旧制第一高等学校寮歌解説

弓術部部歌

大正14年 

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1、あゝ日は昇る東海の      男の子の國のあさぼらけ
  長弭の音のいや高く      向ヶ陵にひヾくとき
  長閑には死なじ海行かば   水漬く屍と武士が
  うたひし心思ふかな

2、玉と碎けて瓦とは        ならじと誓ふ丈夫が
  勇める敵を城南に        撃ち伏せしより二十年
  今日また征矢を負ひては    西洛陽に攻め入りて
  あぐる鬨友よ聞け

3、空にみなぎる陽をうけて     夏來にけらし弓とれや
  萬境空しく月冴えて       冬來にけらし弓とれや
  腕を練へ氣をすまし       理想の平和望みつゝ
  同じ心に進まなん
譜の変更はない。左右のMIDI演奏は、全く同じ演奏である。
最後の「こころ」と一息入れて、「おもうかな」と高音で歌うところ、私はなかなか声が出ず難しかった。


語句の説明・解釈       

語句 箇所 説明・解釈
長弭 1番歌詞 「弭」は、両端を骨や角で飾った弓。
長閑には死なじ海行かば 水漬く屍と 1番歌詞 「長閑」は、ナダラカのナダの母音交替形。おだやか。のどか。俗に「畳の上では死なない」というのと同じような意味であろう。

続紀・宣命「うみ行かば水漬く屍・・・・・大君の辺にこそ死なめのどには死なじ」
万葉家持4094 「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ」
玉と碎けて瓦とはならじ 2番歌詞 立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい。
「玉砕」は、節義のために(功名をたてて)潔く死ぬこと。その逆は「瓦全(がぜん)」。何もなすことなく、いたずらに生き長らえること。
 北斉書『元影安伝』 「大丈夫寧可玉碎、不瓦全。」
 軍歌『敵は幾萬』(明治19年) 「瓦となりて殘るより 玉となりつつ砕けよや 畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず」(3番)
城南に撃ち伏せしより二十年 2番歌詞 「明治41年の慶應大学チームに対する快勝を指すか」(井上司朗大先輩「一高寮歌私観」)。一高同窓会「一高寮歌解説書」も「明治41年春秋の対慶應義塾戦で、一高が連勝した」ことを踏まえた表現とする。明治41年から20年後の年は、昭和3年で、この部歌の作られた大正14年より後となる。およそ二十年ということか。
 「折しも41年城南三田の健兒勝に傲りて書を我に飛ばし戰を挑むあり。我乃ち快諾しぬ。戰は勝ちぬ。花散る夕、勝を祝ふ金樽緑酒、嬉し泣きする選手10人の顔せも嬉しき思出にあらざるはなし。同じ年の秋同じ敵を校庭に迎へて再び鎧袖の一觸に物も言はさで追返へしたる天晴我部の譽れならずや。」(「向陵誌」弓術部部史明治41年)
今日また征矢を負ひては 西洛陽に攻め入りて 2番歌詞 大正13年8月25日、京大道場で行われた京都遠征対三高弓道戦を踏まえる。「征矢」は、戦闘に用いる矢。狩矢・的矢に対していう。「西洛湯」は、三高のある京都。
あぐる鬨友よ聞け 2番歌詞 「大正13年の京都遠征は敗北しているので、勝鬨をあげたとする本歌詞は、大正13年8月、京都での対三高戦が行なわれる直前に、3年連勝の予想のもとに作られたものか。ちなみに、作詞の郡 祐一は大正14年卒である。
 「これは『部歌』であって特定の三高戦に関連付けた寮歌ではなく、未来も含めて普遍的に対三高戦の部員の決意を歌ったものだと解釈したほうが良いのではないか」(名原一高弓術部先輩)
            

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