旧制第一高等学校寮歌解説
陸上運動部部歌 |
明治43年
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1、柏の旗の行くところ 桂冠こゝに二十年 わが光榮と輝きて 遮るもののなかりしに あな、あだ人の鬨の聲 友よ矛とれ戰はむ。 *「。」は、昭和10年寮歌集で削除。 2、墨田河原や南濱や 勝たねばやまぬ雄心に 血を啜りけむ悽慘の 誓の跡を今日こゝに またくり返す勝軍 友よ矛とれ戰はむ 3、駒場台のはれ軍 見よ雄たけびの只中に 威風凛々我が戰士 友よ矛とれ戰はむ *「台」は昭和10年寮歌集で「臺」に改訂。 4、秋風吹いて柏葉旗 易水寒きながめかな 友よ矛とれ戰はむ 覇権を讓る事なかれ われ等一千こゝにあり 覇権を讓る事なかれ |
現譜は、調・拍子は不変だが、昭和10年寮歌集で譜は大きく変更された。概要、次のとおりである。 1、「かしわの」(1段1小節) ソーソドーレ 2、「ゆくところ」(1段3・4小節) ミーミレード ソー *ソは1オクターブ高いソ。 3、「けいくわんここに」(2段1・2小節)の「んここ」 ミ ミーミ 4、「あなー」(3段1小節) 弱起として、ミ ソーー 5、「あだびとの」(3段2・3小節) 弱起として、ソ ソーソソーソ 6、「ときのこえ」(3段3・4小節) 強起として、ミーミレード ソーー *前二項とも、小節の変動はあったが省略。 7、「とーもよー」(4段1・2小節) 1小節にくくり、ソードミ 8、「ほことれ」(4段3小節)の「れ」 ソ 9、「たゝかは(ん)」(4段4小節)の「は」 レ |
語句の説明・解釈
「陸上運動部の沿革」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」) わが陸運の伝統も亦、明治17年、東大が本郷台に移った時、矢張り講師ストレンジ氏の非常な尽力により、戸外運動競技が紹介され、東大より分離した一高に於いても、大いに之をとり入れたのに始まる。その草創の時から、陸運の目標は、ギリシャのスポーツに対する厳粛眞摯且つ過度ともいえる猛練習を通しての品性陶冶を、向陵精神の一発露として摂取した。日本の陸上競技も、その黎明期(明治24年より33年頃)に於いては、一高はその指導者として、覇権を長く保持していたが、長い年月のうちに、他校が、入試の難関なきための人材蒐集と、学制の差による練習度豊富より、その覇業を脅かされ、やがて悲壮な敗戦をくりかえすという各運動部共通のパターンをとるに至った。然し、一高運動部に共通なものは、勝利を飽までも追求し、それに全身全霊をあげつつ、その道が、人間完成の道と通ずるという高貴なる信念であった。武を通じて文即ち至高の善に到達することが一高運動部の理想だったのである。勝利のため身を捨てること、部のため、向陵のため、猛練習に心身を消耗、時に病疾に陥るも辞せぬ宗教的献身は、ここに生じたといえよう。一高陸運も、黎明期(明治29年より33年頃)には、木下東作、今村次吉氏等の大選手を擁し、都下に君臨したが、第二期(明治34年より39年まで)に於いては、毎年の駒場の試合に勝つことを目標に大正時代に入った。この間、駒場運動会は東都に於ける陸上の檜舞台で、ここで優勝することは、昭和時代の人達の夢想もできぬ重みをもって居り、試合当日、その応援には、全校を挙げ、飯田橋駅から特別列車で出かけたことは前記の如くである。その間、覇権を学習院に譲り、また慶應とは紛争試合もあったが、瀬川昌世、長浜哲三郎、田中肥後太郎(後年の海軍中将)、辰野隆、明石和衛氏等の名選手が次々と現われ、柏の旗の行く所、全く敵なき王者の威を揮ったのである。 |
語句 | 箇所 | 説明・解釈 |
墨田河原や南濱や | 2番歌詞 | 墨田河原」は端艇部の、「南濱」は野球部の活躍をいう。 「墨田川原の勝歌や 南の濱の鬨の聲」(明治36年「彌生が岡に地を占めて」2番) |
駒場台のはれ軍 | 3番歌詞 | 駒場運動会での優勝。東京帝國大學農科大學のあった駒場で行われた。明治42年11月7日 駒場運動会。飯田町からの特別列車は廃止したが、校友多数声援に参加。一高、1、2着を占めて優勝。祝勝記念晩餐会。席上、新作の陸上運動部部歌が披露される。(昭和10年から平成16年までの寮歌集では、明治43年作となっている。「桂冠こゝに二十年』の歌詞から推測したものであろう。) 13日 帝大運動会。一高1着。夜、神田錦輝館で陸上運動部選手慰労会。(「一高自治寮60年史」) 「斯の如く吾部史は初期の如き光彩を放ちぬ。連戰連捷、吾選手の向ふ所、敵が片影をも見ず、選手の過ぐる所、あらゆるものを蹂躙せずんば止まず。あゝされど嘗ては、秋風浙瀝たる夕一千の校友が白旗を擁し、選手と共に紅涙に咽びしことも忘る可からず、即ち此事を歌ひ、光榮ある部史を謳ひ、併せて選手を鼓舞せんとして、吉植庄亮氏吾部の爲に部歌を作る。」(「向陵誌」陸上運動部部史明治42年度) |
易水寒き | 4番歌詞 | 「易水」とは、河北省易県の西から東南に流れて拒馬河に入る川の名。中国の戦国時代、燕の太子丹が秦の始皇帝を刺すためにつかわした刺客の荊軻を送って別れた所。一週間後に試合を控えた帝大運動会を踏まえたものであろう。 史記『荊軻伝』 風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還(かぜショウショウとして、エキスイ寒し、 ソウシひとたびさって、またかえらず。) |
覇権を讓る事なかれ | 4番歌詞 | 「覇権」は、王者の地位。チャンピオン・フラグを譲るな、王者の地位を死守せよ。具体的には、駒場運動会に続き、帝大運動会でも優勝せよの意。前述のように帝大運動会でも見事優勝し、覇権を護った。この時の勝利を祝って晩餐会を開いたが、これが一高で毎学期行われた晩餐会の始まりである。 「何という純粋な選手への信頼と母校愛であろう。文科、理科を問わず、一千の寮生の中には、当初超然、運動部の動きに無関心だった人もいただろう。それが、応援に一二度ひっぱり出され、こういう寮歌をうたううち、不思議なる一体感をふかめ、心身の躍動を覚えざるを得なくなる。そこに中学時代以来の閉鎖的自我が、開放され、拡充されてゆく機縁があった。一高の対校試合と寮歌とは、私達の新しい人間形成のための大きな坩堝だったと、今にしてしみじみ思うのである。」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」) |