旧制第一高等学校寮歌解説

水泳部舊部歌

明治36年 

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       水泳部々歌(明治36年)

1、都の南三十里      淡の水門に聖地あり
  松は綠に砂白く     海清うして風薫る
  御鏡すめる御祠は    軍の神のますところ
*「さめる」は昭和10年寮歌集で「すめる」に変更。

2、軍の神のます所     そこに武を練る健男兒
  波静かなる鶴が(やつ)   そこに地を占む水泳部
  自治の女神は夏三月  安房の聖地に宿るかな

3、晝は終日浪にうき    浪とくヾりて暮す哉
  夕さりくれば砂の上   あるは角力に球競ひ
  そこに夏なく不平なき  我はた塵の子にあらじ
*「浪と」は昭和10年寮歌集で「浪を」に変更。   

譜は明治35年西寮々歌「混濁の浪」の譜と同じ。
今は、水泳部は、もっぱら「狭霧はれゆく」と「河童踊の歌」で、この旧部歌は、寮歌祭等で歌われることはない。


語句の説明・解釈

 この歌が作られ頃、水泳部の練習場は、千葉県北条町鏡が浦にあった。
一高水泳部水泳場の変遷  
明治27年7月1日  神奈川県浦賀郡浦賀町字大津に開設(横須賀と浦賀両街の中間)
             「此年部員の宿泊せるは信樂寺、貞昌寺、芋屋、下駄屋、會所の五舎にして本部を芋屋に置けり。」
             (「向陵誌」水泳部部史『大津時代』)
   31年7月3日  千葉県安房郡北条町八幡鏡浦に移転(現館山市)
             「大津の地もと海潮清澄なりと雖も水温頗る寒冷、蓋し其地東北に面し而して夏期西南の風多きに
             當りては海濱温暖の水遠く、沖合に去つて水温の低下する素より其所たればなり。此故に大津は
             遂に遊泳練習好適の地にあらざりしなり。・・・此時に當り報を齎す者あり曰く房陽の地一灣あり菱
             花灣といふ、灣廣く水清くして西面、遠く灣開く所富嶽雲際に聳ゆるあり風光雄大眞に健兒を養ふ
             の地にたらむと。」(「向陵誌」水泳部部史『水泳場の移轉』)
明治41年までは江戸屋旅館、明治42年以降は詠歸寮。
             「轉地の年明治31年より39年に至る9箇年間水泳部は其本部を江戸屋旅館に置けり。」
             (「向陵誌」水泳部部史『江戸屋時代』)
   41年6月中旬  江戸屋突然にして宿舎を拒絶。ために宿舎定まらず(北條海岸幸田旅館、八幡海岸片山旅館などを
             転々、之に伴い水泳場も八幡海岸、北条海岸と転々)
   42年7月18日  詠歸寮新築祝。
             「此時に當り會々那古所在の一小學校其建物一棟を賣却するとの報を得たるにより、人をして之を
             檢せしむるに其木口頗る優良能く之を改造して寄宿舎と爲すに適すべきを認めたるを以て直に之を
             購買して取壞の上、海路八幡に運搬し又一方八幡海岸松林中の共有地を賃借して42年春4月此地
             に工を起し爾来工程進捗7月中旬にして峻成す。」(「向陵誌」水泳部部史『寄宿舎の新設と寄宿舎時代』)
大正12年以降    大震災で詠歸寮は倒壊、一高水泳部の練習の拠点は、伊豆・宇佐美へと移った。
   12年9月 1日 関東大震災により詠歸寮倒壊。
   13年7月24日 宇佐美・詠歸寮開場落成式。
             「大體考を房州の舊位置に殆ど舊同様のものを建てる積であっが3月24日先輩永井了吉氏より伊豆宇
             佐美の土地を紹介せられ両者の比較研究の結果同月29日の助手會にて移轉と決定し5月下旬に至り
             房州の寮の木材全部は道具と共に4百円にて賣却し遂に房州と別れて伊豆宇佐美の古城趾に詠歸寮
             は新しき姿に建設せられたのである。」(「向陵誌」水泳部部史大正13年度)
             
            
語句 箇所 説明・解釈
都の南三十里 淡の水門に聖地あり 1番歌詞 「都の南三十里」は、東京から水泳場のあった館山間の距離。東京館山間のJR営業距離は、128.9km。「淡」は、安房。「水門」は、港。「淡の水門」は、古代には安房の国の主要港であった。
御鏡すめる御祠は    軍の神のますところ 1番歌詞 「御鏡すめる御祠」は、安房国総社鶴谷八幡宮のこと。「御鏡」は、八幡宮の御神体の鏡であるが、「御鏡すめる」は、鏡のように澄んだ海辺に鎮座するの意もあろう。八幡海岸は鏡浦と呼ばれた由縁である。「軍の神」は、清和源氏が篤く信仰して全国の武士から武運の神「弓矢八幡」として崇敬を集めた祭神「八幡大神」(誉田別命、すなわち応神天皇)。源頼朝が安房の国より再起した際に、この八幡宮に詣で武運長久を祈願したという。
鶴ヶ谷 2番歌詞 水泳場のあった八幡海岸の地名。古代は「淡の水門」として、中世以降は、国府にあった安房国総社が三芳村府中から現在地に移され、「八幡宮」で栄えた。八幡信仰が盛んになるにつれ総社は改変され八幡宮となった。
           

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