第2章−サイレント黄金時代(23) | ||
完全無欠のスーパーヒーロー 〜尾上松之助〜 |
||
|
||
小学生の頃から、時代劇が大好きだった。僕の家から歩いて5分のところに祖父母が住んでいたので、母親が留守の時など、よく祖父母の家で夕食を食べたものだった。祖父が時代劇が大好きだったので、僕も自然とテレビの時代劇を観ることが多くなった。思えば、僕が小学生だった1980年代のテレビの時代劇はそうそうたるラインナップであった。今に続く長寿シリーズ「水戸黄門」(1964年〜TBS)で水戸黄門を演じていたのは初代の東野英治郎(1907〜94*1)、助さんが里見浩太郎(1936〜)、格さんが大和田伸也(1947〜)。さらに松平健(1953〜)主演「暴れん坊将軍」(1978〜2003年テレビ朝日)、加藤剛(1938〜2018)主演「大岡越前」(1970〜98年TBS)、大川橋蔵(1929〜84)主演「銭形平次」(1966〜84年フジテレビ)、高橋英樹(1944〜)主演「桃太郎侍」(1976〜81年日本テレビ)、「遠山の金さん」(1982〜86年TBS)と、テレビ史上に残る作品が並んでいる。ところが藤田まこと(1933〜2010)主演の「必殺」シリーズ(1972〜87年TBS→テレビ朝日)に関しては観た記憶がほとんど無い。おそらく祖父があまり好きではなかったのだろう。ちなみに当時の僕の一番のお気に入りは里見浩太郎主演の「長七郎江戸日記」(1983〜91年日本テレビ)であった。 昔も今も、時代劇を好きなのはお年寄りだと相場が決まっている。なぜお年寄りは時代劇が好きなのだろうか。小学生の頃の僕は、年寄りは古いものが懐かしいからだ、と思っていた。だが大正7(1918)年生まれの祖父がリアルタイムで侍を知っているはずがない。当時は最後の江戸時代生まれ泉重千代さん(1865〜1986)も存命中であったが、彼だって慶応元(1865)年生まれだから、明治元(1868)年で3歳。侍を観たとしても微かに覚えているかどうかだ。単に古いものが好きという理由では片付けられない。では、本当はなぜなのだろうか。はっきりとした理由はわからないが、古い時代を生きた日本人にとって時代劇が、今の我々以上に身近な存在であったからなのではないか。浪曲、講談、歌舞伎、あるいは大衆文芸と、僕の祖父を含む我々の先祖は、時代劇を身近なものとして幼少より吸収してきた。つまり時代劇は日本人の体に染み込んでいるものなのだ。もちろん、現在のように娯楽が多様化してしまっていては、今の若者が年寄りとなった時に時代劇が生き残っているかどうかは疑問だ。だとすれば、大変残念なことである。 *1 東野英治郎の黄門様は1983年4月の第13部まで。同年10月の第14部から2代目西村晃(1923〜97)に交替。その後は、1993年から佐野浅夫(1925〜2022)、2001年から石坂浩二(1941〜)、2002年から里見浩太郎となる。 |
||
日本人に深く根付いているものなのだから、当然映画でもその初期の頃から時代劇はさかんに作られてきた。キネマ旬報社の「日本映画200」に載せられた作品のうち、時代劇はわずか38本(19%)である。しかしサイレント期に限れば、29本中11本(38%)が時代劇だから、古い人たちのほうが時代劇を好んでいたことがわかる。時代劇は現代劇と違い俳優が普段着のままでというわけにはいかない。衣装やかつらなどの小道具がどうしても必要で、余計に手間やお金がかかるはずである。にも関わらず、時代劇が盛んに撮られているのだから、日本人の時代劇好きは明らかである。 時代劇が盛んに撮られたのは京都であった。京都に数多くある神社・仏閣が、そのまま時代劇の背景として使えたからである。やがて、京都の太秦(うずまさ)に撮影所が集中し、「日本のハリウッド」と呼ばれたということについては、「受難の映画史」で述べた通り。日本最初の映画監督・牧野省三(1878〜1929/前項参照)は、1907年に映画デビューすると、京都を拠点に時代劇を次々と製作していった。牧野は旅回り芝居の役者であった尾上松之助(1875〜1926)をスカウトし、二人のコンビで次々と作品を生み出していった。この尾上松之助が、日本映画史上最初にして最大のスーパースターとなるのである。 |
||
|
||
尾上松之助は1875(明治8)年に岡山県岡山市西中ノ島町で生まれている。本名は中村鶴三。父は貸し座敷業を営み、芸娼妓を抱えていた。そのような環境から、彼は幼い頃より芸に親しむようになる。そして6歳の時、尾上多見蔵(1797〜1886)一座の「菅原伝授手習鑑」に子役として初舞台を踏む。当時の芸名は尾上多雀(多見雀という説もある)であった。その後、子供芝居で活躍するが、その頃の仲間に後に松之助映画の脇役として活躍する嵐橘楽(1874〜1922)がいた。そして15歳の時、親の反対を押し切って本格的に俳優の道に進む。旅回り役者となり、17歳の時には尾上鶴三郎と名乗っている。1894(明治27)年、19歳で一座を結成すると、1904(明治37)年に2代目尾上松之助を襲名した。「尾上松之助」という名前は、彼が芝居の道に進むきっかけとなった尾上多見蔵の孫・尾上和市の前名であった。 以上のことは、松之助が1917(大正6)年に書いた「尾上松之助自伝」によったのだが、これらの記述には誤りの多いことが指摘されている(*2)。例えば「自伝」には、松之助が市川荒五郎はじめとする関西歌舞伎界の一流俳優と共演していたということが事細かに述べられているが、新聞等の資料でそれらの事実を確認することはできないそうである。また、尾上和市(〜1911)は実際には多見蔵の孫ではなく子に当たり、松之助を名乗ったという事実も無い。そもそも尾上松之助という名前自体、1763年以降しばしば記録に現れてくる名前で、鶴三郎がとくに2代目だというわけでもない。だいいち何のつながりもない旅役者に名跡を襲名させるということ自体が極めて異例である。 松之助映画の全盛期に、彼の最大のライバルとされたのは沢村四郎五郎(1877〜1932)であった。もちろん人気の上では松之助に及ぶべくもなかったのだが、彼はれっきとした歌舞伎の名題俳優。歌舞伎役者としてなんら経歴の無い松之助が、自らの経歴に虚飾を施さざるを得なかったのは、危機感よりもコンプレックスの現われであったかと思われる。松之助自身は「音羽屋」の屋号を名乗っており、自伝等にも「音羽屋 尾上松之助」と署名している。これはもちろん、同じ苗字である歌舞伎の尾上家との連想から自称しているにすぎないのだろう。 *2 三船清「活動写真の大スター尾上松之助」(「日本映画の誕生/講座日本映画1」所収)128〜149ページ 以下、同書を参照とする。 |
||
|
||
牧野省三と松之助の出会いを、牧野の息子・マキノ雅弘(1908〜93)は1908(明治41)年のこととしている。金光教の信者だった牧野は、生まれたばかりの雅弘を連れて岡山の金光教の本部へ赴き、生神さまから「正唯(まさただ)」(雅弘の本名)の名前を授かった。さらに、「この近辺を捜してみろ、いい役者が見つかるぞ、そうしたら活動写真がよくなるぞ」(*3)との教示を授かり、たまたま近くの芝居小屋で興行していた尾上松之助一座の芝居を見に行ったところ、松之助のあまりの身の軽さに驚き、即座に楽屋を訪れて、出演交渉を依頼したという。「生神さま」というのは金光教の3代目教主・金光攝胤(こんこう・せつたね/1880〜1963)のことと思われる(*4)が、果たして本当にそんなお告げを与えたのであろうかとの疑問が浮かぶ。しかも、松之助の自伝では、それに先立つ1904(明治37)年に、大阪で公演中に牧野から招聘があったという。また、当時の新聞広告にも1904年12月から2月にかけて牧野の千本座で松之助一座が公演した記録が残っているそうだ(*5)。となると、この神のお告げのエピソード自体、映画界の伝説の一つにすぎないようである。 いずれにせよ、1907(明治40)年に一度映画製作に乗り出していたものの、採算に合わないことから、いったん映画から足を洗っていた牧野が、松之助を得たことで再び映画製作に乗り出したのは事実である。1909年の「碁盤忠信」(横田商会)を皮切りに、二人のコンビ作は1921(大正10)年の「忠臣蔵」まで実に200本に及んだ。 *3 マキノ雅弘「映画渡世 天の巻」14ページ *4 「金光教小史」(http://www.konkokyo.or.jp/japanes/guide/rekishi.html) *5 「日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉」364〜365ページ |
||
こうして映画に出演することになった松之助は、一躍人気者となった。つけられたあだ名が“目玉の松ちゃん”。特に目が大きいという訳ではないが、目を大きく見開いている点が印象に残ったのだろう。松之助は背が低くて顔が大きい、マキノ雅弘によると「典型的な役者顔」(*6)であった。当時の映画はカメラを据えっ放しにし、場面全体を撮影していたから、大男ではカメラを後方に下げなければ全身を映すことができない。顔が大きければ、それだけでサマになったということである。いずれにせよ、彼は牧野省三の下で、日本映画最初のスーパースターとなった。 松之助は全盛期には年間80本の映画に出演していた。そして、生涯に主演した映画の数が1003本。半端無く多い。彼は主に講談の主人公を演じた。フィルモグラフィを眺めると、講談の主人公に関して言うなら、彼が演じなかった役は無かったと言ってもいいのではないか。宮本武蔵や荒木又右衛門、塚原卜伝といった剣豪から、木下藤吉郎や明智光秀、真田幸村などの戦国武将、坂本竜馬や大塩平八郎ら幕末の志士、清水次郎長や国定忠治といった侠客、釈迦や親鸞といった僧侶に、石川五右衛門や鼠小僧といった盗賊まで実に多岐に渡っている。歌舞伎の出身らしく、「四谷怪談」のお岩や春日局など、時には女形をも演じていた(写真下)。水戸黄門や大岡越前、松平長七郎といったTV時代劇のヒーローもたいてい彼によって演じられている。後に嵐寛寿郎(1903〜80)が当り役にした鞍馬天狗も、彼より先に松之助が演じた(写真上)。奥田久司(1908〜87)の調査によると、松之助が演じた役で最も多いのは大石内蔵助の計20回。以下、水戸黄門13回、大久保彦左衛門10回、荒木又右衛門、石見重太郎各9回、佐倉宗五郎8回、堀部安兵衛7回、三日月次郎吉、笹野権三郎各6回、山中鹿之助、梁川庄八、塚原卜伝、児雷也、国定忠治、鞍馬天狗各5回、一心太助、祐天吉松、清水次郎長、神崎与五郎、宮本武蔵、花川戸助六、霧隠才蔵、後藤又兵衛、猿飛佐助、幡随院長兵衛、柳生十兵衛各4回となる(*7)。 ただ、松之助の主演作1003本という数字には多少の疑問が残らないでもない。というのも、資料で確認できる松之助の主演作は970本前後にしかならないからである(*8)。1003本という数字の根拠はおそらく、1925(大正14)年製作の「荒木又右衛門」(日活)が「松之助1千本記念映画」として製作されているということと、その後亡くなるまでの約1年間に「国定忠治」(1925年日活)」、「実録忠臣蔵」(1926年日活)、「侠骨三日月 前篇」(同)の3本に主演していることである。しかし、どこからどこまでを1本の作品と考えたらいいかという問題がある。当時は映画のプリントは1本きりしか作られず、その分濫作して数を間に合わせたというから、場合によっては旧作に新しいシーンを付け足したり、あるいは再編集した物もあったに違いない。ひょっとしたら、題名を変えただけということもあっただろう。例えば、松之助が得意とした役柄に岩見重太郎があるが、1911年に「岩見重太郎」に主演した後、1913年(「岩見重太郎一代記」)、1914年(「岩見重太郎」以下の作品も同タイトル)、1917年、1919年、1920年、1922年、1924年にも同じ役を演じている。このうちのいくつかが同じ作品であった可能性は否定できない。 もちろん、1000本という数字に誇張があったとしても、彼が日本で一番多くの映画に出演した俳優だというのは揺るがないと思われる。「日本映画データベース」で彼に次ぐ出演数の俳優を探すと、499本の月形龍之介(1902〜70)というのが見つかる(参照)。作品数では松之助の半分だが、彼の場合デビューが1923(大正12)年だから、その作品のほとんどは長編であったはず。それに対し、松之助の作品はほとんどが60分以下の短編と思われる。もちろん、主役から悪役、脇役まで幅広くこなした月形に対し、ほぼすべての作品で主演した松之助とを、単純に比較するのは難しいところである。主役級スターでは、他に嵐寛寿郎が338本(参照)、片岡千恵蔵(1903〜83)が325本(参照)である。 ひょっとしたら世界一かもしれないと思って、「ギネスブック」2005年版を調べてみた。それによると、最も多くの映画に出演した俳優は田中絹代(1909〜70)の241本で、現役ではクリストファー・リー(1922〜2015)の211本(2003年時点)が最高となる(*9)。二人とももちろん、松之助の記録には遠く及ばない。もっともギネスの記録は、最も確実なデータを用いなければならないため、上記の通りフィルモグラフィに不確かなものが含まれる松之助では、どうしても認定されにくくなる。ちなみに、「日本映画データベース」によれば、田中絹代には258本の出演作がある(参照)が、100本前後あるサイレント作品のうちのいくつかが不確かなものとして省かれているのだろう。 *6 マキノ雅弘「映画渡世 天の巻」19ページ *7 「日本映画200」14〜15ページ *8 「日本映画200」14ページ なお「日本映画データベース」には965タイトルが収められている。 *9 クレア・フォルカード編「ギネス世界記録2005」154ページ クリストファー・リーは、その後少なくとも「クリムゾン・リバー2」(2004年仏)、「The Last Unicorn」(2004年米)、「コープスブライド」(2005年米)、「スター・ウォーズ エピソード3」(同)、「チャーリーとチョコレート工場」(同)、「Grayfriars Bobby」(2005年英)、「Cowboys for Christ」(同)の7本に出演しているので、2005年現在で出演作は218本ということになるはずである。 |
||
それでは、松之助の作品を観ていくことにしたいのだが、実は松之助の作品で今日現存しているものは極めて少ない。ほぼ完全な形で残っているのはおそらく「渋川伴五郎」(1922年日活)のみだと思われる。それと総集編の「尾上松之助の忠臣蔵」(1910〜17年横田商会)と、15分のみ現存の「豪傑児雷也」(1921年日活)。この3本は今日でも比較的観れる機会が多い。その他に「弥次喜多 善光寺詣りの巻」(1921年日活)と、最晩年の主演作「実録忠臣蔵」(1926年日活)の20分が現存しているが、残念なことに僕は観ていない。それにしても、約1000本に主演していながら、残っているのがたったの5作品とはさびしい限り。実に99.5%が失われてしまっているという計算になる。そんな状況 下で果たして僕らは、松之助の真価を測ることができるのであろうか…。 |
||
|
||
松之助の最も古い作品である「尾上松之助の忠臣蔵」(1910〜1917年横田商会)は「受難の映画史」「大君降臨」でも紹介した通り、現存最古の長編日本映画でもある。松之助はもちろん大石内蔵助を演じているが、同時に浅野内匠頭にも扮する。さらに、吉良家の付け人・清水一角(一学)も松之助とのこと。つまり、この映画、どの場面を観ても松之助が出ているのである。当時の観客は、松之助が出ていなければ満足しなかったし、松之助さえ出ていれば満足したのだ。1912年(大正元)年に日活創立記念として、横田商会時代の作品を再編集した4時間に渡る「忠臣蔵」があるが、これが現存作品のもとになったと 考えられる(*8)。大部分は1910(明治44)年に製作されたと推測される。マキノ雅弘によると、牧野省三が製作した通し狂言としての「忠臣蔵」は全部で5作品(*9)。そのうち「尾上松之助の忠臣蔵」に取り入れられている可能性があるのは、1912年と1914(大正3)年の「忠臣蔵」である(その他は1920年「忠臣蔵」、1921年「実録忠臣蔵」、1928年「実録忠臣蔵」)。どちらの作品でも松之助が大石を演じ、1912年版では浅野をも演じている。ところが、清水一角を演じているのは両作品とも松之助ではなく、中村仙之助(1884〜1956)となっているではないか。ということは、別の短編作品が挿入されているだろうか。ただ、松之助のフィルモグラフィに、タイトルロールとしての清水一角を演じた作品は見当たらない。もっとも大石内蔵助だけで20回、他の義士役を含めるとそれこそ無数の「忠臣蔵」映画に主演した松之助である。清水一角を二役で演じた作品があったとしても不思議ではない(*10)。しかし、自伝で彼があげた出演作品とその役名の一覧に清水一角の名前は見られない(*11)。また、評論家の大井廣介(1912〜76)や俳優の高木新平(1902〜67)が殺陣の形が異なることから、一角を演じたのは松之助では無いだろうと疑問を呈している(*12)のが気になるところだが、当然僕には確認のしようがない。 *8 佐藤忠男「日本映画史4」148ページ *9 マキノ雅弘「映画渡世 天の巻」109ページ *10 「日本映画データベース」には、「忠臣蔵」(1910年横田商会)、「忠臣蔵」(1912年横田商会)、「十二時忠臣蔵」(1917年日活)で松之助が大石と同時に清水一角を演じたとあるが、真相は不明。 *11 尾上松之助、中村房吉「目玉の松ちゃん」43〜70ページ *12 大井廣介「ちゃんばら藝術史」34ページ |
||
|
||
「豪傑児雷也」(1921年日活)は、松之助が妖術使いの児雷也を演じる忍術映画である。児雷也(あるいは自雷也・自来也とも)は、大蝦蟇の妖術を使う神出鬼没のヒーローであるが、もともとは中国の盗賊物語にヒントを得ている。宋の沈俶が編纂した説話集「諧史」に収められた盗賊「我来也」の物語。この我来也は、盗みに入った家の門や壁に白粉で「我来也(われきたるなり)」という言葉を書き残していく。このエピソードを翻案して感和亭鬼武(1760〜1818)が「報仇奇談自来也説話(かたきうちきだんじらいやものがたり)」を書いている。さらに、1839(天保10)年に美図垣笑顔(みずがきえがお/1789〜1846)によって書き始められた合巻「児雷也豪傑譚」は、その後一筆庵主人(渓斎英泉/1791〜1848)、柳下亭種員(1807〜58)、柳水亭種清(1823〜1907)と引き継がれ、1868(明治元)年まで書き継がれたが、結局未完に終わっている。これが今日の児雷也物語の原型となった。1852(嘉永5)年に河竹黙阿弥(1816〜93)によって歌舞伎狂言「児雷也豪傑譚話」が書かれ、江戸河原崎座で上演された。また、多くの作家が小説の題材として児雷也を取り上げている。 児雷也の物語は、「児雷也豪傑譚」に従うと次の通りである。謀叛を起こして滅ぼされた肥後の豪族の遺児・尾形周馬弘行は、家臣の手で信濃へ逃れ、家臣の子・太郎として育てられていた。だが太郎が13 歳の年、養父は強盗によって殺され、義妹・深雪は拐わかされてしまう。父の仇と義妹を探して旅立った太郎は、児雷也と名乗る義賊となった。児雷也は、越後妙高山の仙素道人によって蝦蟇の妖術を授かり、尾形家再興を志す。その児雷也を付け狙うのが、大蛇の妖術を用いる大蛇丸。また、児雷也はナメクジの妖術を操る美女・綱手姫を妻とし、三すくみの妖術合戦を繰り広げる…。 「児雷也」を主人公とした映画は、松之助以降数多く製作されている。それらのほとんどは、大まかな設定とキャラクターを借りただけで、ストーリーはオリジナルに近い。 僕が観た松之助の次に古い作品は「児雷也」(1937年新興キネマ)。セリフや効果音の代わりに音楽と解説を加えたサウンド版で、 「豪傑児雷也」より16年も後の作品にも関わらず、剣戟は様式的で、セットや特殊効果も陳腐。しかしながら、まるで講談を見ているかのように軽妙で楽しく、松之助映画の正当な後継者とも言える。児雷也に扮したのは大谷日出夫 (1909〜71)で、綱手姫役で化け猫映画などで知られる鈴木澄子(1904〜85)が出演している。 戦後では、片岡千恵蔵が「妖蛇の魔殿」(1956年東映)で児雷也(ここでは自来也)に扮している。この作品では両親を殺された自来也の復讐がメインとして描かれているのが、松之助の明るい雰囲気とはほど遠く、何とも言えず暗い。綱手姫がナメクジではなく蜘蛛の妖術を用いるのは、ナメクジでは見栄えが良くないからだろう。先日、新橋演舞場で7代目尾上菊五郎(1942〜)演出・出演の「児雷也豪傑譚話」を観たが、確かにリアルな巨大ナメクジが舞台に出現するのは気色悪かった。千恵蔵は戦前にも「自来也 忍術三妖伝」(1937年日活)で 自来也を演じているが、残念ながらそちらは観ていない。 「怪竜大決戦」(1966年東映)は自雷也(松方弘樹)、大蛇丸(大友柳太朗)、綱手姫(小川知子)がそれぞれ巨大な蝦蟇、大蛇、蜘蛛に変身し、城を壊したりして戦う。明らかに東宝の「ゴジラ」シリーズに触発されたものである。余談だが、この時用いられた蝦蟇の縫いぐるみが後にテレビシリーズ「仮面の忍者赤影」(1967〜68年関西テレビ/東映)に再登場している。 これらの作品と異なり合巻「児雷也豪傑譚」のストーリーやエピソードに比較的忠実なのが、歌舞伎役者の7代目大谷友右衛門(現・4代目中村雀右衛門/1920〜2012)が児雷也に扮した「忍術児雷也」(1955年新東宝)とその続編「逆襲大蛇丸」(同)である。原作の児雷也はその容貌を光源氏や「偐紫(にせむらさき)田舎源氏」の主人公・足利光氏に似せられているのだが、友右衛門の美男子ぶりは、原作の児雷也もかくやと思わせる。原作には、児雷也が美女に化けて悪人に近づくエピソードがある。歌舞伎の舞台であれば、同じ俳優が男女を演じ分けるのはよくあることで、尾上菊五郎劇団の「児雷也豪傑譚話」でも5代目尾上菊之助(1977〜)が、児雷也とその変装である巫女宝子を見事に演じ分けていた。もっともリアルさがもとめられる映画では、なかなかこううまくはいかない。だが、友右衛門の児雷也は敵に近づくために腰元に化ける。その女装ぶりは一瞬、友右衛門と気づかせないほど見事で、さすがは人間国宝となった一代の名女形といったところである。なお、物語が完結せず中途半端なところで終わってしまうのは、未完に終わった原作に敬意を表しているのであろうか。いや、単にシリーズ第3作を予定していたからだろう。 最近では、山田風太郎(1922〜2001)原作の「くノ一忍法帖 自来也秘抄」(1995年キングレコード=テレビ東京=東北新社)に自来也が登場する。江戸時代の享保年間、藤堂藩の乗っ取りを企むくノ一軍団の前に、自来也と名乗る白装束の謎の忍者が現われ、彼女らの企てを妨害する。くノ一軍団を影で操る服部蛇丸(伊藤敏八)や、くノ一OGの綱手の方(速水典子)といった人物が登場。もちろん、児雷也の物語とは直接関係無いのだが、くノ一軍団の繰り出す精水波、曼陀羅華、舌乱舞などといったユニークかつエロチックな忍法が見所となっている(*13)。 また、子供向けの特撮ヒーロー物でも、児雷也を髣髴させるキャラクターが活躍を見せている。「世界忍者戦ジライヤ」(1988〜89テレビ朝日/東映)では、戸隠忍者流の正統・山地闘破(筒井巧)が、ジライヤスーツを装着し、磁雷矢と名乗り、世界忍者や妖魔一族という戦う。あいにくこの頃は僕はすでに中学生で、さすがにこの種の番組は観ていなかった。ビデオも未発売のため未見である。その後の「忍者戦隊カクレンジャー」(1994〜95年)は、鶴姫(広瀬仁美)に率いられた、サスケ(小川輝晃)、サイゾウ(土田大)、セイカイ(河合秀)、ジライヤ(ケイン・コスギ)という忍者の末裔たちがカクレンジャーに変身し、封印から解かれた妖怪達と戦うというもの。主人公たちの先祖の忍者は、言うまでもなく猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、児雷也である。ニンジャブラックに変身するジライヤに扮するのはケイン・コスギ(1974〜)。実際の彼と同様アメリカ生まれと言う設定で、日本語が得意でないことになっている。 アニメ化もされている岸本斉史(1974〜)の人気漫画「NARUTO―ナルト―」(1999〜2014年集英社)は、一人前の忍者を目指し修行に励む少年忍者うずまきナルトの活躍を描いている。そのナルトの師匠として彼に様々な忍術を授ける伝説的忍者の名前が自来也である。また、ナルトたちの忍びの里“木の葉隠れの里”の乗っ取りを企む敵方の忍者のボスが大蛇丸。さらには、木の葉隠れの里の支配者“火影”となるのが綱手姫である。3人はそれぞれ、口寄せの術で大蝦蟇、大蛇、大ナメクジを呼び出すことができ、「怪竜大決戦」さながらの3すくみの戦いが展開される…。児雷也の名前は、このようにして、今日の若者たちにまで綿々と受け継がれているのである。 *13 「Vシネマ版『くノ一忍法帖』」(http://www.geocities.jp/waarschtat/yamafuh/report.html)参照 |
||
|
||
さて、松之助自身が児雷也を演じた作品は全部で5本ある。「児雷也」(1914年日活)、「二代目児雷也」(1917年日活)、「児雷也豪傑譚」(1918年 日活)、「豪傑自雷也」(1921年日活)、「児来也」(1925年同)。その他にも「児雷也お照」(1914年日活)という作品がフィルモグラフィに見られるが、どのような作品かはわからない。現存する「豪傑児雷也」は、1920(大正9)年に日活に入社した片岡松燕(1895〜1943)と、1925(大正14)年に日活を退社する片岡長正(1887〜)が出演していることから、1921(大正10)年の作品と推測されている(*14)。 松之助の身のこなしの軽やかさは、牧野省三がほれ込んだだけのことはある。それに加えて、児雷也は姿を消したり空を飛んだり、また水攻めや、蝦蟇に変化したりと様々な妖術を特殊効果を使って見せる。痛快なことこの上ない。松之助は児雷也以外にも猿飛佐助や霧隠才蔵を何度も演じているし、「怪傑忍術五郎」(1916年日活)、「甲賀右門(甲賀流忍術)」(同)、「豊大公御前忍術競」(1920年日活)などの忍術映画を数多く撮っている。当時、子供達の間では忍術ごっこが大流行。高い所から飛び降りて怪我をする子供が出て、問題となったそうである。そこで牧野省三も1916(大正5)年以降は、忍術よりもトリックを重視した作品を撮るようになった。その結果が、例えば「豪傑児雷也」で忍者達が蝦蟇、大蛇、ナメクジにそれぞれ変身して3すくみとなるような、のどかなトリック撮影に表れている。次の「渋川伴五郎」(1922年日活)にも、妖怪が大蜘蛛に変身する特殊効果が登場する。 *14 平井輝章「実録日本映画の誕生」35ページ |
||
|
||
「渋川伴五郎」(1922年日活)が製作された当時の松之助は公私共に慌しい時期であった。1921(大正10)年に日活を独立した牧野省三の後釜として日活関西撮影所長となり、1922(大正11)年には取締役となる。1922年3月には旅役者時代からの仲間である 共演者の嵐橘楽が病死。5月に妻が、8月に母親が亡くなり、心身ともにめっきり衰えを見せたそうだ。果たしてそのような状況下で、映画の製作に専念できたかどうかは疑問だが、今日ほぼ完全な残された松之助映画がこれしかない以上、これを観て松之助を語るしかない。幸いなことに「渋川伴五郎」はビデオ化されていて、容易に観ることができる。以下は、澤登翠の活弁トーキー版を観て話を進めていくことにしたい。 松之助が演じるのは主人公の渋川伴五郎。恥ずかしながら、僕は全然知らなかったのだが、講談ではお馴染みの人物らしい。松之助は1915(大正4)年と1920(大正9)年にもやはり渋川伴五郎を演じている。しかも、この渋川伴五郎は、渋川流柔術の師範として実在した人物である(*15)。渋川流は開祖の渋川伴五郎義方(1652〜1704)を筆頭に多くの師範が「渋川伴五郎」を名乗っているため、映画のモデルとなったのがどの渋川伴五郎かはわからない。 *15 「渋川流」(kobe.cool.ne.jp/ikkansai/shibukawaryu.htm) |
||
|
||
映画の主人公の伴五郎は、道場の2代目の若師範という役どころ。映画は、浅草観音境内で、同じ道場の弟子である黒崎典膳(大谷鬼若)に絡まれている田舎から出てきた親子を伴五郎が助ける場面で幕を開ける。このことで伴五郎は典膳の恨みを買ってしまう。 その後、両国回向院では相撲大会が行われている。飛び入り相撲で禁じ手の逆手を用いて力士を負かした亘郷太夫(坂東巴左衛門)を、伴五郎は柔術で懲らしめる。だが、道場以外で柔術を用いたと言う理由で、伴五郎は父幡龍軒(嵐璃珀)から勘当を言い渡されてしまう。この場面で、郷太夫や力士たちはいずれも肉襦袢を着ているのが奇妙に感じる。松之助が力士の桂川力蔵を演じた映画の写真(写真下)を見ても、同様の肉襦袢姿。「渋川伴五郎」の相撲場面の冒頭で、曲芸のような取り組みを見せる力士たちはきちんと裸になっていたことを考えると、当時はスターが素肌をさらすことに抵抗があったのだと思われる。それが数年後の「雷電」(1928年マキノ)では、根岸東一郎(1899〜1949頃)やマキノ雅弘といった主役級俳優もきちんと素肌をさらすようになる。 さて、道場を出て魚屋になった伴五郎は、東西の大関の喧嘩を見かけたことで仲裁に入る。その際に伴五郎は植えてあった松の木を根こそぎ引き抜いて、その木を持って二人の間に割って入るという豪快ぶりを見せる。このことがきっかけとなり、伴五郎は有馬侯(市川寿美之丞)の取り成しで父の許しを得る。そして、霧島山の妖怪大蜘蛛(実川延一郎)の退治を命じられるのであった…。 クライマックスは妖怪と伴五郎の一騎討ち。妖怪は、大きな蜘蛛の正体を現したかと思えば、歌舞伎の「土蜘蛛」の姿になって、手から糸を投げ出し、伴五郎をがんじがらめにする。 一方、幡龍軒は破門にした典膳らの闇討ちにあう。伴五郎の妹・千代乃(片岡松燕)とその許婚・佐々木宗平(尾上松三郎)は、そのことを伴五郎に知らせようと旅立つのであった…。 |
||
|
||
松之助と決別した牧野の下で、「雄呂血」(1925年阪東妻三郎プロ)や「江戸快賊伝 影法師」(1925年マキノ)を始めとするリアルな時代劇が製作されていくのは、これからほんの数年後のことである。ところが、そうした作品群とこの「渋川伴五郎」との間には数年どころか1時代も2時代も隔たっているかのような印象がある。例えば、「雄呂血」ではカメラの細かい切り替え(カットバック)が駆使されているのに対し、「渋川伴五郎」ではカメラはほとんど動かず、また字幕もほんのわずかである。さらに、柔術の場面では、戦っている二人はお互いではなく、画面のほうばかり見ている。妖怪との戦いでも、松之助はカメラのほうを向いて動きを止めて、見得を切る。歌舞伎ならここで「音羽屋!」と掛け声がかかるのだが、ひょっとしたら、当時の観客は本当にスクリーンに向かって掛け声をかけていたかもしれない。 さらに、「尾上松之助の忠臣蔵」や「豪傑児雷也」同様、女優でなく女形が出演している。猟師の娘およね役の片岡長正と、妹・千代乃役の片岡松燕は共に数々の松之助映画でヒロインを演じてきた女形である。「豪傑児雷也」でも綱手姫を演じていた長正は、女優を見慣れた目でも十分美しく見えるし、松燕もマキノと競作となった「燃ゆる渦巻」(1924年日活)で、マキノの女優より美しいと評判になったそうである(*16)。二人とも後に立役(男の役)に転じている。 日本映画では長い間、現代劇を新派映画、時代劇を旧派(旧劇)映画と呼んで区別してきた。一方、牧野らによって製作されたリアルなチャンバラ映画は、「時代劇」と呼ばれるようになる。旧態依然とした旧派映画も松之助らによって製作され続け、長く人気を保った。「渋川伴五郎」はまさにその旧派映画の頂点に位置すべき作品だと言えよう。 「渋川伴五郎」に佐々木宗平役で出演している尾上松三郎は後の監督・池田富保(1892〜1968)である。彼は役柄と同様、実生活でも松之助の妹の夫であった。1924年に監督に転向してからは、松之助の作品の多くを手がけることになる。そうして、松之助の晩年の作品は、池田によって様々な改革が試みられることとなった。声色弁士ではなく字幕を、女形でなく女優が用いられ、クローズ・アップやカット・バックといった手法が取り入れられた。そうして彼の1000本記念作品として「荒木又右衛門」(1925年日活)が製作されるのである。 *16 三船清「活動写真の大スター尾上松之助」(「日本映画の誕生/講座日本映画1」所収)134〜135ページ |
||
|
||
「荒木又右衛門」が松之助の1000本目の作品ということについては、先にも述べたように正確ではない。しかし、これまでの松之助映画の集大成ともいうべき大作に仕上がったものと思われる。思われる…というのはもちろん、現在フィルムが残っておらずまったく観ることができないからである(*17)。しかし、その長さは17巻にも及ぶものであった。1巻10分前後と考えると、実に3時間近い。そんな長さの作品は、当時は時代劇では「忠臣蔵」ぐらいしかなかったわけであるから、「松之助一世一代の大作」と宣伝されたのもうなずける。実際、当時の興行記録を塗り替えるほどの大ヒットとなった。この頃すでに阪東妻三郎(1901〜53)が新しい時代劇のヒーローとして頭角を現してきており、松之助の人気も下火になりつつあった。松之助自身も死の直前には「これからは阪東妻三郎の時代となるだろう」(*18)と語っていたというが、「荒木又右衛門」によって再び存在感を示すことに成功した。妻三郎の「雄呂血」と、「荒木又右衛門」は奇しくも同じ1925年11月に公開されているが、奥田久司は「相撲の世界にたとえるならば名横綱として君臨した玉錦に対して、新鋭横綱双葉山が台頭して挑んだ、あの名勝負と言うところである」(*19)と評している。 松之助は翌1926(大正15)年にも20巻3時間に及ぶ大作「実録忠臣蔵」(日活)を発表。再び大ヒットさせるが、これが最後の輝きとなる。同年4月「侠骨三日月」(日活)のロケで彦根に赴き、そこで心臓病で倒れる。そのまま9月10日、51歳にて世を去った。 9月16日には日活による社葬が行われている。この時の記録映像が残っているが、約500人の白装束の撮影所員の行列に、沿道に集まった20万人の市民の姿が映っている。その人の渦は路面電車を止めてしまうほどであった。焼香客の中には阪東妻三郎の姿もあった。 *17 荒木又右衛門(1599〜1638)の墓のある鳥取市の玄忠寺の資料展示室には「荒木又右衛門」のフィルム缶が展示されていた。係の人に伺ったところ、部分的だが現存しているとのこと。 *18 「日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉」366ページ *19 「日本映画200」15ページ |
||
|
||
かつてほどではないが、相変わらず時代劇は人気があるようだ。2005年現在、「水戸黄門」は第35部を放送中。ご老公はいったい日本を何周すれば気が済むのだろうか…。そして相変わらず由美かおる(1950〜)演じる疾風のお絹(29部以降。それ以前の役名はかげろうお銀)の入浴シーンが話題となる。由美がレギュラーとなったのは1986(昭和61)年の第16部からだが、驚いたことには、彼女は当時と現在とでまったくというほど印象が変わらない。実は「永遠に美しく」(1992年米)に出てきた不老不死の薬を飲んでいるのだと聞いても僕は信じるだろう。 それはともかく…。子供の頃の僕は、なぜ時代劇では斬られても血が出ないのか不思議で仕方なかった。「桃太郎侍」でも「長七郎江戸日記」でも、主人公は敵のアジトに乗り込んでは、悪人どもをバッサバッサと斬りまくる。現場は当然目も当てられないありさまになっていなければならない。ところが、主人公の服が返り血で朱に染まることもなければ、刃こぼれを起こすということもない。いや、それ以前に単身あるいは少人数で、何倍もの敵を向こうに回していてながら、決して主人公がやられないのはなぜだろう。最近の映画では、主人公と言えども必ずしも不死身ではなくなったが、時代劇の主人公にそんな心配は無用である。どれだけハラハラしようと、最後は主人公が勝つに決まっている。これも子供の頃からの疑問だったのだが、なぜ時代劇の敵は数人がかりで前後左右から同時に主人公に立ち向っていかないのだろうか。さすがの主人公もそれではひとたまりもないではないか。ところが彼らは決してそんな卑怯な真似はしない。それでもって、順番に立ち向かってはやられてしまう。遠山の金さんに至っては刀すら使わず、水に浸した手拭いでもって、敵を懲らしめる。 時代劇の主人公たちは浪人であったり旅人であったりする。にもかかわらず、彼らは常に綺麗な着物を着ていて、月代(さかやき)もきちんと剃っている。もちろん、その正体が実は高貴な身分であるということも多いのだが、それではまわりの人たちから疑われること間違いない。このように、よく考えれば(よく考えなくても)ありえないようなことが時代劇にはよく見られるのだ。しかし、そんな欠点をへつらってばかりいるのは明らかに野暮なことで、そんなことを気にするようでは時代劇を楽しむ資格はない。 時代劇が松之助の様式を嫌い、そこから脱却してリアルなものを生み出すことで発展してきたということはすでに述べた通りである。だが、時代劇には約束事があまりに多い。例えば、水戸黄門であれば葵の御紋の印籠が欠かせないし、金さんは桜吹雪の刺青を見せることになっている。松之助によって映画界に持ち込まれた時代劇の様式 というものが、今日まで消えることなく受け継がれてきているではないか。 |
||
|
||
(参考資料) 加太こうじ「国定忠治・猿飛佐助・鞍馬天狗」1964年4月 三一書房 マキノ雅弘「映画渡世・天の巻」1977年8月 平凡社 「日本の芸談 第6巻 映画」1979年1月 九藝出版 足立巻一「立川文庫の英雄たち」1980年8月 文和書房 「日本映画の誕生/講座日本映画1」1985年10月 岩波書店 平井輝章「実録日本映画の誕生」1993年7月 フィルムアート社 大井廣介「ちゃんばら藝術史」1995年9月 深夜叢書社 佐藤忠男「日本映画史4」1995年9月 岩波書店 尾上松之助、中村房吉「目玉の松ちゃん―尾上松之助の世界―」1995年11月 日本文教出版(岡山文庫) 都築政昭「シネマがやってきた!―日本映画事始め」1995年11月 小学館 「日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉」1996年10月 キネマ旬報社 マツダ映画社「無声映画繚乱 セピア色の獅子たち/日本無声映画名作館『解説』」2000年5月 オールド・ニュー 澤登翠「活動弁士 世界を駆ける」2002年12月 東京新聞編集局 轟夕起夫「歌舞伎、映画、漫画、小説…あらゆるジャンルに児雷也あり」(「児雷也豪傑譚話」プログラム所収)2005年11月 松竹 博文館編集局校訂「児雷也豪傑譚」1898年8月 博文館 今村与志雄訳「唐宋伝奇集(下)」1988年9月 岩波文庫 須永朝彦訳「現代語訳・江戸の伝奇小説5 報仇奇談自来也物語/近世怪談霜夜星」2003年3月 国書刊行会 クレア・フォルカード編「ギネス世界記録2005」2004年12月 ポプラ社 「日本映画データベース」(http://www.jmdb.ne.jp/) |
||
目次に戻る サイレント黄金時代(22)「大君降臨」へ戻る サイレント黄金時代(特別企画)「京都旅情〜映画草創期の京都を歩く〜」へ 進む サイレント黄金時代(24)「美しき叛逆者〜阪東妻三郎『雄呂血』〜」へ進む |