の神格化であり、対になって祀られている「佐々良比賣命」はその一夜妻のことだったのではないか。
水佐々良比古命
※ | もっとも、パラウ島において採集されたものにおいては、山幸にあたるアトモロコトがトウダレム魚と一緒に、海中にあるアダックの地(「海幸・山幸」の海神の宮殿にあたる。)を訪れ、2人で泉の側に座していると、水を汲みに乙女がやって来て発見され、彼女の話でしいら≠ニいう名の老女が病気であることを知るエピソードがあり、「海中他界の訪問者が泉(井戸)のそばにいた際、水を汲みにきた女によって発見される。」という部分は、一書(第三)以外の全ての伝承と共通している。 | |
※ | 「海幸・山幸」神話における隼人族と安曇系海人族の神話の混交について触れられた箇所では、次田真行の『海幸山幸神話の形成と安曇連』という論文について言及される場合が多い。定番の基礎論文というところなのだろう。さて、この論文には「隼人たちと安曇系海人の伝承が混交する「海幸・山幸」神話は、この2つの集団が活動していた大住郷から水度神社にかけての地域で成立した可能性がある」と、大和岩雄が指摘したことについて触れられていないが、この論文が『東アジアの古代文化』誌上に掲載されたのが1975年であるのに対し、『日本の神々5山城・近江』の初版は1986年なので、これは無理のないことだろう。 なお、例によって大和は、『日本の神々』において、水戸神社の旧社地であった鴻巣山山頂 → 水戸神社 → 水主神社 → 樺井月神社の旧社地 → 月読神社が一直線に並び、その角度が夏至の日の出するラインと一致するという考証を行っている。 |
2007.01.14
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