第2章−サイレント黄金時代(27)
剣よ、夢よ、永遠に
〜大河内伝次郎と「丹下左膳」〜



十八番の丹下左膳に扮する大河内伝次郎
「新版大岡政談」(1928年日活)より
(「大河内傳次郎/人と作品・その魅力のすべて」3ページ)
 

 
 京都の嵐山を訪ねた。京都の中心地から離れたこの地は、桜や紅葉の名所としても知られる。僕が訪ねた8月は、あふれんばかりの緑が美しかった。嵐山には平安時代から、貴族の別荘地があったことで も知られ、藤原定家(1162〜1241)が「小倉百人一首」を編纂した時雨亭(小倉山荘) もこの地にあった。
 そんな嵐山にある大河内山荘。この大河内山荘は、俳優の大河内伝次郎(1898〜1962)の別荘として建てられた。京都にはいろいろ名所があるが、映画俳優の家が名所となっているのは珍しいのではないか。
 1931(昭和9)年、時代劇の大スターであった大河内伝次郎は、消えることのない美を求めて、この山荘の建設に着手。1962(昭和37)年に64歳で亡くなるまで、彼は30年に渡って、映画出演料の大半をこの山荘の造営につぎ込んだという。
        
 



大河内山荘・大乗閣
 

 
◆剣戟スター大河内伝次郎の誕生 

 大河内伝次郎(正しくは大河内傳次郎)は、サイレント時代から戦後にかけて活躍した時代劇スターである。
阪東妻三郎(1901〜53/「美しき反逆者」参照)、嵐寛寿郎(1903〜80/「鞍馬天狗見参」参照)、片岡千恵蔵(1903〜83/「ユーモアとナンセンス」参照)、市川右太衛門(1907〜99)、林長次郎(後の長谷川一夫/1908〜84)と共に六大剣戟スターと も称された。
 大河内伝次郎はその六大剣戟スターの中でも最年長のスター
であった。本名は大邊男(おおべ・ますお)。福岡県築上郡岩谷村大河内に8人兄姉の末っ子として生まれた。芸名の「大河内(おおこうち)」は出身地から取ったものである。もっとも、地名のほうは「おおかわち」 と読む。よく女優の大河内奈々子(1977〜)の親戚かと思われたりするのだが、奈々子のほうは本名なので、当然関係は無い。ちなみに下の名前「伝次郎」は、恩師と して敬愛する沢田正二郎(1892〜1929)を「偲ぶ」名前(*1)ということでつけたそうである。
 
 



大河内のデビュー作「長恨」(1926年日活)
(「講座日本映画2/無声映画の完成」333ページ)
 

 
 
 大河内はもともと文学にあこがれ、早稲田大学への進学を考えていたらしい。結局、その夢を断念し、一度は実業家をめざし兄のいた会社に入る。だが、関東大震災をきっかけに大阪の新民衆劇学校に入った。この新民衆劇学校は澤田正二郎とともに新国劇を立ちあげた演出家の倉橋仙太郎(1890〜1965)が主催していた学校である(校長は澤田)。大河内は当初、俳優ではなく劇作家志望であった。この学校を母体として、1925年第二新国劇が立ちあげられる。大河内は脚本を書くかたわら「室町次郎(二郎)」の芸名で舞台にも立った。
 大河内が最初に映画に関わったのは1925(大正14)年のことで、連合映画芸術家協会製作・マキノ配給、衣笠貞之助(1896〜1982)監督・脚色による「若き日の忠次/弥陀ヶ原の殺陣」。大河内は原作(西方弥陀六名義)の他、出演もしている。この作品で主役の国定忠次を演じたのは、同じ第二新国劇の原健作(後の原健策/1905〜2002)であった。

 1926(大正15)年、日活に入社。すでに同じ室町次郎という名前の俳優がいたために、この時に芸名を「大河内伝次郎」と改めている
(*2)。第二新国劇の公演を観ていた監督の伊藤大輔(1898〜1981)は、周りの反対を押し切り、大河内をいきなり主役に抜擢。大河内は伊藤監督・脚本の「長恨」(1926年日活)で主役デビューを飾った。
 この時大河内28歳。六大剣戟スターの中では最も遅咲きの映画デビューだった。

*1 田中照禾「丹下左膳の映画史」20〜21ページ
*2 当初は「大河内伝“二”郎」であったが、すぐに改名している。(富士正晴「大河内傳次郎」225〜226ページ)

   
 
  ◆伊藤大輔と「御誂次郎吉格子」  
 



「御誂治郎吉格子」(1931年日活)
大河内伝次郎(右)と伏見直江
(「映画100物語 日本映画篇」28ページ)
 

 
 
 日活で大河内は数々の映画に主演し、またたく間に人気を得ている。中でも伊藤大輔の作品には計30本に出演。伊藤が日活で手がけた作品は全部で38本だから、ほとんどの作品に大河内が出演していることになる。また、それらの作品の多くは唐沢弘光(1900〜80)が撮影を担当し、伊藤・大河内・唐沢の3人は名トリオと評された。
 伊藤と大河内のコンビ作のうちサイレント作品は全部で25本あるが、そのうち、今日残っている作品は極めて少ない。ほぼ完全な作品として残存しているのは、「御誂次郎吉格子」(1931年日活)のみである。幸いこの映画はDVD化されていて容易に観ることができる。
 
 この作品で大河内が演じているのは有名な盗賊・鼠小僧次郎吉(1797〜1832)。原作は吉川英治(1892〜1962)の「治郎吉格子」(1931年)である。ということは、主人公の名前も原作通り、「治郎吉」でなくてはならないはずなのだが、公開時のタイトルは「次郎吉格子」であった。あるいは伊藤・ 大河内コンビの一つ前の作品が「鼠小僧旅枕」(1931年日活)で、主人公の名前が「次郎吉」であったことに倣ったのかもしれない。なお、現在発売されているソフトはビデオもDVDも「治郎吉」になっている。字幕や冒頭の配役表でも「治郎吉」である。
           
 
 



「御誂次郎吉格子」
伏見直江(左)と大河内伝次郎
(「講座日本映画2/無声映画の完成」36ページ)
 

 
 
 映画は京から大阪へ向かう三十石船で幕を開ける。治郎吉(大河内伝次郎)が、掏られた財布を取り返したことがきっかけでお仙(伏見直江)と知り合い、やがて共に暮らすようになる。
 お仙は強欲な兄・仁吉(高勢実乗)のために遊女として売られようとしていた。髪結床を構える仁吉の店で、治郎吉はお喜乃(伏見信子)を知る。彼女もまた、貧しさゆえに仁吉から妾勤めを強いられていた。
 やがて、仁吉はお喜乃の父を殺し、彼女を誘拐しようと企むが、治郎吉によって助けられる。仁吉との決着を果たそうと、彼の家に乗り込んだ治郎吉。そこにはお仙が捕えられていた。十重二十重と御用提灯が家の周りを取り囲み、治郎吉の身に刻一刻と危機が迫る…。

 冒頭の三十石船の場面では、御用改めによって一人の博徒が鼠小僧と疑われ、やがて本物の鼠小僧が現れるまでを、実にテンポの良く描いている。しかも、冒頭に出てくる道中師(スリ)を大河内に2役で演じさせるという、手の込んだ演出でサスペンスを高め。
 この作品にはチャンバラはほとんど登場しない。むしろ、はぐれ者の治郎吉をめぐる三角関係をメインとした恋愛映画の雰囲気を持つ。とりわけ、伏見直江(1908〜82)演じるお仙の一途さが印象的で、味わい深い作品となっている。
 ちなみにお喜乃役の伏見信子(1915〜)は、伏見直江の実の妹である。確かに顔立ちは二人ともよく似ているのだが、妖艶なお仙に対して、可憐なお喜乃と、印象がまったく違うのが面白い。

 直江は、「忠次旅日記」(1927年日活)や「新版大岡政談」(1928年日活)といった大河内の初期の代表作のほとんどで彼と共演している。屋根の上にあがっての熱演ぶりに「乱れた着物のすそ間から、真っ白な太もも、いや、その奥まで見えた、見えないの大騒ぎ。(略)ある好き者のファンが、最前列の観客席に陣取ってスクリーンをしきりに下からのぞきあげていたが、やがてこうつぶやいた―。『だめだ。やっぱり見えねえ』
(*3)」という冗談みたいな話も伝わっている。
 この直江と大河内のロマンスが、その当時マスコミに盛んに書き立てられたそうである。実際2人は1930(昭和5)年頃から3年間同棲していた。結局、大河内の母が二人の結婚に反対し、大河内が1932年5月、大分の住職の娘・平田妙香と結婚したことで、二人は破局を迎える。

*3 島野功緒「時代劇博物館」158ページ
     
 
 



「御誂次郎吉格子」
ラストの捕り物
(「講座日本映画2/無声映画の完成」131ページ)
 

 
    
 その他、伊藤=大河内コンビの作品として比較的よく観られる作品に「血煙高田馬場」(1928年日活)がある。この作品の現存部分は、大河内の剣戟シーンを集めたアンソロジー・ビデオ「大河内伝次郎乱闘名場面集」(1983年マツダ映画社)に全編納められている。資料によると11巻とあるから、本来は2時間近い作品だったのだろうが、現在残っているのはわずかに5分強である。
  
 
 



「血煙高田馬場」(1928年日活)
(「大河内傳次郎/人と作品・その魅力のすべて」102ページ)
 

 
 
 「血煙高田馬場」で、大河内が演じるのは中山安兵衛。中山安兵衛は、後の赤穂浪士・堀部安兵衛武庸(1670〜1703)のこと。安兵衛は、1694年に叔父の菅野六郎左衛門(〜1694)の助太刀をした、世に言う「高田馬場の決闘(仇討ち)」で有名である。この事件がきっかけとなり、安兵衛は赤穂藩士・堀部弥兵衛(1627〜1703)の娘婿となる。

 飲んだくれの安兵衛(大河内伝次郎)は、喧嘩の仲裁に入っては双方から酒をおごらせては飲むということを繰り返している。その日もそうやって飲んだくれて帰ってきたところ、叔父の菅野六郎左衛門(実川延一郎)からの置き手紙。六郎左衛門は高田馬場で村上庄左衛門(嵐松郎)との果たし合いをするとのこと。すでにその時刻は過ぎており、安兵衛は現場へと急ぐ。その途中、安兵衛は堀部弥兵衛(尾上卯多五郎)とその娘お幸(木村千代子)から、縄襷の代わりにと布を渡される。
 安兵衛が高田馬場に駆けつけた時、すでに六郎左衛門は瀕死の状態。安兵衛は、叔父に代わって庄左衛門を討ち取る。
 わずか5分の現存部分ながら、まとまったストーリーになっているのが面白い。あるいは、ダイジェスト版として作られたものが残っているのだろう。クライマックスの高田馬場の決闘での大河内の立ち回りは迫力がこもっている。
       
 
  ◆代表作「忠治旅日記」  
 



「忠次旅日記」(1927年日活)
大河内伝次郎(右)
(「映画100物語 日本映画篇」25ページ)
 

 
 
 伊藤=大河内のコンビ作として最も有名な作品は紛れもなく「忠次旅日記」三部作(1927年日活)であろう。これは単に二人の代表作にとどまらず、日本映画史上においても最も重要な作品のうちの一つである。
 例えば1959年に「キネマ旬報」創刊40年を記念して発表された「日本映画六十年を代表する最高作品ベスト・テン」では、「忠次旅日記」は2位の「祇園の姉妹」(1936年第一映画)を大差で引き離しての堂々たる第1位であった。このベスト・テンは戦前から活躍する映画評論家15名によって選ばれたものだが、15名中、この作品を観ていないという河上英一を除く14名が、ベスト・テンにこの作品をあげている。さらにそのうち大黒東洋士(1908〜92)、北川冬彦(1900〜90)、杉山平一(1914〜2012)、双葉十三郎(1910〜2009)の4名が1位に推している
(*4)
 また、1989年の「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋)においても、「忠次旅日記」は42位にランキングしているが、これはサイレント映画としては小津安二郎(1903〜63)監督の「生まれてはみたけれど」(1932年松竹)の31位に次いで高い順位である
(*5)。「忠次旅日記」は永らくフィルムが失われたとされており、もはやこの時点で 、実際に観ている選者は極めて少数であったはずにもかかわらずである。ちなみに次に紹介する「新版大岡政談」も94位に入っている。
 参考までに、「忠次旅日記」が発見された後の1995年の「日本映画オールタイムベストテン」(キネマ旬報社)では、14位である
(*6)

*4 1959年7月「キネマ旬報 236」
   以下の順位は、3位「生まれてはみたけれど」(1932年松竹)、4位「土」(1939年日活)、5位「酔いどれ天使」(1948年東宝)、6位「浮雲」(1955年東宝)、7位「生きる」(1952年東宝)、8位「二十四の瞳」(1954年松竹)、9位「真昼の暗黒」(1956年現代ぷろだくしょん)、10位「五人の斥候兵」(1938年日活)「日本の悲劇」(1953年松竹)
*5 なおベスト・テンは、1位「七人の侍」(1954年東宝)、2位「東京物語」(1953年松竹)、3位「生きる」、4位「羅生門」(1950年大映)、5位「浮雲」、6位「飢餓海峡」(1964年東映)、7位「二十四の瞳」、8位「無法松の一生」(1943年大映)、9位「幕末太陽伝」(1957年日活)、10位「人情紙風船」(1937年日活)
*6 こちらのベスト・テンは、1位「東京物語」2位「七人の侍」3位「浮雲」4位「人情紙風船」5位「西鶴一代女」6位「飢餓海峡」7位「羅生門」8位「生きる」10位「幕末太陽伝」
     
 
 



「忠次旅日記」(1927年日活)
岡崎晴夫(左)と大河内伝次郎
(「日本映画200」25ページ)
 

 
 
 1982年に出版された「日本映画200」(キネマ旬報社)の巻末資料によると、「忠次旅日記」は第1部「甲州殺陣篇」と第2部「信州血笑篇」は共にフィルムは完全に失われ、第3部「御用篇」のみ1分間の断片が残っているだけである。先にあげた「大河内傳次郎乱闘名場面集」に収録された断片シーンというのが、おそらく当時の残存プリントのすべてであったのではないだろうか。また、「忠次旅日記」はシナリオすら残っていなかった。
 それが、1991年になって、そのフィルムの一部が発見されたのである。同年3月、広島市の食品卸会社の社長が、自宅を新築する際に、父親の収集した骨董品の中から「忠次三部曲」と書かれたフィルムの缶を発見
(*7)。可燃性のフィルムであったことから、一時は広島湾に捨てようとも思ったが、奥さんの助言により広島市映像文化ライブラリーに持ち込んだ(*8)。その後、国立近代美術館フィルムセンター(NFC)によって「忠次旅日記」の第2部「信州血笑篇」の一部と、第3部「御用篇」の大部分、計89分(*9)であることが確認された。

 その結果、今まで伝説であった「忠次旅日記」の輪郭を、おぼろげながら我々は知ることができるようになったのである。第1部「甲州殺陣篇」のみフィルムが全く残っていないが、伊藤大輔自身が総集編を作るに当たって、フィルムをすべて廃棄してしまったのだという。伊藤は「忠次旅日記」を製作するに当たり、主人公である国定忠次(1810〜51)のキャラクターを無頼漢として描こうと試みた。しかし、それが日活の重役の反発を招いたという。従来、国定忠次は講談調の英雄として描かれることがほとんどであり、その代表が、当時最大のスーパースターにして日活の関西撮影所所長であった尾上松之助(1875〜1926)であった。松之助は1925年に「国定忠次」(日活/尾上プロダクション)に主演している。松之助は、伊藤が日活に入社してわずか十数日後に亡くなっており、まだその死から間もない時期であったために、彼を否定するような作品を発表することは「重役さん(注:松之助)に失礼だ
(*10)」ということになったのである。そのこともあって、伊藤は「忠次旅日記」の第1部「甲州殺陣篇」をスピーディーなチャンバラ映画として仕立て上げた。本人としては「忠次の内面にまでキャメラを向けるに至らず。妥協の産物なり(*11)」との考えであったようだ。したがって、「忠次旅日記」の本領は第2部「信州血笑篇」と第3部「御用篇」において発揮されていると言える。実際、キネマ旬報ベストテンでは、「信州血笑篇」が第1位、「御用篇」が第4位であったにも関わらず、「甲州殺陣篇」 は24位に終わっている。

 それでは、「忠次旅日記」の僕自身の印象を述べたいのであるが、恥ずかしいことに僕はこの「忠次旅日記」を未だに観ていない。何回か特集上映の機会があったのだが、所用等で残念ながら観ることができなかった。「忠次旅日記」を観ずに、大河内伝次郎を語るなんてもっての外、という方もいるかもしれないが、深くお詫びする次第。今後の楽しみに取っておくことにしたい。
 
*7 「読売新聞」1992年9月9日
*8 「映画100物語 日本映画篇」25ページ
*9 現在NFCに保存されたフィルムは93分とある。時間が増えているのは、字幕等の付け加えられた部分だろうか。
*10 磯田啓二「熱眼熱手の人」116ページ
*11 同書 133ページ
   
 
  ◆股旅物「沓掛時次郎」  
 



「沓掛時次郎」(1929年日活)
大河内伝次郎
(「大河内伝次郎/人と作品・その魅力のすべて」168ページ)
 

 
 
 伊藤大輔以外の監督と組んだ作品でも、大河内はすぐれた作品を数多く残している。現在残っていてなおかつビデオ化されていて簡単に観ることができるのは、長谷川伸(1884〜1963)原作、辻吉郎(1892〜1946)監督の股旅物「沓掛時次郎」(1929年日活)である。
 大河内伝次郎は、伊藤大輔作品などで押しも押されぬ日活の大スターとなった。だが、会社とのトラブルが理由で、1928年末には日活を退社している。増給とプロダクション制による歩合の要求を会社側が拒否したことが原因であった。もっとも恩師・沢田正二郎の勧めもあって翌年の6月には日活に復帰している。
 復帰第1作がこの「沓掛時次郎」となった。大河内が日活を退社している間の1939年3月、恩師・沢田正二郎が急死。その沢田の生前最後の当たり役が「沓掛時次郎」であったことには、何やら因縁を感じるところである。
 この「沓掛時次郎」が西部劇「鬼火ロウドン」(1918年米)のストーリーによく似ていることから、西部劇からの影響があったのではないかということは、以前「青年は荒野をめざす」で指摘した通り。一宿一飯の恩義から心ならずも斬った相手の女房と子供とを引き連れての流れ旅を続ける沓掛時次郎(大河内)の男心は、観終わった後なんとも言えない余韻を残す。「御誂次郎吉格子」同様に、剣戟の場面は少なく、人情面により重きを置いた名作である。
   
 
 



「水戸黄門」(1934〜35年日活)
(左から)市川百々之助、大河内伝次郎、沢村国太郎
(「大河内伝次郎/人と作品・その魅力のすべて」185ページ)
 

 
 
 「水戸黄門」三部作(1934〜35年日活)は、大河内最後のサイレント作品。大仏次郎(1897〜1973)の原作を、山中貞雄(1909〜38)が脚色、荒井良平 (1901〜80)が監督しており、第1篇「来国次の巻」(1934年)、第2篇「密書の巻」、完結篇「血刃の巻」(共に1935年)の3部からなる。
 水戸黄門はいうまでも無くテレビドラマ「水戸黄門」でも親しまれた人物であるが、テレビのキャラクター同様、老人というイメージが強い。2000年、当時59歳の石坂浩二(1941〜)が水戸黄門に扮すると聞いた時ですら、意外に感じたものである。それが、この時の大河内は37歳の若さ。したがって、貫禄のある御老公といったイメージはあまり感じられないが、その分やんちゃで愛嬌のある黄門像に仕上がっている。その代わりなのだろうか、2役で浪人・立花甚左衛門を演じ、こちらでは激しい剣戟を見せている。
 助さんを沢村国太郎(1905〜74)、格さんを市川百々之助(1906〜78)が演じている。また、黄門一行に同行する元スリの“蹴られの与太郎”を、林誠之助(1907〜88)がユーモアたっぷりに演じているが、これなどはテレビの“うっかり八兵衛”(高橋元太郎)の原型ではないだろうか。
    
 
 



「水戸黄門/血刃の巻」(1934〜35年日活)
大河内伝次郎(左)と荒井良平監督
(「大河内伝次郎/人と作品・その魅力のすべて」189ページ)
 

 
 
 旅をする水戸黄門一行と、黄門の所持する名刀「来国次」を狙う浪人・立花甚左衛門らが、徳川家の跡継ぎをめぐる柳沢吉保(久米譲)・吉里(市川正二郎)親子の陰謀に巻き込まれていくというのが基本となるストーリー。
 大河内は立花甚左衛門として、得意のチャンバラを披露。特に第2部「密書の巻」では、地面に置かれた徳利が、蹴られ転がる足もとを映すだけで、その激しさを表現するという面白い演出が見られる。
 第1部「来国次の巻」で、単身敵方に取り囲まれて杖を奮って戦うのを始め、水戸黄門が自ら激しい剣戟を披露するというのは、テレビや他の映画ではなかなか見られない。そういう意味でも、 一味違った水戸黄門である。

    
 
  ◆丹下左膳の誕生  
 



志村立美による小説版挿絵
丹下左膳と櫛巻きのお藤
(「丹下左膳(一)乾雲坤竜の巻」163ページ)
 

 
 
 さて、大河内伝次郎と言えば、丹下左膳を欠かすことは出来ないであろう。大河内は30歳の時に「新版大岡政談」(1928年日活)で初めて左膳を演じて以来、56歳となる「丹下左膳/こけ猿の壷」(1954年大映)まで26年に渡って16本の映画で左膳を演じ続け、名実共に彼の代表作となった 。
 丹下左膳と言えば、右目・右手の無い隻眼隻腕の虚無的なヒーロー。大河内以外にも阪東妻三郎や、大友柳太朗(1912〜85)らによって演じられ、時代劇ではお馴染みの人物である。もっとも、さかんに映画・TV化されていたのは1970年代までで、近年はあまり映像に登場することがなく、若い人たちにとってはそれほど馴染みのある人物ではないのかもしれない。実際僕自身も、丹下左膳を幼い頃に見た記憶があまり無い。丹下左膳という人物を知ったのは学研の「学習」あるいは「科学」だったかに載っていた、こんな漫画がきっかけだった…。
 雪が積ったある日、子どもたちは雪だるまを作り、目玉の所に2個のリンゴを置いておいた。ところが、しばらくして来てみると、片方のリンゴが無くなっており、子どもたちは「あれ、丹下左膳になってるよ」と驚く。それからまたしばらくして、残りのリンゴも無くなっており「今度は、座頭市になってる」。
 今だったら、差別的だというクレームがつきそうな内容だが、ともかく僕はこの時丹下左膳と座頭市という2人の時代劇のヒーローの名前を覚えたのである。そうそう、「目が三つに手が1本、足が6本。な〜んだ?」というなぞなぞがあるそうだ。答えは「馬に乗った丹下左膳」というものなのだが、かなり有名らしい。劇作家の別役実(1937〜2020)には「馬に乗った丹下左膳」という題名のエッセイ集があるし、よゐこ・有野晋也(1972〜)のブログにも「超難関なぞなぞ」として紹介されていた
(*12)
    
*12 「よゐこ有野、書記長に立候補します/超難関なぞなぞ」(http://blogs.yahoo.co.jp/arimoro05/archive/2008/9/14
  
 
 



「新版大岡政談」(1928年東亜キネマ)
団徳麿演じる丹下左膳と原駒子(下)
(「丹下左膳の映画史」7ページ)
 

 
 
 そもそも、丹下左膳は、林不忘(
本名・長谷川海太郎*13/1900〜35)によって生み出された時代小説シリーズである。最初の作品が「新版大岡政談/鈴川源十郎の巻」(1927〜28年、後に「丹下左膳/乾雲坤竜の巻」と改題)であることからもわかるように、もともとは名奉行・大岡越前守忠相を主人公とした「大岡政談」ものの一つであった。他のシリーズ作品としてはやはり映画化された「魔像篇」などがある。したがって、丹下左膳も当初は主役ではなかった。しかしながら、左目・左手という異様な姿ながらめっぽう強く、その上世を拗ねたニヒリスト(虚無主義者)というキャラクターが強く印象付けられ、以後丹下左膳を主人公と して「丹下左膳/こけ猿の巻」「丹下左膳・日光の巻」といったシリーズが生み出されていった。

 最初の「鈴川源十郎の巻」が発表されるやいなや、すぐさま映画化の動きとなった。それも東亜キネマ、日活、マキノの3社による競作であった。それだけ原作小説の評判が高かったのだろう。当時、原作者の林不忘は中央公論社の特派員としてヨーロッパ滞在中で、現地から原稿を送っていたが、「新版大岡政談」の評判により、帰国後熱烈な歓迎を受けたという。
 一番最初に発表されたのが東亜。広瀬五郎の監督、団徳麿(1900〜87)の丹下左膳である。次いでマキノが、二川文太郎(1899〜1966)監督、嵐長三郎(後の嵐寛寿郎)の丹下左膳。そして最後が日活で、伊藤大輔監督、大河内伝次郎主演であった。このうち、マキノ版は、嵐長三郎の退社によって未完に終わっている。大井広介(1912〜76)によると、「有力なマキノが途中で棄権、日活はラスト・スパート目覚ましく、東亜を遥かに引き離してゴール・イン、という形になった
(*14)」 そうである。実際、日活版はキネマ旬報ベストテンで第3位に入賞している。

 ところで、この「新版大岡政談」は資料によっては4社競作となっている。帝国キネマによる「大岡政談/鈴川源十郎の巻」(1928年)が3社に先だって公開されているのである。これは、林不忘の原作にはよらず4代目・邑井貞吉(1879〜1965)の講談を元にしたものなので、正確には競作に入らない。林不忘の映画化の際の原作料は、当時としては吉川英治と並んで抜群に高かった
(*15)というが、小規模で財政的にも苦しかった帝国キネマとしては、原作料を惜しみ、便乗商法に乗せたのである。したがって、丹下左膳は登場しないが、それに準ずる人物として、日置民五郎が登場し、松井田三郎が演じている。タイトルにもある鈴川源十郎(東良之助)や諏訪栄三郎などの人物が「新版大岡政談」と共通し、櫛巻きお藤ならぬ掻巻きお藤、水茶屋の娘お艶ならぬお花などの人物が登場する。日置民五郎は左膳同様に片目片腕の無頼者だが、お花に右目を斬られ、栄三郎に右手を斬られるなど、とても剣豪とは思えない。この日置民五郎こそが丹下左膳の原型で、林不忘が名前を変えて取り入れたのだとも言われており(*16)、タイトルに「新版」とつくのはそのためだという(*17)
 
*13 「林不忘」のペンネームは主に時代ものを発表する際に使用。他に「牧逸馬」の名で海外ミステリーの翻訳や通俗小説を、「谷譲次」の名で渡米生活の体験を発表している。
*14 大井廣介「ちゃんばら芸術史」242ページ 
*15 田中照禾「丹下左膳の映画史」41ページ
*16 縄田一男、永田哲朗「時代小説のヒーローたち」65ページ
*17 石割平「日本映画興亡史U/日活時代劇」302ページ

   
 
 



「新版大岡政談」(1928年マキノ)
嵐長三郎(後の嵐寛寿郎)演じる丹下左膳
(「丹下左膳の映画史」10ページ)
 

 
 
 この項は大河内伝次郎についてのページなので、あくまで日活版「新版大岡政談」についてみていきたい。ところが、この日活版、フィルムは現存していない。それは東亜版、マキノ版についても同様である。
 そこで、原作小説および梶田章(1921〜)の記憶によって再現された文章(「講座日本映画2/無声映画の完成」所収)を元にその梗概を追っていくことにする。なお、原作と映画では細部において違いがあるが、原則として映画のストーリーを紹介することにしたい。ちなみに、2008年10月、伊藤大輔と大河内伝次郎の生誕110周年を記念して、残された断片映像と写真に、伴奏と澤登翠の活弁を加えた再現イベントが国立近代美術館フィルムセンターにて開催され た。あいにく僕はネパールで生活していた(参照)頃なので、残念ながらこの歴史的イベントに参加することはできなかった。僕はどうも大河内伝次郎作品とは縁が薄いようなのである。
  
 それはそうと、「新版大岡政談」の粗筋は…。のちに「丹下左膳/乾雲坤竜の巻」と改題されているように、ここでは乾雲と坤竜という二振りの刀をめぐる争奪戦が描かれている。
 題名からもわかる通り、主役は一応、大岡越前のほうであり、大河内伝次郎は丹下左膳との二役で演じている。映画製作側も主役はあくまで大岡越前のほうと考えていたようで、当初のポスターも越前のみで左膳の姿は描かれていない(写真下)。しかし、原作を読む限りでは、鮮烈な印象を残すのは左膳のほうである。それは後に左膳を主人公としてシリーズ化されたことからも明らかだ。
   
 
 



「新版大岡政談」ポスター
(「装丁家・大貫伸樹の造本装丁探検隊」より)
 

 
 
 江戸にある小野塚鉄斎(尾上卯多五郎)の道場では、剣術の試合が行われている。優勝者には、乾雲・坤竜の2つの名刀の佩刀と、道場主の娘・弥生(伊藤みはる)が与えられることになっている。弥生は一の高弟・諏訪栄三郎(賀川清)に思いを寄せているが、諏訪はわざと森徹馬(実川延七)に破れてしまう。そこに現れた、道場破りの丹下左膳(大河内伝次郎)は、鉄斎を殺すと、乾雲を奪い逃走する。
 今回、原作小説を読んで意外だったことには、左膳が奥州中村藩主・相馬大膳亮の密命を受けて、刀を奪うために暗躍しているということだった。左膳と言えば、一匹狼の浪人者というイメージが強かったからである。
  
 
 



「新版大岡政談」(1928年日活)
道場破りをする丹下左膳(大河内伝次郎)
(「講座日本映画2/無声映画の完成」134ページ)
 

 
 
 乾雲を手に入れた左膳は、無頼旗本・鈴川源十郎(金子鉄郎)の屋敷に潜み、坤竜をも手に入れようと画策する。一方の栄三郎も、坤竜を佩刀し、乾雲の行方を追っている。その栄三郎に味方するのが、一升徳利を抱えた乞食坊主・蒲生泰軒(高木永二)。薄汚いこの男、実は南町奉行・大岡越前(大河内伝次郎2役)と懇意であった。彼らの他にも、両刀を追う謎の5人組がいた。
 栄三郎には茶屋の娘・お艶(梅村蓉子)という恋人がいたが、鉄斎の娘・弥生は彼のことが忘れられない。道場で弥生を見染めた左膳もまた、弥生に惹かれているが、彼のかねてからの恋人・櫛巻きのお藤(伏見直江)はそんな弥生に嫉妬する。争奪戦と同時に複雑に絡み合った恋のさや当てが展開する。

 
 
 



「新版大岡政談」(1928年日活)
賀川清(左)と大河内伝次郎
(「講座日本映画2/無声映画の完成」134ページ)
 

 
 
 ラストのクライマックスの剣戟シーンが現存していて、ビデオ「大河内伝次郎乱闘名場面集」に納められている。乾竜が手から手に空中に放り出されるあり様は、まるでラグビーを思わせる。
 「名場面集」に納められたもう一つの場面では、左手に刀を持った左膳がそのまま前のめりになって倒れる。当然、左膳役の大河内の右手は着物の中に隠されているわけで、下手すると顔を打ってしまう。それだけ、大河内の演技は真に迫っている。こうした断片を見るだけでも、「新版大岡政談」がいかに迫力のある映画だったかが推して知られる。伊藤大輔の監督作品は近年「忠次旅日記」以外にも「斬人斬馬剣」(1929年松竹/約20分)、「長恨」(1926年日活/約10分)が再発見されていることもあるので、どこかに眠っている「新版大岡政談」が発見されるようなことはないだろうか。
  
 
  ◆「シェイは丹下、名はシャゼン」  
 



「新版大岡政談」(1928年)宣伝スチール
櫛巻きお藤(伏見直江)を斬る丹下左膳(大河内伝次郎)
(「講座日本映画2/無声映画の完成」144ページ)
 

 
 
 「新版大岡政談」によって高まった丹下左膳の人気により、丹下左膳が主役となってシリーズ化された。
 小説版「乾雲坤竜の巻」のラストでは、船の上での二刀の争奪戦に敗れた左膳は筏の上に倒れたまま「生けるとも死んでともなく、遠く遠く漂い去りつつあった
(*18)」とあり、生死不明である。ところが、映画版「新版大岡政談」のラストでは、左膳はお藤を斬り、ついに乾雲・坤竜の両刀を手に入れる。だが、彼が思いをかける弥生も死に、捕り手に囲まれ最後を悟ると、「先立ちゆきし我等が同志よ。左膳もこれよりまいりますぞ。乾坤両刀を携えて、花嫁御寮の手を引いて―(*19)」と叫び乾雲に自身の血を吸わせる。つまり、映画の丹下左膳は壮絶な死を遂げているのである。
 にも関わらず、続編では何の臆面もなく丹下左膳は復活するのである。
  
*18 林不忘「丹下左膳/乾雲坤竜の巻」724ページ
*19 梶田章「新版大岡政談」(「講座日本映画2/無声映画の完成」所収)144ページ

     
 
 




「丹下左膳」(1933年日活)
大河内伝次郎
(「大河内傳次郎/人と作品・その魅力のすべて」120ページ)
 

 
 
 丹下左膳を主人公とした最初の作品は伊藤大輔監督、大河内主演による「丹下左膳」(1933年日活)。この作品は伊藤大輔にとっても、大河内伝次郎にとっても最初のトーキー(発声映画)にあたる。
 この作品はトーキーということで、大河内伝次郎のセリフ回しが話題になった。有名な「姓は丹下、名は左膳」というもの。当時、さかんに物まねのネタにされ、現在でも時代劇通の落語家・林家木久蔵(現・林家木久扇/1937〜)がテレビ番組「笑点」で物まねをすることがある。これは、大河内が故郷である福岡の豊前方言によって訛って聞こえることからきている。つまり「シェイは丹下、名はシャジェン」となるのである。他にも「おフジ(藤)」という名前が「オウジ」となる。
 1920年代後半から、トーキーが導入されると共に、セリフに難のある俳優たちは苦労を強いられた。例えば、阪東妻三郎は甲高い声だったために苦労している(
美しき反逆者」参照)。大河内の場合も、急に発音は直らないということで、伊藤大輔はそのまま大河内の豊前訛を認めたそうである。もちろん、大河内は舞台で主役を演じているのだし、伊藤大輔も新人だった彼の起用を映画会社の幹部に納得させるために、撮影第1日目にわざとセリフのあるシーンを演じさせたこともある(*20)ほどなのだから、セリフ回しにはもともと定評があった。だいぶ後の作品になるが、黒澤明(1910〜98)監督の「虎の尾を踏む男達」(1945年東宝)で武蔵坊弁慶を演じているのを見ても、その迫力は伝わってくる。訛のあるしゃべり方はむしろ、彼の個性と魅力になっているように感じる。

*20 富士正晴「大河内傳次郎」129〜130ページ
    
 
 



「丹下左膳」(1933年日活)
大河内伝次郎(左)と山田五十鈴
(「大河内傳次郎/人と作品・その魅力のすべて」121ページ)
 

 
 
 この「丹下左膳」もこれまでフィルムが失われたとされていたが、後に第1篇の約45分がイギリスで発見された。先日、そのフィルムを観る機会があった。
 冒頭は、夜の宿場町の通りを見下ろしながら進むカメラが進む移動撮影。伊藤大輔は移動撮影好きで、「イトウダイスケ」ならぬ「イドウダイスキ」と称されたそうであるが、なるほどそのことが良くわかるシーンである。
 何しろ45分の断片である。オリジナルは10巻と資料にあるから、残存部分は半分以下であろう。伊賀柳生家に伝わるこけ猿の壺をめぐる物語で、柳生源三郎(沢村国太郎)の婚礼と、道場を乗っ取ろうとする陰謀がそれに絡む。いったいどうなるのかと楽しみも膨らむ。
 こけ猿の壺を盗んだ少年・ちょび安(中村英雄)が鼓の与吉(山本礼三郎)に追われて丹下左膳(大河内伝次郎)の住む橋の下の小屋へ逃げてくる。ここで仲裁を買ってでた左膳だったが…。後半は欠落が多く、左膳がほとんど脇役にすぎなくなっている。町が火事となり、少女が父を探して出ていき歌うシーンで唐突に終わる。
 有名な「姓は丹下、名は左膳」というセリフを心待ちにして見ていたのだが、その部分は結局現存していないようだ。原作小説「こけ猿の巻」を読むと、件の台詞は、後半になって、左膳が源三郎の婚約者・萩乃(山田五十鈴)の前に初めて姿を現す場面
(*21)で登場しているから、まったく残存しない第2部「剣戟篇」(1934年日活)のほうに出てきたのかもしれない。
 剣戟シーンもすべてカットされており、左膳と源三郎が刀を合わせたままにらみ合うだけで終わっている。幸いなことに、剣戟シーンの一部は無声だが現存しており、「大河内傳次郎乱闘名場面集」に納められている 。

*21 林不忘「丹下左膳(二)/こけ猿の巻」374ページ
            
 
 



「丹下左膳余話/百万両の壺」(1935年日活)
喜代三と(左)と大河内伝次郎
(「実録日本映画の誕生」141ページ)
 

 
 
 伊藤=大河内の「丹下左膳」は、そもそも三部作として企画されたが、1934年「丹下左膳/剣戟篇」が発表された後に、伊藤が日活を退社してしまう。残された企画は山中貞雄へ引き継がれ、「丹下左膳/尺取横町の巻」として製作されることとなった。
 山中はもともと、「武士道とか武士の世界にコンプレックスを抱いていた伊藤に対して、庶民世界を時代劇に導入し展開してきた
(*22)」立場にあり、いわゆる「反伊藤大輔(*22)」であった。そこで、第3部を製作するに当たっても、これまでの伊藤大輔の「丹下左膳」とは違う、独自の「丹下左膳」を生み出そうと考え、原作を徹底的に改変した。世を拗ねたニヒリストであったはずの左膳は、子ども好きの好人物。それも、櫛巻きお藤(喜代三)のヒモ暮らしで、彼女にはめっぽう弱いという設定になっている。さらに、柳生源三郎に第1・2篇と同じ沢村国太郎(1905〜74)が扮しているのだが、彼もまた養子で女房に頭があがらない上に、剣の腕前もどうも怪しい。その上、櫛巻きお藤に扮した元芸者の歌手・喜代三(新橋喜代三/1903〜63)が自慢の喉を披露すれば、屑屋役の高勢実乗(1897〜1947)と鳥羽陽之介(1905〜58)の“極楽コンビ”が珍妙な掛け合いを見せるなど、明らかなコメディ・タッチで、もはや「丹下左膳」のパロディとしか思えない。
 試写を見た日活相談役の横田永之助(1872〜1943)は激怒。「即刻山中をクビにせい
(*23)」と息巻いたという。同じく原作者の林不忘からも、これは丹下左膳ではないとのクレームがついたため、タイトルを「丹下左膳余話/百万両の壺」と改め、公開時には「完結篇は改めて作る」との断り を入れた(*24)そうである。また、脚色・三村伸太郎(1897〜1970)の名前は削られ、クレジットには「構成 山中貞雄」とだけ入れられた。一説には、「潤色 三神三太郎」というクレジットを加え、原作とかけ離れていることを示したという話もある(*25)。この“三神三太郎”というのは三村の変名とのこと。実際のところはどちらだったのだろうか。現存のフィルムでは肝心なクレジットタイトルが欠けている。タイトルバックで東海林太郎(1898〜1972)が歌う「丹下左膳の歌」が流れていたため、再公開の際に版権を理由に削除されてしまったそうだ。なお、DVD版につけられたクレジットでは「構成・監督 山中貞雄」となっている。

 しかしながら、公開の結果映画は大ヒットとなった。批評的にも好評だったことから、横田の機嫌は直り、山中の首はつながった。一方の原作者のほうだが、林不忘は1935年6月29日に35歳という若さで急死している。死因は心臓麻痺。彼が死んだ当時、連載中の作品は9本もあり、過労が原因だったという。「丹下左膳余話/百万両の壺」の公開はちょうど死の2週間前の1935年6月15日だったから、映画の大ヒットが彼の耳に届いたであろうことが、せめてもの救いである。

*22 千葉伸夫「評伝山中貞雄」220ページ
*23 平井輝章「実録日本映画の誕生」143ページ 沢村国太郎の証言。

*24 「映画100物語/日本映画篇」41ページ
*25 平井輝章「実録日本映画の誕生」143ページ
       
 
 



「丹下左膳余話/百万両の壺」(1935年日活)
(「実録日本映画の誕生」139ページ)
 

 
 
 今日、「丹下左膳余話/百万両の壺」は、高い評価を得ている。例えば、1995年に選出された「日本映画オールタイムベストテン」(キネマ旬報社)では、この作品は9位
で、14位の「忠次旅日記」よりもむしろ高い評価である。これはもちろん、現在ほぼ完全なものを観ることができる作品かどうかということも関係しているのではあろうが。
 大河内伝次郎はこの作品によって、シリアスな演技ばかりではなく、喜劇的演技においてもセンスを発揮していることがよくわかる。
 もっとも、この作品も現在観ることができる版には欠落があり、丹下左膳がならず者たちと立ち廻りを見せるチャンバラシーン(写真上の場面)が欠けている。どうやら戦後にGHQの検閲によって削除されたらしい。その後、そのシーンの一部の無声フィルム17秒分が発見され、ビデオ・DVDにつけ加えられた。
  
 
 



「丹下左膳/日光の巻」(1936年日活)
星玲子(左)と大河内伝次郎(中央)
(「丹下左膳の映画史」101ページ)
 

 
 
 「丹下左膳余話/百万両の壺」の公開にあたって、「完結篇は改めて作る」というのが条件だったが、実際には完結篇どころか、戦後になるまで大河内伝次郎は丹下左膳を演じ続けることとなる。
 その改めて作られることとなった完結篇とは、「丹下左膳/日光の巻」(1936年日活)。監督は渡辺邦男(1899〜1981)。渡辺邦男は、早撮りで知られているが 、この「日光の巻」は撮影日数16日と、当時としては早撮りの新記録であったそうだ。翌年には「丹下左膳/愛憎魔犬篇」「完結咆哮篇」も作られたが、3本とも僕は観ていない。評価のほうは「伊藤監督と山中監督をミックスしたものを狙ったようだが、中途半端の作品となった
(*26)」そうである。この作品を最後に大河内は日活を退社、東宝に移籍することとなる。

 東宝でも大河内は丹下左膳を演じ続ける。林不忘亡き後、川口松太郎(1899〜1985)が和子未亡人の許可を得て、1938年から「新編丹下左膳」を執筆していた。その「新編丹下左膳」が、東宝で「妖刀の巻」(1938年)、「隻手の巻」、「隻眼の巻」( 共に1939年)、「恋車の巻」(1940年)の4部作として映画化されている。物語は、丹下左衛門夫妻の息子として生まれた丹下左市が、隻眼隻腕となりながらも、両親の仇を追い求めるという、これまでの「丹下左膳」の物語の以前を描いたものであった。しかしなぜか、幕末の人物である千葉周作(1793〜1856)が登場し、左市はその弟子ということになっている。確か、林不忘の作品では、左膳は大岡越前守忠相(1677〜1752)と同時代の人物ではなかったか。時代背景がめちゃくちゃになってしまっている。
 この4部作のうちでは、中川信夫(1905〜84)が監督した「第三篇 隻眼の巻」のみフィルムが現存し、僕も観る機会があった。丹下左膳の前身・丹下左市(大河内伝次郎)は、登場した時にすでにもう右手が無い。どうやら前作で斬られてしまったようなのだが、映画の中でその説明は無い。右目のほうは、この時はまだ残っているが、すぐに仇役の稲葉一徹(進藤英太郎)によって斬られてしまう。この作品の左膳は強いどころか、むしろ弱い。その弱い男が、やがて剣豪になっていくまでの過程が丹念に描かれているという点が、この作品の魅力である 。
 また、左膳を助けた商家の娘・お春を演じる当時15歳の高峰秀子(1924〜2010)が何とも言えず愛らしく、作品に彩りを添えている。
 ラストは、両親の仇の一味を相手にしての左膳の立ち回り。しかしながら、仇を討ち果たす前に、唐突にストーリーが終わる。「第四篇 恋車の巻」に引き継がれているのだが、その続編をもはや永遠に観ることができない我々にとっては何とももどかしい。もっとも、第四篇を観ることができたとしても、消化不良のままであるようだ。中途半端なまま終わって、続編(第五篇)はついに作られなかった らしい。
  
*26 梶田章「大河内伝次郎/人と作品・その魅力のすべて」213ページ
  
 
 



「新編丹下左膳/隻手の巻」(1939年東宝)
右目を斬られる前の丹下左膳(大河内伝次郎)
(「大河内伝次郎/人と作品・その魅力のすべて」257ページ)
 

 
 
 戦後になっても大河内は丹下左膳を演じている。 マキノ雅弘(1908〜93)監督が「新版大岡政談」(1928年日活)のリメイクに挑んだ「丹下左膳」「続丹下左膳」(共に1953年大映)で、大河内は丹下左膳の他に、大岡越前を2役で演じている。
 大河内はこの時55歳。もはや全盛期の冴えは無かった。監督のマキノによると、大河内は「とても二十代でやった丹下左膳を演じようとしても身体がついていかなった
(*27)」らしい。さらに、「私にしてみれば、サイレント時代に撮られた『丹下左膳』を、伊藤先輩が大河内傳次郎のために撮ってやれないわけがよくわかった」「伊藤大輔先輩に見捨てられた大河内傳次郎」とまで述べているから手厳しい。
 この前年に、阪東妻三郎が「丹下左膳」(1952年松竹)に主演した際には、「丹下左膳は自分の作品だから、やめてほしい
(*28)」とまで抗議した大河内であったが、前編に出演して自身の限界を悟ったようである。「第一に脚本(柳川真一)が悪い、第二に昔のように自分が動けない、立ち回りができない、走れない(*29)」ということで、続編への出演を一度は断っている 。
 結局、マキノが脚本を手直すことで、大河内は「続丹下左膳」にも出演することとなった。こうしたいきさつからか、完成した作品は原作をかなりかけ離れたストーリーになっている。
 「丹下左膳」と「続丹下左膳」は共にビデオ・DVDになっているので僕自身も観ることができた。問題の大河内だが、この頃の彼は以前に比べてだいぶ太って貫禄がついている。以前のような素早い動きが出来なくなっているように感じるのも確かである。しかしながら、彼の殺陣には重厚さが加わっていて、まだまだ見ごたえがある。とても55歳という年齢は感じさせない。
 ちなみに「丹下左膳」の最初のほう、小野塚道場に登場する場面で「姓は丹下、名は左膳」のセリフが登場している。さすがに、最初のトーキー作品から30年も経っているからか、彼のセリフは改善されており、はっきり「セイ…サゼン」と聞き取れる。むしろ冒頭のシーンで左膳の主君である饗庭主水正(市川小太夫)のほうがはっきりと「シャゼン」と喋っているぐらいである。
 なお、大河内は翌年にその続編である三隅研次(1921〜75)監督「丹下左膳/こけ猿の壺」(1954年大映)で丹下左膳を演じたが、こちらのほうは僕は観ていない。これが大河内にとって最後の左膳となった。

*27 マキノ雅弘「映画渡世・地の巻」339ページ
   以下の引用も同じ
*28 同書 338ページ
*29 同書 340ページ

     
 
 



「続丹下左膳」(1953年大映)
水戸光子(左)と大河内伝次郎
(「時代小説のヒーローたち」67ページ)
 

 
     
 先にも少しふれたように、大河内以外では、阪東妻三郎が「丹下左膳」(1952年松竹)において丹下左膳を演じている。こちらの作品での丹下左膳のキャラクターは、「丹下左膳余話/百万両の壺」(1935年日活)と同様に明朗なキャラクターとなっている。もちろん、それはそれで魅力的。翌年の「丹下左膳」(1953年大映)での大河内伝次郎の丹下左膳と比べても阪妻はスマートで精悍、丹下左膳のイメージにもあっている。もっとも、阪妻はこの当時体調を崩していたらしく、彼らしい剣戟がほとんど見られないのが残念なところ。阪妻は翌年1953年に脳膜出血によってわずか51歳で急死している。この時もはや阪妻の体はぼろぼろだったのかもしれない。

 大河内の「丹下左膳」「続丹下左膳」(1953年大映)を監督したマキノ雅弘は、彼以外にも、月形龍之介(1902〜70)が左膳を演じた「丹下左膳 二部作」(1936年マキノトーキー)と、水谷道太郎(1912〜99)が左膳を演じた「丹下左膳 三部作」(1956年日活)も手がけているが、残念ながら僕は観ていない。
 そんな中で、戦後の丹下左膳の決定版を挙げるとすれば、大友柳太朗の名を欠かすわけにはいくまい。「丹下左膳」(1958年東映)を皮切りに、計5作品で左膳を演じている。しかも、蒲生泰軒に大河内伝次郎、大岡越前に月形龍之介という歴代左膳役者を脇に従えるという豪華さ。さらに第1作の「丹下左膳」には一風和尚役で初代左膳役者の団徳麿までが出演している。大友の丹下左膳は、阪妻の系統を引く明朗で豪快なキャラクターだったが、これがかなりの人気を博し、シリーズ化された。

 一方、ニヒルな左膳を演じたのは、「丹下左膳/飛燕居合い斬り」(1966年東映)の中村錦之助(後の萬屋錦之介/1932〜97)。これは「こけ猿の巻」を原作としているが、冒頭で左膳が右手右目を失う原因が描かれている点で興味深い。豪快な剣戟も魅力たっぷりである。大友柳太朗が大岡越前役で姿を見せているのも見どころ。

 その他、「丹下左膳」(1963年松竹)で左膳を演じた丹波哲郎(1922〜2006)の場合は驚く ことに右手で演じていたそうである。まさしく「丹下右膳」! と、思ったら実際に「丹下右膳」(1930年東亜キネマ)という作品も存在していたらしい。また、喜劇「てなもんや東海道」(1966年東宝/宝塚映画/渡辺プロ)には、両手のある丹下完膳(田中春男)なるキャラクターが登場 しているそうだ。
 ともかく、このように して時代劇のヒーローとして丹下左膳は親しまれていく。しかしながら、中村錦之助の「丹下左膳/飛燕居合い斬り」(1966年東映)を最後に左膳映画は永らく製作されることなく、近年はすっかり忘れられた存在であった。

 それが、2004年になってテレビと映画で「丹下左膳」が相次いで製作されたのである。 テレビ映画「丹下左膳」(2004年日本テレビ)では、左膳に扮したのは中村錦之助の甥にあたる中村獅童(1972〜)。叔父を思わせるニヒリストぶりを見せる。その左膳の剣戟は、とにかく激しく、見ごたえがある。
 一方の、豊川悦司(1962〜)が左膳に扮した 映画「丹下左膳/百万両の壺」(2004年エデン)は、「丹下左膳余話/百万両の壺」(1935年日活)のリメイクである 。いくつかのシーンが追加されているが、ほぼ忠実にオリジナルをなぞっている。トヨエツの左膳は、ニヒルさの中にユーモアを織り交ぜており、まさしく大河内左膳の血を受け継いでいる。また、オリジナルではカットされているラスト近くの剣戟も再現されている点が興味深い。
 こうした作品によって、若い世代にも丹下左膳が再び知られるようになりつつあるのではないだろうか。
  
 
  ◆最大の剣戟スター大河内  
 



「続大岡政談/魔像解決篇」(1931年日活)
(「伊藤大輔」116ページ)
 

 
    
 大河内伝次郎の魅力は、何よりもその剣戟にあった。「ユーモアとナンセンス」でも紹介したが、1975年に選ばれた「チャンバラスター番付」(1975年7月「週刊読売」)では、大河内は東の横綱・阪東妻三郎に次ぐ、西の横綱に選ばれている。そして、純粋な立ち回りだけで評価した「剣戟ススター番付」
(*30)では、逆に阪妻を抑えて東の横綱になっている。
 大河内の全盛期は1920年代後半から1930年代にかけてであるが、実はこの時期の大河内の立ち回りを完全な姿で見ることは難しい。代表作の「新版大岡政談」 (1928年日活)はフィルムが失われ、「忠次旅日記」も不完全版。「丹下左膳 第1篇」、「丹下左膳余話/百万両の壺」に至っては、剣戟シーンがカットされてしまっている。その上、かろうじてほぼ完全な形で残っている「御誂次郎吉格子」「沓掛時次郎」は剣戟よりも人情に重きが置かれた作品なのである。
 さらに、戦後はGHQ(連合軍最高司令官総司令部)の指導によって、チャンバラのある映画は撮影することができなくなり、1952年に日本が主権を回復した時には、大河内はすでに50代を過ぎていた。
 
 結局のところ、僕らは、不完全な現存作品や断片フィルムを観ることで、大河内全盛期のよすがをたどるしかないようである。幸い、大河内の剣戟シーンを集めたアンソロジー・ビデオ「大河内伝次郎乱闘名場面集」(1983年)がマツダ映画社によって製作されている。このビデオには、伊藤=大河内の「新版大岡政談」や、内田吐夢(1898〜1970)監督の「仇討選手」(1931年日活)など、フィルムが失われた作品の断片が数多く収録されていて、貴重な記録となっている 。
 これらを観ると、例えば「謎の人形師」(1929年日活)におけるスピーディな剣戟や、「素浪人忠彌」(1930年日活)の槍を奮っての剣戟などは、断片的であっても、大河内の殺陣の迫力が伝わってくるだけに、実に残念である。
 大河内は身長5尺3寸(約160センチ)と小柄であったが、その存在感の大きさは、観ていてその身長を感じさせない。晩年の伊藤大輔が1980年に映画評論家の佐藤忠男(1930〜2022)に語ったところによると、「大きい、という点では、大河内傳次郎も大きかった。日本の映画俳優で、大きさとしてはこの二人(注・阪東妻三郎と大河内)にとどめをさす
(*31)」とのことである。大河内はそれだけの風格を備えた、本当のスターであったと言える。
 大河内の殺陣は、つま先立ちになって、ぴょんぴょんと飛び跳ねるような動きを見せる。そうしておいて、斬り終わった後、体を低くし刀を横に構えるポーズを取る。背の低かった大河内が、自らを大きく見せようとしての工夫だったのかもしれないが、それが見事に彼独自の型になっている。
 また、大河内は極度の近眼だったらしい。確かに素顔の彼は、ロイド眼鏡をかけている(写真)。なるほど、彼のにらみつけるような表情は、相手をはっきり見ようとする態度から生まれていたのだ。そして、大河内の殺陣では、相手に対して容赦なく刀を当てるため、撮影現場では生傷が絶えなかったらしい。そういったことも、彼の殺陣に迫力を与えた要因の一つなのではないだろうか。
    
*30 島村功緒「時代劇博物館」211〜229ページ
*31 佐藤忠男「増補版 日本映画史1」272〜273ページ
  
 
 



「黒馬の団七」(1948年新東宝)
(「大河内傳次郎/人と作品・その魅力のすべて」263ページ)
 

 
  ◆大河内山荘  
 



昭和10年頃の大河内
(「大河内傳次郎人と作品・その魅力のすべて」1ページ)
 

 
 
 大スターの末路には2つの道がある。一つは、生涯主役にこだわり続け、主役を演じられなくなった時に引退してしまうというもの。その道を選んだ俳優としては市川右太衛門と長谷川一夫(林長二郎)が思い浮かぶ。その逆に、主役にこだわらず、晩年は脇役に転じる人もいる。嵐寛寿郎や片岡千恵蔵がそうである。
 大河内伝次郎は間違いなく後者で、「丹下左膳/こけ猿の壺」(1954年大映)で最後の丹下左膳を演じてからは、もっぱら脇役を演じるようになる。大友柳太朗主演の「丹下左膳」シリーズ(1958〜61年東映)で も、当初丹下左膳の役を打診されたそうだが、60歳だった彼は「既にその任にあらず、蒲生泰軒を演じたい
(*32)」と答えたそうだ。蒲生泰軒は、「丹下左膳」シリーズにおける主要キャラクターの一人で、飲んだくれの乞食同然の人物。実は大岡越前の盟友で、密偵として活動し、左膳らにも力を貸す。
 大河内は1957年に東映に入社してから、1962年7月18日に64歳で亡くなるまでの5年間で、なんと71本の映画に出演している。ほとんどが脇役だったとは言え、月1本以上のペースである。いったいなぜここまで彼は働いたのだろうか。
   
*32 「大河内傳次郎/人と作品・その魅力のすべて」303ページ
    
 
 



大河内山荘
(現地にて配布の絵葉書より)
 

 
 
 その理由は、京都の嵐山に建てた大河内山荘の建築のためであった。
 先にも述べたように、大河内は、「消えることのない美を求めて」この大河内山荘の建設を1931(昭和6)年に始めている。大河内は当時33歳。当時の映画フィルムは、可燃性で保存が難しく、やがては消えていく運命にあった。実際、大河内の晩年には、「新版大岡政談」(1928年日活)はもちろん、「忠次旅日記」(1927年日活)や「御誂次郎吉格子」(1931年日活)、「丹下左膳」(1933年日活)といった現在観ることのできる作品の多く も失われたとされていたわけだから、彼自身そのことを痛感していたに違いない。それに引き換え、建造物というのは、時代を越えて残されていく。奈良の法隆寺・五重塔(607年創建、現存のものは670年以降の再建)や薬師寺・三重塔(730年創建)などがその最たるもの。大河内が、自身の美意識を後世に残す手段として山荘建築を選んだ理由というのはよくわかる。
  
 
 



大河内山荘入口
 

 
 
 先日、大河内山荘を訪ねてみた。
 大河内山荘へのアクセスは、京福電鉄・嵐山駅もしくはJR嵯峨野線・嵯峨嵐山駅から歩いて行くことになる。あるいは、トロッコ列車のトロッコ嵐山駅で下車すれば、すぐ目と鼻の先である。繁華街からは奥まったところにあり、目の前には竹藪もあってなかなか落ち着いた雰囲気のある場所だ。
 入場料は大人1000円、小学生500円。京都の観光地の中では割合に高い値段のようのも感じるが、お抹茶とお菓子がついてくる。
     
 
 



正面が大乗閣
右手の方にお抹席が見える
 

 
 
 入口から入り、うっそうとした木立の中を抜けると、広場に出る。ここの右手にお抹茶席があり、そこで抹茶とお菓子を食べることができる。見学前でも後でもどちらでも頂くことができるが、今回は最初に頂くことにした。
 この日のお菓子は最中。「大河内山荘」の焼き印の押してあるオリジナルのものであった。季節によっては桜餅などのお菓子になることもあるそうだ。
   
 
 



抹茶と最中


最中には「大河内山荘」と焼き印がある
 

 
    
 お茶とお菓子の後は、さっそく敷地内を観てまわろう。お抹茶席のある広場から、小高い丘を登ると、メインの建物である大乗閣に出る。
      
 
 



大河内山荘・大乗閣
 

 
 
 この大乗閣は、寝殿造、書院造、数寄屋造さらには民家の建築様式を合わせた物として、大河内の構想に基づき、数寄屋師の笛吹嘉一郎(うすい・かいちろう)の手によって建てられた。
 また、庭園は回遊式借景庭園で、やはり大河内が庭師・広瀬利兵衛と共に築いたもの。比叡山などの山並を美しく見渡すことができる。
    
 
 



大河内山荘より山並を望む
  

 
 
 結局、山荘の建設は、大河内が亡くなるまで30年以上に渡って続けられた。まさしく執念という外ない。
 庭園内に小さな祠・持仏堂がある。この持仏堂は、現在の大河内山荘の建物の中で、最初に建てられたものだそうである。大河内の母親は熱心な仏教徒で、彼もその影響で仏教に帰依していたらしい。大河内の妻・妙香も、大分の浄土真宗西本願寺派寺院の住職の娘である。大河内は、関東大震災(1923年)の時から、持仏堂建設を念願としていた。彼はこの持仏堂を建設すると、撮影の合間にもここで念仏を唱え、瞑想し静寂を得たという。
 こうした宗教的なモチベーションもまた、彼の山荘建設への情熱を支えていた要因の一つなのだろう。
  
 
 



持仏堂
 

 
 
 順路に沿って大河内山荘を歩くと、その最後に大河内伝次郎記念館に出る。ここでは、映画スター大河内伝次郎の生涯について振り返ることができる。最大の当たり役・丹下左膳を始めとしたスチールなどが展示してあるが、あまり詳しい展示ではないので、正直言うと少々物足りない。テレビモニターでは、彼の出演映画の一部が見られるようになっているのだが、故障なのかこの時は動かなかった。
    
 
 



記念館
 

 
 
 大河内山荘からは、京都の町が一望できる。敷地の外の景色までもが、見事に風景として組み込まれた「借景」庭園の見事さを見せている。今回は、夏の緑の中を訪れたが、いずれ機会を改めて春や秋の光景も見てみたいと強く感じた。
 
 
 



大河内山荘すぐ近くの竹林
 

 
 
 大河内伝次郎が亡くなってからすでに45年以上が経っている。もはや大河内伝次郎を知らない人たちも多いことであろう。だが、例え彼の名前が完全に忘れ去られたとしても、この大河内山荘だけは残っていくに違いない。
 彼が生涯をかけて追い求めた「消えることのない美」は、彼の狙い通りに、後世へと受け継がれていくことになるのである。
 
 
 

(2009年12月31日)

 

 
(参考資料)
マキノ雅弘「マキノ雅弘自伝/映画渡世・地の巻」1977年8月 平凡社
富士正晴「大河内傳次郎」1981年6月 中公文庫
「講座日本映画史2/無声映画の完成」1986年1月 岩波書店
別役実「馬に乗った丹下左膳/エッセイ集」1986年6月 リブロポート
島野功緒「時代劇博物館(パビリオン)」1988年5月 毎日新聞社
「大アンケートによる日本映画ベスト150」1989年6月 文春文庫
平井輝章「実録日本映画の誕生」1993年7月 フィルムアート社
梶田彰「大河内傳次郎/人と作品・その魅力のすべて」1993年9月 朝日ソノラマ
大井廣介「ちゃんばら藝術史」1995年9月 深夜叢書社
佐伯知紀編「[映画読本]伊藤大輔/反逆のパッション、時代劇のモダニズム!」1996年1月 フィルムアート社
佐藤忠男「日本映画の巨匠たちT」1996年10月 学陽書房
工藤英太郎「丹下左膳を読む/長谷川海太郎の仕事」1998年3月 西田書店
磯田啓二「熱眼熱手の人/私説・映画監督伊藤大輔の青春」1998年8月 日本図書刊行会
千葉伸夫「評伝 山中貞雄/若き映画監督の肖像」1999年10月 平凡社ライブラリー
縄田一男、永田哲朗「図説 時代小説のヒーローたち」2000年10月 河出書房新社
石割平「日本映画興亡史U/日活時代劇」2002年3月 ワイズ出版
田中照禾「資料が語る 丹下左膳の映画史/大河内伝次郎から豊川悦司まで」2004年12月川喜多コーポレーション
佐藤忠男「増補版 日本映画史T」2006年10月 岩波書店


「日本映画を代表する最高作品ベスト・テン」1959年7月「キネマ旬報 236」
「特集 甦るフィルム 甦った『忠次旅日記』」1992年12月 「キネマ旬報 1095」


吉川英治「治郎吉格子/名作短編集(一)」1990年9月 講談社・吉川英治歴史時代文庫
林不忘「丹下左善(一)乾雲坤竜の巻」2004年5月 光文社文庫
林不忘「丹下左膳(二)こけ猿の巻」2004年6月 光文社文庫
林不忘「丹下左膳(三)日光の巻」2004年7月 光文社文庫
 


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