旧制第一高等学校寮歌解説

撃劔部部歌

大正8年 

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、瑞雲映ゆる旭日に   橄欖香る武香陵
  此處正大氣磅磚し    無聲堂裡に丈夫が
  大和魂培ひし       幾春秋の花紅葉

2、幾春秋の來し方は    歴史を飾る光榮(はえ)の跡
  武邊の流絶えずして   柏の綠更に濃し
  流風餘韻永久(とことは)に     遺芳萬朶の花に見る

3、九重の雲深けれど    眞誠聞ゆる時つ風
  明治の半やすみしゝ   我大君を迎へけり
  恩賜の胴の燦然と    輝く光仰がずや

4、青葉城下の戰や     嚶鳴堂の晴戰
  蒼龍起り雲を巻き    猛虎嘯き風を呼ぶ
  乾坤とよむ喊の聲    橄欖の香ぞ彌高き

5、名も懷しき彌生(いやおい)の    西に東に花草鞋
  士道を思ひ世を濟ふ  我等の務此處にあり
  いざ進まんな諸共に   男子さびして勇ましく
 *「進まんな」は大正14年寮歌集で「進まなん」と変更。
「東和落成紀念歌ー東皇囘る」の譜


語句の説明・解釈

撃剣部の由来
「明治22年3月、向が岡に校舎移転新築される時、一ツ橋時代から本校教授だった塩谷時敏先生の起した『撃剣会』が、木下広次校長の理解の下に翌23年校友会の一翼となった。・・・翌年第一教場で撃剣大会を催うした時は、天下の一高が、かかる大会を催うしたということだけで、明治維新後衰微の極にあった当時の剣道会の起死回生の機縁となったことは、特質大書しなければならぬ。他校が多く『剣道部』と称するなかに、一高のみの『撃剣部』の名称はこの沿革に由来する。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)

語句 箇所 説明・解釈
瑞雲映る旭日に 1番歌詞 「瑞雲」は、めでたいしるしの雲。「旭日」は朝日。
磅磚 1番歌詞 ひろく満ちふさがること。正大氣がみちみちていること。
無聲堂 1番歌詞 一高の柔剣道場。
 「(明治)32年3月4日、小集會を催し、道場無聲堂の額面上掲の祝を兼ぬ、該額は渡邊子爵の揮毫に係る、題して無聲堂と云ふ、無聲の語須く深意あるべきも、吾人寡聞妄に推度を容さず、然れども孫子に曰く、『故善攻者敵不知其所守。善守者敵不知其所攻。微乎微乎。至於無形。神乎神乎。至於無聲。故能爲敵之司令。』と、」(「向陵誌」撃劍部部史創業時代)
武邊の流 2番歌詞 「明治32年、その道場に『無聲堂という額面が上り(名剣士渡辺千冬子爵揮毫)、その夜、上野韻松亭で『武辺会』が開かれた。塩谷部長、根岸信五郎師範を始め、部員、先輩の集る者百余名、青山先生の『前兵児謡(へこのうた)』を始め出席者の慷慨の弁あふれ、しきりに武の本質を論じ、武辺の物語りにつきることがなかったという。後出の撃剣部部歌の『武辺の流れ』はこれに因む。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
 「當日盛んなる勝負終りて夜、東臺韻松亭に於て武邊會を開く、武邊會とは何ぞや、記に曰く、『武邊水を飲み、武邊談をなすもの之を武邊會となす、況や其講ずる所は武邊の術、其會する所は武邊の人、是に於てか武邊會の意氣天に冲せんとす、之を是れ撃劍部武邊會となす、・・・』」(「向陵誌」撃劍部部史創業時代)
遺芳 2番歌詞 あとに残る香りの意から、後世に残る名誉。
九重 3番歌詞 (「九重」(きうちよう)の訓読語。中国の王城は、門を九重に造ったからという。また、宮居を九天にかたどったともいう)宮中。皇居。皇居のある所。帝都。
時つ風 3番歌詞 季節・時刻によって吹く風。 ちょうどよい頃に吹く順風。
明治の半ばやすみしゝ 我大君を迎へけり 3番歌詞 「やすみしゝ」は、[枕詞]安らかにお治めになる意から「我が大君」「我がご大君」にかかる。万葉集に「八隅知之」とも書かれているのは、八方を統べ治める意によるという。
 明治32年5月6日 皇太子(嘉仁親王、のちの大正天皇)本校に行啓、倫理講堂の特設演舞場で撃劔部第11回大会をご観覧、ご下賜金100円賜る。(「一高自治寮六十年史」)
 「維時明治32年5月6日を以て、本部第11囘大會を行ふ、忝くも、東宮殿下の御聞に達し、行啓仰せ出されぬ、實に我校空前の盛事にして、光榮何物か之に如かんや、俯して惟ふ、殿下聰明睿智、幼にして學習院に學ばれ、最も意を武道に用ひられ、赤坂御所内別に撃劍道場を設け、寒稽古をさへ勉め給ひき、嗚呼殿下講學演武、躬を以て天下學生の先とならる、誰か其盛徳に感涙せざるものぞ、當日は倫理講堂を開きて演武場となし、大教場を以て本校生徒の參觀席に充つ、來賓には板倉子爵、有地中將を始め、目賀田主税局長、上田、澤柳、鈴木諸先生あり、本校にては校長、部長、教授諸先生一同陪席し、大學、本校學生の臨場する者堂に満ち、實に未曽有の大會なりき。」(「向陵誌」撃剣部部史明治32年)
 「(明治32年)11月6日、過る大會出演者を無聲堂に集め、謹んで行啓の光榮を永遠に傳へんが爲め、恩賜金を以て調整したる革鍔を鹽谷部長より各個に配付せらる、終りて部長衆に警告するに、諸子之によつて深く殿下尚武の大御心を想見し奉り、大會當時の精勵を續け、且は文事に怠るなく、長へに國家の隆盛を計るべし、些少だも懈怠の心を生じ、大御心を無にする如き事斷じてこれなかるべきを以てせらる、傳へ聞く吾人、豈亦務めずして可ならんや。」(「向陵誌」撃劍部部史明治32年)
恩賜の胴 3番歌詞 明治36年4月、ご下賜金で革胴2枚作成、大将と副将が着用した。恩賜の胴は、現在、東大駒場の美術博物館に寄贈され保管されている(一高撃剣部北原大先輩)。
 「斯の月(明治36年4月)、先年東宮行啓紀念の爲め、恩賜の革胴二枚を謹製し、之を無窮に傳へて、殿下の御懿徳に副はん事を期せり。」(向陵誌」撃劍部部史明治36年)
 「特にこの時皇太子よりご下賜の『恩賜の胴の燦然と、輝く光仰がずや』により、一高撃剣部の栄光が大きく輝き、同時に之を胸につけた大将副将の責任は、計り知れぬ、重みを加えた。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
青葉城下の戰や 嚶鳴堂の晴戰 4番歌詞 二高との対校試合で勝利したこと。「一高自治寮60年史」によれば、対二高撃剣試合の成績は、次のとおりである。
明治36年4月3日  一高・無聲堂の有志試合、一高勝利。
   37年4月3日  一高・無聲堂の有志試合、ほぼ互角(3勝4敗3引分)。
   39年4月4日  仙台遠征、大将以下3人を残して一高勝利(本格的勝ち抜き
             紅白試合は、この年から)
   43年4月6日  一高・無聲堂、大将、副将を残して一高勝利。夜、錦輝舘で対
             二高選手慰労会、参加約200名。
              *「無声堂」とあるは「嚶鳴堂」の誤りか。当時、練習・試合は無声堂で、対校試合
                など特別の試合は嚶鳴堂で行なわれた。撃剣部部歌の記載どおりであろう。
                明治43年の試合について、「向陵誌」では、試合場所は「嚶鳴堂」とあるも、「時
                既に迫り、無聲堂準備全く成る」ともある。


 「第四節は、明治38年(37年)4月、仙台に於ける対二高戦と、明治43年4月7日の嚶鳴堂に於ける同校との対戦を写し得てて悽壮、『蒼龍起り雲を呼び 猛虎嘯き風を呼ぶ』あたりは、その時のわが稲月光勝、吉植庄亮氏などの各敵三士を切って落した勇戦を髣髴とさせる。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)
橄欖の香 4番歌詞 「橄欖」は「柏」と並ぶ一高の象徴。
名も懷しき彌生の 西に東に花草鞋 5番歌詞  「大正6年、一高撃劔部と東大、学習院の剣道部とが協力して『彌生會』を結成、夏冬二期の特別合宿稽古と武者修行を実行、大正8年に作られたこの部歌が『彌生會歌』とも称せられたのは、このようないきさつからである。」(一高同窓会「一高寮歌解説書」)
 「この寮歌は、「弥生會九州大会遠征の時、広島より長崎にに向う長途の汽車の中で、東大在学中の先輩横溝光輝氏により、つくられた弥生会歌が、そのまま撃剣部部歌となったものである」(井上司朗先輩「一高寮歌私観」)
 「大正6年彌生東京帝國大學、學習院及我第一高等學校劍道部有志は彌生會なるものを組織し武技練達に資し併せて我國古來の劍道の發達に對し聊盡力する處あらんことを志したり、抑劍道を天下に擴め質實剛健の氣風を我國青年間に養成せしめんとは我鹽谷部長及佐々木師範の夙に懐かれし抱負にして此彌生會なるものは其宿志の實現せられたるもの也」(「向陵誌」撃劍部部史『彌生會の成立目的』)
 「(大正8年)4月2日、午前高師道場に於て最初の稽古を初む。・・・約1時間半にして稽古を終へ後偶來廣中たる上杉博士の講話あり、鹽谷會長の挨拶を最後に直ちに高師を辭し正午車中の人となりて九州長崎に向ふ、車中彌生會會歌を作る」(「向陵誌」撃劍部部史大正8年九州大遠征之記) 
男子さびして 5番歌詞 「さび」は接尾語は、体言について上二段活用の動詞をつくり、そのものにふさわしい、そのものらしい行為・様子をし、また、そういう状態であることを示す。「男子さびして」とは、男らしく、という意。
 「男さびせよ蟷螂も 龍車に向ふ意氣地あり」(大正6年「比叡の山に」9番)
 「昭和の初めまで、この部歌には永いこと誤植があって、それは、『男子さびして』が『男子さびしく』となって居た。」と井上司朗大先輩は「一高寮歌私観」で記すが、大正10年、同14年、昭和3年の寮歌集全てで、正しく「男子さびして」とあって誤植はない。間違った伝聞で書かれたか?
                        

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