第1章−映画の誕生(5)
青年は荒野をめざす
〜ハリウッドの誕生〜



映画の都ハリウッド
 


 昨年(2001年)、大阪にユニバーサル・スタジオ・ジャパンがオープンした。連日多くの人を集めているとの話であるが、どうも僕には興味がわかない。
 2000年4月。僕は約20年ぶりにアメリカのユニバーサル・スタジオを訪ねた。20年前、6歳の時に訪ねた際は、撮影所見学ツアーを中心とした比較的地味な場所であったように記憶しているのだが、今回はそこがすっかりテーマパークに変化していることに大きな驚きを得た。僕は、自転車に乗ってE.T.の故郷を救いに行き、デロリアンで過去や未来を旅して周り、ジュラシック・パークへの冒険に出かけていた…。

 アメリカのユニバーサル・スタジオはその名の通り、実際の映画撮影の行なわれているスタジオである。スタジオ見学ツアーでは、過去の名作が撮影された実際の現場を見ることができる。「サイコ」(1960年米)のベイツ・モーテルであるとか、「十戒」(1957年米)の割れる紅海など。「ハムナプトラ」(1999年米)の洞窟という、最新映画のセットまでも登場していた。映画好きには興味深い場所である。一方、大阪のユニバーサル・ジャパンが実際の映画の撮影現場であるはずが無く、そういった意味であまり興味が持てないのである。
 



ユニバーサル映画スタジオ
 


 6歳の頃はまだ映画に対する興味も薄かったので感じなかったが、映画ファンとなって初めて訪ねたハリウッドには、感激も一入であった。山肌の大きな“HOLLYWOOD”の看板。スターの名前を刻んだ歩道。そしてチャイニーズシアター前の広場にあるスターの手形と足形の中にはドナルドダックやR2−D2、C−3POのものまであった(写真下)。文字通り映画の都ハリウッド。今回はその都の誕生した頃にスポットを当ててみたい。
 



チャイニーズシアター前広場のスターの手形
左からR2−D2、C−3PO、ダース・ベイダー
(「スター・ウォーズ」より)
 


 映画の都ハリウッドは、アメリカ西海岸の都市ロサンゼルスの北西に広がる丘陵地帯である。ハリウッドとは「柊の林」という意味であるが、19世紀末はその名の通り広大な森林地帯であった。1886年にこの地に移り住んだ不動産業者ウィルコックス夫妻によって命名されたという。なお、日本語でハリウッドを「聖林」と書くのは「柊(Holly)」と「聖なる(Holy)」を混同した誤解に基づくと思われる。けれど、「柊林」と書くよりは、神秘的な感じがして、夢の都にふさわしいような気がする。さらに付け加えると、カリフォルニアに柊は育たないため、実際にハリウッドに柊林があるわけではない。ウィルコックス夫妻が、シカゴにいる友人の別荘の名前を借りて名づけたのだそうである
(*1)
 ハリウッドで初めて映画が製作されたのは1907年頃で、それまでは映画製作はもっぱら東部のニューヨークやシカゴで行なわれていた。その後1911年にネスター・フィルムが最初の撮影所を建設。続いてユニバーサルやパラマウントもこの地に進出し、1918年までには70もの撮影所ができたということである。ハリウッドの気候が良く、1年を通じて雨が少ないと言うことが最大の魅力であった。

*1 清水義範「ムイミダス」(文春文庫)
 

 ハリウッドが発展したもう一つの理由として、エジソンの特許をめぐる闘いがあったことがあげられる。映画の父の一人エジソンは映画の発明者としての自負が強く、ライバルの映画発明者達を次々と特許侵害で訴えていった。当時エジソンの最大のライバルだったのは、エジソンの下から別れたウィリアム・ディクスン(1860〜1935)が設立したアメリカン・ミュートスコープ&バイオグラフ社であった。1897年、エジソンはバイオグラフを特許侵害で告訴。裁判はその後10年もの長きに渡った。

 エジソンは電球を発明した後、電気事業に着手するために設立したゼネラル・エレクトリック社の権利を奪われたことで手痛い痛手を負ってからというものの、こうした特許をめぐる争いに敏感になっていた。エジソンはライバルを次々と告訴し裁判に持ち込むことで、相手を活動不能に追い込んでいったのである。現在もそうだが、当時の裁判には大変な時間と費用を要したのである。発明家として後世に名を残すためにはそうしたライバルとの裁判合戦に勝ち抜かなくてはならなかった。お金が必要である以上、発明家は実業家でなくてはならなかったのである。今日映画の父として名を残しているのがエジソンと、写真フィルムの発明で財をなしたリュミエール兄弟だけであるというのがその証拠と言えるだろう。

 余談になるが、特許を取るには大変な手間がかかるのは今日でも同じらしい。だからこそ弁理士という仕事が存在しているのである。そしてその特許と言うのは必ずしも物に対して生じるわけではない。以前三鷹に行った時、「日本一歌の下手な歌手お敬ちゃんの店」という看板を目にした。「日本一歌の下手な歌手」というのはこのお敬ちゃん(上床敬子)の専売特許であり、他の人が用いることはできないのだそうである。ちなみにその特許を申請したのが 後に首相になる菅直人(1946〜)であったというから驚きである。
 そういえば日本一有名な発明家であるドクター中松こと中松義郎(1928〜)も「政治を発明する」と称して選挙に出馬していたっけ。このドクター中松、選挙公報などでエジソン以上の発明をしたと豪語しているが、そうとう眉唾モノである。彼の発明件数が10数年に渡って一件も増えていなかったことを指摘されたり
(*2)、あげくのはてには永久機関までも発明したと称していて、相当に胡散臭いのだが、それはともかくも彼がしょっちゅう選挙に出続けている所から、かなりの資産家であることは間違いない。発明にお金がかかるのは事実なのだろう。

*2 松沢呉一「『ドクター中松』という珍発明」(「宝島30」1993年11月) 
 

 1907年、エジソンとバイオグラフの裁判に決着がついた。10月、裁判所はエジソンの訴えを認める判決を出す。エジソンはライバル各社に対し、フィルム1フィートにつき半セントの賦課金を支払うのであれば映画の製作・上映を許可するという条件を出した。営業危機に追い込まれた各社はその条件を呑むほか無かった。同年12月、エジソン社を中心に、バイオグラフ、セリグ、ケイレム、エッサネイ、バイタグラフ、ルービン、それにフランスのスター・フィルム(メリエスの会社)、パテの9社は、映画の利益を独占することで合意し、各社の特許を一括管理するためのカルテル、モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー(MPPC)が設立された。
 MPPCは、カルテルに参加できなかった企業の映画撮影・上映を徹底的に妨害した。インディペンデント系の企業は、妨害を避けるためにMPPCの目の届かない土地に映画製作の場を求めた。そここそが、西海岸のハリウッドであった
(*3)

*3 この辺の事情はピーター・ボグダノビッチ監督の「ニッケルオデオン」(1979年米)に描かれている通り。
 

 前項で西部劇の定義とは、西部開拓時代のアメリカ南西部を舞台にしたものであるということを述べた。ところが西部劇の元祖と言われる「大列車強盗」(1903年米)を始め、当時製作された西部劇の大部分は、西部ではなく東部のニューヨークやシカゴで撮影されたものである。厳密な意味での西部劇が製作されるには、映画製作の舞台もまた西部でなくてはならない。そうした意味では、ハリウッドの誕生こそが本当の意味での西部劇の誕生であったと言える。
 



最初の西部劇スター
ギルバート・M・アンダーソン
 


 「大列車強盗」が果たして厳密な意味での西部劇であったかどうか少々疑問が残るが、この映画から最初の西部劇スターが生み出されたことは紛れも無い事実である。ギルバート・M・アンダーソン(1882〜1971)は、地方回りのセールスマンから、ボードビルの舞台に立ち、1902年エドウィン・S・ポーターのもとで映画デビュー。1903年の「大列車強盗」では、強盗団の一人、撃ち殺される乗客、ダンスパーティで足元に銃弾を打ち込まれる男の計3役を演じている。
 1907年2月、アンダーソンは、友人ジョージ・K・スプーアとエッサネイ社を設立した。社名のエッサネイとは、スプーアとアンダーソンの二人の頭文字S&Aを続けたものである。同年の「ブロンコ・ビリーと赤ん坊」に始まる“ブロンコ・ビリー”シリーズで、アンダーソンは主役ブロンコ・ビリーを演じ、観客の圧倒的な支持を得る。シリーズは1914年までに計375本が製作された。ブロンコ・ビリーのキャラクターは、乱暴者であっても女性には優しく、そして悪には恐れずに立ち向かう。もちろん、拳銃も乗馬も腕前は達人である。これらは後の西部劇ヒーローの基本ともいうべきものであったようだ。

  その後、アンダーソンに代わり1910年代にはプロデューサーのトーマス・ハーパー・インス(1882〜1924)が西部劇の世界をリードしていく。彼は時には自分で監督せず、演出を他人にまかせるという、現在行なわれているプロデューサー・システムを確立した人物でもあった。そして、その彼が育てた西部劇のスターこそが、ウィリアム・S・ハート(1870〜1946)であった。 
 少年時代を西部で過ごしたハートは、「ブロンコ・ビリー」を始めとする当時の西部劇に間違いが多いことに憤り、自分の手で正しい西部劇を作ろうと、1914年売れない俳優時代に同室であったインスの元を訪ねた。当時ハートは44歳、今ではもちろん当時としてもかなり遅い映画界入りである。そして同年の「二挺拳銃」を手始めに、次々と西部劇を製作していった。

 と、ここまで1910年代までの西部劇の流れをざっと述べてみたが、アンダーソンの作品や、インスの作品の大半は現在ビデオになっていないため、実は僕は観ていないのである。「シネマ・クラシクス」等で断片的には観ているが、それだけで作品についてあれこれと言うのははっきり言ってフェアでない。文献によると、アンダーソンの作品がアクションを重視したのに引き換え、インスはプロットにこだわった映画を作っていたとのことであるが、観てない以上何も言えない。
 



「鬼火ロウドン」(1918年米)より
ウィリアム・S・ハート(左)とモード・ジョージ
 


 ハートの代表作「鬼火ロウドン」(1918年米)は幸いビデオ化されているので観ることができた。この章の「映画の誕生」(1894〜1912)からはずいぶんと後の時代になってしまうのだが、最後にこの映画について述べることにしたい。監督はハート自身、そしてプロデューサーはもちろんインスである。 

 ハートの演じるのは鬼火とあだ名される樵のボス・ロウドン。仲間と共に街の酒場へやってきた彼は、決闘で倒した酒場のボス・ヒルガード(ロバート・マッキム)から、その酒場と情婦(モード・ジョージ)を手に入れる。やがて、その事実を知らずにヒルガードの母(ガートルード・クレア)が息子に会いにやってくる。真相を知らない母親はロウドンを息子の恩人であると信じるが、良心の葛藤に悩まされたロウドンはすべてを投げうって一人孤独な旅路へと赴くのであった…。
 ハートは映画の中ではこわもてのアンチ・ヒーローを演じ続けた。アンダーソンのブロンコ・ビリーの理想的なヒーローとは好対照である。ハートのキャラクターは「グッド・バット・マン」と称された。心優しき悪人とでも言ったところだろうか。実際、長身で堂々たる体格の中に、腕っ節の強さと、内気そうな表情とを併せ持つハートのキャラクターは「鬼火ロウドン」の中でも活かされている。そしてこの映画そのものも、ハートの人間味豊かな演技と、埃と喧騒を感じさせるリアリズム、小気味のいいテンポとによって、忘れがたい西部劇の名作の一つとなり得ているのである。
 さて僕はこの「鬼火ロウドン」を観ていて、どこかで聞いたような話だなと感じた。そうだ、これは任侠映画のストーリーではないのか。例えば股旅映画のはしりと言われる大河内傳次郎(1898〜1962)主演の「沓掛時次郎」(1929年日活)。主人公の浪人時次郎は、決闘で倒した相手の女房・子供を敵に代わって面倒を見ながら放浪の旅に出る。強くて義理堅く、そして女性にはめっぽう優しいロウドンと時次郎のキャラクターには、どこか重なり合うものがある。原作の長谷川伸(1884〜1963)が戯曲「沓掛時次郎」を発表したのは1928年のこと。1920年に日本で公開された「鬼火ロウドン」から着想を得た可能性もないではない。日本固有のものと思われている任侠・股旅映画だが、案外外国映画からの影響が色濃くあったりするのかもしれない。
 

 ビル・ゲイツ(1955〜)率いる世界最大のソフト会社マイクロソフトは、ここ数年反トラスト(独占禁止)法に違反しているとして、たびたび訴訟を受け、2000年6月にはワシントン連邦地裁によって分割命令が出され た。映画創生期のMPPCとインディペンデントの対立は、1910年代も終わりになるとパテントの力が弱体化していったのだが、1917年に反トラスト法によってパテント自体が違法とされた。
 MPPCの結成は、結果的に見るとインディペンデントの活躍を促すことで映画産業を発展させることとなった。そして何よりも映画の都ハリウッドを誕生させるきっかけとなったのであるから、映画史的には決して無意味なことではなかったと言えるだろう。
  


(2002年2月24日)


(参考資料)
クリストファー・ローレンス/鈴木圭介訳「エジソンに消された男/映画発明史の謎を追って」1992年3月筑摩書房
松沢呉一「『ドクター中松』という珍発明」1993年11月「宝島30」
清水義範「ムイミダス」1994年9月文春文庫
 

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