第2章−サイレント黄金時代(22) | ||
大君降臨 〜日本映画の父・牧野省三〜 |
||
|
||
映画は誰のものか。 それは監督のもの…おそらくほとんどの人はそう答えるだろう。確かにそのように考えがちである。しかし、映画の最終決定権を握っているのは監督ではなくプロデューサーであり、アメリカのアカデミー賞において最も権威のある作品賞の受賞対象者もやはりプロデューサーなのだ。例えば、「怒りの葡萄」(1940年米)や「荒野の決闘」(1946年米)はジョン・フォード(1894〜1973)監督の名作として知られている。しかし、フォードは撮影に際してプロデューサーのダリル・F・ザナック(1902〜79)と衝突を繰り返していたという。結局公開された作品も、ザナックによって大幅に再編集、追加撮影されたものであった。「怒りの葡萄」に至ってはフォードの意図と異なったラストシーンまで付け加えられている。こうなると、あの名作の最大の功労者はいったい誰だったのだろうかと、わからなくなってくる。映画は誰のものか、という質問は、簡単そうで実はかなり難しいのだ。 初期の映画ではスタッフやキャストの名前を示すタイトル字幕は付けられていなかった。だから、当時の観客は、その映画の作り手が誰かということはまったく知ることもなく、映画とは製作会社のものであると認識していたようである。同じ映画会社には同じ俳優が出演することが多いから、名前は知らなくとも馴染みの俳優ができる。そうなると、映画は俳優のものと思っていたかもしれない。実際、映画を俳優(スター)のものとする考え方は、今日でもよく見られる。スクリーンに映らないスタッフよりは、映るキャストに注目が集るのはごく自然なことだ。 初期の映画において、今日記録に名前が残っている製作者とは大抵カメラマンである。フランスのリュミエール社のアレクサンドル・プロミオ(1868〜1926)やガブリエル・ベール(1871〜1936)、アメリカのエジソン社のウィリアム・ディクソン(1860〜1937)らがそう。監督の名前が表れてくるのは、19世紀もほぼ終わりになってからのことである。フランスのジョルジュ・メリエス(1861〜1938)やフェルディナン・ゼッカ(1864〜1947/ともに「20世紀の魔術師」参照)、アメリカのエドウィン・S・ポーター(1870〜1941/「アメリカ人の郷愁」参照)、イギリスのブライトン派の作家たち(「イギリスの輝いてた日々」参照)が出現してきてからのことである。彼らの個性的な作品によって、一般の観客も監督というものに注目し始めたのだろう。 1898(明治31)年から劇映画の撮影が始まった日本の場合も、やはり初期には監督という役割は見られなかった。「化け地蔵」「死人の蘇生」(1898年)の浅野四郎 (1877〜1955)や、「紅葉狩」(1899年)の柴田常吉(1850〜1929)といったカメラマンの名前だけが記録に残っている。こうした状況は20世紀に入ってしばらくたってからも続いていたようである。当時の撮影所において絶対的な力を持っていたのはカメラマンであった。また、当時さかんに映画に題材を提供していた歌舞伎や新派劇が、伝統的に演出家を置かない演劇であったこともその理由の一つとして考えられる。 しかし、1907(明治40)年、横田商会の横田永之助(1872〜1943)によって映画製作を委託された牧野省三(1878〜1929)は、原作の選定から演出、大道具、小道具、ロケーション等に至るまで映画製作において適時適切な指導を行った。この牧野の登場をもってして日本映画に監督が誕生したと言われている。 |
||
|
||
牧野省三は1878(明治11)年9月15日京都の西陣千本生まれ。義太夫芸妓・牧野弥奈の私生児として誕生している。父の藤野斎は京都御所守護のために駐在していた農民兵であった。母・弥奈は大野屋という寄席と置屋(*1)を経営し、そのかたわら義太夫の出稽古をしながら省三ら3人の子供を育てた。牧野は後に映画製作にあたって脚本を用いず、ストーリーや台詞を空で語ったというが、こうした素地はすべて母から譲られたものであったに違いない。その後1901(明治34)年、牧野は父親の協力で芝居小屋・千本座を買い取ると、そこで芝居の企画から出演交渉、構成、演出、振付までを一手に引き受け才覚を発揮する。横田栄之助はたびたび活動写真の上映を千本座に委託していたことから、映画製作を開始するに当って牧野に白羽の矢を立てたのであった。 牧野が横田商会で最初に撮影した映画は「本能寺合戦」(1907年)。東山の真如堂の境内で撮影され、千本座一座が出演した。嵐璃徳(1875〜1944頃)演じる森蘭丸が寺の山門で奮戦するシーンが中心となる作品であったようだ。織田信長を中村福之助、安田作兵衛を尾上栄之助という配役であった。1909(明治42)年に牧野は旅回りの役者であった尾上松之助(1875〜1926)を見出し、彼の主演で次々とヒット作を生み出してい く。二人の最初のコンビ作は「碁盤忠信」(1909年横田商会)。源義経の家臣・佐藤忠信が、碁盤を振り回して敵をやっつけるというストーリーであったらしい。二人のコンビ作は1921(大正10)年までに実に200本に及んだ。 *1 芸妓の所属するプロダクションのようなもの。 |
||
初期の日本映画は今日ほとんど残っていない。牧野省三の場合は生涯に約400本の映画を監督したといわれている(*2)が、今日観ることのできる作品は極めて少ない。サイレントフィルムを収集・保存しているマツダ映画社のリスト(*3)にも、「恩讐の彼方に」(製作年不詳)、「豪傑児雷也」(1921年日活)、「大楠公夫人」(1923年マキノ)、「国定忠次」(1924年マキノ)、「百万両秘聞」(1927年マキノ)、「雷電」(1928年マキノ)、「実録忠臣蔵」(同)の7作品が見えるのみ。他にも「尾上松之助の忠臣蔵」(1910〜1917年横田商会)のように国立美術館フィルムセンター(NFC)その他が所蔵する作品もあるのだろうが、いずれにせよ寂しい限りである。 現存最古の牧野の映画は「尾上松之助の忠臣蔵」であるが、これは現存最古の長編映画でもある。現存するこの作品は約80分。1910(明治43)年から1917(大正6)年までに製作された「忠臣蔵」映画を戦後になって再編集し、活弁と浪曲を加えたものである。大部分は1910年に製作されたものと推定されている。約40の場面から構成されるが、各場面はたいていの場合1ショットで撮影され、極めて演劇的な印象を受ける。登場するエピソードは浅野内匠頭の刃傷から両国の引き揚げまで、歌舞伎・講談を取り混ぜたお馴染みのもの。その中には立花左近のエピソードも登場する。立花左近については知らない人もいるかもしれないので、簡単に概要を説明すると…。京都から江戸へ向かう大石内蔵助は、吉良方の目をくらますため、立花左近を名乗っていたが、途中の三島の宿で本物の立花左近と鉢合わせになってしまう。相手が大石であると見抜いた立花は、自分のほうこそ偽者であると打ち明けて去っていくのであった。偽者の立花(大石)が、白紙の文書を本物の立花に見せるくだりはまさしく「勧進帳」の富樫と弁慶を思わせる。このエピソード、今日でも多くの忠臣蔵映画やドラマに登場するが、実は考案したのは牧野であったという。伝記(*4)では、牧野が立花左近のエピソードを思いついたのは、松之助に代わる第2のスターとして市川姉蔵(1878〜1921)を売り出そうとした際に、両雄並び立たなくなってしまうという苦心からであったという。牧野が姉蔵を抜擢したのは1920(大正9)年のことで、松之助と姉蔵が競演した作品というのは1921年の「実録忠臣蔵」のことだと思われる。ところが、1910〜1917年に製作されたと推測される「尾上松之助の忠臣蔵」にすでに立花左近のエピソードがあり、嵐橘楽(1874〜1922)が左近を演じているから、実際の事情はそれとは少々異なっていたようだ。さらに、このエピソードが牧野の創作であったというのも疑わしい。講談師・伊東燕尾(1829〜1900)の演目に、同様のエピソードがあったとされる(*5)。そこでの大石は「近衛家の雑掌・垣見左内」と偽称している。もっとも、史実では大石は「垣見五郎兵衛」を名乗り、「左内」を名乗ったのは息子の主税のほうであったのだが。ちなみに「立花左近」として有名な実在の人物は秀吉に従った戦国大名・立花左近将監宗茂(1569〜1642)で、当然赤穂浪士の事件とは無関係である。あるいは、彼の名前を「忠臣蔵」に持って来たのが牧野だったのだろうか。牧野の息子で後の大監督 ・マキノ雅弘(1908〜1993)によれば、牧野は狂言を読むのが大好きで、暇さえあれば京都はもちろん大阪・神戸にまで足をのばしては古本屋を回ったり、狂言作者を訪ねたりして台本を手に入れていたという(*6)から、あるいは古書などで何かしらのヒントを得たのかもしれない。 *2 「監督別日本映画製作本数一覧」(1965年10月「キネマ旬報 400」) なお、「日本映画データベース」(http://www.jmdb.ne.jp/person/p0351340.htm)には323タイトルが載せられている。 *3 「クラシック映画ニュース bT42」11ページ *4 マキノ雅弘「カツドウ屋一代」91〜93ページ *5 関根黙庵/山本進校注「講談落語今昔譚」268〜269ページ *6 マキノ雅弘「カツドウ屋一代」47ページ |
||
|
||
「尾上松之助の忠臣蔵」が欠落した部分を他の忠臣蔵映画で補っているということは先に述べた通り。当時映画のプリントは1本切りで焼き増しするということがなかったから、濫作して数を間に合わせたとのことである。だから、松之助の主演する忠臣蔵映画と言うのも数限りなく存在したに違いない。牧野と松之助の映画は全盛期には3日に1本のペースで製作された。ちょっとした衣装の着替えや帯の結び替えで、一度に3、4種類の映画を作ったこともあったそうである(*7)。当時の観客はとにかく松之助が画面に出て来さえすれば、大喜びだった。その証拠に「尾上松之助の忠臣蔵」でも松之助は内蔵助の他、浅野内匠頭と清水一角(一学)をも演じ、画面に出ずっぱりである。 *7 牧野省三談(田中純一郎「日本映画発達史T」176ページ) |
||
|
||
牧野の映画作りの信条とは「一筋・二ヌケ・三動作」であった。最初の「筋」はもちろんストーリーのこと。牧野は後にマキノ映画を設立してからも、脚本家を重要視している。寿々喜多呂九平(すすきた・ろくへい/1899〜1966)の書いたシナリオ「影法師捕物帳」(1926年映画化)に大金1500円の脚本料を払ったと言われているが、当時ベテラン監督の二川文太郎(1899〜1966)の月給でさえ250円であった。もう少し後になって「浪人街」(1928〜29年)を製作した頃の監督・マキノ雅弘の給料が100円、カメラマン・三木稔(のちの滋人/1902〜)の給料が300円であったのに対し、脚本家の山上伊太郎(1903〜45)は1000円を貰っていた(*8)。当時の1500円というのは、現在の貨幣に換算すると約178万円(*9)。だが、当時の貨幣価値を考えるとちょっとあり得ない気がする。f 次の「ヌケ」というのは、鮮明な画面のことである。当時のカメラは感度が悪く、照明技術も発達していなかったから、これは今以上に重視された。そして最後の「動作」は俳優の演技である。彼は尾上松之助を発掘して、世に出したが、その後も次々とスターを誕生させた。マキノ出身のスターの多くがアクション・スターで、殺陣や立ち回りをこなしているは、牧野が俳優の動きにこだわったからであろう。 牧野は「筋」「ヌケ」「動作」のどれか一つが欠けても映画としては不良品であるとみなしたそうである。彼自身は演出については特に何も語っていないが、実際には様々な映像技術を生み出している。僕が観た二番目に古い牧野の作品は、やはり松之助が主演する「豪傑児雷也」(1921年日活)である。この作品では、一つの場面の中でカメラが切り替わりったり、時にクローズ・アップが見られるものの、原則的にカメラは固定されたままである。さらに、主人公児雷也を演じる松之助は、剣戟の最中にカメラを向いて見得を切る。また、綱手姫を女形の片岡長正(1887〜)が演じるなど、古い日本映画の色彩が濃い。しかし、様々な特殊効果が用いられている点で注目される。 牧野が特殊効果を思いついたのは、偶然からであった。牧野がカメラを固定させたままフィルム交換をしている際に、一人の俳優が小用を足すためにその場を去ってしまった。後になって撮影したフィルムを映したところ、一人の俳優が忽然と消えてしまったという(*10)。これは、有名なエピソードではあるが、こうしたトリック映画は牧野が映画を製作し始めるはるか以前からフランスのメリエスによって撮られている。牧野がメリエスを知らなかったとは思えないから、このエピソードはちょっと伝説の匂いがする。ただ、彼がトリック映画を撮ろうと思い立つきっかけになった事件だったのかもしれない。 「豪傑児雷也」で松之助演じる児雷也は、印を結んで姿を消したり、空を飛んだりと、様々な忍術を披露する。クライマックスで児雷也が大蝦蟇に変身すると、彼の宿敵・大蛇丸(市川寿美之丞)は大蛇に変身。そこに綱手姫(片岡長正)がナメクジに変身して児雷也に加勢するので、三すくみとなる。なんとものどかで楽しい。現存するこの作品はわずか15分だから、おそらく欠落部分があるのだろう。 この映画は1921(大正10)年に撮影されたとされている。ところが、当時の牧野はすでに松之助と決別していた後であった。1919年に牧野は自身のプロダクション「教育映画ミカド商会」を設立。それは翌年に日活に吸収されることになるが、その際に日活の京都撮影所は2部制となる。1部で松之助の映画が、2部では中村扇太郎(1877〜1922)の主演作を撮ることとなり、牧野は2部の監督となっている。その後すぐに扇太郎が亡くなったので、牧野は市川姉蔵を起用。そういう時期にこの「豪傑児雷也」が撮られているから、実は牧野の監督作ではないのではないのではという疑念も出されている(*11)。もっとも、同じ1921年に松之助と姉蔵が競演する「実録忠臣蔵」が牧野の監督で撮られていることもあるので、ひょっとしたら一時的に牧野=松之助のコンビが復活していたのかもしれない。 *8 滝沢一「牧野省三評伝〜その人と業蹟」(「回想・マキノ映画」所収)54ページ *9 「農民センター:米価の変遷」(http://www2.ginzado.ne.jp/jyun/kosihikari/beika.htm)より計算 米1表(60kg)あたりの値段が1926(昭和元)年で12円70銭。2000(平成14)年で15,104円。 *10 マキノ雅弘「映画渡世・天の巻」36ページ *11 平井輝章「実録日本映画の誕生」35〜36ページ |
||
|
||
松之助主演の忍術映画が人気を博すようになると、子供たちの間に「忍術ごっこ」が大流行。高いところから飛び降りてケガをするような事故が起きた。またある時、大勢の子供たちに取り囲まれて、「牧野省三は大嘘つきや、指で印を結んでも消えんやないか。」とののしられ、石を投げられたこともあった(*12)。そうしたことから、牧野は罪滅ぼしのために教育映画を撮りたいという気持ちを強く持つようになったという。そして、1921(大正10)年に日活と決別すると、「牧野教育映画製作所」を設立し、京都の等持院の境内に撮影所を建設し教育映画の製作に乗り出した。牧野教育映画の第1作目は「孝子養老」(1921年)。これは、「古今著聞集」(1254年成立)などに見られる、貧しい親孝行の息子が山奥で酒が湧き出る滝を発見したという伝説をテーマとした作品であったと思われる。他にも、牧野教育映画の作品のタイトルには「大楠木公夫人」(1921年)、「蟻ときりぎりす」(1922年)、「山内一豊の妻」(同)などといった教訓的、美談的なタイトルの作品が多く見られる。僕は1923年に牧野教育映画と伊予津島仏教映画宣伝部との合作で製作された「稲田の草庵」を観る機会があった。この作品は、「浄土真宗立教開宗700年」記念として製作された作品で、親鸞を主人公としている。信仰心の厚い妻が、夫から浮気の疑いをかけられ斬られるが、仏の加護によって助かったり。信者を奪われ親鸞を殺そうと付けねらう山伏の弁円が、奇跡によって未遂に終わり、仏門に下るといったエピソードが映像化されている。浄土真宗のPR映画のようにも思えるのだが、弁円に追われた親鸞が姿を消しては現れるトリックを利用したりと、映画的な面白さに満ちている。このころ牧野は子供にも読めるようにと、名前を「牧野省三」から「マキノ省三」に改めているが、プロダクション名と紛らわしいので、ここでは以降も「牧野」と記すことにしたい。 しかしながら、教育映画の製作ばかりでは、経営は行き詰まってきてしまう。そこで牧野は1923(大正12)年に「マキノ映画株式会社」を発足すると再び興行映画の製作に乗り出した。その後のマキノの流れを簡単に記すと…1923(大正12)年に「マキノ映画製作所」を設立し、マキノは自主配給を開始。翌1924(大正13)年には東亜キネマと合併するが翌年に再び分裂。御室に撮影所を建設して「マキノ・プロダクション」を設立する。その間の1924年12月には直木三十五(1891〜1934)率いる聯合映画芸術協会と手を結び、澤田正二郎(1892〜1929)の新国劇と提携して、「国定忠次」(1924年東亜)や「月形半平太」(1925年聯合映画芸術協会)などを製作している。共に原作は行友李風(ゆきとも・りふう/1877〜1959)。タイトルロールを澤田が演じている。両作とも断片的ではあるが現存しており、僕も見る機会に恵まれた。牧野自身が監督した「国定忠次」は「赤城山」と「山形屋」の2場面のみ11分、衣笠貞之助(1896〜1982)監督の「月形半平太」は15分のダイジェスト版ではあるが、希代の名優の演技を今日に伝えてくれる。この「月形半平太」を、僕は昨年(2004年)暮れの「澤登翠の活弁リサイタル」で観たのだが、その際に弁士の澤登翠が披露したのは何と英語による活弁! 「月様、雨が…。」「春雨じゃ、濡れて行こう。」というあの名セリフも当然英語になっていた。それはともかくとして、いろいろと紆余曲折はあったものの、1929(昭和4)年に51歳で亡くなるまで、牧野は映画界に大きな存在として君臨し続けたのである。 牧野の偉大な功績の一つに、若い才能を次々と発掘していったということがあげられる。監督では二川文太郎や衣笠貞之助、内田吐夢(1898〜1970)。脚本家では寿々喜多呂九平、山上伊太郎。俳優では尾上松之助を筆頭に、阪東妻三郎(1901〜53)、月形龍之助(1902〜70)、高木新平(1902〜67)、市川右太衛門(1907〜99)、嵐寛寿郎(1903〜80)、片岡千恵蔵(1903〜83)らが牧野の下から巣立っている。こうしてみると、サイレント期のチャンバラスターのほとんどはマキノ出身ということになってしまう。女優では鈴木澄子(1904〜85)らがいる。こうした人たちはいずれも牧野の下を離れてしまうのだが、彼らの活躍によって日本映画最初の黄金時代が築かれていった。もちろん、この他に牧野の長男・マキノ雅弘を忘れてはいけない。彼が戦前から戦後にかけて日本を代表する映画監督になったのことは言うまでもないことである。さらに次男のマキノ光男(1909〜57)がプロデューサーに、牧野がお茶屋の女将に産ませた庶子の松田定次(1906〜2003)が監督になっている。また、長女のマキノ輝子(智子/1907〜84)は女優となったが、後に澤村国太郎(1905〜74)と結婚して、長門裕之(1934〜2011)と津川雅彦(1940〜2018)の兄弟を設けている。そういえば、沖縄アクターズスクールを設立したマキノ正幸(1941〜)は雅弘の子で省三の孫に当るが、安室奈美恵(1977〜)やSPEED(Hiro、今井絵理子、上原多香子、新垣仁絵)、DA PUMP(ISSA、KEN、YUKINARI、SHINBOU)らを育てたのは周知の通り。才能を育てるという点で祖父の血を引いているのだろう。 *12 マキノ雅弘「映画渡世・天の巻」36〜37ページ |
||
牧野が1921(大正10)年に牧野教育映画を興してから、マキノ・プロダクションとして1931(昭和6)年に倒産するまでの約10年間に製作された映画は約900本を数える。だが、現在もフィルムが残っているのはそのうちの約3%にも満たないという(*13)。 マキノで牧野自身が監督した作品で僕が観た最も古いものは1927年の「百万両秘聞 前中後篇」である。三上於菟吉(1891〜1944)の原作を山上伊太郎が脚色し、主人公の若侍・春水主税に嵐長三郎、後のアラカンこと嵐寛寿郎が扮する。また、妖艶な魅力で主税を誘惑する未亡人に鈴木澄子。由井正雪が残した百万両の隠し場所をめぐる争奪戦をミステリータッチで描き、殺陣もテンポが良く素直に楽しめる。ただ残念なのは、ラスト付近に大幅な欠落部分があるようで、主人公が追っ手に取り囲まれて絶体絶命というところで唐突に映画が終わってしまう。とは言うものの、牧野円熟期の乗りに乗った時期の作品が今日こうして残っていること自体が極めて貴重である。 アラカンと言えばすぐに「鞍馬天狗」が思い出される。戦後に至るまで計40本作られたこのシリーズは、「男はつらいよ」シリーズ(1969〜95年松竹)の48作に次ぐ長寿シリーズ記録である。その「鞍馬天狗」の第1作目にあたる「鞍馬天狗・角兵衛獅子」(1927年マキノ/監督・曽根千晴)は彼のデビュー作だが、やはりマキノで製作されている。 *13 冨田美香「マキノ映画の魅力」(「彷書月刊/[特集]マキノ撮影所」所収)8ページ |
||
|
||
牧野は自身が監督するばかりでなく、若い才能にも次々と映画を作らせた。僕が観ることのできたそうしたマキノ映画は、いずれもスケールの大きな娯楽大作である。こうした作品が今日の日本で作られなくなって久しい。古き良き映画の黄金時代がどのようなものであったのか、これらの作品を観るとほんのわずかだがわかるような気がする。 「江戸怪賊傳 影法師」(1925年東亜マキノ)は二川文太郎監督、寿々喜多呂九平脚本、阪東妻三郎主演。鮮やかな手口で江戸の街に暗躍する義賊・影法師(阪東妻三郎)の活躍を描く痛快作である。本来は前後編に分けて公開されたほどの長編作品だが、欠落部分が多く現存部分は合わせて1時間弱。ストーリーがわかりにくくなっている部分があり、現在観ることのできるものはその部分を字幕でつないでいるように思われる。同じスタッフで牧野の娘婿でもある澤村國太郎が影法師を演じた「続・影法師」(1929年マキノ)という作品もあるが、こちらはアクションシーンのみが5分現存しているだけ。二川・寿々喜多・阪妻の代表作には、阪東妻三郎プロダクションとマキノが提携した「雄呂血」(1925年)があるが、この作品については阪東妻三郎の項で詳しく紹介することにしたい。 土師清二(1893〜1977)の大衆小説を映画化した「砂絵呪縛(すなえしばり)」(1927年)は二川と金森萬象(かなもり・ばんしょう/1893〜1982)の共同監督、山上伊太郎の脚本である。日活、松竹=阪東妻三郎プロ、東亜との4社競作となった。時は元禄、将軍徳川綱吉の後継を巡って暗躍する秘密結社・柳影組と天目党。それぞれのバックには柳沢吉保と水戸光圀がついている。柳沢の命で悪銭の鋳造を手がける黒阿弥(尾上松録)を誘拐した天目党だが、柳影組も報復として天目党の首領・間部詮房(児島武彦)の娘・露路(河上君栄)を誘拐する。副首領の勝浦孫之丞(月形龍之介)に率いられた天目党と、副首領鳥羽勘蔵(市川小文治)に率いられた柳影組が暗闘を繰り広げる。柳影組首領築山左右蔵の愛妾お酉(鈴木澄子)は、敵方にも関わらず勝浦に思いを寄せるが、勝浦の恋人と知らず誘拐した露路に何かと世話を焼く。また、お酉の肌に魅せられた砂絵師藤兵衛(荒木忍)が不気味に姿を表す…。複雑なストーリーが絡み合い、いったいどうなるかと期待が高まるが、残念なことに第一部と第二部のみで、完結篇が現存していない。幸いにも日活版の「砂絵呪縛」(1927年)三部作が全篇現存しているので、それによって結末を知ることができる。日活版は河部五郎(1888〜1976)が勝浦を、酒井米子(1898〜1958)がお酉を演じる。やや淡々としたストーリー展開の印象を受けるマキノ版に比べ、日活版はお酉と砂絵師藤兵衛の出会い、大奥に潜入した勝浦の妹・千浪の活躍など、女のドラマに重点が置かれている。とりわけ、勝浦への愛と露路への嫉妬に揺れるお酉の心情を描きあげた完結篇に、単なるチャンバラ映画に終わらない味わいがある。マキノ版が完全でないだけに、単純な比較は難しいところなのだが…。 マキノ映画といえば時代劇ばかりのイメージがあるが、必ずしもそうではない。ミカド商会時代の1919(大正8)年に牧野は最初の現代劇として子供向け教育映画「都に憧れて」を製作している。本格的に現代劇を撮るようになったのはマキノ・プロダクションを設立してからのことで、計179作品が製作されている(*14)。現存作品は例によって少ないが、そのうち曽根純三(のちの曽根千晴/1898〜)が監督した「黒白双紙」(1926年)を観ることができた。隣同士の炭屋の主人(清川清)と西洋洗濯屋の主人(藤井民治)は犬猿の仲。ところが、炭屋の息子(杉狂児)と洗濯屋の娘(金谷たね子)が恋に落ちてしまう。しかたなく仲直りしようとした父親たちであったが、二人の祝言の晩に大喧嘩が始まってしまう…。とにかく肩が凝らずに気軽に楽しめる。 *14 田島良一「マキノの現代映画」(「彷書月刊/[特集]マキノ撮影所」所収)21ページ |
||
|
||
映画雑誌「キネマ旬報」のベスト10が、日本映画を表彰の対象とするようになったのは1926(大正15/昭和元)年のことであったが、その年にマキノ作品からは「転落」(井上金太郎監督)が8位に入賞している。翌1927年は「悪魔の星の下に」(二川文太郎監督)が8位、「道中秘記」(井上金太郎監督)が10位。1928年は「浪人街 第一話〜美しき獲物〜」(マキノ正博監督)がみごと1位を獲得したのを筆頭に、「崇禅寺馬場」(同)が4位、「蹴合鶏」(同)が7位。1929年は「首の座」(同)で2年連続1位。「浪人街 第三話〜憑かれた人々〜」(同)が3位、「パイプの三吉」(瀧澤英輔監督)が7位、「無理矢理三千石」(松田定次監督)が8位という結果であった。このように1920年代末期の映画界をマキノが背負っていたと言っても決して言い過ぎではない。しかし、今題名を挙げた10作品のうちで、現在もフィルムが残っているのは1928年の「浪人街 第一話」と「崇禅寺馬場」のみ。それも、断片である。僕は「崇禅寺馬場」の現存フィルムを観る機会があったが、残っているのは本来の長さの約3割にあたる20分のみで、オープニングもエンディングも欠けているためストーリーを理解することが難しかった。それでも、主人公の生田傳八郎を演じる南光明(1895〜1960)の熱演や、松浦築枝(1907〜99)の桶を用いての立ち回りなどの見せ場がある。松浦はあまりの激しさに撮影中に倒れてしまい、撮影は一時中断されてしまったそうだ。 牧野の息子マキノ雅弘(当時は正博)は、その「崇禅寺馬場」を含め、半数の5作品を監督している。1928年当時弱冠20歳! 彼はそもそも子役として父の映画で俳優デビュー。18歳の時に「青い眼の人形」(1926年マキノ)で監督デビューを果たしている。その早熟さは父省三の血をまさしく受け継いだ蛙の子。その彼のサイレント時代の代表作が「浪人街 三部作」(1928〜29年)というわけなのだが、ベストテン入賞の第一話は12分しか残っておらず、第三話にいたっては完全にフィルムが失われている。一番評価の低かった第二話の「浮世風呂」のみが50分とはいえまとまった形で現存していると言うのが皮肉なところ。もちろん、評価が低いというのは他の2話に比べてというだけで、それでもキネ旬ベストテンでは1929年度12位を獲得している。その第二話は、用心棒を務める浪人・不破傳五左衛門(南光明)を中心とした長屋に住む様々な人間模様が描かれているはずだが、現存フィルムはほとんど人物紹介だけで終わってしまっている。なお、退廃的な浪人の姿を通して赤裸々な人間味を描くというテーマ以外に三部作に共通点は無いそうである。 3作の中では第一話「美しき獲物」が最高傑作であるとの評価が高い。こちらは母衣 (ほろ)権兵衛(南光明)、荒牧源内(谷崎十郎)、赤牛弥衛門(根岸東一郎)の3人の浪人を中心とした群像劇である。直前にスターがマキノから大量に脱退するという事件(後述)があったため、「浪人街」はスター不在の群像劇として製作されなくてはならなかったのである。だが、残念なことに第一話は12分しか現存していない。現存部分はクライマックスの旗本衆と浪人達の大立ち回りの場面で、映画評論家の佐藤忠男(1930〜2022)によると「断片だけでも無頼の浪人たちの真情のほとばしりが鮮やかに描き込まれていて、壮烈な悲劇的感情に満ちた素晴らしいものだ(*15)」そうだが、残念なことに僕は観ていない。 マキノ雅弘はこの「美しき獲物」が特にお気に入りであったようで、その後何度となく再映画化している。最初の再映画化は1951年の「酔いどれ八萬騎」(東映)であるが、僕は観ていない。1957年には作家の村上元三(1910〜2006)が脚本に参加して、「浪人街」(京都映画)として再映画化されている。こちらの作品は幸いもビデオ化されているので観ることができた。母衣を近衛十四郎(1916〜77)、荒牧を藤田進(1912〜90)が演じている。最も印象的なのは赤牛役の河津清三郎(1908〜83)。彼はオリジナルの「浪人街」で若い浪人・土井孫三郎を演じていたが、その際に目の当たりにした根岸東一郎(1899〜1949頃)の演技を下敷きにして赤牛を演じた(*16)そうである。彼は「酔いどれ八萬騎」でもやはり赤牛を演じていたそうだ。1957年版「浪人街」は1928年版に比べるてどうしても低く評価されがちであるが、旧作をもはや観ることのできない僕らにしてみれば十分に魅力的な作品と思える。3人の浪人たちをはじめ、魅力的なキャストが顔を揃える。孫三郎(北上弥太郎)の妹おぶんを演じた山鳩くるみ(1935〜)の清新さ、荒巻の女房である女スリお新の水原真知子(1926〜)のけな気さ、荒巻のなじみの遊女小芳の高峰三枝子(1918〜90)の気品のある色気と、女優陣も好演しており、単なる男のドラマではない。クライマックスは荒巻が数十人の旗本衆を相手に一人で戦う立ち回り。そこへ母衣がかけつけ、旗本の一人と意気投合して仲間に加わっていた赤牛も、いたたまれず浪人側に加わる。「裏切ったな」と言われた赤牛が「表返ったんだ」と切り返すのが面白い。一人で無数の敵に立ち向かうのは、現在の時代劇でもよく見られるシーンだが、よく考えると相当無理がある。だいたい、刀は簡単に刃こぼれするから、そう何人も斬れるものではないらしい。荒巻は乱戦の中で何度も敵と刀を合わせているから、当然刀はぼろぼろになっていたはずである。ようするにデフォルメ化されたものと考えるべきなのだろう。映画の最初のほうで荒巻と赤牛が見せる立ち回りに至っては、刀をあわすたびに火花までもが飛び散る。 その後1990年には「日本映画の父牧野省三 追悼六十周年記念作品」としてマキノ雅弘の総監修、黒木和雄(1930〜2006)の監督でカラー作品の「浪人街」(山田洋行ライトヴィジョン/松竹/日本テレビ放送網)が製作された。原田芳雄(1940〜2011)演じる荒巻を中心に、赤牛に勝新太郎(1931〜97)、母衣に石橋蓮司(1941〜)、孫左衛門に田中邦衛(1932〜2021)、お新に樋口可南子(1958〜)という癖のある俳優陣を揃えたこの作品は、リアリティに徹したという点で、1957年版とはまったく違った印象である。やはりクライマックスは17分に及ぶ旗本衆対浪人の大立ち回りで、宮川一夫(1908〜99)が特別協力としてカメラを担当した。単身敵に乗り込んだ荒巻は、数本の刀を次々と取り替えながら敵を切りまくる。なるほど、これなら刃こぼれの心配はあるまい。母衣もやはり一人切るたびに刀を布で拭う。当然、返り血を浴びて彼の白装束は朱に染まっている。勝新太郎の赤牛が立ち回りに参加しないので物足りないし、孫左衛門役の田中邦衛(当時58歳)が歳を食いすぎていて、おぶん役の杉田かおる(1964〜/当時26歳)と兄妹に全然見えないという不満もあるのだが、骨太で見ごたえのある正統派時代劇として高く評価していいだろう。 *15 佐藤忠男「日本映画300」29ページ *16 大井廣介「ちゃんばら藝術史」300〜301ページ |
||
|
||
日本人が最も好きな映画の題材は、間違いなく「忠臣蔵」である。1907(明治40)年に吉沢商店が11世片岡仁左衛門(1857〜1934)の舞台を撮影した「忠臣蔵五段目」を皮切りに、最近の「四十七人の刺客」(1994年東宝)、「忠臣蔵外伝 四谷怪談」(1994年松竹)に至るまで、「忠臣蔵」映画は数限りなく作られている。正確な本数はわからないが、僕が確認しただけでも約70作品。義士の一人を取り上げたものや、外伝まで含めれば、200作品を悠に超える。映画の「忠臣蔵」は最近ではほとんど作られていないが、テレビでは松平健(1953〜)が大石を演じた「忠臣蔵」(2004年テレビ朝日)や、上川隆也(1965〜)が寺坂吉右衛門を演じた「最後の忠臣蔵」(2004年NHK)など、今でも毎年のように新作が作られている。さらに、西ドイツで製作された「ベルリン忠臣蔵」(1985年)や、やくざの世界に置き換えられた「長脇差忠臣蔵」(1962年大映)、「ジャズ忠臣蔵」(1937年日活)、「学生忠臣蔵」(1938年大都)、「サラリーマン忠臣蔵」(1961年東宝)、「ギャング忠臣蔵」(1963年東映)、「わんわん忠臣蔵」(1963年東映)、「勢ぞろい!おかま忠臣蔵」(1991年ハゴロモ)、「OL忠臣蔵」(1997年松竹)、「世にも奇妙な物語 映画特別編:携帯忠臣蔵」(2000年フジテレビジョン/東宝/ポニーキャニオン/IMAGICA/共同テレビジョン/日活)といった翻案物やパロディ、オマージュなどを加えるといったい何本の「忠臣蔵」が存在するのだろうか。 牧野自身も「尾上松之助の忠臣蔵」(1910〜1917年横田商会)を始め、何度となく映画化してきている。1928(昭和3)年、牧野は50歳になった記念として、一世一代の忠臣蔵映画を製作しようと思い立った。それが「実録忠臣蔵」(1928年マキノ)である。牧野は当初大石内蔵助役を歌舞伎界から起用し、歌舞伎の台本による「十二刻忠臣蔵」として映画化しようとしていた。だが、関西歌舞伎の2世実川延若(1877〜1951)を皮切りに、7世松本幸四郎(1870〜1949)、3世阪東寿三郎(1886〜1954)と交渉は相次いで不調に終わる。結局、新派の指導者・伊井蓉峰(1871〜1932)ということで落ち着いた。歌舞伎界からの大石の起用を断念した時、牧野は歌舞伎でなく講談調の「実録忠臣蔵」にプランを切り替えることになった。ところが、研究熱心な伊井は、初めて大石を演じるに当って、先に大石役を断った松本幸四郎を訪ねると、その指導を仰いだのである。その結果、伊井の大石は牧野の思惑に反し、何から何まで歌舞伎そのままの演技となり、彼を大いに落胆させた。相手が天下の伊井蓉峰であるだけに、牧野としても何度もやり直しをさせるわけにもいかず、彼にとっては不本意なばかりの作品になってしまったのである。極めつけに、伊井の大石は立花左近(勝見庸太郎)と出会うシーンで六方を踏んだという(*17)。六方とは、歌舞伎で役者が花道を通る際に片足立ちになって跳ねながら進む一つの型であるが、いくら「忠臣蔵」とはいえ、映画で六方は踏まない。おそらく、伊井は松本幸四郎からこの型を学んだのであろう。 *17 マキノ雅弘「映画渡世・天の巻」111ページ |
||
|
||
さらに、撮影が終了し編集作業も大詰めになった1928年3月6日。編集作業中「実録忠臣蔵」のフィルムが発火。ネガの大半を焼失してしまう。「日本映画の父(マキノ省三傳)」によれば、牧野が編集作業中に投げ出したフィルムの切れ端がそばにあった火鉢の中に入って引火した(*18)とのことであるが、これはどうも疑わしい。当時のフィルムは可燃性で、非常に燃えやすかった。「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年伊/仏)で、主人公の映写技師アルフレード(フィリップ・ノワレ)が失明したのも映画の上映中にフィルムから出火したのが原因である。だから、いくらなんでも映画の編集作業現場に火鉢を持ち込むことなどありえないだろう。息子の雅弘によれば、よく見ようとフィルムを電球にかざしてくっつけたのが発火の原因と言う(*19)が、このほうがありえそうである。ひょっとしたら、伊井の演技に大きな不満を持っていた牧野が故意にフィルムを焼いたのではないか。そんな気すらしてしまう。当時牧野の助手を担当していたカメラマンの大森伊八(後の康正/1905〜) によると、火事の後に牧野が自分に言い聞かせるように「『忠臣蔵』は焼けて良かった」と語っていたと言う(*20)。 雅弘によると、この火事で焼失した場面というのは赤穂城大評定、一力茶屋の一部、山科閑居の一部、東下り、そば屋の件、討ち入りの大半であったそうである(*21)。なるほど、ほとんどが大石の出番のある場面だから、故意に焼いたという説もうなづける。マキノでは急遽同じスタッフ・キャストを用い、吉良側が大石の動静を探るという義士外伝「間者」(1928年マキノ/マキノ雅弘監督)を製作すると、焼け残った部分と同時上映で公開し、大ヒットを記録した。現在ビデオ化されている「実録忠臣蔵」の長さは65分。そば屋の件はまったくないものの、大評定、一力茶屋、山科閑居はかなりの部分が含まれている。東下りも立花左近(勝見庸太郎)とのやり取りの部分が残っているので、雅弘の記憶は必ずしも正確ではなかったようである。しかしながら、清水一学の姉を演じる鈴木澄子のように、オープニングタイトルの配役表のみで画面にまったく姿を見せない人や、ほんのちょい役になってしまっている人もかなりいる。討ち入りの場面は「間者」の同場面をそっくり挿入しているそうだ。溝口健二(1898〜1956)監督の名作「元禄忠臣蔵」(1941〜42年興亜映画/松竹)がそうなのだが、討ち入りの無い「忠臣蔵」はやはり物足りない。さて、酷評されまくっている伊井蓉峰の大石であるが、現存作品を観る限り、そう取り立てて変という感じはしない。確かに演技は大仰だが、これは彼に限らず、サイレント映画全体に見られる特色である。問題となった六方の場面もさすがにカットされているし、伊井の演技は堂々としていて貫禄があり、さすがは一時代を築いた名優である。 しかし、この映画の引き起こした騒動は火事だけに終わらなかった。両国橋引上げの場面で浪士達を引き止める服部市郎右衛門を演じた片岡千恵蔵は、当初浅野内匠頭役を牧野に約束されていたが、実際に浅野を演じたのは諸口十九(もろぐち・つづや/1891〜1960)であった。このことを不満に思った千恵蔵はその後マキノを脱退。これが引き金となって嵐長三郎ら50名の大量脱退を引き起こしてしまう。嵐長三郎のちの嵐寛寿郎はスターの脱退の要因の一つに伊井蓉峰の起用に対する不満があったとしている(*22)。スターがいなくなったマキノが「浪人街」(1928〜29年)をスター不在の群像劇として撮らざるを得なくなったということは、先に書いた通りである。こうした事件が心労となったのだろうか、牧野はまもなく1929年に51歳の若さで亡くなってしまう。「実録忠臣蔵」は一世一代の作品となるどころか、とんだ呪われた作品となってしまったのである。 *18 桑野桃華「日本映画の父(マキノ省三伝)」185ページ *19 御園京平編「回想・マキノ映画」157ページ *20 マキノ雅弘「カツドウ屋一代」186〜187ページ *21 同上 190ページ *22 竹中労「聞書アラカン一代=鞍馬天狗のおじさんは」78ページ |
||
|
||
牧野の遺作となったのは1928年製作の「雷電」であるが、これは息子・雅弘(当時は正博)が俳優として出演した最後の作品でもある。主人公は江戸時代、史上最強といわれ連勝を続ける大関・雷電為右衛門(根岸東一郎)。彼はあまりの強さゆえに世間の反感を買い、その母も死を賭して彼に負けるよう頼む。ところが、雷電のあまりの強さに、対戦する力士がいなくなってしまい、俄か仕立ての力士として医者の藪井竹庵(マキノ正博)が対戦相手として名乗りをあげる。 実在の雷電為右衛門(1767〜1825)は相撲史上で最も強かった力士といわれる。1790(寛政2)年から1811(文化8)年まで21年間大関を務め、現役時代の通算成績は254勝10敗2引分。勝率.962で優勝27回。にも関わらずなぜか横綱にはなれず、後世様々な憶測を呼ぶことになる。この映画もその謎に挑んでいる。記録によれば、彼は身長6尺5寸(197センチ)、体重45貫(169キロ)であったという(*24)。日本人の平均身長は2002年で男子170.7センチ、女子157.9センチである(*25)が、今日の目から見ても雷電の大きさは目を見張らされる。ましてや、江戸時代は現在よりも約10センチ以上低く、男子155〜157センチ、女子143〜145センチ(*26)であったのだから、雷電の大きさは途方も無く感じられただろう。ちなみに現在の力士と比較するとどうだろう。2005年7月名古屋場所での幕内力士の平均身長は184センチ、平均体重は149キロ(*27)であるから、いずれも雷電より下回っている。雷電に一番近い体格の力士は191センチ・175キロの琴ノ若(1968〜)だろうか。ちなみに雷電より背が高いのは202センチ(142キロ)のブルガリア出身の琴欧州(1983〜)だけである。体重で上回っているのも琴ノ若以外には雅山(1977〜/188センチ・178キロ)、岩木山(1976〜/186センチ・178キロ)、大関・魁皇(1972〜/184センチ・177キロ)のみ。彼は今日の角界でも引けを取らないどころか、堂々と目立つ大きさなのである。 雷電を演じる根岸東一郎は当然のことながら、力士としてはだいぶ頼りなく見える。しかし、敵役のマキノ正博はそれにも増して小柄でやせっぽっち。どうみても雷電には勝てそうもない(写真下)。にもかかわらず、そんな彼に負けようとする雷電。こうして二人の珍妙な取り組みが始まるのである…。軽めのコメディだが、しっかりと作られた作品である。日本映画の父の最後を飾る作品としてはいささか物足りない気もするが、娯楽映画一筋に生きた牧野としてはこれでいいのかも知れない。 *24 小島貞一「力士雷電 上巻」97〜107ページ 小島はこの数値に疑念を表しており、実際は6尺3寸(191センチ)・40貫(150キロ)ではなかったかと推測している。 *25 文部科学省ホームページ「平成15年度学校保健統計調査」(http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/h15.htm)より *26 次の3書より 男子155センチ・女子145センチ:平本嘉助「江戸時代人の身長と棺の大きさ」(「江戸時代の墓と葬制」所収)124ページ 男子155.09〜156.49センチ・女子143.03〜144.77センチ:鈴木隆雄「日本人のからだ」10ページ 男子157.11センチ・女子145.62センチ:鈴木尚「骨は語る徳川将軍・大名家の人々」206〜207ページ *27 「goo大相撲:大相撲名鑑」(http://sumo.goo.ne.jp/hon_basho/banzuke/index.html)より計算。以下のデータも同じ。 なお、2008年五月場所現在では、エストニア出身の把瑠都(1984〜)が197センチ175キロで、雷電とほぼ同じである。 |
||
|
||
ところで牧野省三はアメリカのD・W・グリフィス(1875〜1948/「グッドモーニグ・スペクタクル」参照)に比されることがある。なるほど、二人は多くの点で共通点がある。グリフィスがアメリカ映画最初の巨匠であるなら、牧野も日本映画最初の映画監督にして巨匠である。今日、巨匠の作品といえば、難解だとして敬遠されがちだが、グリフィスも牧野も娯楽にこだわり単純明快な映画を作ってきた。グリフィスはスケールの大きなスペクタクルを生み出し、牧野も痛快なチャンバラを製作している。共に才能を育てることに長けていたが、育てたスターたちが彼らの下を離れていった点でも似ている。だが、決定的に違う点が一つある。グリフィスが次第に時代に取り残され、ついには忘れられていったのに対し、牧野は51歳で亡くなる瞬間まで偉大な大君(タイクーン)として日本映画界に君臨し続けたのである。牧野は晩年グリフィス自身から「グリフィス」の称号を与えられ、「グリフィス・マキノ」と名乗り、それを誇りにしていたそうである(*28)が、実はグリフィスをも凌ぐ偉大な映画人であったのではないか、そんな気がしてならない。 *28 マキノ雅弘「映画渡世・天の巻」60ページ |
||
|
||
「マキノ」の製作した映画を観ると、冒頭に「M」の字をあしらったマキノのロゴ(写真上)が現れる。そして作品の題名に続き「総指揮 マキノ省三」の文字。詩人の足立巻一(1913〜85)は「それだけで少年のわたしは胸を躍らせた。(*29)」と回想しているが、当時の観客はその文字に拍手喝采を送った。それほどまでに、マキノという名前は本人を飛び越えて大きな存在となってしまったのである。牧野の死後、映画製作責任者には息子の雅弘が就任するが、「総指揮 マキノ雅弘」では全然拍手が起きなかったそうである(*30)。当時の映画会社は日活と松竹が2大勢力で、それに次ぐ存在として帝国キネマや東亜キネマがあった。個人プロダクションにすぎなかったマキノが、それらに対抗し得たのは、ひとえに牧野省三の力にあったのだ。その証拠に牧野が亡くなって2年後の1931(昭和6)年10月にマキノは倒産してしまう。 映画は誰のものか。 この項を僕はこうした問いで書き始めた。少なくとも、マキノ映画は牧野省三のものだった。そんな風に言ってもいいのではないだろうか。 *29 足立巻一「マキノ映画と少年」(「日本映画の誕生/講座日本映画1」所収)152ページ *30 マキノ雅弘「映画渡世・天の巻」163ページ |
||
|
||
(参考資料) 桑野桃華「日本映画の父(マキノ省三伝)」1949年4月 マキノ省三伝発行事務所 田中純一郎「日本映画発達史 T」1957年1月 中央公論社 御園京平編「回想・マキノ映画」1971年3月 マキノ省三先生顕彰会 竹中労「日本映画史縦断U/異端の映像」1975年9月 白川書院 嵐寛寿郎、竹中労「聞書アラカン一代=鞍馬天狗のおじさんは」1976年11月 白川書院 マキノ雅弘「映画渡世・天の巻」1977年8月 平凡社 「日本映画の誕生/講座日本映画1」1985年10月 岩波書店 平井輝章「実録日本映画の誕生」1993年7月 フィルムアート社 佐藤忠男「日本映画史1 1846−1940」1995年3月 岩波書店 佐藤忠男「日本映画300」1995年6月 朝日文庫 大井廣介「ちゃんばら藝術史」1995年9月 深夜叢書社 都築政昭「シネマがやってきた!―日本映画事始め」1995年11月 小学館 わかこうじ「活動大写真始末記」1997年9月 彩流社 マキノ雅弘「カツドウ屋一代/伝記叢書299」1998年6月 大空社 関根黙庵「講談落語今昔譚/東洋文庫652」1999年4月 平凡社 四方田犬彦「日本映画史100年」2000年3月 集英社新書 マツダ映画社「無声映画繚乱 セピア色の獅子たち/日本無声映画名作館『解説』」2000年5月 オールド・ニュー 無声映画鑑賞会編/マツダ映画社監修「映画史探求/よみがえる幻の名作 日本無声映画篇」2003年1月 アーバン・コネクションズ 「彷書月刊/[特集]マキノ撮影所」2005年3月 小島貞二「力士雷電 上・下巻」1998年11〜12月 ベースボール・マガジン社 鈴木尚「骨は語る徳川将軍・大名家の人びと」1985年12月 東京大学出版会 「江戸時代の墓と葬制/江戸遺跡研究会第9回大会発表要旨」1996年2月 江戸遺跡研究会 鈴木隆雄「日本人のからだ―健康・身体データ集―」1996年4月 朝倉書店 |
||
目次に戻る サイレント黄金時代(21)「受難の映画史」へ戻る サイレント黄金時代(23)「完全無欠のスーパーヒーロー〜尾上松之助〜」へ進む |