旧制第一高等学校寮歌解説
端艇部部歌 |
明治23年
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花は櫻木人は武士 武士の魂そなへたる 一千人の靑年が 國に報ゆる其誓 誓は固し片町の 向ヶ岡に築きたる 高き高等學校の 譽は世にも並びなき 智徳兼備の第一と 世にも名高き甲斐ありて 富士の高峰に比ぶべき 節操義烈勇ましく なほ其上にとぎ磨き 月日に勵む腕力は 撃劍柔術銃鎗や ベースボールにボート會 ボートの會の競漕は 特に優れて花々と 音に名高き高等の 商業校の選手をば 四年が程に四度共 いとも容易く打まかし なほも懲りずに進み來る 今日の競漕物とせず 舵取漕手諸共に 手並の程を現はせり 以下略 |
譜に変更はなく、現譜と同じである。最初の小節が不完全小節のアウフタクトの曲。譜は、おそらく戊辰戦争頃からあった古い軍歌の借り物という。複付点音符は、この楽譜ソフトでは表示できないので、2つの音符に分けタイで結んだ。 |
語句の説明・解釈
「明治二十三年三月、自治寮が発足した当時は、寮生が共に歌う歌はなく、わずかに軍歌などが歌われていた。ところが、同年四月十三日、隅田川で第四回対高商ボートレースが行われ、応援歌の必要が痛感された。寮委員長格だった赤沼金三郎が一夜で書き上げ、コンニャク版で刷り、東寮の三階で一夜漬けの練習をし、翌日これを歌いながら大挙墨堤にくりだした。それが「花は桜木、人は武士」であった。この歌は、ボート歌、凱歌、後には端艇部部歌と呼ばれ、実に二十年余にわたって、後年の玉杯のような締めくくりの歌としての栄誉を担った。曲は恐らく戊辰戦争のころからあった古い軍歌の借り物と思われ、実に単純で、一節ごとに『デンコ、デンコ』の合いの手が入る。歌詞も通俗的で、格調など全くなかった。いわば素朴な俗謡であった。しかし、それだけにだれでも気安くすぐに歌え、寮生の唯一共通の愛唱歌として親しまれたものであろう。」(奥田教久大先輩「『嗚呼玉杯』考」) 「彼の端艇部歌たる『花は櫻木、人は武士』は赤沼金三郎氏が、競漕前日我等が、勝利を豫測して作歌し、當日蒟蒻版を以て印刷して聲援隊に配布し、之を盛にしたるものなり。」(「向陵誌」端部部部史明治23年) |
語句 | 箇所 | 説明・解釈 |
高等の 商業校 | 歌詞10行 | 後の東京商科大学、現一橋大学。 |
いとも容易く打まかし | 歌詞11行 | 対高商ボートレースは、明治20年以来6回(明治20年、21年、22年、23年、29年、32年)行なわれた東都の名物、一高が負け知らずの6連勝した。この寮歌が作られた明治23年の時点では4連勝。 「明治32年4月30日 対高商競漕会(己亥連合競漕会、会長榎本武揚、隅田川)艇差5尺で勝つ。水陸声援隊大活躍、借り上げた端艇60余隻、汽船3隻。これで明治20年以来6回行われた東都の名物、一高・高商ボートレースは一高の連勝で終わる。」(「一高自治寮60年史」) 2、3年前の春、八丁堀から浅草まで墨堤の桜を愛でようとぶらり散策したことがあった。両国橋のたもとで、対高商ボートレースのものであると思われる「東京名所 隅田川のボート競争」という名の絵葉書の写真が大きく引き伸ばされて掲示してあった(近くの「江戸東京博物館」の出品)。 「隅田川で開かれたボートレースの絵葉書。ボートレース初期のものと思われる。場所がよく分からないが、向こう岸には應援のためと思われる大きな旗や飾りのようなものが見える。凧も上がっているようで、賑やかな応援が目に浮ぶ。ボートレースの絵葉書に『東京名所』と書かれているのは不思議な感じもするが、その人気のほどは十分に伝わってくる。」(同上絵葉書の説明文) 「隅田川原の勝歌や 南の濱の鬨の聲」(明治36年「彌生が岡に地を占めて」2番) |
先輩名 | 説明・解釈 | 出典 |
井上司朗大先輩 | そして、何よりも注意したいことは、この歌詞は、速成されたものだけに選手激励の感動が生き生きとこもって居り、且つ年代から見ても、寮歌集冒頭の落合直文先生作『雪ふらば触れ』(明治25年作)より2年先立っているので、部歌ではあるが、広義の寮歌全体から見ると、之が記録にのこる最初の寮歌といってよいと思う。その意味で、ひとり端艇部関係者のみならず、同窓諸賢の多くからも、もっと評価されてよい。 | 「一高寮歌私観」から |