第2章−サイレント黄金時代(28)
退屈な不死鳥
〜市川右太衛門と「旗本退屈男」〜



「旗本退屈男」こと早乙女主水之介を演じる市川右太衛門
(「図説 時代小説のヒーローたち」40ページ)
 

 
 僕は大学時代の1994年から百人一首競技かるたの選手をしている。(競技かるたについて詳しくは「日本競技かるた史(2)」を参照して欲しい。)僕は競技を通して、往年の名選手と交流する機会 も得た。競技かるたの最高位である永世名人位を得ているのは現役の西郷直樹(1978〜)名人までで計4名。この中でも初代永世名人・正木一郎と、2代目永世名人・松川英夫の2人は、永世名人としての美意識がまったくの正反対である点で興味深い。

 正木は、1955(昭和30)年に初代の名人位に就くと、そのまま10連覇。ついに負け知らずのまま1964(昭和39)年に引退した。一方の松川は、4期目の防衛に失敗するも、その2年後に名人位に返り咲 く。その後も計3度に渡って名人位への返り咲きを果たし、名人位9期の他、準名人位6期という記録を残している。
 共に、永世名人は後進の手本にならなければならない、との考えを持つ点では共通しているのだが、その実践の仕方は好対照である。正木は永世名人は永世名人らしいかるたを見せなければならないとの考えから、手本を示せないなら競技をするべきではないと、1970年代には事実上選手を引退している。一方の松川は、自らが率先して競技することで手本を示すべき だとして、60歳を過ぎてからも大会への出場を続けている。
 
 例がわかりにくくなって申し訳ないとは思うが、野球でもサッカーでも大相撲でも、どんなスポーツにおいても、絶頂期に惜しまれながら辞めていく選手がいれば、あくまで現役にこだわる選手がいる。例えば、前者であれば、プロ野球の新庄剛志(1972〜)やサッカーJリーグの中田英寿(1977〜)が思い浮かぶし、後者ではプロ野球の工藤公康(1963〜)や 山本昌(1965〜)、Jリーグの三浦知良(1967〜)、中山雅史(1967〜)、大相撲の大関・魁皇(1972〜)などが浮かんでくる。
            
 



「旗本退屈男/謎の大文字」(1959年東映)
市川右太衛門
(「図説 時代小説のヒーローたち」43ページ)
 

 
   
 映画界を例に取るならば、大河内伝次郎(1898〜1962)や片岡千恵蔵
(1903〜83)、嵐寛寿郎(1903〜80)らは、生涯現役を貫き、晩年は脇役になっても映画出演を続け、主役時代とは違った味のある演技を残している。
 一方、生涯“主役”にこだわり続け、主役を演じられなくなった時に映画界から引退したスターがいる。こちらの代表は市川右太衛門(1907〜99)や長谷川一夫(林長二郎/1908〜84)である。
 僕らファンとしては、例え脇役に回ったとしてもいつまでも見ていたいと思う一方で、歳を取った姿は見たくないという心理もあって、どちらがいいとは一概に言えない。

 長谷川一夫の場合は李香蘭(現・山口淑子/1920〜2014)と共演した「白蘭の歌」(1939年東宝)、「支那の夜」(1940年東宝)、「熱砂の誓ひ」(同)などの現代劇でもヒットを飛ばしている。しかし、市川右太衛門は、時代劇が撮影できなかった終戦直後の一時期を除き、生涯を時代劇一筋で通した。
 右太衛門の時代劇に対するこだわりは、次のようなエピソードからも明らかである。「日本映画俳優全史」(現代教養文庫)の著者によると、戦後になって右太衛門から新しい企画の相談を受けた際に、ジャン・ギャバン(1904〜76)を例にあげて、「ギャバンがギャングの親分でも、うらぶれたトラックの運ちゃんになっても、なおかつ充分生き生きと貫禄も充分なのだから、市井の一中年男の悲恋物でもやってみないか」と勧めたところ、右太衛門は「私はどうもこの面を白く塗って、派手な衣装をつけてずいーっと押し出さないとサマにならない大根でしてね」と、笑って取り合わなかったそうである
(*1)
 また、テレビドラマ「雪之丞変化」の企画を、脇役を想定してのオファーを持ちかけられた際に、「ああ、もう雪之丞は(年齢的に)無理です!」と答えたこともあったそうだ
(*2)。なお、「雪之丞変化」は1970年に丸山明宏(現・美輪明宏/1935〜)主演でドラマ化(フジテレビ)されているから、持ちかけられたのがこの時の企画だったとするならば、右太衛門は63歳であったことになる。
  
*1 猪俣克人、田山力哉「日本映画俳優全史/男優編」43ページ
   なお、「Wikipedia:市川右太衛門」(http://ja.wikipedia.org/wiki/市川右太衛門) によれば、相談を持ちかけられた相手は映画評論家の田山力哉(1930〜97)ということになっているが、共著者で映画監督・脚本家の猪俣勝人(1911〜79)のほうが可能性が高いように感じる。
*2 「Wikipedia:市川右太衛門」(http://ja.wikipedia.org/wiki/市川右太衛門

   
 
  ◆剣戟スター市川右太衛門の誕生  
 



主演第1作「黒髪地獄」(1925年マキノ)
(「旗本退屈男まかり通る」48ページ)
 

 
 
 市川右太衛門は、1907(明治40)年2月25日、大阪市西区で生まれた。本名、浅井善之助。遊芸好きだった両親によって、4歳の時から日本舞踊を習い始める。5歳の時に旅役者の一座の「菅原伝授手習鑑」に菅秀才と小太郎の2役で出演したのが舞台デビュー。翌年に二代目・市川右団次(1881〜1936)に入門し、市川右一と名乗った。
 1924(大正13)年、17歳の時に「勧進帳」で武蔵坊弁慶を演じるが、この舞台を見ていた牧野省三(1878〜1929)に見出され、マキノ・プロダクションに入社。阪東妻三郎プロダクションを興してマキノから独立した、阪東妻三郎(1901〜53)の後釜を期待されてのことだった。
 この時牧野から「市川右一じゃ重みがない。もっと強そうな名じゃないとあかん」と言われたため、右太衛門は「師匠の“市川”と、“右”の字を生かして下さい」
(*3)と頼んで、「市川右太衛門」の名前をつけてもらった。
 映画デビューは「黒髪地獄」(1925年マキノ)。この時右太衛門は弱冠18歳。これは、当時の剣戟スターの中では一番若いデビューである。これ以後、最後の映画出演になる「忍び大名」(1964年東映)まで、40年間で出演作品は319本
(*4)。この間一貫して主役を演じ続けたというから驚きである。
 マキノで右太衛門はまたたく間に月形龍之介(1902〜70)と並ぶマキノの看板スターとなり、最初の1年だけで19本の映画に出演している。デビュー作の「黒髪地獄」を始めとする13本の作品で監督を勤めたのが沼田紅緑(1891〜1927)であった。しかし1927(昭和2)年、その沼田紅緑が36歳の若さで急死。また、そのころ阪東妻三郎が独立プロで「雄呂血」(1925年阪妻プロ)等の野心的な作品を相次いで発表していたことも刺激となり、右太衛門はマキノを退社して独立プロである市川右太衛門プロ(通称・右太プロ)を起こす。この時右太衛門はわずかに20歳であった。
   
*3 市川右太衛門「退屈男まかり通る」40ページ
*4 「日本映画データベース:市川右太衛門」(http://www.jmdb.ne.jp/person/p0152640.htm

  
 
 



「一殺多生剣」(1929年右太プロ)
御家人とスリの一人2役
(「旗本退屈男まかり通る」64ページ)
 

 
 
 右太衛門のサイレント時代の作品はあまり残っていない。特に、マキノ時代の作品はまったく現存していないようで、僕も観たことがない。したがって、彼を知るためには、右太プロ時代の作品から観ていくことになる。
 僕が見た最も古い右太プロ作品は「安政異聞録/浄魂」(1927年右太プロ)。この作品は右太プロの2本目の作品にあたる。右太衛門が演じているのは父を殺され母と共に仇を探す関口春之丞。春之丞は女賊の一味に加わり、押し入った先で父の仇と遭遇。その仇を取ることが出来るが、追っ手によってその生命を散らすこととなる。
 本来10巻の作品だが現存部分は15分程度。細かいショットを連続して映し出すフラッシュバックによって苦悩する主人公を描くなど、斬新な描写があるだけに、完全版を観てみたいものである。

 また、「怒苦呂」(1927年右太プロ)が、DVD化されている。江戸幕府の迫害に立ち上がったキリスト教徒達の隊長・潮霊之助(市川右太衛門)は、肺患を患っているが、許婚と子供とを残して出陣する。だが数年後、帰らない彼が別の女と結婚するとの噂を聞いた許嫁は、その女の屋敷に火を放ち罪人として殺されてしまう。敗戦の将となった霊之助もまた、幕軍によって次第に追いつめられていく…。
 欠損があるため、中盤から後半にかけて話がつながらない部分があるのが残念。敗将の悲劇をこれまでか、と言った感じで描き、右太衛門演じる主人公は 「浄魂」同様に、死にゆかねばならない。
 これらの2作品を観る限りでは、右太衛門はただ強いだけのヒーローを演じることよりも、むしろ滅びの美学を体現したスターであったのだということができるようだ。後年の「旗本退屈男」シリーズの痛快さしか知らなかっただけに、正直驚くばかりであった。
       
 
  ◆生涯の当たり役「旗本退屈男」  
 



「旗本退屈男/謎の幽霊島」(1960年東映)
(「図説 時代小説のヒーローたち」44ページ)
 

 
 
 市川右太衛門と言えば、その生涯の当たり役として、「旗本退屈男」こと早乙女主水之介を挙げなくてはなるまい。
 嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」、大河内伝次郎の「丹下左膳」など、代名詞とも言えるほどの当たり役を持った俳優は多い。その中でも右太衛門と退屈男は、まさしく不可分な関係にあるといえるだろう。鞍馬天狗なら市川雷蔵(1931〜69)や東千代之介(1926〜2000)、丹下左膳では大友柳太朗(1912〜85)といった、他にも当たり役とした俳優がいる。しかしながら、2010年現在、早乙女主水之介を映画で演じた俳優は右太衛門以外に存在しない
(*5)

*5 ただしテレビでは中村竹弥(1918〜90)、高橋英樹(1944〜)、平幹二朗(1933〜)、北大路欣也(1943〜)が演じている。
       
 
 



原作小説「旗本退屈男」表紙
 


 
   
 「旗本退屈男」は佐々木味津三(1896〜1934)による大衆小説のシリーズである。1929年から1931年にかけて全部で11話の短編小説が発表された。
 時は元禄時代。主人公の「旗本退屈男」こと早乙女主水之介は、無役ながら1200石の直参旗本。34歳独身で、本所長割り下水の屋敷に、17歳になる妹・菊路や、その恋人・霧島京弥らと暮らしている。身長は5尺6寸(約170センチ)という堂々とした体格で、黒羽二重の着流しに、蠟色鞘(ろいろざや)の落とし差し、素足に雪駄という出で立ち。もちろん剣はめっぽう強く、「諸羽流正眼崩(もろはりゅうせいがんくずし) 」の達人である。トレードマークは額の三日月型の傷だが、これは3年前に長州七人組と称する剣客集団を浅草雷門前において斬り伏せた際に受けたもの。いわゆる「天下御免の向こう傷」である。
 普段は退屈をかこっているが、いざ事件となると、持ち前の行動力と剣術で解決していく。足の向くまま京や仙台にも出没する。
    
 
 



第1作目の「旗本退屈男」(1930年右太プロ)
(「旗本退屈男まかり通る」67ページ)
 

 
    
 たまたま本屋でこの本を手にとった右太衛門は「これだッ。私にぴったりの役だ」
(*6)と、さっそく原作の佐々木に連絡を取り映画化権を獲得するに至ったという。
 右太衛門によると、彼は早乙女主水介のキャラクターを自らの工夫で作り上げていった。例えば、原作にははっきりと描かれていない主水之介の髪型を浪人風の総髪(写真上)にしたのも彼のアイディアであった。その後、シリーズが進むにつれ、旗本奴のような派手な髷(写真下)に変わっていく
(*7)。原作の黒羽二重の着流しも、地味すぎるからと、だんだん派手になっていき、特にカラー作品となってからは、 場面ごとに衣装を替えることで話題になった。
 額の三日月傷も、舞台では右手を使うためについ左上から右下に流れがちのものを敢えて逆にしてみたそうである。その後だんだん大きくなり、鹿のなめし皮を使って傷を作るようになった
(*8)。1959年に中村竹弥(1918〜90)がテレビで主水之介を演じた際には、右太衛門はこの傷を贈っている(*9)

*6 市川右太衛門「旗本退屈男まかり通る」66〜68ページ
*7*8  同上 68ページ
*9 「図説 時代小説のヒーローたち」45ページ
 
 
 



「旗本退屈男/謎の南蛮太鼓」(1959年東映)
(「日本映画戦後黄金時代25/人気シリーズ」26ページ)
 

 
 
 右太衛門を一番困らせたのが主水之介の剣の奥義「諸羽流正眼崩し」であった。もちろん架空の流儀で、原作には「篠崎竹雲斎先生お直伝の兵法
(*10)」とあるだけで、何の説明も無い。そこで、刀を正面より左に寄せて垂直に立て、足も左に踏み出す“逆足”の構えに工夫したそうである(*11)
 このように「旗本退屈男」のスタイルは、右太衛門自身が生みだしたものであり、戦後に至るまで長い人気を得たのも彼の功績が大きいだろう。彼は後に「生みの親は佐々木味津三さんだが、育ての親は私です
(*12)」と語っている。

*10 佐々木味津三「旗本退屈男」40ページ
*11 市川右太衛門「旗本退屈男まかり通る」68〜69ページ
*12  同書 73ページ
  
 
 
 さて、最初の「旗本退屈男」が製作されたのは1930年。監督・脚本には古海卓二(1894〜1961)が当たった。この作品は、現在フィルムが部分的に現存している。もっとも、現存部分は前半の約15分のみ。主水之介が、婦女子誘拐事件の捜査のために、自分が死んだという噂を流す、というストーリーであるから、原作の第2話「続旗本退屈男」をもとにしているようだ。チャンバラシーンや、右太衛門が見得を切るところなどはさすがに面白いのだが、悪漢が地下室で吊り天井を落として、退屈男危うし! というところで唐突に映画が終わってしまうのが残念である。

 好評だったのか、その後も相次いで続編が作られた。右太プロ時代の作品だけでも、「京へ上がった退屈男」(1930年)、「仙台に現はれた退屈男」(1931年)、「江戸へ帰った退屈男」(同)、「爆走する退屈男」(1933年)、「中山道を行く退屈男 前・後篇」(1935年)と5作品が製作されている 。
 僕はこのうち「京へ上った退屈男」の断片(無声)を見ている。断片と言ってもわずか50秒で、ストーリーも何もあったものじゃないが、チャンバラシーンはスピーディーで迫力がある。ロケーションで、なおかつアップを多用しているのが特徴。ラストは右太衛門の高笑い。この高笑いは、後の「旗本退屈男」のトレードマークともいうべきものの一つとなっている。
     
 
  ◆迷走する「退屈男」  
 
 1930年代半ば、映画界はトーキー(発声映画)の時代に入る。この頃から、独立プロの運営は次第に立ちいかなくなってくる。右太プロも1936(昭和11)年暮れに解散を余儀なくされ た。右太プロの9年間で撮影された映画は約120本であった。
 右太プロを解散した右太衛門は新興キネマに入社。当初、松竹入りを勧められたが、その頃松竹では林長二郎(後の長谷川一夫)がトップスターとして活躍していた。右太衛門と長二郎は歌舞伎時代からの親友であったため、同じ会社で「ライバル視されるのは、いやだなあ」
(*13)との思いから、新興キネマ入社となったそうである。
 ここでも、右太衛門は旗本退屈男を演じることになる。新興キネマで製作されたのは「宝の山に入る退屈男」(1938年新興キネマ)。この作品は本来8巻のトーキー作品であったようだが、僕が見たものは10分弱の無声版。小気味良い剣戟の場面は現存しているものの、題名にあるように、宝の山に退屈男は入っていかない。
 この「宝の山に入る退屈男」を最後に、「旗本退屈男」はしばらくの間製作されなくなる。太平洋戦争前夜で、「非常時に、なにもせずにぶらぶらしている退屈男はけしからん。こういう非生産的な旗本が主人公の映画は、製作まかりならぬ」
(*14)という当局のお達しがあったそうである。

*13 市川右太衛門「旗本退屈男まかり通る」87ページ
*14  同上 100ページ

   
 
 



「元禄忠臣蔵」(1941〜42年興亜映画/松竹)
市川右太衛門と溝口健二監督
(「旗本退屈男まかり通る」101ページ)
 

 
   
 この時期の右太衛門の作品で僕が観ることができた作品に「錦絵江戸姿 /旗本と町奴」(1939年新興キネマ)がある。本来トーキー映画として製作されているが、現存のフィルムは音声の復元が不可能であったため、ビデオ版・DVD版は活動弁士による解説が入っている。

 また、忘れてはいけないのが真山青果(1878〜1948)原作、溝口健二(1898〜1956)監督の名作「元禄忠臣蔵」(1941〜42年興亜映画/松竹)。ここでの右太衛門は徳川綱豊(後の家宣)を演じている。

 その後1941年、新興キネマは日活、大都映画と合併し、大映となった。戦後は、GHQによって時代劇の取れない不遇な時代を経て、右太衛門は1949年に東横映画に入社。1951年東横が 太泉映画、東京映画と合併し東映となると、右太衛門は取締役に就任している。
 
 
  ◆両雄並び立つ  
 



将棋を指す市川右太衛門と片岡千恵蔵
(「旗本退屈男まかり通る」136ページ)
 

 
 
 東映では右太衛門同様に取締役であった片岡千恵蔵とのライバル関係がよく知られている。この2人は共に「御大」と呼ばれていたが、北大路に住んでいた右太衛門が「北大路の御大」、太秦の高台に住んでいた千恵蔵が「山の御大」と呼ばれていた。東映の大黒柱として両者の扱いは常に同じであり、2人が一般作品で共演するということはもちろん、同じ週に2人の作品が並ぶこともまずなかったという
(*15)
 2人が共演する場合でも、最大限の配慮がなされた。例えば、「赤穂浪士」(1956年東映)で右太衛門が大石内蔵助を演じた時は、千恵蔵は立花左近に扮している。そして「忠臣蔵」(1961年東映)では千恵蔵が内蔵助で、右太衛門は千坂兵部である。立花左近は、牧野省三によって「勧進帳」の富樫をヒントに生み出された人物(「大君降臨」参照)で、彼の名を語る大石が東下りの最中に本物の彼と出くわす場面が、見せ場になっている。また、千坂兵部は、上杉家の家老で、大石との知恵比べを見せる人物。つまり、一方が主役を演じれば、もう一方はそれと互角の勝負を演じる人物に扮するわけである。
 また、「日輪」(1953年東映)では、右太衛門のナコクの王子ナガラと、千恵蔵のヤマトの王ハンヤが王女ヒミコ(木暮実千代)をめぐって決闘を繰り広げる。何でも、この作品において、両者のカット数はもちろん、アップ数に至るまでまったく同じだったいうのである。
 その他、東映の俳優会館の部屋割も、右太衛門が左端で、千恵蔵が右端にあり、2人を仲裁できる立場として月形龍之介が真ん中に入っていたとのことである。もっとも、右太衛門自身によれば、両者の反目などというものは特に無く、結局のところマスコミや回りの人たちによって煽られた だけのことであったようだ。

*15 冨士田元彦「日本映画史の創出」205ページ
 
 
  ◆戦後の「退屈男」の開始  
 



「旗本退屈男/毒殺魔殿」(1950年東横映画)
宮城千賀子(左)と市川右太衛門
(「日本映画戦後黄金時代/人気シリーズ」28ページ)
 

 
 
 そんな中、いよいよ「旗本退屈男」も復活を遂げることになる。戦後最初に作られた「旗本退屈男」は東横時代の「旗本退屈男捕物控/七人の花嫁」(1950年東横映画)。これはシリーズ第10作目にあたる。以後、1963年まで毎年のように「退屈男」は製作され、計30本を生みだすことになる。
 原作者の佐々木味津三は1934年に38歳の若さで亡くなっており、小説版は第11作目までで終わっていた。そのため、すぐに原作小説は使い果たされてしまい、その後製作された作品のほとんどは主人公を借りただけの映画オリジナル作品である。
  
 戦後の「旗本退屈男」の中で、僕が観ることができた作品について紹介していくことにしたいが、数多いシリーズの中で現在ビデオ化されていてなおかつ観ることができる作品は案外少ない。もっとも、シリーズも数を重ねていくうちに、パターン化されてきているため、必ずしもすべてを観ている必要はないようだ。
  
 
 



「旗本退屈男/江戸城罷り通る」(1952年松竹)
(「日本映画戦後黄金時代/人気シリーズ」29ページ)
 

 
 
 シリーズのパターンと言うのは、退屈男こと早乙女主水之介が、江戸幕府の屋台骨を揺るがす難事件に巻き込まれるというもの。例えば、「謎の決闘状」(1952年松竹)では、徳川将軍の御落胤を名乗る浄海坊(高田浩吉)の野望が描かれる。徳川吉宗(1684〜1751)の御落胤を名乗った天一坊事件(1728〜29年)をモデルとしているのだろう。「謎の決闘状」(1955年東映) では、将軍綱吉の御側女に選ばれた女性が次々と急死する事件が発生する。
 主水之介の屋敷には「ケンカ買ひます サイナン買ひます 退屈男」の表札がかかげられている(「謎の決闘状」)ように、彼は自ら進んで事件に首を突っ込んでいく。もっとも、「江戸城罷り通る」では、次々と持ち込まれる事件を「小さい、銭形平次に任せい…おしゃべり右門に任せい、もっともっと大きいやつ(事件)を」といって断っている。ちなみにおしゃべり右門は、「旗本退屈男」と同じ佐々木味津三原作の「むっつり右門捕物帳」のもじり。こちらは嵐寛寿郎主演でシリーズ化されている。
 旅に出た主水之介が旅先で事件に巻き込まれるというパターンも多い。「謎の幽霊船」(1956年東映)では主水之介が琉球王国の王室乗っ取りの陰謀を阻止しようとうする。また、300本出演記念「旗本退屈男」(1958年東映)では、陸奥で伊達家のお家騒動に巻き込まれる。
 「謎の決闘状」、「謎の幽霊船」というように題名の多くには「謎の〜」という文字が入っている。とはいうものの、タイトル通りのミステリーではなく、どちらかと言えば、主水之介が剣術と行動力で事件を解決していく、むしろハードボイルド的な作品だと言える。
 主水之介は積極的に難事件に関わっていく一方、偶然にも事件に巻き込まれることも多い。彼には犯罪の匂いがわかるらしく、死体を乗せた早駕籠が彼の前を通りかかれば、彼は必ずそれを呼びとめるのである。こうした御都合主義的な部分は多々あるのだが、単純明快・荒唐無稽だと思って楽しむのが一番だろう。
  
 
  ◆「退屈男」の魅力  
 
 「旗本退屈男」シリーズの魅力としては、まず何よりも右太衛門の剣戟にある。早乙女主水之介の剣の流儀は「諸羽流正眼崩し」。4歳から日本舞踊を学んでいたこともあり、右太衛門の華麗な剣さばきは舞を見ているかのようである。主水之介は、身によっぽどの危険が迫らなければ、刀すら抜かない。扇子や当て身で戦うことも多い。作家・橋本治(1948〜2019)は 「(退屈男における)立ち回りとは、決闘シーンとして解釈されるよりも、ミュージカル映画におけるダンス・ナンバーであると理解したほうが正解なのです
(*16)」と語る。
 ダンス・ナンバーだと考えれば、リアリティではなく様式が重視されていることにも納得がいく。多勢の敵に取り囲まれながらも、主水之介は見得を切る。「人呼んで退屈男。天下御免の向こう傷。それではしかし初対面のお手前方には通りが悪かろう、よって名乗る。姓名は早乙女主水之介…」。思わず、「待ってました!」と声をかけたくなる。
 
*16 橋本治「チャンバラ時代劇講座」(浦谷年良編「ちゃんばらグラフィティー」所収)266ページ
 
 
 



「旗本退屈男/謎の怪人屋敷」(1955年東映)
市川右太衛門と高峰三枝子
(「日本映画戦後黄金時代/人気シリーズ」31ページ)
 

 
 
 しかしながら「旗本退屈男」の最大の魅力はやはり、主水之介の衣装であろう。シリーズがカラー化されたのは20作目の「謎の幽霊船」(1956年東映)からだが、それと同時に衣装の派手さも増していった。主水之介はシーンごとに違った衣装で登場するようになる。たとえ、旅先であってもそれは変わらない、どうやら彼は旅先にも大量の衣装を持ち込んでいるようなのだ。小川順子(1970〜)の調査によると、戦後の作品のうちの15本の作品で1本あたり平均9.8回、衣装を着替えているらしい。最多は300本記念作品「旗本退屈男」(1958年東宝)での計13回。次いで「謎の大文字」(1959年東映)の12回である
(*17)。こうしたことから、「早乙女主水之介が、洞窟の前で切り結びながら中に入っていく。出て来た時は別の衣装を着ていた(*18)」という伝説ができたほど 。
 東横映画から東映の初期時代は、会社のほうで衣装代をまかないきれなかったため、右太衛門は「日東一商事」という会社を作り、衣装の製造と保管を任せていた
(*19)。また、右太衛門は映画の中で一度来た衣装は二度と使わなかった(*20)そうである。

*17 小川順子「『殺陣』という文化/チャンバラ時代劇映画を探る」195〜196ページ
*18 市川右太衛門「旗本退屈男まかり通る」156〜157ページ
*19  同書 156ページ
*20  同書 157ページ
 
 
 



「旗本退屈男/謎の紅蓮塔」(1957年東映)
市川右太衛門と美空ひばり
(「日本映画戦後黄金時代25/人気シリーズ」33ページ)
 


 
 
 さらに、ふんだんに音楽や踊りが挿入されている。
 例えば、昭和を代表する歌手の美空ひばり(1937〜89)は「謎の決闘状」(1955年東映)、「謎の紅蓮塔」(1957年東映)、「謎の龍神岬」(1963年東映)の3作品に出演している。それらの作品では当然彼女の歌が挿入される。ちなみに、「謎の紅蓮塔」でのひばりは、歌い始めるも、主水之助に「やめぬか。」と止められてしまう。
 また、「謎の幽霊島」(1960年東映)では、岡田ゆり子が「長崎夜曲」を異国情緒たっぷりに歌い上げ、「謎の七色御殿」(1961年東映)には演歌歌手の村田英雄(1929〜2002)、こまどり姉妹(1938〜)が出演し、歌を披露している。
 「謎の決闘状」(1955年東映)のクライマックスの宴の場面で歌っているのは、当時17歳の島倉千代子(1938〜2013)。1955年に映画「この世の花」(1955年松竹)の同名主題歌で歌手デビューした直後であった。
 いや、歌に限らない。踊りや芝居、大道芸などが毎回のように登場する。琉球王国が舞台の「謎の幽霊船」(1956年東映)では琉球舞踊が、長崎・出島が舞台の「謎の幽霊島」(1960年東映)では水芸や南蛮奇術といった具合に、作品のテーマに合わせた芸が見られるのも楽しみ。

 剣戟に歌にファッションショー。まさに、「旗本退屈男」はレビュー映画なのである。 それはまた、大衆演芸を彷彿させるが、「旗本退屈男」シリーズは、その単純明快さもあって、大衆演劇の要素を強く持ち合わせているともいえる。 
 
 
  ◆退屈男の仲間たち  
 



「旗本退屈男/どくろ屋敷」(1954年東映)
(左より)宮城千賀子、高千穂ひづる、市川右太衛門
(「日本映画戦後黄金時代25/人気シリーズ」30ページ)
 

 
 
 主人公・早乙女主水之介に続く重要な登場人物をあげると、まずは主水之介の妹・菊路をあげることができるだろう。
 原作の設定では17歳ということになっているから、34歳の主水之介とは実に17歳も年の離れた兄妹ということになる。もっと、シリーズは足掛け33年に渡ったわけだから、きちんと歳をとっていれば最後は50歳になっている(笑)もちろん、主水之介と同様、菊路も歳は取らない。
 最初の「旗本退屈男」(1930年右太プロ)で菊路を演じたのは小夜文子(五十鈴桂子)であった。その後も、「江戸城罷り通る」では岸恵子(1932〜)、「謎の紅蓮塔」では田代百合子(1931〜)、「旗本退屈男」では桜町弘子(1937〜)といった女優が菊路に扮している。 「謎の蛇姫屋敷」(1957年東映)では、後に参議院議員・科学技術庁長官になる当時15歳の山東昭子(1942〜)が菊路役で映画デビューしている。

 また、菊路の恋人の若侍・霧島京弥も重要な人物である。楊心流・小太刀の使い手で、主水之介の手足となって活躍する。
 京弥は最初の「旗本退屈男」(1930年右太プロ)から登場しているが、ここでは捜査のために女装するという設定であった。そのため、宝塚出身の女優・初代大江美智子(1910〜39)が京弥を演じることになった。彼女は、この作品の出演がきっかけとなり、後に女剣戟に転向している。
  
 
 



初代大江美智子
(「旗本退屈男まかり通る」71ページ)
 

 
 
  戦後の作品では、「謎の決闘状」で宮城千賀子(1922〜96)が京弥を演じ、やはり女装して敵のアジトに潜入する。また、「謎の蛇姫館」で京弥を演じているのは右太衛門の次男・北大路欣也(1943〜)であるが、欣也は当時14歳。さすがに京弥には若すぎる気がする。

 また、退屈男に協力するのは主に出入りの町人たち。どちらかというとコメディリリーフ的な役割で、堺駿二(1913〜68)、杉狂児(1903〜75)、横山エンタツ(1896〜1971)、キドシン(木戸新太郎/1916〜75)といったコメディアンが扮している。下手くそな易者・一徹に扮する渡辺篤(1898〜1977)も同様の役どころ。堺は「江戸城罷り通る」 や「謎の蛇姫屋敷」では爺や喜内に扮し、印象を残している。
 彼らは、主に主水之介の密偵として活躍するが、剣の上ではまったく戦力にはなれない。 霧島京弥の他に戦力になるのは、300本記念「旗本退屈男」に登場する揚羽の蝶次(中村錦之助)や、「謎の決闘状」の半次(大川橋蔵)といった元チンピラぐらい。
      
 
 



「旗本退屈男/謎の幽霊船」(1956年東映)
(後列左より)杉狂児、市川右太衛門、横山エンタツ
(「日本映画戦後黄金時代7/東映時代劇」85ページ)
 

 
 
 その他、悪役としては、薄田研二(1989〜1972)、進藤英太郎(1899〜1977)、山形勲(1915〜96)あたりが印象的である。悪玉の大ボス・キャラクターとしては、将軍徳川綱吉(1646〜1709)の懐刀と言われた柳沢吉保(1658〜1714)が定番である。しかしなぜか、実在の人物にも関わらず、「謎の決闘状」と「謎の蛇姫屋敷」では主水之助に斬られてしまっている。

 なお右太衛門、千恵蔵に継ぐ東映・第3の剣戟スターだった月形龍之介も善玉、悪玉問わずしばしば重要な役どころで姿を見せている。
  
 
  ◆300本出演記念作品  
 



300本出演記念作品「旗本退屈男」(1958年東映)
市川右太衛門
(「日本映画戦後黄金時代24/戦後剣戟スターの殺陣」55ページ)
 

 
 
 1925年に映画デビューした右太衛門だったが、 約30年の映画人生で、その出演作は300本に達しようとしていた。彼の300本出演記念作品として製作されたのが「旗本退屈男」(1958年東映)である。もっとも「日本映画データベース」によれば、その「旗本退屈男」は実際には彼の278本目の作品にあたる(300本目は「素浪人百万石」(1960年東映))。右太衛門によると、1957年の夏頃プロデューサーのマキノ光雄(1909〜57)から「来年の夏ごろには、御大の映画出演三百本目になります。ご承知ですやろな。
(*21)」と知らされたそうである。当時(1954〜58年)の右太衛門は年7〜12本ととにかく映画に出まくっていたころでもあり、あくまで「三百本出演記念」として製作されたということなのであろう。
 
 かくして製作された「旗本退屈男」は、当時の東映のスターを総動員したオールスター・キャスト映画であった。右太衛門のライバル・片岡千恵蔵を始め、大河内伝次郎、月形龍之介、大友柳太朗、東千代之介、中村錦之助(後の萬屋錦之介/1932〜97)、大川橋蔵(1929〜84)といったそうそうたる顔触れが並んでいる。前年の1956年にデビューしたばかりの里見浩太郎(1936〜)、右太衛門の次男・北大路欣也も顔を見せている。

 題材は伊達家のお家騒動をテーマとしている。伊達家のお家騒動と言えば、「赤西蠣太」(1936年千恵プロ/「ユーモアとナンセンス」参照)の題材にもなった、いわゆる伊達騒動(寛文事件)が思い浮かぶが、この「旗本退屈男」が伊達事件をモチーフとしているのは間違いない。例えば後継ぎの鶴千代(植木千恵)は、実際の亀千代(のちの伊達綱村)を思わせるし、その乳母の名も政岡ならぬ浅岡(花柳小菊)である。
 もっとも、実際の伊達騒動が起きたのは1671(寛文11)年のことなので、主水之介の活躍する元禄(1688〜1703)とは時代が合わない。片岡千恵蔵演じる伊達藩主の名は伊達忠宗であるが、実際の忠宗は伊達騒動より前の1658年に亡くなっている。もっとも、こうした歴史的な矛盾を「旗本退屈男」の中であげつらったところでまったく意味はない。

*21 市川右太衛門「旗本退屈男まかり通る」152〜153ページ
 

 
 



(「旗本退屈男まかり通る」156ページ)
 

 
 
 「旗本退屈男」シリーズの特徴が、単純明快な点であることは先にも述べた。実際、大半のシリーズはその通りだと言って差し支えない。しかし、この300本出演記念「旗本退屈男」に関して言うと、そうと も言えない。例えば、片岡千恵蔵演じる藩主・忠宗。酒色におぼれる馬鹿殿様として登場する。ライバル右太衛門の主水之介の格好よさに比べて何たる体たらく…と思ったら、もちろんそこには裏がある。また、オールスターキャストということで、それぞれのスターに剣戟の見せ場があるということも特徴である。スター達は単な顔見せには留まらないのだ。

 ストーリーが複雑になっているのは、300本出演記念作品だからということもあるだろう。しかし、この作品を境に、シリーズのストーリーはより一層複雑かつ派手になっていく傾向にある。
 僕はこうした要因を、テレビにあったのではないかと考えた。日本のテレビ放送が始まったのは1953(昭和28)年のこと。その年にはNHKが早くも時代劇の放送を始めている。最初の時代劇シリーズは岡本綺堂(1872〜1939)原作の「半七捕物帳」であった。300本出演記念「旗本退屈男」の公開された1958(昭和33)年には次々とテレビ時代劇が放送されており、翌1959年には中村竹弥主演の「旗本退屈男」(KRテレビ)も放送されている。松竹、東宝、大映、新東宝、東映の5社によって締結されたいわゆる五社協定(後に日活も加わり六社協定)は、テレビへの劇映画提供を打ち切り、専属俳優のテレビドラマ出演も制限するものであったが、これは新しいメディアであるテレビに対する映画界の恐れの表れでもあったのだろう。テレビに対抗するためには、映画ならではの派手さを打ち出すしかない。それが、「旗本退屈男」シリーズにも現れていたとは言えないだろうか。
  
 
  ◆右太衛門の遺したもの  
 
 右太衛門が最後に主水之介を演じたのは、1963年の「謎の龍神岬」(東映)。右太衛門の最後の出演作はその翌年の「忍び大名」(1964年東映)であった。この時右太衛門は56歳。彼が取締を務める東映は、時代劇から任侠映画に路線を変更。右太衛門の映画出演も途絶えるようになる。1966年に「取締役を若手に譲り、相談役になっていただきたい」と打診された右太衛門は、「時の流れですな。」「(これ以上ここにいれば)フリーで活躍している息子の(北大路)欣也を東映に縛り付ける事になる」
(*22)と考え、東映を退社することとなった。

*22 市川右太衛門「旗本退屈男まかり通る」165〜166ページ
  
 
 


  
2代目「旗本退屈男」
北大路欣也
(「図説 時代小説のヒーローたち」41ページ)
 

 
 
 「旗本退屈男」の与えた影響とはどのようなものであっただろうか。
 最大のものは、「右太衛門自慢の派手な衣装がカラーの画面に映えて、コスチューム・プレイとしても話題をよび、その後の時代劇のショー化現象に拍車をかけるきっかけともなった
(*23)」ということであろう。
 1960年代には「用心棒」(1961年東宝/黒澤プロ)や「椿三十郎」(1962年東宝/黒澤プロ)といった黒澤明(1910〜98)によるリアルな時代劇が、相次いでヒット。東映の旧態依然とした明朗時代劇は興行成績が伸び悩み、苦肉の策として、「十三人の刺客」(1963年東映)、「柳生武芸帳」シリーズ(1961〜63年東映)といった“集団時代劇”の製作を試みるようになる。 しかし、それらの作品もやがて任侠映画路線に取って代わられた。映画界を去った右太衛門、現代劇のわき役に活路を見出した千恵蔵。2人の御大のその後は好対照だった。
 しかし、チャンバラ時代劇の流れは、その舞台をテレビに移して現在にまで綿々と受け継がれてきている。1971年には五社協定も事実上崩壊。東映も積極的にテレビ製作に乗り出すようになる。 

*23 冨士田元彦「日本映画史の創出」193ページ
  
 
 



中村竹弥(左)の「旗本退屈男」(1959年KRテレビ)
(「実録テレビ時代劇」57ページ)
 

 
 
 映画界を去った右太衛門は、その後活躍の場を舞台に移した。舞台でも当然、「旗本退屈男」を演じ続けた。やがてテレビにも進出。すでに、テレビ草創期の1959年に中村竹弥が早乙女主水之介を演じているが、それに遅れること14年。「旗本退屈男」(1973〜74年NETテレビ)での右太衛門は66歳になっていた。

 79歳になった1986年、歌舞伎座の「俳優祭」では、同じ「ウタエモン」としてかねてから親交のあった6代目・中村歌右衛門(1917〜2001)と 「花競夢助六」で競演している。この時、右太衛門が退屈男を演じ、歌右衛門は「女退屈男」に扮している。いったい“女”退屈“男”とはどのようなキャラクターだったのだろうか? そもそも女なのか、男なのか? まったく想像もつかない。
 同じ1986年には、息子・北大路欣也とも舞台の「旗本退屈男」で共演している。右太衛門の壮年の主水之介に対し、欣也は若き日の主水之介に扮した。
  
 
 



「旗本退屈男」親子競演
北大路欣也(左)と市川右太衛門
(「旗本退屈男まかり通る」より)
 

 
 
 このように、右太衛門は晩年まで「旗本退屈男」にこだわり続けた。85歳だった1992年には「百歳まで退屈男をやります」
(*24)と語っている。江戸時代は今より平均寿命は短かったとはいうものの、107歳まで生きたと言われる天海(1536?〜1643)や、130歳で死んだという渡辺幸庵(1582〜1711)といった例も稀にはあるようなので、主水之介が100歳まで生きていたとしても絶対にあり得ないことではないだろう。しかし、残念ながら右太衛門自身は、1999(平成11)年に92歳でこの世を去った。

*24 市川右太衛門「旗本退屈男まかり通る」198ページ
  
 
 

元祖・市川右太衛門の「旗本退屈男」
(「旗本退屈男まかる通る」69ページ)
 


2代目・北大路欣也の「旗本退屈男」
(「旗本退屈男まかり通る」73ページ)
 
 
 右太衛門の遺した最大の遺産は、やはり北大路欣也(1943〜)というもう一人の時代劇スターを生み出したことではないだろうか。
 右太衛門は1929年12月25日に津田スエノと結婚。2男1女を設けている。北大路欣也は右太衛門の次男で本名・浅井将勝。右太衛門は子供たちをもともと俳優にするつもりは無かったが、「父子鷹」(1956年東映)で勝小吉を演じる際、その息子の麟太郎(後の海舟)を演じる適当な子役がいなかったことから、欣也に白羽の矢が立った。欣也はこの時13歳。芸名の由来は「北大路に住む」右太衛門が「欽(よろこぶ)也(なり)」
(*25)という洒落で あったそうだ。

 北大路欣也のその後の活躍は言うまでもないだろう。時代劇はもちろん、現代劇も活躍している。若き日には、「謎の蛇姫屋敷」で霧島京弥を演じるなど、父主演の「旗本退屈男」シリーズにもしばしば助演していた。そして1988年、45歳 となった欣也は、テレビドラマ「ご存知!旗本退屈男」(1988〜94年テレビ朝日)で父の当たり役・早乙女主水之介を演じることになる。この作品は単発ドラマとして計9本が製作された。この作品では堺正章(1946〜)が爺や喜内を演じている。堺は、「江戸城罷り通る」などで喜内を演じていた堺駿二の息子ということで、こちらも親子で同じ役柄を演じたことになる。喜内が、主水之介をいさめるために切腹をするふりをするが、誰にも止めてもらえないという「謎の蛇姫屋敷」で見られたギャグも再現されている(第2話)。
 また、2001年にも欣也は「旗本退屈男」(2001年フジテレビ)に主演している。

 生前の右太衛門はこう語っていた。
 
 
     早乙女主水之介の華やかな衣装には、長い歴史の積み重ねと、スタッフの愛情がある。だれでもできる役ではありません。かりに新しい人がテレビなり舞台なりで、退屈男を演じようとする。私の衣装に匹敵する衣装を作ろうとすれば、それだけで製作費をオーバーするでしょう。「退屈男を継ぐのは欣也だけ」というのは、そのことも意味しているんですよ。(*26)    
 
 欣也の主水之介は、なるほど父子ということだけあって、顔つきやしゃべり方は右太衛門にそっくりである。あのトレードマークの高笑いまでもがそっくりで、きっと往年の右太衛門ファンは涙したにちがいない。
 ただ剣戟に関しては、父子でもだいぶ違う印象を受ける。右太衛門の殺陣は、日舞を基本としているだけに、舞を思わせるたおやかさがある。それに引き換え、欣也のは荒っぽく、男らしい殺陣である。どちらが好みかは人によって意見が分かれるところであろう…。
 いずれにせよ、父右太衛門の願い通り、すでに欣也は父の当たり役・早乙女主水之介を自分のものとしていると言えるのではないだろうか。

*25 市川右太衛門「旗本退屈男まかり通る」174ページ
*26   同書 158ページ
   
 
 

(2010年11月22日)

 
   
(参考資料)
猪俣勝人、田山力哉「日本映画俳優全史/男優編」1977年11月 現代教養文庫
戦後日本映画研究会編「日本映画戦後黄金時代7/東映時代劇」1978年1月 日本ブックライブラリー
戦後日本映画研究会編「日本映画戦後黄金時代24/戦後剣戟スターの殺陣」1978年1月 日本ブックライブラリー
戦後日本映画研究会編「日本映画戦後黄金時代25/人気シリーズ」1978年1月 日本ブックライブラリー
マキノ雅裕監修、浦谷年良編著「ちゃんばらグラフィティー」1981年4月 講談社
冨士谷元彦「日本映画史の創出」1990年3月 五柳書院
市川右太衛門「旗本退屈男まかり通る」1992年9月 東京新聞出版局
能村庸一「実録テレビ時代劇史/ちゃんばらクロニクル1953−1998」1999年1月 東京新聞出版局
縄田一男、永田哲朗「図説 時代小説のヒーローたち」2000年10月 河出書房新社
岩本憲児編「時代劇伝説/チャンバラ映画の輝き」2005年10月 森話社
小川順子「『殺陣』という文化/チャンバラ時代劇映画を探る」2007年4月 世界思想社
春日太一「時代劇は死なず!/京都太秦の『職人』たち」2008年12月 集英社新書

佐々木味津三「旗本退屈男」1975年1月 廣済堂出版
 
 
 


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