イスラエルやパキスタンの争い
なぜやめない?という記事が出ていて、???となりましたが、たぶんイスラエルはいいにしても、パキスタンというのはパレスチナの間違いでは?
ここまで訂正できれば、両者が、イスラエルとパレスチナですが、戦いをやめないかの答えはその後の後くらいには答えが出るでしょう。パキスタンのままですと永久に答は出ませんね、たぶん。
それは俺じゃあないよ、と言わなければならないことは、えてして誤解から生ずることも多いのだろう。
パキスタンもパレスチナもともにイスラムの国ですから、何かのとっちらかしで取り違えることがないとは言えません。
失礼ながら私の案。地図帳を身近に置いておきましょう。
って言われてもわからない人が多いと思いますが、これがかの有名なジャンボタニシであります。田植えしたばかりの稲を食べてしまい、その食べられた場所は稲が育ってこないため「はげ田」になってしまいます。昨年も近くの水田でそう言うことがありました。
スクミリンゴガイは稲の苗だけではなく雑草も食べてはくれるのですが、雑草だけを食べてと思っても、そう都合よくは行きません。
田植え後は水田の水位をさげて浅くして、スクミノン(商品名)を散布します。たぶん効き目はあるのでしょう。
冬の時期に深めに田を起こすことによってスクミリンゴガイをつぶせるというのですが、見て確かめるということができるかとういうと、なかなかできません。
一番いいのは捕獲してつぶしてしまうことです。これは経験的にも一番効果があると思われます。また、眼で見てその成果もあります。
これを要領よくやるには、段ボールを切って水田の水中に入れておくと、スクミリンゴガイはなぜかこのにおいなのか、よくはわかりませんが集まってきて、中には段ボールを食べているのを見ることもあります。ダンボールをそっとむずから上げて、踏みつぶします。だんぼーるはすでにボロッ襤褸ですので面倒くさいことは何もありません。
異常、結構いろいろな情報を各所から調べて実行してもいます。その一部を紹介させていただきました。転載ご自由に。


わ、たぶん、たくさん持っている人が悪い人に騙されて、持っていた時計を強奪されてしまった。というような話をTVのニュースショーでやっていて、いい加減に眺めていた。
自分も被害者のような立場だったら、もっとまじめに見ただろうが、他人の、それも高級時計のコレクターらしき人々だから、まったく私から見たら理解しにくい方々だから、共感も感じないのだが、ホントにこレを機会に別の趣味を考えてみたた如何ですかと余計なお世話をしたくもなりそうだ。
余計なお世話ついでに、言わせてもらえば、腕時計なんて持ってはいない方がいいと思うよ。持ちたくても一つだけあればそれで十分だから。たくさん持っていたものだから詐欺に遭ったんじゃあないの。腕時計など身に付けたくはない者より。


数字的にはまだまだ結構な%でいらっしゃるのですね。
私は煙草の煙が苦手ですので、そういう場所はなるべく避けています。なので、自分勝手にずいぶん煙草を吸う人が減ったんだ、と思っていたのですね。まだまだ生き残っていたのだ、ではなくまだまだやめられない人が多いんだ、ではなくやめようなどいと考えない人も多いんだ、と思います。
不意打ち的に思っても見なかったような場所で、不意打ちをくらいゲホゲホとむせびこむのです。


雪が降る。私個人も東京での最後の3月、雪が降りました、しかも練馬で。日本大学の芸術学部の近くに下宿していました。


確かに「違って」いる。違わない方がいいですよ。


壜なのか瓶じゃあないと思ったが、この壜飲料がなくなっていく。しかし、時代とともに新しい技術も成長する。ペットボトルという壜に替わっていく。壜のメーカーも減っていく。ペットボトルはどうもなあ、とはいってもコスト的にはリサイクルが行なわれたにしてもガラス壜がペットボトルに対して優位とは言えない。だからガラス壜の需要が減って、メーカーも倒産する。
ところで茶色の壜はまだまだ健在で、薬品用などにはなくてはならないのかどうか知らないけれど。それにオロナミンCはまだまだ壜、もちろん茶壜にこだわるようだし、この壜のリサイクルも継続とのこと。
私個人はさしあたってガラス壜がなくて困ることはない。もろもろの事情もあってのことだが。


28MHzのみで参加しました。
合計37局できました。
9日の午前中、YBに向けて受信、受信した局を呼ぶ。
9日の午後(夕方)、YBに向けてもCQを出す局がいず、EU方向に向けて受信。何かEUのコンテストみたいになってしまった。
10日の朝、Wに向けて受信。


海岸に壜のかけらが、すりガラスというのか、曇りガラスというのがいいのか、ありましたね。鋭いままに割れた破片になっていると、危ないですね。
そういえば、オーストラリアにイギリス人が持ち込んだ壜の破片を、オーストラリア原住民のアボリジニが、きれいに加工して「打製石器」の槍の先にしていたのがありました。
壜の丸いカーブの破片の縁をきれいに、たぶん細かに細かにはぎ取っていって、何かを押し当てて少しづつ削り取って、作ったものなのでしょう。現代人にはこういう工作技術は失われています。


スウェーデンの陶芸家だったとは知らなかった。
もっぱら個性的な猫のイラスト、デザインの人だと思っていた。うちには何品かあります。
横から見た猫の赤白の縞模様、体に沿って横を向いた猫の顔としか思えない目の大きさ。個性的だが、いかにも猫だ。猫そのものだ。
女流(という言い方には?だが)長生きな方が多い。


%でいうと、今から50年前、私もこういう学生の一人だったが、地方出身の学生は50%というわかりやすい数字だったが、今はその半分くらいのようだ。
今は東京の魅力が薄れたのだ、という見方もあるようだ。とすると、50年前の学生は東京に魅力を感じていたのか?当事者の私としては、そうでもなかったのじゃあないか、という気持ちだ。
今と違って情報が少なかったことは確かだ。すぐ上の上級生などが具体的な目標というのでもないが、みんな何となく私もそうしたらいいのかもしれない、というような気持ちは持っていたのではなかろうか。
中学から高校へという場合とは違って、みんなバラバラにそれぞれの目標を持って、そこを目指すのだという気持ちが大きくなっていくと、気持ちの面で東京がそれほど遠い場所だとも思えなくなっていった。そんな気がする。静岡県内に希望する(希望したくもなるような)大学もないようだし。


と言っても、たいしたネタはないですが、元祖ゴジラは何度かTV画面で見たのでしょうか、他はあまり見ていないな。
シン・ゴジラは比較的単純な筋なのですが、これまたTV画面で何度も見ました。おもしろかったです。あまり映画では難しいのはだいたい面白くはない。
ゴジラー1.0はもちろん見てはいませんが、まあそのうち見ましょう。浜名湖のどこでロケだったのでしょうか。遠州灘でもロケとか。遠州灘の方が多少は知っているかな。昔は砂丘で「砂の女」なんて映画のロケがあったというけれど。
島根県一畑電鉄には乗りましたよ、20年近く昔になるけれど。運転席の近くに座っていたのだけれど、***らしき若者にその席替わってもらっていいですか?とか言われ譲って上げました。


うちの猫は重い。約2倍の重さである。運ばれているときには暴れないので運びやすい点はオスカー像と同じである。


普通か普通ではないか、ということを決めるのは普通か普通ではないか決めようとした人が決めることなのであって、それ以外の人(他人)などであるわけがないでしょう。余計なお世話、というものです。


なんぜんじ、だと京都の有名なお寺、この河津町のお寺は「なせんじ」と読むようです。
35年くらい前に現地まで出かけて見てきました。静岡新聞にも書いてありましたが、洪水で埋没してしまったお寺の仏像だったのですが、元の姿を想像してみてもなかなか立派なものでした。
伊豆半島にはなぜか多くの立派な仏像が集中しています。そういう土地柄なのでしょうか。
数十年間、静岡県の県指定重要文化財だったのですが、ようやく「県指定」が取れて「国指定」の重要文化財にランクアップしましたね(国指定だと重要文化財と呼びます)。略して「重文」とも言います。この上が「国宝」となります。


どうして関係ない人赤の他人が、許可なく勝手に普通だというのか?
身近な人が普通と言っているのだから、普通でいいのだと思うのです。


BARTGはRTTYの組織だと思いますので、わざわざRTTYという文字をコンテスト名には書きませんでした。
このコンテストはあまり局数が伸びないコンテストだと思いますが、私だと48Hで100局以上交信できれば、上等!と自分に言ってあげたいコンテストです。
去年は133局、一昨年は148局でした。
今年はまだコンテスト終了時間が来ていませんが、111局交信まで来ています。明日どれくらいまで行けるかな、です。


121局でアップロードしました。
強風が吹いたので7〜21MHzのアンテナを下げたため、28MHzでの運用時間が多かったですが、57%が28MHzの交信でした。


いいものを長く使う、これにまさるものなし、です。10年間以上使ってきましたが、丈夫です。なんだ、それだけ?
はい、それだけです。10年目にメーカーへ送って点検したのですが、まったく不具合なし、交換したパーツなし、でした。あ、メインダイヤルのゴムカバーだけ交換されてしまいました。
その後は、より長い期間使っていこうということで、台座を木製で作りました。台座の下に車輪を付けましたので、向きを替えたり、裏側を見たいときに動かしやすくなりました。トランシーバー側を動かして最適位置に置けば、何よりもメインダイヤルを操作するのに快適です。
手にするときには大変でしたが、その後はいいことばかりです。結果的には安いものとなりました。


ベトナムには結構ユーカリの大きな木がありました。元来ベトナムにはなかった樹種らしく、フランス人がオーストラリアから移植したもののようです。
たぶん日本でも育つのでしょうが、孟宗竹のような厄介者になる可能性も、なきにしもあらず。
どこかの町長がやろうとしているようですが、計画の中身がスカスカで、町民から異議が出ているようです。地方自治体の毛色の変わった政策は注意した方がよさそうな気がします。


何よりもいい例は、スクミリンゴガイ、よく知られている呼び名がジャンボタニシ(実はタニシではないが)。
外来の動植物の中には、どうしようもない困ったものも多いので、慎重にお願いしたいです。
日本の自然の中で、一時期は心配された外来の植物もありましたが、最近はなくなってしまったわけではないが、非常に少なくなってやれやれというものもありますね。アメリカザリガニも少なくなったものですね。


青くはないのですが、白馬と書いてアオウマという場合もあるようです。アオサギは白っぽいのですが褐色や黒い羽毛の部分もあって、シラサギ、シラサギという名前の鳥はないようで、大き目のがチュウサギ、小型のがコサギですが、これらよりアオサギは大きく立派です。
田んぼの中での話です。この立派な野鳥が私のすぐ近くからなかなか離れません。まだ成鳥にまで成長していないのかもしれず、やや小ぶりなようにも見え若々しい感じもしました。


まあ、個人的には桜が咲くとか咲かないとかは、正直どうでもいいので、強い冬型の気圧配置になって、強風が吹き荒れないでくれれば、もうそれだけでよいのです。


ま、難しいのだけれどね。何とか、それを読み終えてため息をついているところです。何年か前、新聞かどうか忘れたけれど、とにかく何かの「読書欄」に載っていた書物です。
それから何年か経過して、古書店で見つけ手に入れました。860円+税のが110円税込みで手に入ります。新刊書は何年か待っていれば安価に入手することができる場合もありますから、この方法で乱読するのは楽しくてたまりませんね。
まあ、どうしても巡り合わず入手できないし読めない、そういう本もあるのでしょうが、それも運ですね。というか、そういう拘りさえ、変な種着さえしなければ、案外いい本に巡り合えるような気がします。人の意見とか考え方なんか(というのもやや剣吞ですが、半分ふざけています)正直、どうでもいいし、全部自分でやっていけますので、素晴らしいことです。***をやめて2か月くらい経過したかな?


保守一辺倒では国が亡びる。しかし、革新一辺倒でも未来はない。ところが、両者を混ぜ合わせて、はいっ一丁、というほど人間世界は単純ではない。革新的保守か、保守的な革新がいいのだろう。保守的な保守や革新的な革新が一番困るのだ。のぼせ上がってしまうのが困る。まずは君が落ち着け。


私はどうもこれに当たるらしい
昔は他人に無関心ではならなかった職業、というかそういう立場だった。その反動で今はその真逆となったのか?
しかし、人間というものはそう簡単に類別化、というかパターン化、すぐに分別できるほど、そんなに人間は単純なものなのか、二次元世界でもあるまいし、とも思う。
まあともかく、何らかのものに対して強い関心を持っている分野があるのが、一般の人間に対しては執着が少ない、という人間でもあるらしい。
もう少し本を読んで考えてもみよう。
私は2018年1月、かな、罹った。
症状は重くはなかった。発熱もなかった。じゃあ他にどういう症状が」?と言われても、あまり記憶はない。タミフルじゃあない方の、何と言ったか、そちらの方を処方されて、飲んですぐに治った。
今年とは違ってB型が大流行という年でもなかった。


一年ぶりですが、なかなか完全復活とは言えないですね。
眼が弱くなってしまったことを、本当に自覚します。
WARCバンドで、という新しい目的・目標もあったものですから、何んとか動けたのかもしれません。18MHzってどんなものだろう?などとは前々から関心はありましたが。
操作のやり方をすっかり忘れてしまっていたので、OMの手助けを頂き感謝しているところです。本を読んでもなかなかわからないのですね。


今日は余裕が少しあるので、いろいろ試しながら、ある程度中身のわかっている28MHzから始め、やるのは初めての18、さらに24とやってみました。
まあ当たり前に交信はできるのですが、おっかなびっくり、でやっています。
一昨年の22年ですが、真西にアンテナを向けて、SSBやRTTYでは交信できそうもない地域が結構たくさんできた。中には見たこともないようなところも出てきて、これは普通の方法ではできないので、苦労したことまでは思い出したが、さて、どうやってやるんだったか、忘れている。hi


なんて考えたことはありませんが、
実際、その気になれば、あるいは、その気にならなくても、割合苦労しないででできてしまいます。
その気にならなくても、というところが、泣けます。他のモードはかなり一生懸命やらないと(100くらいならそこまででもないだろうが)DXCCは高嶺の花だが、FT8はそうではない気がしますね。
ですが、だったら、それほどDXCCを後生大事に考えなくてもいいものではないでしょうか、とも思うのです。
DXCCは悪くはないプログラムですが、あえて異論を示せばDXCC至高主義になってしまうかもしれない、ということです。
ですが、逆に言えば、DXCCとはなかなか魅力的にできているのです。全部できたと思ってはいても、いわゆるゴールが動いてしまうという、悪質極まりない部分があります。


学校で教える必要はない、という議論になる。
ただ古典(江戸時代以前の)は小中ではほぼ教えていない。教えるのは高校からが本格的に教える。だがそれは大学への進学希望者だけだろう。江戸時代、いや明治時代以前の文章を読めないと困る専門分野はたくさんある。その入門の部分だけは高等学校では教えておかないと日本は後進国となっていく。
訳には立たないといっても、その人がたまたまそういう必要がないからだよ。同じ日本人なのに明治以前の文章が読めないとなると、それはそれで大き損失につながるのではないかな。
***はい今の社会では役に立つことはないと言い出したら、高校の学習のほとんどはそれに該当するよ、たぶん。フランスなどでは哲学は上級学校へ進学する際の必須科目だよ。
私も微分積分、あるいは複素数、確率論などいい加減にしていたから、今になって本当に後悔しているよ。


LAMYというドイツブランドを国内のメーカーが買収するらしい。
私もボールペンにはこだわりがあって、というか純粋にその道具のもたらす「結果」だけが重要なんだけれど、案外この社の製品がよくなくて、私が一番良いと思うのは「ぺんてるのエネジェル」の0.5ミリと0.7ミリである。「ゼブラのSARASA」もよかったけれど黒色が変色して紫っぽくなるような気がする。
話題にしたメーカーは太さの表示が実際とはズレていると思う。
まあ、使う人の使い方や使い道にもよるから、結局は好き好きなんだろう。


減少について、ああだこうだ言いたいわけではない。
この記事に使われている用語の多くが、私にとっては意味不明で、その結果何が書かれているのか何が何だかさっぱりわからない、ということを言いたいだけである。
まあ知らなくても何の痛痒も感じはしないから構わないのだけれど、書かれているからには何が書かれているのか知りたくなることもある。


あたかも自分が正しいことを言っているように勘違いして、平気で他者を非難し批判するという、こういうのを厚顔無恥と言うんだったか。
稔るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな、自分はまだ何にも知っていない若造だ、何歳になっても謙虚さは失いたくはないものだ。
ちょっとばかり他者より優れた部分があったとしても、所詮一部分であるに過ぎない。こういう人が実は案外増加しているような、そういう気がしてしょうがないのだが。


最近は頻繁に採血されています。
市立病院では毎日毎日大勢の人が採血されています。最近のシステムは診察券で受け付けて、その日の番号と同じ「登録番号」をもらい、採血室の前で順番を待っています。
電光掲示板に自分の番号が表示されれば、採血室に入ってまもなく採血です。
採血自体はほとんど問題はありませんが、静脈にうまく採血の針が刺さらないと血が取れません。係の医療従事者は毎日この仕事ばかりやっているのでしょう。手際よく、また問題なく仕事をこなしています。ですが、人の体はみんな同じではないようで、うまく静脈に刺さらなくて血が取れないという場合があります。うっ血というのでしょうか、静脈の外に血液が漏れてしまった、紫色になってしまうこともあります。皮膚や血管の高架だからでしょうか?


高架→老化、です。
眼が老化しているものですから、タイプミスが多いのです。SRI


私はアレルゲンの多くに対して、強い方、アレルギー反応が少ない方らしい。確かに花粉の飛び交う季節にも何ともないようだ。
何年か前のそういう検査でもアレルギーの可能性なし、という悔過だった。
そういう体質は、幼少時に不潔な環境下で育つのでは、という学説か何か知らないが、そういわれているという。
不潔な環境、というのはえっと驚くが、まあ泥まみれの田舎暮らし、ということでもあるらしい。これは当たっているなあ、と思った次第。


という問題じゃあないような気がする、結婚というものは。
そういう平常心というか、普段と同じような心の中でするものではなく、一種の興奮状態がないなら、うまくないんじゃあないか、とすら私は考える、考えてしまう。
仕事がしっかりしてからとか、給料がこれこれくらいになってからとか、何歳までにはしようとか、そういうものとは結婚は違う。
楽に結婚したいとか、問題の少ない形でとか、親がこういうからとか、そういうことではちょっと無理なような気がしてしまう。
日常と非日常とに分けるとするならば、結婚するということは「非日常」じゃあないかとも思う。その後は平穏というか平常へと安定は必要だけれど。


ドイツの国内のどこでも食べられるわけではないバウムクーヘン。ドイツは長い期間連邦制だった国(今でもそうですが)で、地域差が大きいようだ。バウムクーヘンなんか食べたことはない、と言う人も珍しくはないらしい。
フランスはドイツとは異なり中央集権の体制が強かった。とはいうけれど、やはりドイツと同じようにフランス国内の地域差あるいは文化の差はあって、同じフランス料理と言っても一律ではないようだ。
東京ではまさに世界各国のさまざまな料理があるが、日本の方が世界中の食べ物が集まっている。コメの消費もどんどん減っていくわけだ。米の飯に拘る人もも少なくなっていくのだろう。


慶応大学の卒業式は地味だった、という卒業生の記事が出ていた。私も卒業式は地味だった。慶応も似たようなものだったと知って妙に納得する。何かにぎにぎしくやるというところなんかあったのだろうか。サークルの仲間と記念写真を撮ったことくらいは記憶にあるのだけれど、何か特別のものはなかったなあ。そうそう、その前後に就職先が決まったという連絡があって、そこへ呼ばれていたので、式の後すぐに帰郷した。


虐待ですね。わーかわいいー、なんて言ってる場合ではないです。
首輪も虐待っぽい考え方になっているようです。
しかし、その一方では室内飼いの猫が外に逃げてしまうとたいへんです。そういう意味では必要なものかもしれません。
我が家はもう何年も前に首輪はやめました。
しかし、やはり一番重要なのは避妊手術ではないでしょうか。ほっぽらかしだとたちまち多頭飼育の地獄です。ネズミほどではないでしょうが、猫も多産な動物です。
そのとばっちりを受けて、保護猫(昔は捨て猫と呼ばれた)を保護してくれる人を嘆かせる身勝手な飼い主の所業で、たぶん猫地獄に落ちます。


家の人が外出、家に遺される飼い猫がしょぼんとお見送りかな。
今いるうちの猫は、そういうことはしない。
数代前の猫で、帰宅すると(ほぼ誰に対しても)待っていて、玄関近くの段差のある敷居に前足の片方を載せ(ふんぞり返ったような、かなりエラソーにも見えるポーズ)、ご苦労であった、とでも言いたげに、で出迎える猫がいた。この猫は比較的若くて穏やかに死んだ。火葬にして骨を土に返した。


には大きな関心を持って、また大いに共感を持って、喜んだり話題にしたりする。
まだ未婚の方も、まあ余計なお世話であることは百も承知であるが、ご自身のそれに、大きな関心を持って、大いにも共感を持ってもらえるように、何かから始め何かへと進まれますように。
こういうニュースの意味するところは、そういう部分もあると思うのだが、如何でしょうか。


民間企業からの求人は来なかったですね、ホントに。でも、新聞社などマスコミ関係はありましたね。
採用試験には受かっていましたが(もはや、そういう記憶は明瞭ではないですが)3月までに採用があるか何ともわかりませんので、不安と言えば不安ですが、若い時はあまり怖いものはありませんでしたので、居直っていあたことは確かです。
マスコミ関係など結局自分には性格的に無理だろうという、そういう勘は何となく働きました。ホントに、何となく、でしたが。
それからずいぶん歳をとって、過去の検証をすることもできるようになり、何となく、だったものが結構はっきりと見えてきました。たぶん。


書棚のあった田舎のお金持ちたちが、地方の本屋の経営を支えていた。という記事があった。
今は日本の経済の中心が東京に集中してしまったから、こういうことはないが、昔はあったのか、というと、これはよくわからない。
「安曇野」という長編小説には、田舎の名士はかなりレベルの高い「太陽」という雑誌を愛読していた。これに対して東京の大学に進んだこの名士の弟たちはこういう出版物の価値がわからず、売り払ってしまった。ということが描かれていた。
この小説は今手元にはないので、確かめられないが、大学で学ぶことのなかった兄の立場のこの名士はその弟たちに比較して高い教養の持ち主だったことが描かれていた。と、あいまいな記憶だが。
私個人は本の外見よりは中味の方が大事なので、もっぱら古典を読むのは文庫本だ。ただし、文庫本もカバーが付いていないと、背表紙の本の題名が読めないので(読めないではなくて読みにくい、くらいが正しいが、私は読めない)、できればカバー付きのものを選ぶ。


送るか贈る、どちらだったかな、と迷い、両方書いてみました。
海のない甲斐の国、甲斐国と書いてかいのくにとも読めますが、かいこくなどと読んでしまう人がいるかもしれません。
海がないとは塩がないということで、甲斐国は海のある地方から塩を送ってもらわなくては困ります。
駿河国の今川義元は甲斐国の武田信玄と争っていて、そのため塩を断ち武田を困らせようとしますが、越後の上杉謙信は敵の武田に、そういう卑怯なことはしない、ということで塩を送ります。
この話は昔の人は良く知っていて、フェアプレーでやりましょう、というよな意味で使う言葉です。今川がこの場合悪く言われてしまっていますが。
この話自体が確かな話かどうかは怪しい、ということで今の時代には学問的にはたぶん「ない」ということになっています。史料的にもあやしい、となっているはずです。
ものすごい古い年代の人の知っているお話しです。古い人はもっと古い人から聞いて知っています。若い人ほどこの話は聞いたことはないから、当然知らないのです。
塩というものは今は摂り過ぎないようにしましょう、と言われる「悪者」扱いですが、古代ローマでは兵士の給料にもされていた生命維持のためにも重要なものです。サラリーの語源はソルトだということです。


1年以上休眠していたので、まだ慣れない、前にも慣れていたわけではなかったが。
おまけにやったことのない24MHzなので、これまた慣れてはいないので「瀬踏み」をしている。
スプリットでできるところはすいすいと行くが、そればかりか呼んでもいないのに向こうから呼んでくる。
そういう「雑魚」局との交信は容易だが、ちょっと珍しい局はなかなか交信できない。FGやCO,HIなどができない。
使用アンテナが2エレのHB9CVでSWRが少し狂ってもいるようだ。
数日前10MHzでも呼んだのだが、これもできなかった。地上高は10m程度のIVV=インヴァーテッドVでは駄目なのか。
まああまりカリカリしてもいないので、おとなしくしばらくお試しで楽しみます。


日本語はもちとんカタカナだけでも表記できるし、ひらがなだけでも読み書きできる。
ところが漢字というものも読んだり書いたりするのだ。ひらがなカタカナだけでは何とも心もとない。
まあ、今さらしょうがないことなのだが、アルファベットよりも先に漢字の方を使うようになってしまった。
漢字の文字だけならまあよかったが、漢字の言葉も使うようになってしまった。
それもまあしょうがないのだが、私が一番残念に思っていることは、漢字を輸入したことによって同音異義語がやたら増え、耳で聞いているだけでは何を言っているのかわからないのだ。
私は中国語がわからないのだが、たぶん中国人は日本人の同音異義語というものがないのだと思う。中国語の発音は日本語の発音と違って、上り下がり大きさ小ささで文字が区別できるらしい。
欧米の語を漢字の語に直したりして日本語の中に組み込んだ。今では英語などの外国語をカタカナ書きにして使ったりもする。
あんがい日本語は融通性というかしなやかな言葉、外の者でも貪欲に飲み込んで自分の一部にしてしまうこともできる言語なのである。


今は英領でPXはGIかMIでしょうか?
このGIが英領北アイルランドが南アイルランド(アイルランド共和国EI〜EJ)と再合併・再統合するか、しないか、という問題があるようです。
英国側も「いいよ〜}という感じになってきたようです。
ところが、アイルランド側は「どっちでもいいよ〜」という感じのようです。
合併すればエンティティーが一つ減るんでしょうね。←これを言いたかっただけで、SRI


しばらく厳冬の状態ではなくなるけれど
なかなかそのまま春にはならない。
悪意を持ってここに書くのではないけれど、ノロウイルスによる食中毒が多いようですね。そしてまた、ノロには罹りたくはないですね。重症になると苦しいようです。
恵方巻はここのところ毎年食べてはいません。我が家ではあまり受け入れられなかったようです。今年はなぜかチョコレートをもらいました。何年ももらってはいなかったのに、気まぐれ的か?
外食も全くないですね。でも食材もぐんと値上がりしていると言っていました。外食は基本好きではないと思われる我が家。
私は英国王とほぼ同い年だ。日本では2人に1人がCANCERに罹るそうだから、また、気をつけたって罹るものは罹る。ま、しょうがないね。


片目がつぶれ、足も不自由、だが、ものすごく人懐こい猫がもらわれていきました。確かにこういう障害のある猫を好んで、というとやや間違ってはいるが、飼ってくれる、飼いたいと思ってくれる、そういう人もいます。


ですか。私はここ何年も新刊書を買ったことがありません。古書のみの読書生活です。読みたい本にも「抜け」が出てくる場合がありますから、そういう部分(何巻目とかの)を新刊書、というか古本屋さんではないところで買いたいという場合はありますが、まあ、そこまでわがまま、というか贅沢は言わないで、世の中に本はたくさんあって、その中には安価な古書の中に自分が読みたいものがいっぱいありますから。


がんばってほしい、応援します。フィンランドにはRTTYでのメル友までは行かないかもしれませんが、知り合いが一人います。


なかなか好ましい文字ではないか。色使いもよい。70年代のたて看の、あのものものしい文字ではない。多少は時代の替わったことを感じさせる。
京都大学とはまったくかかわりはない私だけれど。


明らかにフランスのをまねをした、もとい、フランスの影響を受けたパンの食べ方。具はフランスのとは違ってベトナムっぽい。
フランスでは食べたのだが、まったくおいしくはなかった。フランスのパン、バゲットだが、これはうまいのもあるが、不味いのは本当に不味い。たぶん、ベトナムのも同じだろうと思って食べる気もしなかった。
あのね、パンは日本ですよ、日本のパンがこの中では一番おいしいですよ。だからこれは日本のパンだろうから、たぶん不味くはないよ。


向きあえないと、認知症の予備軍となるのだ、とあった。
ええ、そうなの、アルツハイマー性のは脳の中に、なんだっけ、思い出せないが、たぶん自分には無関係と思っている、とにかくある物質が溜まっていって発病、ではなかったの?
少なくとも、認知症をひとくくりしてしまうような考え方では、その方が新派です。人の数だけ病への道筋の違いはあるのでは?


とにかく多機能なので、扱いが面倒です、TS590SGは!
大きいのの方がいいけれど、値段が高くなってしまうのだ。
ブラウザに古い無線機や付属機器、最近は縁もなさそうなCB機まで出てきます。これらのコマーシャルが出てきて困ってしまいます。
PC本体の中古品の「新しいモデル」もいっぱい出てきて、私を悩ませます。
すぐ前のコメント、訂正 新派×➡心配〇


すぐに「癒し」と来てしまう。私はよくは知らないが、こういうのを「脊髄反射」というのだろうか。
まあ確かに「癒し」と言われるのも、わかり過ぎるほどわかってしまってはいるが、「化けて出る」という動物も猫以外にはいないようなので、その点もよろしく。


譲れないものも増えていく、のだそうだが、そうなのかなあ、とも思う。
私は年齢とともに、譲れないものかどうかはわからないが、拘りはどんどんなくなっていっている。
譲れないものが「我欲」の言い換えであったなら、これには拘らなくなっていっている。
譲れないものとは増えたり減ったりするような低レベルのものなのか?


私も、いや私のxxも、二人とも行列に並ぶのは大大、大嫌いです。
応援をしています。


いや、タモリさん、来年は芸能活動をきっぱりと引退されるようですね。
HAMの世界にカムバックという気持ちはおあり、かな?


開業は1949年、私と同じ年だ。秋葉原の万世ビルは建てられてから33年。
秋葉原へは食べ物が楽しみで行くわけではなかったので、確か2〜3回入っただけだったと思う。
電気街側の席に着けば総武線の高架が本当に高く、いい眺めだった。
既に秋葉原はわれわれの興味関心の場所ではなくなっているが、案外この眺めが印象的だった。


売れるのでしょうか?
DELLオプティプレックス3010 WinXP 価格は20,000.+
私はこの同じモデルのWin10,SSD126←?
のをもう何年も前に買って使っています。30,000.+の値段でした。
だいたいXPのが、イマドキ売れるのでしょうか???


ハチ公がこんなにタレ目だったとは知らなかった。雪で作った子犬もタレ目にしてある。
私が利用していた渋谷駅出入口は、ハチ公口とはちょうど反対側だったので毎日見ていたわけではない。
しかし、それほど何度も見たわけではないにしても、見たのは一回や二回ではない。その割にはタレ目の顔の表情だったことまでは見ていなかった私であった。
少し高い場所のあるし、全身が黒っぽいので、意外に顔の細かな部分までは見えていないのだよね。


高価な、ということはリセールヴァリューのある、キャンプ用品が売りに出されている、というようなお話。
大変失礼ながら、予想はしないでもなかったですが、こうも早く結果的なものが現れてくるとは。人間の世界は飽きっぽいですね。
あくまでも私の持論ですが、テントを張って屋外に泊まる、それだけではやっぱり面白くはなかったのではないですか。
無秩序にテントを張られても、日本国内の土地のほとんどが私有地ですから、そうそう自由気ままにテントは張れないですよね。
幕営指定地という場所でなければ、山の中では基本テントは張れません。緊急の避難的は行動であればやむを得ないでしょうが、意外にフリーではないのです。
それにテントはずいぶん昔のものに比べると軽量化が進みました。けれども背中に担いで自力で持っていくとなれば、テントはやめて山小屋に泊まるという方を選ぶのかもしれません。
私のような山小屋がさほど好きでもない登山者がお荷物となるテントをわざわざ背負って、酔狂にも山に登ったのですよ。そういうある種のマゾヒズムの文化です(言い過ぎたか?)。
居住性のよいテントはどうしてもかさばるし、重くもなったりします。値段もものすごく高いですね、たぶん。そういうわけで天井の低い、ぺらぺらのナイロン生地のテントで登ります。夏山だったらこれで十分。案外寝るだけなら快適なもんです。


本日は2月22日、猫の日でした。まあ、普段と同じで特段何もありませんが。画像認証も322417→3でにゃんにゃん・よいな。


気が付きました。2月23日、今日は富士山の日だったのだ。
しかしなあ、それよりももっと重要な祝日名が見事にかぶさっております。
少し昔はそうではなかったのだが、もはや昔話ですか。


手押し車、一種の歩行補助具でしょうか、これがないと歩くことができない方、というとほぼ老人、となるのか。
この歩行補助具の車は、しっかり見たことはないのだが、車輪は大きくなくて小さい。固定されていると使いにくそうだから、4本の車輪の内2本は車輪の方向が自由に動くようになっているのだろうか。
この動く車輪が進行方向の90度の角度に曲がると、線路の隙間にはまり込み、にっちもさっちもいかなくなるのか。
本人は歩けない。列車に轢かれてしまう。
お年寄りの踏切事故の話はよく聞くが、こういうストーリーで事故が起こるのだろうか。


ということで、タバコをやめてそろそろ20年になるでしょう。
さらに***もやめることにしました。
***が何か、知りたいという方は私に直接聴いてください。口頭で、面と向かって、ということです、よろしく。


遣唐使の船に乗って、中国からもたらされた、と思っていました。猫と人間が関りを持ったのは、ネズミの害にたまりかねた人間が猫を大切に扱った、というような説明ですが、船には鼠が棲みつきやすく、大切な仏教経典が鼠に齧られては、というような説明をされていましたね。
弥生時代の遺跡からも猫の骨が発掘されているようですから、さらに古いこの時代から穀物を狙う鼠を防いでいたのでしょうか。
日本で初めて発行された兌換銀行券(紙幣)には福の神の大黒様に米俵、米俵のそばには鼠が描かれています。ネズミも富や福の象徴ですね。猫は描かれてはいませんが、猫も同じだとも思いますけれど。


付籠の中に大切にしていた雀を、悲しみ嘆く若紫。
この部分を「源氏物語」の「葵」の巻にあると間違って書いていた。「若紫」の巻であるはずなのに。
もう一か所、犬君だが、私は粗忽にも悪いいたずら小僧だとばかり思っていた。こういうことをするのは小僧に決まっていると思い込んでいた。だが、ここには女房(侍女)だと書いてあった。えっ(最近はへ、らしい)と驚いた。もしかしたらこちらの方は私の方の間違いかもしれない。
さっそく手元の「現代語訳源氏物語」を何種類か見てみた。残念ながら犬君の性別は書かれていないで現代語訳されていた。
しかし、犬君だから、君という文字から女性なのかもしれないと思い始めている。


若紫10歳とその母方の祖母を中心とする一家、ということだから男はいないのだろう。
犬君はそそっかしい女中(当時の呼び方は貴人に使える女房)で、逃がしてしまったことを若紫は怒る嘆く心配する。
それを嗜める、また慰める祖母らのものの言い方は、生命に対する仏教的な思想によるものだ。生き物はおもちゃじゃあないのよ、という感じかな。


若紫は父母を早く失い、非常に不安定な、いや、父母のいない貴族の子弟としては弱い立場であった。本人もその立場は感じていたのだろうから、雀を飼って面倒を見ることに、ある種の慰めがったのだろう。あるいは慰みを求めていたのだろう。
10歳以上年上の光源氏が、彼女に目を付け、若紫の祖母に保護者になりたいと申し出る。
まあそれはともかく、源氏物語の作者紫式部の描き方はなかなか達者。


コンテストログをアップロードしました。
去年は21MHzでたった1局でしたが、今年は21MHzが2,28MHzが4局でした。
ここのアップロードは難しくなくて、え、これで終わりなの?で済んでしまいます。


=インヴァーテッドV=逆V
を上げました。一昨日と今日午後の2日がかりでやっと完成させられました。
それまでは7MHzのIVVだったのですが、両端を切り詰めて行って、10.136MHzくらいを目指したのですが、ちびちびと小刻みには切ることができませんでしたので、下手な計算をして切るのを1回で合わせようとしましたが、うまくいかず、2回目はこれまた計算で長さを測り切ってみました。
10.05がSVR=1.0に近くなり、10.136はSWR=1.2以下でした。ちょっとだけ切り過ぎました。
方向は南北方向に張りました。高さは2階の屋根程度で、建物と建物の間になります。アンテナの上が空なら電波は飛んでいくらしいので。


若紫と光源氏の年齢の差は8歳らしい。
現代の人はロリコンなどと言うが、当時の結婚年齢は今の時代に比べて20歳くらいは若かった。10代後半であればふつう結婚して不思議はない。20歳になれば**遅れである。
若紫を引き取って養育した源氏だが、若紫が結婚適齢期になってから結婚した。紫の上という名前で呼ばれるようになる。


しかしまだまだだな
BARTG Sprint RTTY
日曜の夜明け前からやっています。開始時刻は土曜日の夜の0900、2100JSTからでしたが、そうなると睡眠時間が少なくなってしまうので、朝の0300過ぎに起きられたものですから、0400頃にははじめましたかね、早々ログを見ればいいのだ、1842Zが最初の交信だから0342JSTでしたね。今1030JSTに近い時刻ですが、47局交信ですね。
RTTYコンテストだけの私ですが、新しいRTTYコンテストが始まったということはあるのですが、例えば4月中旬に行われるIG RTTYが新しく始まったもので、数年前に始まりました。まだまだRTTYコンテストの開催は多いです。
ですが、参加者ということになるとどうなのかな、というところでしょうか。参加しての参加者の感覚としては、ちょっと依然と比べて少なくない?というところが無きにしも非ず。
FT8が出てきてRTTYは少なくなったんじゃあないの?という見方もあるようです。
RTTYでDXCCを狙う、というテーマもやはり難しいのではないでしょうか。コンテストでのエンティティー増加というのはかなり苦しいと思います。100エンティティーのWKDやCFMが、私の場合はが10年以上はかかっています。
FT8は半年もたたないで100行ってしまいました。100WでHFのみ、ANTはまあまあのレベル。


部屋が寒くて暖房器具を使って暖かくするのだが、暖かすぎてよくないなあとすぐに私は(黙って)文句を言い始める。
自動車に乗らなくなって、これと同じような黙って文句を言うことがなくなった。床屋さんに行って髪の毛を刈ってもらうことも、どちらかというと黙って文句を言いたくなるようなことだったが、床屋に行かなくても済むような頭にしてからはこのことについて文句は言わなくて済むようになった。
とはいえ、こういう文句を言わなくても過ごせるようになった面はあるが、その一方で新しい文句を言いたいことも一方では出てきた。まあ、しょうがないねえ。


100局くらいできたらよかったのですが、現在までに80局です。0900JSTまでの時間ですが、ハイバンドはもうこの後の時間は無理かな。


89局でログをアップロードしました。
7MHz 13,14MHz 21、21MHz 55、合計89局、なぜか90局まで到達できたと誤解してしまったようです。
最近は無理はしません。というよりも、時間的な面では余裕余裕で焦りもせず騒ぎもせずやっています。
言い訳をすれば、細く長くですが、あまり過度にやっては修行にはなるかもしれませんが、愉しみにはなりにくいですね。楽しみとは楽をしてやるものです。


今でもあるのかな?
文字遣いが怪しいけれど。


仕事でですが、神経質な人はなかなか無理かな、とも思った。
私はシュラフとエアマット持参、季節は5月、だったかな。毎年だから、7年間だったか。枕が案外ポイントなのだが。


2月の3日4日5日で36Hもあるが、あまり交信できる相手が出て来ない。去年は58局しか交信できなかった。
MEXとは何かというとMexicoだ。このMEXという国は物騒な国らしいが、他人はのんびりしていて呑気でのんべえというのの3乗の国らしい。そのため日本とは違って禿げ頭が少ないと、ある人が言っていたが、素直には信用できなさそうだ。
男が年取るまでに殺されちゃうからか、と物騒な想像をするが、物騒でさえなければ幸せそうな暮らしでありそうだし、ぴりぴりと神経質にもならないし、頭も禿げないのかもしれない。
というわけであまり局数は期待できそうもない。


幼児が伊豆半島のことを「アメリカ!」って言った。ビニールハウスに入って「これはパックに入ってないからイチゴじゃないっ」って言ったという。まあ、いいんじゃあない、っていう話なんだけれど、少し疑問もある。
この舞台が久能海岸であることだ。冬の晴天ならば視線を左の方に移せば、まごうことなき富士山が見えるだろう。
そこには売店もあって、パックに詰めたイチゴも売っているだろうに、すぐに訂正してやったならいいと思うのだが、「ははは幼児は可愛いなあ」的に話を終えている。
正しいことを正しく教えるべきと、額に皺をよせて言うのではないが、伊豆半島とイチゴのパック詰めの話は正直胡散臭い、あるいは下手な与太話だと思ってしまう。


自分も馬鹿な発言で応答したら、自分の価値も下がるよね。沈黙は金というよりも沈黙に見えるような返答がプラチナだろうね。


難しいな、私はこれに長期間にわたって考えたよ、これが仕事だったからね。
そういう過去を現在から振り返ると、ほとんど成功していないね、難問すぎるからね、たぶん。


されど、シェークスピアはかく語りき、「光るもの必ずしも金ならず」。
金は希少金属だから少ないので希少価値がある。沈黙をもって答えるのも結構だが、鋭い鉄の刃で切られた人が切られたことをわからないような切れ味で切ってしまうのが一番いいのだと私は思う。
本当に賢い人はつまらない言葉でぎゃあぎゃあぎゃあ反論とか非難とか応酬などをしない。要はもっともらしいアリバイ作りに仰々しい言葉をもてあそばないのが最善だ。見苦しいのだ。


見た目で決めつけるな、ということなのかな。美男美女などへの歪んだ評価、ということ。わかるけれどもなかなか難しい言葉だね。
ただあまりにも単純に、一方的な価値観や審美眼で決めつけてしまうことの危うさであり一種の闇、とも思えてくるかな。
一番合理的な解は百人いれば百人の見た目の良さの基準みたいなものがあるということ、ではないのか。
それに、見た目はあくまでも見た目であり、外見が内面に連動するわけではないし。ルッキズムは当然批判されるべきです、社会的にも。


アンパンマンよりは好きなんだけれどね。


なかなか厳しいスポーツだ。スポーツ障害保険的なものもプロだとどうなっているかは知らないが、その危険度は保険の金額である程度分かると思う。
山登りのサークルで保険の係をやったけれど、登山の場合掛け金は「ランク表」の下の方だった。幸い私が係をやっている期間、保険を使うことはなかった。
今の時代山岳遭難が多いのは、私の若いころとはいろいろと事情が違うのだろう。
私はそんなことを人前でしゃべったことはないけれど、山には行ったら無事に家までみんなが安全に帰りつけるように、常に考えていた。スポーツで死なないようにと思っていた。ハムの免許をとったのもそういう気持ち・考え方だった。これまた幸いなことに遭難通信・非常通信をすることは一度もなかった。


夜明け前から見ていました(SSBだと聞いていましたになる)。
7MHzでEUを見ていたわけですが、BRATG Sprintとは違って見える曲は少ないです。でもまあ何とか8局できました。
その後、今10時ですが、14、21、28とNAというかW方向を見ていました。15局です。
あとは夕方のEU方向向けです。月曜日の朝もやれるのですが、そのきになるかどうかです。


豆はまいたし、珍しく今年は少し食べた。
**巻は食べなかった。たしか去年もそうだったと思うが、最近はそういうことは忘れる。
昔のことはよく覚えていたりする。**巻などいうものは昔はなかった。
豆をまくだけではなく鬼が嫌う(かどうかはよく知らないが)「やいかがし」という呪具を家屋の外の四隅挿したり、鬼を捕らえる(かどうかは知らないが)目籠を屋根の上に上げた。
「やいかがし」は竹串にイワシの頭を刺したものだった。臭いを鬼にかがせて鬼を防ぐものだったと思う。もしかしたら鬼門の方角が強く意識されていたかもしれない。
古いものは世の中から次第に去って消えてゆく。
鬼滅だけではなく鬼を味方につけることの必要もあるだろう。


XE-RTTYの方がいいのかな?
79局交信しました。「たぶん」ということばも付きますが。去年よりはだいぶ増えましたが。


とか。食い物の話題はあまり興味はないのだが、身近な話題としては楽しんでいる、か?
ただ、浜松と宇都宮、それに宮崎が何か交替で、順繰りに一番になっているという、****を感じてしまうのだけれど、如何?
昔のギョーザは過程で焼き上げるのが難しくて、結果おいしくはなかったような部分があるが、わざわざお店に行っておいしくいただくというようなものでもないしね。最近は焼き上げるのがうまくいくようになっていて「つば」というのかな、あれもうまく焼きあがるようになっていて、まあまあ美味しい。ただ私の一番好むメニューでもないけれど。


ライスは食べるもの、というマナーがあったね。
結構こういう場面というか状況になったことはあるが、私はこれに従って食べていました。
ただ、そもそも洋食に皿に盛ったライスなど、本当はないことくらいはすぐに理解できた。だから、それからは、・・・あいかわらずフォークの背中に載せたライスで食べていた。
人が食っているところなんて誰も見ていないんじゃあないか、とは思っていたが、嘘偽りであるとは思っていたが、あえて言えば演じていた。
今? 変だとは思うけれどお箸で食べていますよ。日本だと割り箸も付けてくれてあるからね。
西洋人だって、その昔は手掴みでモグモグやっていたんでしょ?


湿疹というか痒いものだから掻いていると、腫れてくるというか傷がひどくなってきます。案外昔からこれになっていたのですが、皮膚科で適切な薬を処方してもらえば、劇的になおります。
皮膚科医は口の悪い人ですが見立ては確かです。ヘパリン類似物質というものの含まれた軟膏と副腎皮質ホルモンの軟膏で治ってしまいます。
去年は出て来なかったのですが、今年は出てきましたので薬局でヘパリン類似何々を探したら、ローションと軟膏、それにスプレーと3種類ありました。スプレータイプが使いやすそうだったので、今年はこれで抑えられています。
ただ、スプレーだと逆さに持つとスプレーがやりにくいのです。自戒は別のタイプにしよう。


かなり多くの局が出てくるのでぜひ出てみたいと思うコンテストです。
風予報ですが悪くはなさそうなので、土日月3日間ともアンテナを上げておきたいと思います。そのままよい状態が続きますように願います。


大型犬を散歩している人は、私は怖いです。犬ではなくてその犬を飼っている飼い主が怖いです。はなはだしい場合には(さすがにめったにいませんが)リードなしで散歩させています。
そりゃあ、なつっこいでしょう、餌をくれるその人だから。そうではない人にまでなつっこいわけがない。こういう当たり前のことがわかっていない、勘違い人間はどうしようもありません。
それに多くの大型犬は人を殺すことのできる犬種です。


これが怖いと若者は言う。怖いものでもないとは思うのだが、若者ではない私にはわからん。もしかしたら「。」で終わるその文章が読めなくて、意味が分からなくて」怖いのかな?
それは怖いはなあ。でもなあ、「。」が付いていない文章も怖いぞ。とにかくあるところで「。」を使ってもらって文章を終わらせてくれんと、どう読んだらいいのかわからんだろ。
もっとも昔はこの句点、もちろん「、」の読点もなかったから、かなり頭がよくないと日本語が読めなかった。


結構いるんだね、これが。
ガイドさん、今のベトナムは40年前の日本です、と割合正しいことを言っていた。
犬は放し飼いのが多いが、それが飼い犬か、それとも野犬か、にわかにはわかりにくい。ま、犬が見えたらそちらには行かないようにした。
この国では狂犬病の危険性は確かにある。
また、犬食の文化というか習慣もある。


ちょっと風の具合が悪くなってきたようだ。
また、突発的に別の用事もできたので、計画はなるべく中止にしたくはないが、縮小はせざるをえないか、と思われる。
基本28MHzは運用できるので、ここのところはほぼ問題なくできるだろう。


などは、そうたくさんはないなあ。仏教に教えてもらうまでもなく、諸行無常などだ。
だが、そこでしぶとく生きながらえなくてはならない、ということも定理なのだ。ともかく人様に頼り切ってしまうのは危うい。自助努力である。


私も当然お下がりを着る。着る、であって着た、という過去形ではない。現在進行形である。冬は***のお下がりを上着に着て外出することが多い。
過去形の、お下がりであるが、お下がりばっかり着ていた、そのことは時代的に見てもやむを得ない時代だった。


さすがWWはCQです。このコンテストが最も規模が大きい。
今はSSBのコンテストの方は疲れるから、しり込みしてしまう。
SSBの方が局数はたくさんできる。RTTYの方はどうしても交信のやり取りに時間がかかる。また参加者もSSBの方が多い。
SSBの方はCQを出す局が一列に隙間なく並んでいる。そういう感じ。
RTTYの方が帯域も狭いのだが、どうしてもところどころ「空いている」。
そうはいっても混んでいるところは混んでいて、離れた方がいいのに、とは思うがお互いに聞こえないのだろう。片方の局を呼んだのにほぼ同じ周波数の別の局に応答されてびっくりするが、まあ、ふつう無い。しかし今回は一二度それらしいことがあった。
さて、7MHzは月曜の早朝の少ない時間帯だけで今回は28局もできた。こんなことはたぶん初めて(私のようなCQを出さない局は)。
28MHzも爆発的に開けた。ただ21MHzの方が長時間開いているから、局数は21の方が多かった。
合計345局は時間的に少し、いやかなりさぼった時間がったからだが、そんなにハードにはやれないよ。
)


ハラミちゃんの演奏
あまり最近は好き嫌いはないのだな
ハラミちゃんのピアノは本格派ではないらしいが、そもそもそう言うことのわからんない私だから、そんなことはわからない。
しかし、わかりやすい音楽だなあとは思う。ストレートに聞く人の耳に入ってくる感じがよかった。
彼女もコンクールなんかを目指したらしいけれど、そっちの方はうまくは行かなかったらしいな。でもピアノが好きで諦めなかったというか、わが道を行っちゃった人らしい。
しかし、コンクールとかが何だって言うのだろうか。ある種の定型的なものに縛られている堅苦しさがないか?
彼女が結構鍵盤をがんがんと強くたたく。ピアノという名前は大きい音と小さい音の出る楽器、というような意味の名前だったと思うけれど、小さい美しい音はいい音なんだろうが、そういう音の楽曲はどうも私にはピンとこない。がんがんピアノは音を出す方が好きだ。
楽しんで音楽活動を継続して欲しい。
28MHzだけしか聞かなかったからかもしれないが、YB局が聞こえない。去年も一昨年もログを送ったが、たいした局数ではなかった。今年もあまり出て来ない、というかまったく聞こえないのだ。
コンテスト局ではなかったが、ロシアの、それも北方領土の局とVK局が交信しようとしていたが、信号が弱かったのかコンディションがNGなのか、結局交信不成立だった。当局には両方の信号はよく取れたが、VK局にはきこえにくかったようだった。
ある程度の数の局が出てきてくれないとつまらないから、やめた。


というような記事が最近よく見られました。私にはよくはわかりませんが、そんなによくない=悪いのかなあ?と軽く疑問を持ちます。
ただ、歩けば=体を動かせば間違いなく健康=無病息災のためになるというのも、そういう目的で歩いてもどうなのかなあ、と疑問を持ちます。
健康維持にとってよかろうが悪かろうが、歩くのが好きなら歩けばいいのじゃあないかと思います。
私は歩くのは好きだったのですが、その後あまり好きではなくなりました。正直なところ犬=特に大型犬の散歩の人と遭遇する確率が高いのが、散歩が嫌になった理由です。
まあこういう犬の散歩に遭遇するのはしょうがないことなのですが、自転車に乗って犬の散歩の速度と同調しない世のすればいいのだと思っています。とにかく大型犬は嫌いです。


要するに自動車ではなくなってしまった。充電もできないし、普通の充電設備では駄目らしい。テスラ社の場合です。
ゴミになってしまった某国のEV車だったもののゴミ溜め。
日本のEVはどうなのでしょう。
ちなみに私は運転免許が今はない。
免許を持っていたころはバッテリーの交換をケチって、よくすれすれの状態で何んとか始動していた、危うい綱渡りをやっていたころのことを思い出したくはないが。


と今日も見た。これはちょっと酷過ぎる語句か。ここまで書いてしまうと、逆に疑いが生ずるのではないか。
いくら商売のためとはいえ、嘘をつくのはいけないことだ。こう言っている発信者がそう思っているなら、まあ、勝手にしてくれ、と言うしかないのだが、少し寒い。


田舎の人はみんなウオーキングなんてしていないように思う。逆に都会の方々はよく歩いている。まあ田舎では歩いている方が少ないから、どうしても少数派になってしまう。
都会に住んでいればみなさん、田舎の人々よりは、はるかに長距離を歩く歩く。
歩くのはいいんだけれど、走るのは案外怖いように思う。速度の速さはそれだけ危険が増す。自転車のヘルメット義務化も、ある種の結果からのフィードバックであるのだろう。走る人はやはり走れる場所を選んだ方がよい。自転車の私は自転車で走れる=自動車の少ない通りを走る。いつだったか、後ろからクラクションを鳴らされた。完璧に道路交通法違反だよね。


ずいぶんつらい目に遭った。ずいぶん昔のことだからまあこうやって書けるが(それほど多い読者がいるわけではないだろうから)、当時を顧みれば皮肉でもなんでもないのだが、ある種新鮮な驚きだった。
なぜだったのかなあ、とも考えても見たが(正直今も考えないこともないが)あまりよくわからない。わからない、ということは私がまったく納得してはいないということだし、そういう意味では理不尽極まりない矯正だった。
ただありがたいことに、他の人にこういう仕打ちは絶対にしないようにしようと思ったことだった。
思い出せば正直怒りが湧いてくるが、今さらその人物に対して何か反論することもできないだろう。


持てた今日この頃です。洞察力とは辞書で調べたら、人並外れた直感やすぐれた観察力で見抜くこと、とあった。「人並外れた」や「すぐれた」の部分まではないとは思うが、また占い師をやるまでの力量もないが、案外大勢の人間を見てきたからかな、まあ、言わせてもらえば、というか誰もそうは思ってはくれないが、苦労人の部分はたぶんあります。
人間の場合は顔を見ることが、当然の方法です。人相見です。
家になぜか古い占いの書が何冊も残されています。古いとはいってもそう極端に古いものではありません。比較的近い先祖の「愛読書」だったのかもしれません。


沼津の早朝のひき逃げ事故は、ふだんあまり気にされてもいない場所に焦点が当たりましたね。道路が狭いのだ。広い道路は渋滞がするのでそれに並行して通る道路の方へ回ってくる車に轢き殺されてしまったのだろう。
このあたりは広いバイパスに並行して、旧東海道、さらに旧旧東海道と3本が通っている。東海道じゃあなくて一号線とした方がいいのか。
いつぞやの東部ハムに行ったときに、ここら辺は少し歩いた。
今朝は不燃物の収集日なので一輪車で集積場まで持っていきましたが、この道も「よその人」が案外速い、いや速すぎるスピードで走ってくれます。車だと速く走れるからどうしても遅いよりは速い方がよくて、速く走ってしまうのだろうな。困るのだけれど。


実験が行われたようで、その結果では「火事にはならないのではないか」というような結果になったということです。
しかし、火は火です。タバコの温度が600度でしたか、煙草が原因での火事、例えば寝煙草などですか、多いのではなかったですか。
線香は香でありますから、かぐわしい香りを出すわけで、やはり一つには死臭を消すために使える、ということも(昔のことですが)あったのでしょうし、かなり厳しい状況下でも効力を発揮させるためなのでしょうか、銘柄によってかなりにおいの強烈なものもあります。
しきたりというものは変化するものですし、しきたりだといっても案外たいした根拠のない物もあるように思います。線香はなくてはならないものではありません。


が、それでもいいではないかとあまり反省もせず、自分に甘かったか。というよりも間違った、点が取れなかった部分を、やり直しすればよかったのだが、そういうことも正直やったことがなかったと、記憶している。悪い癖は早期に叩きなおす必要があったのだった。
あいかわらず、今も百点満取れてはいません。1アマの筆記試験だって合格点をほんのわずか超えた程度だったと記憶する。60点だっけ?


なんやかんや話を作り上げています。
元の話題からはずいぶん離れている場合もありますが、元ネタが何かお判りでしょうか。
元の話題が何なのかほとんどわからないものもありますが、いかがでしょうか?
ずーっと前からそうだったのだけれど。


は好きではないな。とりわけ大河ドラマのは。ちゃち過ぎて、とても見ていられません。スポーツの中継などほうがよっぽで迫力があります。
でもまあ家庭でも見る良識のある戦闘シーンだからな。ままごとが本当の姿ではないように。
まあ、どっちに転んでも大河ドラマには要らないものだと思います。見たい人は他のところで見てください。
プライベート・ライアンの最初の数十分の死闘のシーンみたいなのは、映画の世界のある種の魅力なのだろうね。まあ、好んで見る気はないのだけれども。


お店のことがよく話題になる我が家です。
24Hをやめたらしいよ、あのお店(食事するためのお店)、あそこはまだ24Hらしい、とか。
そんなお店に行きもしないくせに、よく言うよ、と言われそうですが。本当に行きませんね。まあ理由の一つは高いからですが。その他の理由もないこともないのですが。あえて言えば「家風」なんでしょうか。
今晩は珍しく、家で作った料理ではないものになるようです。でも店に行くわけではなく「出前」です。まだこの言葉生きているのかな?


もう10年位前にパリに行った。それまでは私だけで、仕事で行ったのだったが、その時は完全にプライベートで長年連れ添ったマダム(奥様)が一緒だったが、彼女はいわゆる高級ブランドなどにはまったく関心がなく、そういう場所に寄ろうともしなかった。多少は関心があるのかとも思ってみたが、皆無だった。私も基本モノには執着も関心もないので、ありがたかった。
パリ郊外のサンドニの王墓(革命時に民衆によって墓は暴かれたので人骨はひとまとめだが、歴代の王の柩の蓋に刻まれた王の寝姿が残っている)に案内したら、大変喜んでもらえた。
パリ市内のモンパルナス当たりの地下にあるカタコンベは、パリ中心部の墓地から移した人骨でつくられた、何と言おうか、そういう場所で地下のトンネルが延々と続くが、ここにも連れていけたらよかったと思うのだが。
高級なバッグは重たいから嫌いなんです、とか。高級だからこそ日本でも中古屋さんに売っているしね。よく考えたら欲しくなるようなモンではないかもな。


を「こけらおとし」と読むことは知っていましたが、劇場などの開業・開場のことという意味も知っていましたが、杮(こけら)は柿(かき)とは違う文字だ、ということも知っていましたが、なぜ杮(こけら)を落とすことが新しく舞台などを開くことかは、知りませんでした。
杮はこの場合新築の建物の「木くず」=こけらを落としきれいにすることから言うのだと知りました。
私はこけらとは木くずではなく、屋根を葺くヒノキの薄い板のこととして知っていたのですが、これは別の意味として使うようですね。
最後にこけらとカキは同じ字のように見えますが、というかこういう風に出てしまうのですが、厳密には文字が違います。暇な方は調べてみてください。両方の漢字のほんの細かい部分が違います。ここに書いて説明するのは難しいのでやりません。


の政治家ということで出ていたけれど、ボルサリーノって確か倒産したイタリアの帽子屋さんではなかったか。つまり乱暴に言いきってしまえば、もうこういう帽子は流行らない、流行ってはいな、売れません、ということなのかとも思っていた私です。
まあ映画の名前にもなったほど、主演はアラン・ドロンだぞ、有名な帽子だ。だった、の過去形の方がいいのか?
この山高帽ではなくて別の型だが、私もボルサリーノが欲しいなあと思った時期があって、買おうかという一歩手前まで行ったのだったが、高いものでためらっているうちに、以上の用の倒産のニュースを聞いたのだった。復活したのか?


ワープロでこけらを漢字で出そうと思えば、柿を出して柿の文字に続けて(こけら)とするしかないようです。


SprintとはRTTYのコンテストではRSTレポートなしのコンテストです。このコンテストではRST=599なしの001から始まるNRです。このNRが100まで行ければいいなあ、という目標になります、私の場合。
27日〜28日2100〜2100JSTのコンテストです。
風は穏やかそうで、ANTを高く上げられます。


勝手に開封して、私はしばらくこれを飾ってみなさんに見てもらいます、という呆気に取られてしまうような勘違い行動をする、そういうくび長がいる。何でもおれ様という気質の、恥ずかしい人がいますね。こういう大人は恥ずかしい。
まあ、こういう人は出てくるだろうな、と私は思っていたから、驚きはしないものの、やっぱり怒りの感情はちょっと出てきたな。


という問題で一番重要というか、大事なものの一つが結婚なのでしょうが、これがなかなか厄介というか、面倒くさいというか、思うようにはならないとか、らしいですね。いや、そうなのです。
こういう問題は、私の思うところであるに過ぎませんが、やはり若い時におおいにエネルギーは使い努力することなのかなあ、と思います。
収入がまだまだ足りない、修行が足らないからもう少し修行してから、などと前に進まないのが、私はよくないのかなと、割合思っています。
それが間違ってもいいのではないかとも思ったりしますし、若かったなら立ち直れもします。
今は婚活の業者さんのお世話になるらいしいのですが、いいご縁のない方が世話になるわけですね。だいたい自分でやらないで、人様の世話になるようでいて、ああだこうだ往生際の悪いのはNGかと思います。
簡単にできるとまちがった思い込みが駄目なのだと思います。若いころとは違ってはるかに大きな努力がなされないと、甘くは行きそうもないように思います
とはいえ一方的に事が進められる主題でもありませんから、無責任な気もしますが、自分の感、観、勘、あるいは肝などで進めたらよいと思います。


その愚かさによって自己を傷つける。そればかりか無関係な人々に当たり散らして他の人々を傷つける。自分のことは自分で考えなっければならない。自分が惨めなことを人のせいにしてはいけない。
道を誤った、という評価のされ方をする。道を踏み外した、とも言われる。かなりひどい、取り返しのつかない過ちを犯した。その責任をとろうとはしていると、そうは思いたい。


あくまでも私の場合です。
いかにも、撮りました、いいでしょ、という写真。これは嫌いです。虫唾が走ります。
富士山は画面の奥の方にすっ飛ばして、尊いなあ、と感じさせる写真。手前に見たくもないわざとらしい近景を入れない方がいい。
手元の方に何かあった方がいいのですけれど、主役は富士山だという写真。


破壊した。道具はドライバーでと報道されている。、たぶん+のドライバーなのだろうな。どうやってこわすかというと昔はHDDを物理的に壊すことだった。それともゴルフのクラブのドライバーでひっぱたいたのか。
さて、冗談は置いといて私はPCがものすごい高い値段だったことを知っているどころか、そういう自分を情けないくらいに思っていた人間だもんで、こういう毀損の仕方には感情的に怒りが湧いてくる。
自慢ではないが、というか自慢になんかなるわけはないが、私はPCはほぼほぼすべて中古で買ったものだ。ハードユーザーなどであるわけでもないので、これでほぼ不自由はない。トラブルも、たまにはあったが致命的なものはなかった。
また、次のPCを、また中古で手に入れなくてはならないのかな、とひそかに企んである。


いろいろの心配
いろいろと心配するのでいらいらしますね。は?
私個人としては、やはり大風が吹いて、アンテナが〜、というケースですね。
藤枝市の中では南部の、高洲・大洲という、かつては水害常襲地帯が今は一番安全なようです。
大きいものもたらしますから地震ですか、またそれに伴う津波などでしょうが、たとえ直撃でなくとも、社会経済の混乱をもたらしますから。
忘れたころにやって来る、というのも悩みの種ですね。
という後悔をしないでもありません。いや、結構後悔に近い状態でもありますね。
まあ、タワーも20m以下のものですし、おまけにエレベータでアンテナを上げ下げできるようにもしましたが、それでもアンテナが大き過ぎたかなあ重過ぎたかなあと毎日思っています。感じています。
アンテナの上げ下ろしはこまめにやっています。こまめという以上にやっていて、使うときにしか上げません。よって臨機応変に、ということがしにくく、万能ということはなかなか難しいものです。


そう言われても、なあ。
平安時代の庶民というのは、歴史学からすれば、史料(歴史学の資料を史料といいます)が少ないので、庶民についてはよくわからないのです。
しかし、庶民のことも源氏物語のようなものはないけれど、源氏物語の時代の前に、尾張国郡司百姓等の解文という史料が残っていて、尾張国の支配者に対して激しく抗議をしています。教科書にも必ず書かれています。
ただ庶民や地方の人々に源氏物語は書けないよ、と言うだけの話で、今の時代だってだれにも文学作品は書けないでしょ。
庶民が登場しないからってそれは源氏物語を批判する材料にはならないなあ。あ、そうだ、玉鬘の巻に九州の田舎の金持ち、まあ田舎の洗練されていないボスが丁寧に描写されています。玉鬘に一方的にフラれてしまう喜劇を演じている人物と言えるでしょうか。
また書きます。


もちろん、能登半島や日本海側の地域の災害を知る前である。
だが、わたしももういい歳だから、それなりに私の無意識の「感」というか「勘」かもしれないし「観」でもあるかもしれないモノは、過去にいくつかあったから、今回もそうだったのか、と思わないわけでもない。
キワモノじみた言葉になるが、「予知能力」が働く場合が、この私にもある、ということだ。
まあ、グーゼンだよと、言われておしまい、ではあるが。


どういう女性だったか。枕草子を読めば清少納言がわかるか、というと、どうでしょうか?
まあ、私は史学科にいたので、枕草子や清少納言は熱心に研究はしていません。そういう分野は国文学科のお仕事だと思っておりましたし、史学科全体でもそんな雰囲気だったのでしょうか。
最近になって小説というかたちでなかなか興味深く、清少納言を描くものがあります。小説ですから史料的に不明な部分は作家が、その豊かな想像力、あるいは創造力で描いてくれています。
こういう小説を読んでそれに自分なりの解釈も加え、清少納言のイメージをつくっています。意外にこれらの小説は基本がしっかりしていて、テキトーないい加減な書き方ではありませんでした。
聞きかじりのいい加減な話で喜んでいては、いけないなあと思っています。


持てたか?まあ、私なりに自由に空想してみましょう。
彼女らは、都だけではなく、地方も知っていたから、というのはどうでしょうか。要するに視野が広かったから、ということですが。
彼女らはそれぞれ若くして母を亡くして、国司となった父とともに地方へ下りました。都の貴族にとって平安時代の地方とはまさに異世界だったと思われます。
さらには、父が身分は高くはなかったけれど、学者・文化人だったから、家庭環境が普通の女子に比べれば恵まれていたことでしょうか。
彼女らは身分的には中流と言いますか、上流の貴族の子女ではないけれどそういう特技があったので宮廷社会の最上流の部分で活躍の場が得られたからでしょう。


同時代の藤原実資の日記「小右記」に記されています。本人藤原道長の日記「御堂関白記」には書き残さなかったのですね。
平安時代、貴族は日記を書くのが「一つの仕事」でした。何のために書くかと言うと、子孫がその仕事のために役立ててもらうように後の世に遺すわけです。子孫が宮廷でどのように仕事をしたらいいのか、そのための参考書を日記として書くわけです。
ただ、貴族たちはこの世が長く変わらない、人の世は変化しない、子々孫々この私の日記は役に立つ、役に立つはずだ、と思って書いていたわけですね。
残念ながら、千年後の今の社会では役に立たせようもありませんね。
ああそうだ、ひとつあります。歴史研究の史料になります。これでこの時代の貴族のことがよくわかります。残念ながら一般民衆のことはほとんど書かれてはいません。


と続くのだったかな?
さて「小右記」は少しだけ勉強しました。大学の名誉教授という肩書をもつ大学者で老先生の小右記の内容の講義でした。
学部の学生向けの「科目」だったわけですが、どうも学部生は私だけだったようで、他の何人かは院生だったのではないかと思います。
年間で数ページ進んだだけだったのですが、何がどうとは言えませんが、今もよく思い出します。


史料として出てきます。藤原摂関政治の全盛期を示す史料ということで、初心者にもわかりやすい史料ではないでしょうか。
この歌が載っているのが藤原実資、藤原氏の中の小野宮流の右大臣の日記ということで縮めて「小右記」です。同じ藤原氏の流れでも、うまく出世できて権力の座に就けた一族もいれば、そうはいかずに苦杯をなめた一族もいたわけです。
戦国時代の男っぽくて勇ましいけれど血生臭いのよりも、最近はあまり使ってはいけない言い方かもしれませんが、女性的ななかなかおしとやかなだけではない、生き生きとしたドラマになればいいですね。


「さらしな」と読みますが、この意味は老年というような意味でしょう。姥捨て伝説のある土地の名前が信濃の更科でしたでしょうか。
この作品の筆者である菅原孝標の女(すがわらのたかすえのむすめ、と読みますが、父が菅原孝標でその娘)、本名はわかりません。
更級日記は名前のように年老いてからの「回想記」です。日記と言っても現代の意味とはちょっと違います。
国司となった父とともに上総の国(千葉県)に下りました。国司の任も終わって京都の都に帰る、というところからこの「日記」は始まります。
都には彼女が夢にまで見ている「源氏物語」が待っていてくれる。書いている彼女にとっては美しく懐かしい思い出が書かれています。


学者の家柄の貴族がいました。学者というのは今の時代の日本でもそうなのですが、なかなかその立場が上級の貴族としては認められていない家柄です。
しかし、中級貴族の任命されることの多い国司になって地方へ下ることもありました。国司はあくどい税の徴収などをすれば、経済的には富裕になることもできた官職でした。学問によって国家に貢献してくれた報酬というような意味があって国司になれたのかもしれません。
もっと身分が高い上級貴族は田舎に赴任するような役職にはつきたがらないわけです。


歳をとっても若く見える。同感です。まあ、見た文章には30代でも20代に見える、とあった。私はもっと高い年齢で年齢幅も広く考えていたが。
つり目系のは、そうは見えない、ということにもなってしまうのだろうが、私はどっちでもよい。女性は顔だけでどうこう言うこともないのだから。


おもしろいというよりも、巧みな物語の構成、人物の巧みな設定、上質な推理小説にもはるかに勝る「仕掛け」「伏線の設定やその回収」の巧みさ。
ただやはり古い時代に書かれたものなので、現代人からすると、やや長くなかなか筋が進まない感じがするという点。しかし、このことによって書かれている内容に、真に納得がいくような気がします。
それから何よりも感心してしまうのは、この物語の主人公は光源氏ではなく光ると関りを持った多くの女たちであることでしょう。
大きな物語なのですが、ところどころに小さなお話しも挿入されていて、ほろりと泣かされたり、悲劇的に書かれていても実は喜劇的であったり、年寄りや子供も個性的で、結構紫支部式部のサービス精神、行き届いた配慮に
脱帽します。


様々な面で怖いな、心配だな、自分も年寄りだし、政府の筋も全面的には信用ができないし、まあその政府というものにもよるのだろうが。
津波の心配は、まあ、ないだろうという程度の安心しかない。


28MHzだけでやっています。0700JST頃から見えてきました。18局ログイン。夕方にEUがどれだけできるだろうか。
200Wで4エレHB9CV,地上高は15mあるかないかという程度。コンディションはそう悪くはないのだと思うけれど、出てくる局数は多くはない。


ペットを飼い主以外の人間が大勢いる場所に、しかも長時間そういう状態が継続するって、その当該のペットにとってものすごいストレスになって、かわいそうだなあと同情をすること多々。
航空機に飼い主と同乗、ということとは一応別の話ですけれど。
ほんのちょっと獣医さんのところに行くだけで、うちの猫は死にそうですよ。


災害時によそに避難しなければならなくなった場合、うちの猫2匹、とても避難所には連れていけないなあ、という心肺が心配事のリストの、けっこう上位にこれが来ます。


私にとってはとてもかわいそうで、こんなことはできそうもありません。まあ可能性はほぼゼロですが。
猫は「家につく」と言いました。行動半径は数百メートル程度。家猫はもっと狭いです。「つく」とは「付く」程度ではなく「憑く」なのかもしれないですが。


それだけ藤原が繫栄したわけですよ。当時の人たちなら「どの流れ?」「どの家?」という場合、弁別の方法はあったでしょうが、それでも。これは繁栄した者たちの「宿命」なのでは。
藤原の中でも、運悪く波に乗れなかったり、運が悪かったりで身分が下がってしまったり、、都以外の場所に希望を求めて下っていったり、都の中での下級貴族としての生き延びる道を求めて、その家ならではの特技を鍛えてもいくわけでしょうね。


映像化されたものの場合、どうしても読者である私との間に別人が入ります。その別人がいるから映像としてのドラマが視聴できます。
ただ私が思うに、こういうものだと原作が多かれ少なかれ姿を変えてしまいます。
徳川家康という人物の「自分なりのイメージ」を持っている人が、ドラマ化されたものを視聴すると、まあ、どうしても違和感は感じるわけで、中には怒る人まで出てくるわけですが、どうしたらいいかというと、視聴するのをやめればいいわけです。
原作にしてもそのドラマ化にしても、製作者は自分が作りたいように作るのですから、嫌なら読まない見ないという方法しか他にはありません。強制されているわけではありませんから、この場合い買っていることは八つ当たりになります。悪いことというよりも、みっともないことです。


元は、というか今も、ARRL Roundeupという名前もあるようです。しかしARRL RTTYの方が単刀直入で分かりやすいと思います。ルール的にも悪くはないと思うのですが。
さて風が強かったので、7・14・21MHzのアンテナは高く上げられず、28MHzだけで出ました。
主な相手局は北米、少しの南米だけとも言え、ヨーロッパは駄目でした。32局交信でアップロードしました。


なお、使用アンテナはルーフタワー15mHのHB104DXCというミニマルチのアンテナです。何年かこれを使っていますが、性能には満足できるのですが、やや重い、それから28MHz(29MHz)だけで使うアンテナだ、という欠点があります。また、ブランド名が好きではないという場合もあるでしょうか。


その文庫化。文庫になる時世界は滅びる、と言われていたとは知らなかった。ずいぶん前から中南米の文学が話題にはなっていたが、私はなかなかそっちへ向かう(つまり読もうとする)ことはあまりなかった。
まああまり中南米のものだからと気にもせず読んだ、そういういくつかの中南米の文学がないわけではなかったが。
本はたくさん読む私には本は高いので、読みたい本がたくさんの部数出版されて、その一部が古本市場に出てきてくれたら、と真面目な方から怒られそうなことを考えてはいる。


忘れていましたが、今思い出したので書きます。
仏壇があって、お年寄りのいらっしゃるお宅へ。
火のついたものは危ないです。というか、それを扱う人間が危ないのです。それとは仏壇の線香や蠟燭です。こういうものは大丈夫だろうと思ってしまいますが、生の火ですのでうっかりしてしまうと、危ないです。
仏具店に行きますとLEDで乾電池で使う「線香」があります。我が家でもこれを使っています。もう3年以上は経過していることでしょう。安心できますので、機会があれば皆様にお勧めしています。


線香をやめた理由は防火と言うだけではなくて、もう一つわけがあります。我が家の猫の一匹が線香が好きなようで、線香立てにある線香をばらばらに追ってしまいます。
線香を使うには火をつけるための道具は必要ですが、LED式はスイッチONで使え自動的にしばらくすると消灯します。ローソクに火をつけてからその炎で線香を点けたい場合もありますが、線香がなければそのローソクも不要です。
というわけで、仏壇の前の机(仏教では何というのか?)の上には「おりん」というのですか、鐘ですね、これを載せるだけですみます。
老化に備えて(!)LEDの線香導入をお勧めします。


者で送られても、その分類や整理、品質の確認などがものすごく大変です。募金活動もやりましたが、一応整理して、合計金額は出すのですが、結局金融機関へ出して終了なので、募金の方が確実というか納得感が大きく、非常にありがたいです(こういう部分既に過去形?)。
もっとも募金の「現場」から離れて早や15年近く、最近の現状を知らないのであまりいい加減なことを書くのはやめます。


女性のこのことについて、まったく無知蒙昧な男子がいて、勘違いのコメを恥ずかしげもなくしています。確かにこういう部分は男子には周知されていない分野だったのだろうな、とは思いました。
しかし反面、教えてもらわなければそれを知ることがない、そういう「ある種問題のある」男子も存在するのだろうな、とは思いました。人間とは学ばなければ標準的な人間にもなかなかなれない動物である。


そのほとんどがボランティアだというところがすごいなあ。
災害救助猫ですが
たぶんないのじゃあないか、と思います。
保護猫の世話をして飼い主になってくれる方を探すのは、保護猫ボランティアです。芸とかは仕込めませんが、人間に対して恐怖心を持ってしまって、シャーフーと威嚇する猫の、なんていううんですか、馴化(馴らすこと)はやっていますね。


ペットに対する飼い主の虐待ではないのか。
私の所では猫を飼っているが、我が家の猫の場合だとはっきり言ってかなりのストレスになると思う。お気楽な気にしない猫もいるとは思うが。飼い猫としての猫がストレスを受けることには飼い主にとってもストレスである。
そういう感性のない飼い主だと、飼われているペットの立場には同情をすることを禁じ得ない。
航空機の事故の発生は極めて少ないが、万が一の場合ペットには人間優先の扱いとなるので、最悪の動物虐待になるとも感じてしまうが、違うのだろうか?。


存在するということは知ってはいますが、その細部まではまったくわかりません。昔はこういった世界も比較的狭かったのか、皆さん全般的によくご存じのようでしたが、今の時代は好みや関心の対象が分散化してしまったのでしょう。
相撲取りも知りませんし、歌手も、俳優も、野球選手も、全然知らないのですが、知らなくてもなにも困ることはありません。
こういう部分は、世の中、確かにがらりと変わってしまったのだなあ。まいいけれど。


28MHzでワッチしていますが、コンテストQSOが全く聞こえない。フツーのQSOはところどころで聞こえます。


チェコで銃撃事件
チェコスロバキアという名前だったが、チェコとスロバキアに分かれたんだよね。ずいぶん昔の話になってしまったけれど。スロバキアから来た留学生に「なんでチェコと分かれたの?}と聴いてみたけれど答えてはくれなかった。まあチェック人とスロバック人、民族が違う。
チェコの方が経済的にはやや上らしい。プラハの方がスロバキアの首都ブラチスラバより大きい都市だしね。
この前のOK RTTYの21や28は全然交信ができず、残念だった。
スロバキアの局の方も結構出てきます。
観光地ではほとんど見ないと思いますが、パリのアンバリッド(廃兵院)には軍隊か、あるいは武装警察かわかりませんが、あからさまに銃器を所持した若者が正門=セーヌ川方向の門の詰め所に複数いました。
日本という国では日常的に見られない光景だったので、少し緊張しました。エッフェル塔にもいたと思います。
廃兵院とは王制時代の傷ついた兵士のための施設だったのですが、武器庫にもなっていたようでフランス革命では市民がここの武器をバスチィーユ牢獄の囚人解放に向かったのでした。
今ではナポレオンの墓所として観光地として有名です。
フランス国としては国家の威信にも関わる重要な場所です。
ただ、若い兵士たちはあまり規律正しく任務に服していたようではなく、くつろいだ感じにあふれていました。バッキンガム宮殿の衛兵とは違います。ただし、彼らの手には本物の銃器(形式とかまでは私にはわかりませんが)が備わっていました。


ラップトップを運ぶ時代の会社員には、背中に背負う運び方はもってこい、か。もっと軽いものでも背中で運ぶのはいい方法だよ、と教えてあげたい。かなり昔から学生はこの方法で通学していたから、そういう世代が今は会社勤め、ということかな、とも思う。
私は昔山男だったから、登山用具のドイツ語読みでザックと呼んでいたから、リュックサックなんて小学生みたいでいやなんだけれど。
まあ荷物はあまり多過ぎない方がいいよね。遊牧民の持ち運ぶものは驚くほど少ない量らしいから、理想はそれだが、農耕民族の何でも持ち運ぶ習慣は案外抜けてくれないらしい。
列車に乗る場合はポンポコリンの狸みたいなのは、他の人にものすごく邪魔で迷惑もいい所だから、教えてあげたいというお節介の心がむくむくともたげてくるけれど、まあ実行したことはないよ。


もパリではずっと背中に小さ目のザックを背負っていましたね。ハラミちゃんは知らなかったのですが、たまたまTVで駅ピアノの「武者修行」の番組でした。パリのSNCF(国鉄)やメトロの役でピアノ演奏、腕はいいのですが、クラシックの音楽家になる道はあきらめたのだとか。
彼女の服装もあまり暑くはなさそうな季節でしたが、寒い季節ならコートのポケットに手を入れて歩けます。彼女はピアニストなので手を凍え刺すのはよくないのかな、と勝手に想像していました。手でバッグを持っているとそれができませんね。
私はハラミちゃん、まったく存じ上げませんでしたが、すごい技を持ったピアニストでした。


こういうことまでブラウザに出てきますので、細部に神は宿る、ということが頻繁に見かけることができています。
ただ痛いだけならただの打撲だからすぐに治るそうで、私はこれしか経験がないのですが、小指の骨を骨折した場合は数時間後色も変わり腫れてくるようです。
私は骨折したことはないようです。私の小指は成長が不完全でしっかりと伸びてはいません。薬指側に曲がって、さらに捻じれていますので、小指のけがが少ないのかもしれません。身近な人にも同じような傾向の人がいます。
まあ、年末の大掃除などでは気をつけましょう。


大昔の同じ大阪の似たような大きなイベントも、たいへんつまらないものだったという感想を持っている私です。
こういうものには二度と関わりたくはない、と思っていましたが、運悪くいかなければならない羽目に陥った私。そう、愛知県の、です。
三度目には絶対関りは持たないぞと固く決心しておりましたが、このていたらくでは何とか関わらなくて済みそうで、一応安心をしています。
皮肉で言ってはいますが、私がこういうものを好きではないことは確かです。


久しぶりに出ていますが、なかなか交信するのが難しいです。21や28がいいといいのですが開けていないようで、14でないとなかなか交信ができません。
明日の0900JSTまでですが、今5局だけです。


とはいえ、小さい頃は好きな食べ物ではなかった。今はどちらかと言うと、好きな方の食べ物になっているかもしれない。しかし、この食べ物と心中するほど好きなわけではない。
あわてないでよく噛んで、そう餅だけではなく一緒に入っている野菜類も一緒に食べる。
正月だけの限定食みたいになっているのかもしれないが、我が家は結構違う季節にも食べていて、どうも冷蔵庫の底の方に去年、というかまだ今年だが、まあ一年前くらいの餅があったりするらしい。
最近は便利になったもので「**の餅」というような名前の商品まで出ている。
昔は自家製の臼と杵で搗いた餅だったが、餅つき機というものもできてそれも愛用したが、臼と杵はないけれど餅搗き機はまだあるはずだ。
もしまだあったら欲しい方には差し上げますよ、餅つき機。


ちょっと前、7MHzでできた。W局だけれど。NRは715というのをもらった。VE局を中心に715局交信しているわけだ。私の方からは007だった。VEの隣だからなあ。JA側からはほぼ聞こえない。21、28が駄目だと駄目だね。


ちょうど切りはいいのだが、このパカパカは一瞬暗くなるので、気に障るのだ。予備の管があったかなあ。
ところで、蛍光管の国内での生産が、数年後には終わるそうです。管はそれでいいけれど、照明器具はどうなるのだろう。案外LEDも口ほどもなく弱っちい気がするのだけれど。


12局でログを送りました。お空の状態がもっとよくなって欲しい、もちろん気象の話ではありません。年齢とともに自力本願から他力本願へと天候、じゃあない転向です。


蛍光管を交換するしか他に手はありません。予備がなかったので、別の場所で使っていた管を調達してきました。何とかデスクは明るい新年です。hi


まだ紹介していなかった現代語訳
円地文子の現代語訳3巻
これは「いいとこどり」の現代語訳らしいです。持ってはいますが(安価だったので)手にいれrましたが、まだ読んではいません。
円地文子は昔の小説家です。私はこの人の作品を読んだことはありません。
今泉忠義の源氏物語10巻
現代語訳だけではなく、原文=古文の巻も付いています。これも運よく手に入りました。なかなかこの先生(大学の国文学の教授)の現代語訳が結構ユニークで(男性的な言葉遣い)驚いてしまいますが、案外楽しい現代語訳です。
試合の内容や選手のプレーには無関心、というのはよくない怒!という記事を見た。
そうだな、一位というか優勝者だけ必要以上に、いや私から言わせれば一位以外はまったく無視に近い。この単純すぎる報道の仕方に、馬鹿じゃあないの(***が悪い)?ごめん、こういう言葉を「ここ」で使ったことはなかったのだが、つい。
栄冠を獲得したものだけが素晴らしいのではない!栄冠は栄冠が得られなかった人々が存在したからこその栄冠なのだ。
低レベルの算数しか存在しない私たちの時代の運動競技というものに、私は基本的に疑問を持っている。いや、静かな怒りかもしれない。もっと高度な「文学性」を求めたい。


フランスからの批判がどっさりと。でもまあ、ナポレオンの人気はフランス人の中に一定数はあります。
パリではナポレオン廟のアンバリッド(廃兵院)には3回訪れました。多くの観光客の目的はナポレオンの墓(柩)を見るためですが、私はそれは一度見れば十分だったので、アンバァリッドの「庭」に転がしてあった「幕末の長州藩の大砲」を見に行ったのです。
最初の行ったときにはちらっと見たのですが、しっかりとは確かめられませんでした。2回目には元の位置から動かされていたようで、結局見つかりませんでした。3回目にようやく移動されていた先で見つけました。その砲身に長州藩毛利家の家紋が見えました。


SSB29局。あまりいいとは言えませんね。まあ、48Hで月曜日の朝0900までなので、ゆっくり、余裕をもってやってみましょう。
28MHzだけで他のBANDには移れないのが、案外いいのです。矢田氏個人の事情としては7・14・21MHzはアンテナを高く上げないといけませんから、そういう点でも出やすいですね。
本日=土曜日分はNGでしたが、明日はどうなるかな。


矢田氏→私、です。今日はモニターの文字がよく見えません。


円地文子の3巻も今泉先生の13巻(10巻は誤り)も両方ともハードカバーの本なのでなので、寝ながら読むのには向いていません。
今泉先生の現代語訳は文庫本(講談社学術文庫)にもなっているのですが、同じ内容のものを買うのもためらっています。
手にもって寝ながら読むのには新書版までが限界です。でもこの読み方でずいぶんたくさんの本を読みましたね。


日曜日になりましたが、やっと44局ログイン。ノイズがすごくて交信するのがたいへんです。むこう=Wでもそのようです。まあPWRがそれほどないから呼んでもピックアップしてもらえないことが多いです。なんどもNRを確かめ合ったり、間違ってコールサインをコピーされたりで、その訂正に時間もかかります。これはお互い様なのでどうしようもないですが、こういう場合にこそ技を磨いておきたいですね。


明日の朝も続けますが、本日は57局まで行って終了しました。


最終的に71局交信できました。去年は67局だったので、ほんのわずかアップしました。
総じてノイズが多く、コールサインやNRがコピーしにくく、何度もやり取りする場合も多く、効率が上げられません。
コンテストは最初と最後の時間帯が大事だとは言え、コンディションが悪ければどうしようもありません。
それに最近はコンテストにじっとり、ぴったりとくっついていないで、適宜別のことをもやっています。もともと真面目ではないのですが、最近はやっていることが「不良じみて」きました。hihihi


6巻と7巻をGETできました。
文庫なので寝ながら読書できます。そのうち寝る前の読書に使いましょう。
6巻7巻=この部分は光源氏の死んだ後の、薫と匂宮の二人の貴公子が主人公の部分で、宇治八帖と呼ばれる続編の部分です。薫は光源氏の子ということになっていますがなかなか複雑な部分、匂宮は身分の高い自信満々のお坊ちゃん。ここに浮舟というはかなげな美女が絡む。


道長が約1000年前に埋納した写経が、江戸時代に掘り出されたが、散逸して一部分しか確認されていなかったものが、再び金峯山寺というお寺で見つかった、というニュース。
道長の日記も残されています。朝廷から支給された暦を利用して、日記を記しています。御堂関白記という名前です。
源氏物語の原本=紫式部の手書きの本、これはないはずですが、同時代の道長の書いた文章は自筆の形で今日まで残っているわけです。
この時代は貴族でも薄葬(墓に遺体を手厚く葬らない)の時代で、道長の墓も紫式部の墓もその所在地は不明です。


私もここ数年、このコンビニ(コンビニエンスストア)トいうところには入っていない。Xさんの運転する車の助手席にとどまり、店の中には入らない。ここで買いたいものなどまったくない。
だが私はフランス人ではない。
だが若くはない。何でもお店で買えばいいという発想にはならない。手近なところにあるもので間に合わせられないか、という気持ちが強い。


うちには黒毛和牛のような体型になってしまって、もちろん真っ黒の猫がいます。
でも先住猫の太った猫がいますから、その猫と比べるとそれほど大きくは見えません。
いま日本にいる猫は洋猫系が結構多くなってしまいましたが、まだまだ和猫というか大陸から連れて来られた系統のねこも頑張っています。
前にも出しましたが、源氏物語の猫は、これはもう中国から船に乗ってやってきた唐猫でしょう。どういう毛色だったかは、書いてあったかなあ?


源氏物語の世界は華やかな宮廷生活、華麗な恋愛模様、というような部分で間違いはないとは思いますが、それは紫式部という女性の描いた女性的な視点から、と言えます。男の世界ということで言うならばこれはどの時代でもそうであったように、激しく情け容赦もない権力闘争であります。
この裏側に言わばサブテーマとして存在するのが仏教です。源氏物語には仏教の僧侶に対してはあまり好意的に描かれてはいませんが、今日に比べれば生老病死のはかなさが人々の日常に極めて近くに存在していた時代でした。
紫式部の最期は具体的には不明ですが、彼女が書き残した文章から考えれば、俗世から離れて静かな仏の世界に向かう晩年だったと思われます。このことは男女を問わず、貴族であれば俗世から離れて平穏な暮らしを求め、阿弥陀如来に導かれて往生することを求めました。


レコード(レコード盤という意味だが)というものが今でもあるの?
まあもちろん昔はごくありふれたものだったから、それが今も残っていることは確かだろう。私も昔は多少は持っていたが、そうたいしたものはなかった。だが、それももうずいぶん前に知り合いにすべて引き取ってもらった。
この広い世界だから、まだレコード盤も作られているのかもしれないのだが。
そんなことよりも心配になるのは書籍の方だ。本だ、印刷物として作られた本だ。これがいつまで「もつ」のだろうか。こういうものを販売する実店舗がいつまでもつものだろうか。
源氏物語の時代には、源氏物語のような需要の高いものは手書きで筆写され「大量に」で回ったのだが、印刷ではないのでその部数としては鯛っしたことはないのだが。


私が初めて参加したRTTYのコンテストです。
コンテストなのでコンテストNRを交換しなければなりません。
そのコンテストNRがRST+CQゾーンNRでいいのです。
私=当局から相手局には599+25となります。相手局からは599+その局のCQゾーンNRとなります。
天候が悪そうなので、どれくらいできるか心配です。


徳川家康、ですが、「今までの家康」に比べると、個人的な感想としては、なかなかよかった、いい内容だった、大河ドラマにふさわしかった、などという感想でした。
今までの家康はちょっと事大主義的であった、役者の台詞が時代がかって=大げさすぎてよくなかった、押しつけがましかった、まあ要するに古臭かった。まあしょうがないだろうけれど。
今年には正直おもしろかった。娯楽作品としてはいい仕上がりだった、と思います。
史実がどうのこうのという批判もあったようですが、史実についてはさまざまな見方や、そう簡単には断定できない部分もありますので、むしろ案外最新の学説に基づいた部分も多く、批判している側の考えが結構古いなと感じた場合もたくさんありました。
従来の家康よりもかなり楽しい部分が多くなっていたようです。織田信長や豊臣秀吉に比べるとかなり常識人として描かれています。家康忌避という感性は幕府を倒した薩長の感性なのかもしれません。


高い方のBAND=21,28が全然駄目でした。28を当てにしていた当局は当てが外れてがっかりしています。
最初に28の1局はASの局、14で10局全部EUの局、合計11局。結構熱心にシャックに籠っていましたが。


20歳台が平均1時間半、70台は5時間半ということだ。
5時間半なんて、TVは年寄りしか見ないようですが、さすがにいくら何でもこんなに多くは見ないのでは?
1時間半なんて、年寄りでなければ見そうもないのを本当に見るのだろうか?
私ですか?私は1時間半も見ないと思うけど?


印象的な回
長篠城攻防戦での鳥居強右衛門の回かな。旗に描かれた強右衛門はあんなに肉付きはよくないけれど。長篠城の城址は見てきました。35年くらい前です。
もう一つはお市の方の伝言(でいいかな?)を侍女の阿月(あづき)が長距離を走って届ける回。元の話の、お市の方から信長への、袋の両側を縛った小豆の袋の話よりはいい感じがしました。
この時代の通信とは場合にもよりけりだが、命を懸けないとなりたたないことがあった。
ということですが、視聴者からは「無駄な長話」だと不評だったようですが、通信というものによって勝敗が決せられる重要な部分なのにね!


父が使っていた腕時計(遺品)がもしかしたら?と思っていたが、そうではなかった。
そのかわり別の腕時計(遺品)が出てきた。金婚式で子供たちから贈った腕時計だった。正直、まあたいしたものではない。
腕時計は嫌いなので着用はしないが、新しく電池も入れ替え、出掛ける時には腕にはめる。
某野球選手がグランドセイコーと聴いたので、ミーハーだな。


私は子供の頃、逆にもっと体重が増えればいいと思っていた。山に登っていた頃もスリムだった。登山用具店でウエスト80なんてサイズのものも見て、こんなもの誰が履くのだろうと思っていた。今はそうではないが。


今までの大河ドラマがどうのこうの、ということも書かれていたが、私はこういうものを見ていると、私は大河ドラマの熱心な視聴者ではなかったということを感じた。どうも、あまり大河ドラマというものを熱心には見てはいなかったようなのだ。
日曜日や翌週の土曜日の再放送は、昔は案外見ることもできなかったのだろう。たまに土曜日に見る程度だった。最近はコンテストも楽しむが、土曜の再放送を結構見ていたような気もする。
今年のは、結構毎回熱心に見たが、やはり完全に見たとは言えない。特に最初の方はコンテストもけっこう密に出ていたこともあって、ドラマの方は忘れていたことも多かった。しかし、この頭をあまり使わなくてもよいTVドラマなども、コンテストのようなわくわくするものとは一味違って結構楽しめることも感じてきた。


そう言えば、大河ドラマって、あんまり見ていなかったんだ、と改めて思い返した。今年は例外で結構しっかりと見た方だ。
小説ではなく、しっかりした歴史書をしっかり読んでいるから(エラソーで御免、まあ職業の一部でしたから)まあ基礎はしっかりできているのですから、そういう私の基準からしてもまともなドラマだったと思えました。
ただ、歴史だけを元にドラマを作ったところで、娯楽作品に仕上げるのは難しいと思います。面白くするにはどうしても仮想部分と言いますか、空想して作る部分がドラマには随伴します。歴史というものはドラマではありません。ドラマチックなものを期待されては困ってしまう、そういうものでしょう。ドラマだと思われているのはそのほとんどが思い込みや過剰な期待で成り立っているのではないでしょうか。それはそれで楽しいものですが、実際の歴史とははっきりと弁別すべきものです。


本当に読んでみたい本はなかなか古書店では手に入らない。翻訳小説は推理小説とかの分野では早川書房などで出しているが、今私にはこういう分野には興味はない。
古典や純文学はやはり岩波文庫が一番だろうか。「百年の孤独」は新潮文庫のようだ。版権とかいろいろあるんだろうね。
とはいえ、文学はあまり私の読書の対象とは言えない。そう、歴史分野で今まで読むことのできなかったものを落穂ひろいしている。


うつる、という記事。
髪がなければ、あるいは極めて短くしていれば、いいのかな?ならば、ありがたいのだが。
源氏物語の時代はたいへんだっただろうな。私も源氏物語(現代語訳で全部、原文の一部)は読みましたが、シラミのことは書かれていませんでした。いや、書かれてはいなかったと思うが。
シラミを小説に描いたのは、私の記憶では芥川龍之介?いや、自信はない。


なんて私はまったく興味関心はないが、近年女性がハイヒールを履かなくなった。という状況を反映してTVドラマではあのカツカツカツという音が聞こえない、という記事。
シン・ゴジラではヒロインがピンヒール(←よくこんな語を知っているなあ、私。いや、知らないんだよ私は。間違っているかもしれない)を履いていたけれどな。
源氏物語には履物の話は、え〜と、出ていたのかもしれませんが、まったく気が付きませんでした。


源氏物語ではなくて、源氏物語を著わした紫式部を中心としたドラマですが、何か誤解してコメしている方が見えます。
源氏物語あるいはその作者紫式部、人類の歴史全体から見ましても、西暦1000年台にこれだけの、大長編で奥行きの深い内容の物語を著わしたのは、他の地域他の民族には見られなかったことであり、極めて輝かしい成果と言えます。
そういう誇るべき文化を我々の歴史は生み出しているのです。願わくば今後の未来においてもかくあらんことを。
今の日本は若干下り坂の傾向がみられますが、お金儲けや軍事力だけではない(あまりこういう話はしたくはないですが)人間の肯定的な面を重んじることも必要です。


主人公は光源氏と関わった、輝いている女性たちです。源氏物語の現代語訳をしている人は多いですが、その中の多くは女性です。
源氏物語の叙述の中で、ひときわ見事なのは、そう、きらびやかな衣装の数々です。私も何度も何度も出てくるそういう場面は読みましたが、こういう部分は読んでもすぐに忘れます。記憶しておけないのです。ほとんど興味がないのです。
これらのお衣装がもしかしたら源氏物語の「主人公」かもしれません。少なくともこの時代=平安時代の宮廷の女性たちが読者だったのです。ですが、天皇が私も読みたいから見せて、とも言ってきたように「男にも十分読み応えのある」レベルであったと思います。


というのも飽きないのでしょうか?
悪口を言えば、画面は「ごっこ」程度の生ぬるい戦い。だがそれが妙に生臭い感じの悪さを発散してくれます。一年間続くドラマがこれというのも考えものです。好きな人もいるようですが、もしかっしたら趣味が悪いと思う人もいる、自分がそういう好きなことをあまりおおぴらに、あけすけに、口に出すのははばかるべきではないでしょうか?
確かに平和は、戦いのない社会は、あくびをするような、そんなつまらない、おもしろくない社会でしょうか。確かに不条理がはびこり暴力がそのほとんどを支配する時代の震えるような面白さは魅力的かもしれませんが、一歩間違えばそれは救い難い病気です。
それに面白さは他人に強制されていいものではないはずです。他人はおのれにとって最終的には評価してくれる存在ではないはずです。誰か?自分自身です。他人とのよい関りは重要ですが、最終的には自分自身であることに間違いはありません。


イエスが生まれたわけではありません。この日がキリスト降臨の日とされたのは、キリスト教とは別の古くからあった宗教の祭日を拝借したものです。
キリスト教がヨーロッパに広まっていくためには異教である旧来の信仰が土台になっていた面があります。キリスト教の古い聖堂はドルイド教の聖地につくられていることが多いようです。
クリスマスツリーも木の精を信仰する異教の信仰から取り込まれたものです。
外来の仏教も日本の神々と習合して、インドの仏教とはずいぶん姿を変えました。


源氏物語現代語訳の瀬戸内寂聴さん(故人)は、源氏物語現代語訳とともにいろいろその周辺の著作を書いています。
たまたま古書店で見つけ手に入れ、さっそく読んでいます。私のように源氏物語現代語訳を読み終わっている人でも、これから読もうとしている人でも、あるいは源氏物語現代語訳を読もうと思わない人でも、楽しめる本です、たぶん。


あ、富士山が見える
富士山は案外遠くからも見えるものだ。一緒に登っていた仲間の一人がこういう科白を吐く(←この文字遣いでいいのだろうか?)。東京都で一番高い山の雲取山山頂だったか。
ふん、富士山がそんなに珍しいかよ!ひねくれものの私は心の中でそうつぶやいた。こっちは富士の国の人間だぞ。
確かに遠くからの富士山を見たところで、さほどのものではない。しかし、遠くから見えるからこその我が富士山でもある。
だがだが、やはり適度な距離も必要なものだと思う。あまりにも遠いのはどうなのかなあと思う。赤石岳山頂からの富士は絶品だ。安倍川沿いの真富士山からの富士山もよい。
数が足らないからもっと欲しい、はどうなのかな。もらう側でもアクションを起こして欲しい、というようなことを私は少しだけ思うのだけれど。
くれる方はくれるということを見せたのだから、もらう方も何かリアクションを見せてほしい。
ただでものをもらってはいけないよ。ということです。


明日の早朝と朝0900までありますが、これでやめておきます。
明日の朝は不燃ごみの収集日で、私は当番です。
交信局数は91局、まあこんなものでしょう。ログも送ってしまいました。
残っているRTTYコンテストは12月のOK RTTYだけです。
何百局と交信するSSBのコンテストは、私にはもう無理です、たぶん。


マイナカードだが、あまり使われていないという。確かに元々の保険証の方が使いやすいと思う。
ただ、私の通っている医療機関の内一か所だけ、使いやすい場所がある。我らが藤枝市立病院である。
ここだと保険証の点検を毎回受けないといけない私だが(だいたい月をまたぐので)、マイナカードだと列に並ばなくてもよくなる。マイナカードを使う人がものすごく少ないからである。いいのだろうか。


富士山の展望地として有名。というよりも旧五百円札、あの岩倉具視の、で有名な山梨県の山だが、近くまで行ったことはあるけれども、この山には登ったことはない。
他に特筆すべき特徴もないからだと思う、上ってはいない理由としては。だいたい私は熱心に富士山を見ようという殊勝な気持ちやら燃える熱意などはまったくない。


という方の記事が出ていましたが、バレーボールをはじめ球技はまったくペケの私ですので、お金の話だけここに書き加えます。
大規模経営のコメ生産をされているようですが、にもかかわらず収支はとんとんとおっしゃる。
私のように小規模生産では、はっきり言って赤字赤字の毎年です。これも人件費抜きでの収支でありまして、人件費まで含ませれば大赤字であります。これでは意欲もなかなか湧いてきませんね。
米は食べ物としては次第に嫌われていく存在でもあるようです。私自身も米はそんなにたくさんは食べません。
光明としては日本国内で食糧生産をするならば、なかなか米にまさる作物はないようで、外国から食糧が入ってこなくなったら引く手あまたにはなるでしょうが、工業製品ではありませんので増産はすぐには対応できませんね。


基本的には和式の旅館よりはホテルに泊まります。朝夕のお食事とセットになっている方式は使いにくいのだ。それにそんなにたくさんは食べきれないのだ。勿体ないのだ。
夜はあまり遅くない時間帯に外に食べに行くのが好みです。和式旅館のお食事はちょっと趣味に合わないことが多いようです。そればかりか勘弁して欲しい、という場合が結構多いのです。
それにしてもここ何年か、泊まりで出掛ける出掛けることはないなあ。


これを特別なことのように語る方。
だけれど、考えてみればごくごくフツーのこと。そういうことを書くなとは言わないが、書いた方にとって何ができたか、ということをぜひぜひ書いてもらいたい。それであれば若干の意義もある。
私もなくなっては困るお店があるので、せっせとは通っているつもりだが、案外そういうことも思っているほどにはできないのだ。
ありきたりのことを書かれても、正直あまり心に響くものはない。
後悔は先には立たないのある。こんなことは山ほどもある私だ。


古い時代にことを知ろうとしてもそれは遠くから富士山を見ているようなもので、細かなことはなかなかわからない。
新しい時代は近くから富士山を見ているのに似て、細かな部分もわかる。
今の時代は富士山の山頂にいるようなもので、富士山の山体はかえってわかりにくい。


歴史家 平安時代のことを描いているのに平安時代の言葉ではない。
歴史小説家 平安時代の言葉で書いても読者に読んでもらえない。
小説家の方がちょっとずるい言い方だ。だから小説家をやっていられるのだろう。平安時代の日本語、というか会話が、どういうものかということくらいは学んでもいいだろう。そう言うことをしないし、たぶん思ってもいないだろう。読者は歴史家のように学問的にはわかってはいないが、小説家の真摯な向き合い方というものにも、意外に敏感なんだと思っている。
高校でも平安時代の作品くらいは読みますよ。


犬好きだったのか。残念である。まあ勝たなきゃあいけない立場だから、猫というのは似合わない。たいへん似合わない。
ただチームの名前に犬っぽい名前のはないみたいだね。知らないけれど。
別件だが、今我が家には保護猫がいます。なかなか面白い毛並みの三毛です。捨てられてしまった猫なので、まだ完全には慣れていません。人間不信なのですね。


出入りの農機具関連業者から毎年年末にカレンダーをもらいます。時代の移り変わりとともにこのマスコット、ヤン坊とマー坊のデザインが変更されていったようです。
昔はヤンマー提供の天気予報の番組にも出ていました。今も出ているのかもしれませんが、TVそのものをガクンと見なくなってしまったからか、それともやめてしまったのか知りませんが、見てはいませんね。
こうして長年にわたる変遷を見てみると、ヤンマーもしつこい。失礼、熱心ですね。
カレンダーはまだ来ていませんが、それとともに今年の年末のお金の支払いをしなくてはなりません。


紙をめくったりするとき指をなめて紙が重なったり、あるいは紙を数えやすいようにすること。
これが不衛生だ、汚らしい、ということで避ける傾向が強まった、という記事。
確かにその通りだし、紙幣というものはそうきれいなものではない、ということは大人から教わったような気がしたが、なんでなめるのかということは年を取ってきてなるほど、と思うようになってきた。
しかし、私は紙幣はなめない。紙幣はまあなめないが、紙幣を使うときに指なめをして扱うことだったね。こちらもしない。そこまで皮膚が老化はしていないし、習慣として自然にやってしまうこともない。
ただスーパーのビニール袋、あれの「口」を開けられないのが、困る。
それから枚数の多い紙を扱うには、両手を使って紙の束を波に揺らせ揺らせしてやると、数えやすくするのにきれいに揃えられますよ。唾を付けて一枚一枚めくっては汚らしいです。お年寄りに多いかもしれない指なめ、気をつけましょう。若い人には嫌われること間違いなし。


まだこんなことを言っている**がいる。それを元にして自分たちでさらに数を増やせばいいだけじゃん。足し算というものを学校の先生方は知らないのか。学校に限らず自分の狭い枠組みの中だけでしか考えられないというのは、質(たち)の悪い病気だね。


年寄になってからの年寄りの自慢がこの3つだという。しかし、病気自慢というのはいくつかの病気の中の一つに、心の病も入っているのだろうか。でないと自慢しないのではないか。
孫自慢はここでは語らないでおこう。
勲章というのはいわゆる狭い意味での「勲章」のことではないのだろう。男の場合だが、最近はトロフィーワイフとかいうものもあって、そういのもそうしたい人はそう考えればいいものだろう。
ただこうやって並べてみると、あんまり持ってはいないことの方が、もしかしたら幸せなのかもしれない、ということに想いが行きつく。
養老さんの記事を読んで。


個人的な感想だが、悪い言葉が流行って来たと思う。モノにあふれているよくない時代だからなんだろうか。
複雑な気もちもあるが、断捨離ではないだろうが、大量にまとめてモノを整理というか、売りぱらったのか、処分したのか、こういうことは何度かあった。
小さい子供の頃は、遊び道具の類をまとめて手放したことはある。だが、これは後悔の念も生み出して、後を引くことも多かったような気がする。豊かな時代ではなく、一度手放したものはなかなか再び手には入らなくなる。
蔵書は一回ほとんどすべてを手放したことがあった。だが、じきにじわじわと増えて元の両に戻るのは案外早かった。すこし大胆過ぎた蔵書整理だったことを反省した。
まだあるのだが、先は長いので、いったん終わる。


昔は出張しても、なんやかんやで持ち出し、というか赤字会計だった。そんな気がする。まあちゃんと計算はされてはいたのだろうが、財布の中を見てみるとそうじゃあないような気がした者だった。
それにまあ、これは必要経費なのだが、お小遣いのうちのかなりの部分が仕事のための支出だったような気がする。厳密には何とも言えないが、後には少しは改善されたような気もしたが、そのころにはもう諦めていたのか、あるいは馴らされてしまっていたのか。一種の家畜だったのかもしれない。
でもまあ、賃金に恵まれていればそれだけでいいわけでもなかった。そういう風には思う。


前に書いたが、かなりの量の本を売ったことがある。8畳間にいっぱいになるぐらいはあったような気がするが、さほどではなかったかもしれない。
案外値段は高めで売れたような記憶がある。まだ古書が高く売れた時代だった。今は安いようだ。売らないのだが売値の高くはないことに予想が付く。
売らないのに「よく予想できるな」と思われるかもしれないが、古書をよく買っていて、それが安いからそう考えることができるのだ。


前に「ここ」にも書いたが、当時持っていた無線機をほとんど売ってしまった。そのわけは、これも前に「ここ」に書いた通りで7800と買いたいからだ。買いたいけれど金額が高過ぎて買えないからだった。100万円という金額で何かを買うのは日常的な買い物の金額をはるかにオーバーするのだ。
KENWOOD党だったのでTS940S,950SDX,TS520など古い機種も数台あった。ICOMも好きで575、757U、757V、1200MHz機、200W機の750DX2、YAESUは何かあったかな?まだまだあったはずだが、しっかりとは憶えていない。
トータルで500Kにはならなかたんじゃあないかな。ちょっとがっかりもしたが、心はもう7800の方へ行っていたから、納得もしていた。
7851、くれるという人がいたらありがたくいただくが、自力ではもう買えない。まあ当たり前にいないだろう。冗談だよと笑って欲しい。


このフレーズを読むと、メロディーが浮かびます。


似たようなパターンで、もう一つ。
一年くらいお休みしていたFT8ですが、なぜか運用できなくなっていました。まあ、放っておいてありますが、18MHzでのFT8運用はしてみたかったかな。
冗談だよと、笑って欲しい(サビ)。
高草山があるからだ。これに遮られて上の方の部分しか見えない。それに、今はあまり富士山を見ない。よその土地へ行っても努めてみることはない。もう十分見てしまっているから見ない、ともいえる。
太宰治ではないけれど、見えてもどっか別の方向を向いている。そういう部分は私にもある。
写真のコンテスト?というものがあるようだが、富士山だけ撮ってもいい成績はつかないだろうか。ふつうは何か好ましい前景と組み合わせるというのが定石みたいだが、これも、そうなんだろうなと肯定はするけれど、だけどな、と心のどこかでは否定している。
前にもここに書いたが、富士山はほどよい遠景の写真がよい。魅力的なもとはよく理解するのだが、近景の写真には辟易している。


源氏物語
原文はなかなか難しい。高校の古典の学習では一番難しいレベルの教材です。私は高校では理系のクラスにいましたので、源氏物語は学習していません。二重敬語なんてわかりますか。源氏物語の舞台は宮廷ですので、こういうフツーの古文では出て来ないような、私も高校では学ばなかったような高度な古い時代の日本語です。
ですが、今は源氏物語の現代語訳がいろいろな著作者によって書かれていて、普通の現代の日本語で読めます。かなり前ですが「浅きゆめみし」というコミックスででも描かれました。漫画版源氏物語ですね。
昔は難関だった源氏物語も今はずいぶん敷居が低くなっています。NHKも大河ドラマで源氏物語をやるようですね。
京都は隅々まで、とは言えないまでも、かなり旅行先として楽しませていただきました。今はかなり私どもも京都を旅行先に選ぶのは難しそうですね。
京都旅行を昔も私どもは人がいないところ人出が少ない所、と心掛けて「穴場」というのでしょうか、そういう場所を意識して旅行の風情を楽しませていただいていました。
でも人出の多い所にも人出の少ない時間帯に行くなどして、ない頭をそれでもうまく頭を使ってせっかくの力を楽しんでおりました。
でも今は絶望的ですね。
でもまだまだ「穴場」はあるはずです。源氏物語の時代にも京都はなかなか大変な場所だったことが源氏物語を読んでみても伺うことができそうです。
様々な努力をしても、かなりの知恵をうまく使ってでも京都は旅行して楽しむことの価値ある場所であると思います。
ささやかな、また偏った、取るに足りない知恵かもしれませんが、京都に行ってみたいという方は、たいして頼りにはなりませんが、よろしければご助言申し上げます。


一例を紹介します。瀬戸内寂聴の「源氏物語」です。文庫本で10巻になります。現代語訳では一番新しいものですから、読みやすさは大丈夫だと思います。
私の感想としては、悪くない、というところです。訳者の個性が当然出てきますので、それに対する好き嫌いが読者側にも出てきます。
10巻まとめて買わなくても最初の方の1巻目や2巻、3巻などは安価に出ていますので、古書店でゲットするのがお勧めです。私も10巻のほとんど全部を100円とか半額とかで買いましたが、どうしても古書店では見つからなからないものですから新刊書680円で、ということもありました。
それから、何も第1巻から読み始めなくてもいいと思うので、途中からでもおもしろく読めますし、そういう本なのです。続く


というのは表側だけのお話しです。優雅でお上品な貴族、そんなわけがあるはずもないでしょう。裏側では激しい権力闘争のあけくれ。
まあ、平安時代の初期、嵯峨天皇が刑罰としての死刑を廃止して、平安時代の終わりころ、白河天皇の時だったのかな死刑が復活するまで、400年間近く死刑が執行されなかった。こういう面ではお花畑の時代だったのかもしれませなかなかそういうわけにいきません。源氏物語を見てみてもそういう時代ではなかったということがよくわかります。源氏物語は女性のための麗しい物語であるはずですが、なかなかそういうわけには〜。


田辺聖子も紫式部や清少納言を小説化した作品を書いています。彼女は紫式部よりは清少納言の方が好みだったようで、清少納言を「現代の大坂のおばちゃん」みたいに書いています。とはいっても年は今の時代とは比較できにくいですが。
紫式部については、というよりも光源氏には徹底的に「おちょくって」この男の駄目さ加減を書いています。
源氏物語のダイジェスト版「新源氏物語」は源氏物語におおむね筋を寄せて書いています。少し古い作品になってしまったようですが、瀬戸内寂聴よりはおもしろく読めることは受けあいます。


抄訳というのでしょうか、完全版ではないです。文庫本で全3巻、ただし源氏物語の「後編」部分の宇治八帖はありません。源氏物語のパロディーだと思って読んでもいいと思います。
瀬戸内寂聴にも源氏物語現代語訳の「簡略版」1冊があります。これは手元にはありますが読もうという気が出ません。
田辺聖子は清少納言を主人公にした上下2巻があります。これはお勧めです。また、冲方丁(うぶかたとう、と読む)の「はなとゆめ」という題名の清少納言を描いた作品があります。
なおこの作家は「天地明察」文庫本上下2冊、単行本1冊という大変面白い小説があります。おもしろい理系の小説です。「はなとゆめ」よりはこちらの方がおもしろいです。


ぎっしゃ、と読むんでしたね、平安時代の貴族の乗り物。ゆっくりゆっくり歩くのが牛歩でしたね、牛歩戦術というのもありますね。
源氏物語の中にも牛車でのお出かけなどの場面が出てきます。沖縄の武富島には水牛の牽く車がありました。以前水牛、ということはこの牛車が暴走したこともニュース−スになりましたね。
ところで日本のエスカレーターの速度は遅いようです。ロンドンやソウルなどと比べると、ですが。パリでは基本階段が多いのだけれど、エスカレータもたまには乗りました。あまり日本との違いが感じなかったですね。
私もたまに藤枝駅のエスカレータを利用しますが、なるべく歩く、つまり上り下りに階段を使うことを心掛けています。南口の階段は広いのでタカタカタカと快適の下れますので、エスカレータよりは確実に早いです。
ただ若いころとは違ってこけたら大変ですので、ちょっと軽い決心をしてから下り階段に向かいます。ないげなくやってしまっては危ないかな、というねんれいであることを忘れてはならないですね。


もててもててたいへんだった源氏(光源氏とわかっている場合は「源氏」だけで通用するのが源氏物語の世界です)も、さて、この源氏にも老いは否応なく訪れます。
あまりこういう面は話題にはならないのですが、何か紫式部によって仕掛けられていた、巧妙な罠にかかってしまったようです。世の中の変化の中で源氏のような非の打ちどころのない人物にも、確実に衰退の季節は訪れました。
源氏物語はお花畑を描いた小説ではなくで、紫式部が熱心に信仰した仏教世界が重要な「裏テーマ」の、フランス映画的に言えば「フィルムノワール」かもしれません。


たまたま古書店(何年か前から古本屋という呼び方はやめて、古書店と呼んでいます)で「源氏物語の続編」というべき、紫式部の源氏物語が読者の「やや中途半端に終わっていて残念」という不満?に応えた作品を見つけ手に入れました。
また読み終わってから、この続きは〜。


関ケ原の戦い後に首を斬られた三成ですが、その長男の血筋は今の時代にまで伝えらえているようです。その長男は家成という名前で家康から家の字をもらったかのようです。←ちょっとこの部分ははっきりは書いてなかったような?
不肖この私も父親がもし**だったらこの世に生まれては来なかった、とも思えます。それどころか、私の祖父もまたもし**だったなら二重に、私もこの世にはもっともっと生まれては来なかった来れなかった。
私はそういう運の強い人間かとも、思えます。
なお、**の部分にはそれぞれ別の歴史的な大きな事件名がはいりますが、ここでは内緒にしておきます。


歌人として有名な与謝野晶子の訳したものがあります。与謝野源氏と言います。中学だったか高校に入ってからか忘れましたが、読み始めたのですが、まったく中身が理解できず読めませんでした。
文豪谷崎潤一郎の谷崎源氏もあります。これは最近古書店で見つけ手に入れまして、全11巻持っています。11巻目は別巻です。一部は読みました。非常に上品な現代語訳です。そういう意味では少し昔の本だなあ、とも思います。


瀬戸内源氏や田辺源氏は両方の著作者が既に鬼籍に入っています。まあ今の人から見たらやや年配者です。
まだ若い方のものでも源氏物語の現代語訳はあります。私は大塚ひかりという人の源氏物語現代語訳を読みました。たいへん私にとっては読みやすくわかりやすく親しみやすい現代語訳でした。
あとからこういう本を書かれる方々は、それまでの現代語訳をした方々のものを当然読んでいますから、さらにその上に自分の工夫を付け加えることができますから、さらにいっそう読みやすくなります。ただ反面大塚ひかりさんのように世の中に名前が売れていない場合もありますから読んでもらえるかと言うと、大変な面があるのでしょうか。
大塚ひかり源氏は全6巻のようですが、私は1,2,3巻しか手に入れられず、途中で読めなくなっています。netで見ても4,5,6巻は部数が少ないのか、やや価格が高めでちょっと買うのを躊躇しています。


源氏物語の中ではあまり食べ物関係の豪華な贅沢な食べ物の話はなかったような気がする。たぶん私はあまり食べ物の豪華さに関心がないのだと思う。衣装、服飾関係はたいへん熱心にそのあでやかさが描かれている。建物の中にはあまり家具というようなものがない。
屋外に目を向ければ庭園があり、それを最善の状態に維持していくためにはたいへんな努力、というか費用手間暇がかかるだろう。
食べ物の話に戻って今うが、今日の社会の方がはるかに豊かで何でもありそうな気がする。紫式部がいかに頑張っても当時の食べ物は豪華とは程遠い。
それから今の言葉で言えば「お祭り」、これが年がら年中ある。そこではまた装束の類がきらびやかで、今の時代から私のような服飾音痴が見ても、わかるくらいのハイレベルであることがわかる。
読んでいて宮廷の女性が源氏物語の主な読者層であったことが感じられる。


しばしば衣装といったらいいのか、服、ごめんなさい服飾用語がわからないのだが、衣服を頂くのです。この時代に服飾というものは極めて高価なものです。身分によっても大きな違いがあります。
身分の高い方々は当然絹の衣服になりますが、ここでは一般庶民は関係はありませんので、この絹だけのお話しとなります。
今の時代衣類は安いものですので着古せば捨てます。多少値が張るものなら古着として売れます。まあ昔は衣類は価値あるものですから財産でもあります。
この衣類のお下がりが高貴なお方から下々の者たちの下げ渡されます。布地と言いますか、反物ですね、これまた給与の一部、ご褒美にもってこいの品物として、物語の中に頻繁に登場します。
SDGsの時代でもあったわけでしょうか。今の時代のファッション業界というのがもっともこの資源の無駄遣いをしているのとは正反対の時代だったのですね。


北陸の動物園のインド象が、騒がしいのが大嫌いなので園側が「お願いの看板」を出したそうです。像にも当然個性があって、またこだわりもあって、という風に個体差は大きいことをまなびました。
我が家の猫たちも「ものすごい個体差」がありますが、猫の「品種」によっても差は大きいようで、勝手なわたしの思い込みかもしれませんが犬の方が個体差が少ないようにも感じます。
さて、肝心の「源氏物語の猫」ですが、これがドラマの展開上もたいへんなことをしでかすのです。人が死ぬような原因(遠因ですが)になっていきます。
平安時代の宮廷では「愛玩用の猫」が大切にされていたようです。中国から遣唐使の船に載せられて渡来したのでしょう。


私のアンテナ鉄塔のおよそ17倍弱。最上階は超高級住居らしいが、縁が全くなくて考えられもしない。平安時代のセレブは高さはさることながら、広さはかなりありゆったりとしていて、周囲にはお庭もある。お庭には舟遊びができるほどの広い池もある。
光源氏の邸宅はもちろん平屋であるが、中は大きく4区画に分かれていて、そのそれぞれは彼の妻女ごとに割り振られている。さらに彼女らに使える女房(奥様という意味ではなく身分の高い侍女)が大勢。衣服にしても食事にしても、はたまた手洗い排泄など住居内のすべてが、そこに働く人々による労働によって、この邸宅は維持管理運営される。
330mの高層高級住宅にも負けない住まいが平安貴族の住居だった。富の象徴かもしれない自家用車やその運転手もいる。この前に紹介した牛車である。


史実がどうのこうの、と始まる話は本当に定まった史実というものがあると信じ込んで疑っていない議論です。史実というものは仮説だとは言いませんが、仮説に近いものだと考えた方が正しい見方・考え方です。
そう簡単に史実というものなんか、わかるわけないじゃん、と歴史学を学び始めたばかりの私は知ってしまいました。若い私の洞察力は今の年取った私も、若いのによくそういうことがわかったねえ、とほめてやりたいくらいです。
だけれど、もっと純朴に馬鹿正直に、謙虚に学ぶべきだったということも大切だったと思います。人生は、人が生きるということの真実は、そう単純明快なことではなかったのかもしれないと、もう少し年取ってから悟りました。
二次元的な思考は、もう少し勉強して三次元的な叡智に到達する努力に向けるべきでした。弁証法的な、ともいえるのでしょうか。最近こういうことがわかってきたような気がしますが、残念ながら思考力の衰えが目立ってきています。
変な話ですみません。


前の方で犬の方を貶めたかもしれませんが、そうではありません。人間との関わり方の犬猫の違いを、感じたままに言っただけです。
犬の方が人類とのかかわりの歴史が長く、何万年かの交流史があります。猫と人間のかかわりは数千年だと考えられています。
つまり犬の方が人間に馴化=順化しているのです。人間側からの都合で言えば犬は役に立つのです。猫の方はまだまだ犬に比べれば人間に馴れている度合が少ないのです。
犬に比べて猫というものの役に立たなさが目立ちます。猫は警察猫とか盲どう猫、牧羊猫、救助猫などにはなれません。まだ人間との付き合い方によく馴れてはいないのだと思います。そこのところが可愛いのですが。


10世紀(901〜1000)くらいです。主人公の光源氏はもちろん架空の人物ですが、モデルは藤原道長かもしれない、と言われています。貴族の時代の絶頂期を体現する歴史上の人物ですね。光源氏は道長よりもはるかに格好のよい、また強力な政治力をもってこの時代に君臨した人物です。まあ小説の主人公ですから。
しかし、この源氏に絡む多くの魅力的な女性たちが、その一人ひとりこそが、源氏物語の真の主人公たちであるとも考えられます。源氏は一応彼女たちの上に君臨するスターのような役割ですが、見方によっては、あるいは源氏物語の読み方によっては源氏は「狂言回し」「トリックスター」なのかもしれません。
こんなの「ぶっとんだ」小説が1000年前に罹れたなんて、考えてみるとたいへん「恐ろしい」ことではないかと思われます。


もうやめてから20年にはなるのかなあ。まあ、なんとなく、やめたのだとは思うが、身近な人から強く迫られたから、という理由が一番大きいのかなあ。
言ってくれたことに対してありがたいことだと本当に思ったから、ともいえるのかもしれない。そこのところを出発点にして、どんどん煙草からは遠ざかっていったし、遠ざかっていけたからなのかもしれない。
平安時代に酒はあったが、煙草はなかった。


まあ、今は見ませんね、行きませんね、入りませんね。
危ない時間帯以前には通ったことはあったかな。今は知らない。
ぼったくりには遭遇していない。ただし、パリではぼったくりに遭遇した。この頃は何も怖くはなかったから、平気だった、どうせこっちはたいした金は持ってはいないし。
ひと月近く山には行っていて、山から下りてもすぐには家には帰らず、あちらこちらと放浪しまくって、金は使わない貧乏旅行だったが、さすがに金が尽きてきて慌てて家に帰ろうと思った。
下宿していた東京には立ち寄れず、藤枝に直行した。藤枝駅に下りてほぼ持ち金が尽きていた。歩いて家まで帰ったのだった、とは思うが記憶にない。
以前にも「ここ」に書きました。


言うまでもありませんが、光源氏は架空の人物、紫式部の創作した人物。
で、作者である式部はこの自分が創作した、自分が思い通りに動かすことのできる人物を、多くの女性と結びつけたのです。
源氏が最も愛した人物とは、わけあって正式は婚姻関係には至りませんでした。どういう女性かは源氏物語を読んでみてください。割合最初の方に出てきます。
結局結婚にまで至った源氏の最愛の女性は、先に述べた女性の身代わりだったとも見ることができます。この女性が紫の上ですね。このヒロインを生み出したのは紫式部ですが、この紫式部という名前は本名ではなく、今風に言えばペンネームで、紫の上というヒロインの名前からの命名です。
他にもたくさん女性が登場し、と、このへんで。


いじめというか、おふざけというか、それにそう言うことに対しての恥とも思っていないような、見にくい甘えみたいなもの。
これらは何重にもぐるぐる巻きになっているような醜さを、個人的には感じています。いや、私は、結構昔から、ね。


高級車でなければ盗難はされにくい、というか高級車専門の、特定の車種専門の、そういうワルがいるんですね。
私は自転車を間違って乗り逃げされてしまったことはありますが、盗まれてしまったことはなかったと思います。
自動車の方は盗まれるような、盗みの対象となるような、そういう車種には乗らなかったのですね。
タワー式の駐車場が盗難対策にはいいようですが、平場の駐車場の方が停めたがる人が多いらしいです。
もう既に運転はしないのに関係なことを書くのはやめましょう。こういう悩みは心配はしなくて済みます。
源氏物語には高い身分の女性を載せた牛車でお出かけして、駐車場所をめぐるトラブルから光源氏にまで影響が及んでいった事件が出てきます。


没落した家の屋敷は荒れ果てます。かつては勢いのあった家でも時勢やその家の人間の不運などで勢いを失います。
源氏物語のなかで荒れ果てた屋敷に住む、ということがいくつか出てきますが、それは建物もさることながら、その屋敷の庭が手入れされなくなって、雑草が伸び放題になる描写が見られます。
今の日本社会もこういう人の住まなくなった「空き家」や住んではいるけれど「ゴミ屋敷」や荒廃した建物というのが案外目立つようになってきました。
今の時代の庶民の家とは違って、貴族の家で勢いを失った場合は面積も広いので、かなり目立ったのかな。


遠い所に行ってカップ麺を食べるだけ、不健康、寝袋て寝るのは快適ではない、夕食の後何もすることがない、などなど。防犯の心配で眠れない、というのもあった。
よくわかります。小さい子が行方不明になって見つからなかった、というのもありましたね。慣れないキャンプ用コンロで事故なんていうのも多いだろうな。ブタンガスのカートリッジでガス爆発、ガソリン使用の燃焼器具も使い方がいい加減だと危ないなあ。
最近のテントは軽量で建てやすいけれど、ものすごく高価なものらしいね。札びら切ってやるのは格好が悪いと思う。もっと頭を使って安価に安全に安心にキャンプは楽しみたいかな。
まあ、山に登るためにテントを使ったけれど、キャンプするためだけにテントを使ったことはないなあ。そういう個人的な好みなので、こう言うだけですが。

