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墓 所 名 長慶天皇陵(嵯峨東陵)
お墓の様子
所 在 地 京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町

〜コ メ ン ト〜

長慶天皇陵。長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で南朝の第三代

天皇だが、長らくその即位が疑問視されてきた幻の天皇であった。

長慶天皇研究の最大の障害は関連資料の乏しさにあり、長慶天皇

の在位・非在位をめぐっては江戸時代以来議論が分かれていたが、

大正時代に八代国治・武田祐吉による実証学的研究が決定的な

在位説として評価され、長慶天皇の即位は動かない事実とされる

ようになり、大正15年10月21日に詔書によって長慶天皇は

第九十八代天皇として正式に皇統に加えられた。長慶天皇は

父である後村上天皇の没後に即位したと考えられているが、

後村上天皇の代では北朝との和議が何度も持ち上がったのに

対し、長慶天皇の代では一度もその形跡がないことから、長慶

天皇は徹底抗戦派だったのではないかと考えられている。

後村上天皇の代に北朝との和睦交渉に尽力した楠木正儀が

正平24(1369)年1月に北朝方に投降したのは、徹底抗戦派

だった長慶天皇との意見の相違が原因ではないかと思われる。

残存する長慶天皇の綸旨は文中元(1372)年以降に激減するが、

この年は先代以来九州を席捲していた九州南朝軍の拠点である

大宰府が、九州探題・今川了俊の軍略により陥落した年であり、

征西将軍宮・懐良親王が率いる征西府が長慶天皇の南朝の

屋台骨をいかに強力に支えていたかを伺うことができる。弘和2

(1382)年には楠木正儀が再び南朝方に帰順し、翌弘和3

(1383)年の末に長慶天皇は弟である後亀山天皇に譲位した

とされる。この長慶天皇の退位、後亀山天皇の即位という

一連の流れには南朝内部で徹底抗戦派と和平派の間での

対立があり、最終的には和平派が勝利を収めたとみることが

できる。ただし、退位後の元中元(1384)年〜元中3(1386)年

の時期の長慶上皇の院宣が二通残存しており、退位して

上皇となったあとも南朝内部に一定の勢力を維持し、院政を

開いていたことをうかがわせる。また、高野山丹生社に奉納

された現存する唯一の長慶上皇自筆の文書といわれている

元中2(1385)年9月10日付の長慶上皇願文の中に見える

「今度の雌雄」という言葉は後亀山天皇との対決をさすとか、

北朝=室町幕府との決戦をさすともいわれているが定かでは

ない。長慶上皇は、元中3(1386)年4月5日に大和の二見

越後守あてに院宣を出してのち、史料の上から姿を消す。

元中8(1391)年頃には後征西将軍宮・良成親王でさえ、

上皇の所在がわからなかった(五条家文書)という。翌元中9

(1392)年の南北朝合一の際にも長慶上皇が後亀山天皇に

同行して京都に入った形跡はない。長慶天皇の没年に

ついては「大乗院日記目録」応永元(1394)年8月1日条の

「大覚寺法皇崩ず、五十二、長慶院と号す」という記事に

よって応永元年8月没、享年52歳とされている。しかしながら、

長慶上皇の晩年の動向を伝える史料はなく、どこでどのように

没したのかは不明である。長慶天皇の陵墓として昭和19年に

この嵯峨東陵が治定されたが、確たる証拠があるわけでは

ない。長慶上皇の別称を「慶寿院」というが、この称が長慶

上皇の皇子である海門和尚承朝が止住した天龍寺の塔頭

慶寿院にちなむことと、長慶天皇も最終的には入洛したで

あろうことからみて、その居所が慶寿院で、没後はその

供養所であったろうことから、慶寿院の跡地である当所が

治定されたのである。


※長慶天皇陵の考察についてはこちらをご参照下さい。