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長慶天皇陵を訪ねる

@長慶天皇とは? 長慶天皇陵の伝承地マップへ

 
 長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で南朝の第三代天皇だが、長らくその即位が

 疑問視されてきた幻の天皇であった。長慶天皇研究の最大の障害は関連資料の

 乏しさにあり、長慶天皇の在位・非在位をめぐっては江戸時代以来議論が分かれて

 いたが、大正時代に八代国治・武田祐吉による実証学的研究が決定的な在位説と

 して評価され、長慶天皇の即位は動かない事実とされるようになり、大正15年10月

 21日に詔書によって第九十八代天皇として正式に皇統に加えられた天皇である。



A長慶天皇陵の陵墓参考地


 長慶天皇の即位があったというのであれば、長慶天皇の陵墓がどこにあるのかと

 いうことが当然問題となる。しかしながら、長慶天皇の即位が認められた時点で、

 実は長慶天皇の陵墓と見込まれた陵墓参考地はすでに2ヶ所も存在していた。

 河根陵墓参考地(和歌山県)が明治21(1888)年2月24日に、相馬陵墓参考地

 (青森県)が同年の12月27日に指定されていたのである。ただし指定当時は

 和歌山県のものが「御陵墓伝説地」青森県のものが「御陵墓伝説参考地」であった。

 陵墓としての信憑性は「御陵墓伝説地」の方が高く位置付けられていた。である

 ならば、この2ヶ所のいずれかを、場合によっては信憑性がより高いと位置付け

 された和歌山県のものを長慶天皇陵として治定すればよさそうに思えるが、実際

 にはどうなったのか以下にまとめてみた。



B臨時陵墓調査委員会


 長慶天皇陵を決定するために設けられた委員会がある。臨時陵墓調査委員会である。

 宮内大臣による陵墓をめぐる諮問事項に答申することを職務とし、設置されたのは、

 昭和10(1935)年6月である。臨時陵墓調査委員会が初めて総会を開催したのは6月

 27日である。そこで当時の宮内大臣の挨拶から重要な部分を引用する。
「長慶天皇は

 大正十五年大統に列せられ給ふたので御座いますが、其の御陵は未だ御治定の運び

 に至りませぬのみならず、長慶天皇の御陵と伝へて居ります箇所でありまして今日迄

 宮内省の関知致して居ります所は殆ど七十箇所にも達せんとする有様で御座います。

 然るに未だ御陵の所在に付て確たる手懸も発見せられませぬ。誠に恐懼に堪へぬ

 次第で御座います。之は一日も速に御陵の御治定を仰ぎ得る様になりまして、長慶

 天皇の御皇霊を安んじ奉り宸衷に報ひ奉りますと共に、赤子の冀望を満たさねば

 ならぬので御座います。本委員会に御諮り致したいと存じまする事柄の大体を申上ぐ

 れば、長慶天皇の御陵の調査を主要なるものと致しまして、之と共に其の他未だ

 御治定になつて居りませぬ御陵墓の調査に関しまする事項、及其の他に或は現在

 御治定に相成つて居りまする御陵墓に対してもいろいろ疑義のあるものが御座います

 ので、其の究明に関する事柄或は陵墓参考地の調査整理に関する事項等で御座い

 ますが、何分にも事柄は沢山御座いますし史上に微証の乏しい難件で御座いまするが

 故に、之等の案件に就きましては特に各位の腹蔵なき御協議を願ひ御審議を煩したい

 と存じます。」臨時陵墓調査委員会にとって長慶天皇陵の決定がいかに重大な諮問

 事項であったかが明らかである。



C諮問第一号

 
 長慶天皇陵をめぐる事柄は次のように諮問された。

 「諮問第一号」
 一長慶天皇の陵は如何に調査考証すべきや


 以後、この難問をめぐって臨時陵墓調査委員会による審議がなされることになる。

 尚、「諮問第一号」の審議に当たったのは、臨時陵墓調査委員会の中から選ばれた

 4人の小委員会のメンバーである。小委員会では数度にわたって、全国各地の長慶

 天皇陵とされる場所について具体的に審議をしたのであるが、ここでは、その初回と

 考えられる審議の資料である昭和11年4月「極秘長慶天皇伝説箇所関係書類一覧一」

 をみてみることにする。この「関係書類一覧」には、計七十三箇所の長慶天皇陵の

 「伝説箇所」が記されている。都道府県別の内訳は北海道1ヶ所、青森県8ヶ所、

 岩手県3ヶ所、福島県1ヶ所、群馬県3ヶ所、東京都1ヶ所、富山県4ヶ所、山梨県4ヶ所、

 長野県1ヶ所、静岡県1ヶ所、愛知県10ヶ所、三重県3ヶ所、和歌山県5ヶ所、京都府

 8ヶ所、大阪府4ヶ所、奈良県1ヶ所、兵庫県2ヶ所、鳥取県1ヶ所、岡山県1ヶ所、広島県

 1ヶ所、徳島県1ヶ所、香川県1ヶ所、愛媛県6ヶ所、福岡県2ヶ所であり、全国各地に

 点在していることがわかる。この中には、先にみた
河根陵墓参考地相馬陵墓参考地

 も含まれている。

 小委員会はこの73ヶ所を「第一類」と「第二類」とに分類した。「第一類」の方が「第二類」

 よりも低く位置付けられ、「第一類」の中で(イ)「単なる想像に拠るもの」(ロ)「伝説に拠る

 もの」(ハ)「附会の説をなすもの」(ニ)「偽作偽物に拠るもの」に分けられ、「第二類」は

 「的確なる資料を欠くも尚捨て難きもの」とされた。ただし、同じ「伝説箇所」が「第一類」

 とされると同時に「第二類」ともされたり、同様に「第一類」とされた「伝説箇所」でも

 (イ)〜(ニ)の中の複数にまたがって分類されたりすることもあった。その上で、これらの

 中から現地視察を要する「要踏査地」が以下の通り、計12ヶ所選ばれた。


D長慶天皇陵の「要踏査地」

  
 @富山県西砺波郡西野尻村安居寺(第二類)
 「御過去帳(江戸時代の写)及び土地台帳に拠るものにして素朴捨て難きもの」

 A富山県西砺波郡赤丸村親王塚(第二類)
 「河内金剛寺禅恵と関係あるが如し、宗良親王の伝えもあり、序を以て踏査すべし」
 
 B和歌山県伊都郡小佐田村(第一類(ハ)「附会」)
 「附会の趣あれども土地柄を以て踏査すべし」

 C和歌山県伊都河根村大字丹生川陵墓参考地
 (河根陵墓参考地)(第一類(ニ)「偽物」)
 「証拠書類は信じ難きものなれども墳上の塔に元中の銘あり、土地柄踏査を要す」

 D和歌山県伊都郡高野山大字高野山奥院玉川(第一類(ハ)「附会」)
 「所謂玉川塔は川名等より附会せしものならんも土地柄踏査を要す」

 E和歌山県有田郡八幡村(第一類(ハ)「附会」)
 「花園古文書新葉集徒然草吉野古文書等に基く附会の説なれども土地柄踏査を要す」

 F京都市右京区嵯峨蓮華峯寺兆域内(第一類(イ)「想像」)(第二類)
 「大覚寺門室相続の際の加行作法に基く一の想定なれども土地柄踏査を要す」

 G京都市右京区嵯峨蓮華寺峯址(第一類(イ)「想像」)(第二類)
 「御曾祖父の関係を辿れる一の想定なれども土地柄踏査を要す」

 H京都市右京区嵯峨慶寿院址(第二類)
 「慶寿院の名称及び開山皇子海門の関係を辿りたる想定なれども土地柄踏査を要す」

 I大阪府南河内郡川上村勧心寺(第二類)
 「御髪塔の伝あり、踏査を要す」

 J大阪府南河内郡川上村川合寺(第一類(ニ)偽物)
 「菊花御紋章入石碑ありと云ひ、また長慶天皇御名入の石碑埋没の口碑ある由なれど
 共に真実と認め難きも序を以て踏査すべし」

 K奈良県吉野郡十津川村大字上野地(第一類(ロ)「伝説」)(第二類)
 「長慶天皇を御祭神とする国王神社あり、土地柄踏査を要す」

 このうちFGHは、この時点で「踏査済」であった。またCは、河根陵墓参考地であり、
 既に宮内省の管理下にあるにも関わらず、何と「第一類」の(ニ)、つまり「偽作偽物に
 拠るもの」に分類されている。それどころか相馬陵墓参考地に至っては、
河根陵墓
 参考地
と同様に「偽作偽物に拠るもの」に分類された上に「要踏査地」とされること
 すらもなかった。

 その後、小委員会は各地の長慶天皇陵とされる場所について審議を行った。それと
 ともに各地からの長慶天皇陵とされる場所についての上申はなおも続いたが、「考証上
 納得できるものが一つも無く、御陵考証上の手掛かりさえ発見することが至難と感ずる
 状態」であり、ついには百ヶ所を超した。


E長慶天皇陵の治定地

 
 結局、臨時陵墓調査委員会では5年7ヶ月を要して資料収集及び現地調査をする
 こと約400箇所、40回余りを数える度重なる審議にも関わらず、ついに
長慶天皇の
 遺骸の眠る場所を確定することができなかったのである。そこで、その最も有力な
 候補として嵯峨の慶寿院址を挙げ、「現下」において長慶天皇陵を決定しようとする
 のであれば、以下の通り、同地に定めるのが最も妥当であると答申したのである。

 一、長慶天皇の御墳塋(遺骸が納められた場所)は遂に之を発見すること能はさずこと

 二、崩御当時の御座所及崩御前御入洛のことを明記せるものなしと雖も、諸種の事情
    により、推論し、且つ長慶天皇の御別号慶寿院より推考して、嵯峨なる慶寿院址
    最も
有力なる御斂葬地(遺骸が納められた場所)と解すること

 三、将来も亦恐くは発見不能なるべきが故に「現下長慶天皇の御陵所を御治定相成る
    べきに於ては」慶寿院址に御陵を定めらるるを最も妥当なりと認むること

 つまり、確たる証拠があるわけではないが、長慶天皇の別称を「慶寿院」といい、この
 称が長慶天皇の皇子である海門和尚承朝が止住した天龍寺の塔頭慶寿院にちなむ
 ことと、長慶天皇も最終的には入洛したであろうことからみて、その居所が慶寿院で、
 没後はその供養所であったであろうと推論され、最終的に慶寿院の跡地が昭和19年
 2月11日に長慶天皇陵として正式に治定されたのである。



E私が訪ねた長慶天皇陵の伝説・伝承地


 私が訪ねた長慶天皇陵とされる伝説・伝承地を以下に紹介する。


 長慶天皇陵(嵯峨東陵)京都府京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町
 
 長慶天皇陵(旧河根陵墓参考地)和歌山県九度山町丹生川

 長慶天皇陵(旧相馬陵墓参考地)青森県弘前市紙漉沢字山越174

 長慶天皇陵(南帝陵・御首塚)
奈良県十津川村上野地
 
 長慶天皇陵(御陵山)
富山県南砺市安居4941
 
 長慶天皇陵富山県南砺市下梨2497
 
 長慶天皇陵富山県砺波市庄川町隠尾
 
 長慶天皇陵
岩手県二戸市浄法寺町御山久保33−1

 
 長慶天皇陵鳥取県鳥取市桜谷
 
 長慶天皇陵群馬県太田市新田上田中町154
 
 長慶天皇陵奈良県野迫川村弓手原
 

 長慶天皇陵(御陵石)徳島県板野町大寺亀山下66
 
 長慶天皇陵愛媛県東温市牛渕


佐竹

ちゃ

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