第2章−サイレント黄金時代(24) | ||
美しき反逆者 〜阪東妻三郎「雄呂血」〜 |
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昨年2005年のNHK大河ドラマはタッキーこと滝沢秀明(1982〜)主演の「義経」だった。実は僕は、大学の日本文学専修の卒業論文のテーマに「義経記」を取り上げていたので、ドラマもとても興味深く見ることができた。ところで、この源義経(1159〜1189)。僕たち日本人が一番好きな歴史上の人物ではないだろうか。 義経を主人公とした文学や演劇は枚挙にいとまがない。かつては田舎芝居で、全然義経とは関係ない芝居を上演していたのに、観客が義経を出せとうるさいので、仕方ないから義経を登場させ、義太夫に「あたりを見まわし義経公。さしたる用もなかりせば、もとの一間へ入りたもう。」と語らせてから引っ込めたという伝説がある(*1)。何よりも“判官びいき”という言葉が生まれ、それは日本人の気質の一つにもなっている。 もちろん、映画にも義経は数多く登場している。ざっとあげれば、萩原遼(1910〜76)監督、中村錦之助(のちの萬屋錦之介/1932〜97)主演「源義経」(1955年東映)と「続源義経」(1956年東映)。島耕二(1901〜86)監督、菅原謙二(1926〜99)主演「新平家物語 静と義経」(1956年大映)。松田定次(1906〜2003)監督、北大路欣也(1943〜)主演「源九郎義経」(1962年東映)など。いずれも二枚目スターが義経に扮する。また、「勧進帳」の映画化である黒澤明(1910〜98)監督の「虎の尾を踏む男達」(1945年東宝)にも当然義経は登場しており、当時18歳の仁科周芳(現・10代目岩井半四郎/1927〜2011)が義経に扮している。最近の作品でも「五条霊戦記 GOJOE」(2000年サンセントシネマワークス/WOWOW)で浅野忠信(1973〜)が遮那王のちの義経を演じていた。 また、テレビドラマ化されることも多く、NHKの大河ドラマでもすでに1966年に4代目尾上菊之助(現・7代目尾上菊五郎/1942〜)主演の「源義経」が、1979年に国広富之(1953〜)が義経を演じた「草燃える」が放送されている。 最近だと奥州藤原三代を取り上げた1993年の「炎立つ」で、野村宏伸(1965〜)が義経を演じている。また、僕が小学生の頃にも2代目中村吉右衛門(1944〜2021)主演の「武蔵坊弁慶」(1986年NHK)が放送されていて、川野太郎(1960〜)が義経を演じていたことを思い出す。 *1 小山観翁「歌舞伎のなかの義経/さしたる用もなかりせば」(別冊歴史読本/源義経のすべて」所収) |
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義経がここまで日本人に愛される理由はなぜかだろうか。それは、義経が多くの意味において日本人の理想的な英雄像であるからだ。 その第一の理由は彼が源氏の御曹子であるという、その家柄の貴さ。とりもなおさず、その貴公子が苦難の生涯を送らねばならないという点が日本人の琴線に触れるのだ。日本人はこうした「貴種流離譚」が好きである。だから、悲劇的な英雄は大抵生存説が唱えられた。義経が蝦夷地からモンゴルに渡ってジンギスカンになったというのもその一つ。そういえば、天下の副将軍が身をやつして諸国を放浪する「水戸黄門」だって、貴種流離譚の一種と言えなくはないか。 第二は容姿が端麗であるという点。なるほど、タッキーの美男子ぶりは義経にうってつけと言える。「平家物語」に義経は「色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいで(*2)」とある。「むかば(向歯)」とは前歯のことで、それがはっきり前に出ているというから、いわゆる反っ歯ということなのだろう。どうも美男子とは思いにくいのだが、史実としてはこれに近かったと思われる。それが、義経を美化する「義経記」になると、絶世の美女・楊貴妃(719〜56)にも見まごうかというほどの美しい容姿となっている(*3)。「牛若丸」(1952年松竹)で当時15歳の美空ひばり(1937〜89)が牛若丸を演じたこともあるぐらいだ。 第三は、武力に秀でている点。一の谷の合戦に際しての奇襲作戦「ひよどり越えの逆落とし」を始めとする、天才策略家としての側面はもちろんのこと、八艘飛びや、京の五条大橋において弁慶を翻弄した華麗な武芸は、個人としても優れた武力の持ち主であったことを証明している。 *2 「平家物語 二/日本古典文学全集30」386ページ *3 「義経記/日本古典文学全集31」81ページ |
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あらゆるヒーローを演じてきた日本映画最初のスーパースター尾上松之助(1875〜1926/「完全無欠のスーパーヒーロー」参照)。彼が義経を演じたという記録は、残念ながら無いようである(*4)。だが、彼が生涯に渡って演じてきたのは、いずれも理想的なヒーローであった。そう、彼の演じるキャラクターは常に正しくて強い。 松之助に代表されるいわゆる“旧劇”映画では、こうした単純明快なヒーローが好んで描かれた。だが、1920年代も半ばになると、非現実的で様式化された旧劇に代わり、よりリアルな剣戟映画、いわゆる“時代劇”が現れてくる。同時にヒーロー像も、非現実的な強さを持った超人ではなく、血の通った現実的な姿となってくるのである。 *4 「牛若丸」(1916年日活)や、横田商会時代の「牛若丸」「堀川夜討」といった作品が資料に見えるが、尾上松之助・中村房吉「目玉の松ちゃん」43〜70ページによると、どうやら松之助は弁慶を演じてい たようである。 |
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1925年に公開された「雄呂血」(1925年阪妻プロ)において“阪妻(バンツマ)”こと阪東妻三郎(1901〜53)は、ただ強いだけではなく、弱さをも併せ持った主人公を演じ、新しいスタイルのヒーローを生み出した。彼はやがて、松之助に代わる日本映画最大のスターとなっていく。 阪妻は、本名・田村傳吉。1901(明治34)年12月14日、東京市神田区橋本町(現・千代田区東神田)に生まれた。高校卒業後、11世・片岡仁左衛門(1857〜1934)に入門して芝居の世界に入る。当時の芸名は「片岡千久満」。その後、小芝居に転じ、浅草吾妻座に入るが、陽の目を見ることはなかった。1920(大正9)年に阪東要二郎(その後 、阪東藤助)を名乗って国際活映で沢村四郎五郎(1877〜1932)映画の端役としてデビュー。1923(大正12)年にマキノ映画に入社。阪東妻三郎を名乗るようになる。芸名の由来は、吾妻座時代の師匠 ・吾妻市之丞の別称である坂東=阪東に、吾妻を逆さにして妻五ロ、ツマゴロウでは語呂が悪いので、妻三郎にしたそうである(*5)。 マキノでも当初悪役専門の大部屋俳優であった。そんな時期に出演した「小雀峠」(1923年)の断片が残っていて、ビデオ「阪東妻三郎乱闘場面集」に一部収録されている。それを観ると、阪妻は出てきたと思ったらあっという間に斬られてしまう。いくら阪妻が弱さを併せ持ったキャラクターを好んで演じたからといって、 スターになってからはさすがにここまで弱いキャラクターを演じることはない。 出世作となったのは、寿々喜多呂九平(1899〜1966)脚本、二川文太郎(1899〜1966)監督の「江戸怪賊傳 影法師」(1925年東亜マキノ/「大君降臨」参照)。1925(大正14)年9月、阪妻はマキノ・プロダクションを脱退し、阪東妻三郎プロダクションを設立した。これは、俳優としては最初の独立プロダクションである。彼は1926(昭和2)年にはアメリカのユニバーサルとの提携を試みるなど、プロデューサーとしても先進的な活躍を見せた。その彼が、「影法師」と同じ寿々喜多脚本、二川監督で、マキノ・プロダクションと提携して製作したのが「雄呂血」である。 *5 「日本映画200」16ページ |
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「雄呂血」は、阪妻自身がオリジナル・ネガを保持していたということもあり、今日欠落部分のない完全な形で現存している奇跡的な作品である。 阪妻が演じるのは主人公の久利富平三郎。彼は漢学塾で学ぶ若侍であるが、家老の息子に喧嘩を吹っかけられたことがきっかけで、塾を破門され、藩からも追放されてしまう。流浪の身となった平三郎は、ふとしたことで捕らえられ、獄につながれてしまう…。誤解に誤解が重なり、平三郎はどんどんすさんだ生活に落ち込んでいき、いつしか町の人たちから「ならず者」と呼ばれるようになる。 それにしても、よくもまあこんなに悪いことばっかり続くものだという感じがしないでもない。 牢を破って逃げ出した平三郎は、赤城の治良三(中村吉松)という顔役に匿われ、用心棒となる。治良三が拐してきた若い侍(春路謙作)の妻は、平三郎の初恋の人・奈美江(環歌子)であった。魔の手が彼女へ伸びようとした時、平三郎は怒りの刃を抜く…。 そこへ、御用提灯を掲げた捕手達が踏み込んでくる。 |
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クライマックスはラストの大立回り。そこでは短いシーンを瞬間的に次々に切り替えていくフラッシュ・バックと呼ばれる手法が用いられ、サスペンスを高めている。そういえば、フランスの巨匠アベル・ガンス(1889〜1981)の大作「鉄路の白薔薇」(1922年仏/「芸術映画の都」参照)でも、列車事故の場面で同様の手法が用いられ、主人公の切迫した心理を表現していたことを思い出すが、「雄呂血」のフラッシュ・バックはそれにも劣らない効果を発揮している。 捕手を斬った平三郎は、死体を見て我に返る。そして、ついに刀から手を離し、捕手によって縄をかけられる。 平三郎は京の町を、悪人として引き立てられていく…。安堵の胸をおろす京の人々。ただ、彼に助けられた若い夫妻が、彼にそっと手を合わせるだけであった。 あらすじを読んでもわかるように、平三郎は決して“格好良い”ヒーローではない。松之助が演じたならば、取り囲む何十人もの捕手を切り伏せなぎ倒し、血路を開いて無事逃げおおせるだろう。だが、阪妻の平三郎は、普通の人間なら当然そうなるであろうように、破れ、捕らえられる。 また、平三郎というのが、たとえ純粋な気持ちを持ち、濡れ衣を着せられているとはいえ、前科者の無頼漢であることは間違いない。もちろん、御曹司の仮の姿などでもない。町の人にとって彼は厄介者以外の何者でもないのだ。こうしたアンチ・ヒーローというものは、松之助の映画では見ることのできないキャラクターであった。そういえば、阪妻の出世作となった「影法師」の主人公も盗賊というアンチ・ヒーローである。 |
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長谷川伸(1884〜1963)の戯曲を原作に、阪妻が主演した「鯉名の銀平/雪の渡り鳥」(1931年阪妻プロ)もそうしたアンチ・ヒーローを主人公とした一篇である。 阪妻が演じる主人公鯉名の銀平は下田の侠客である。銀平は茶屋の娘お市(望月礼子)に惚れているが、お市は銀平の弟分・卯之吉(岡田喜久也)といい仲であった。縄張り争いの出入りのどさくさに紛れて、銀平は卯之吉に果し合いを挑む。だが、彼はお市の嘆きを思うと、卯之吉を殺すことはできず。結局、一人でさすらいの旅に出る…。 数年後、故郷に帰ってきた銀平は、堅気の生活を送る卯之吉・お市の夫婦が、土地のやくざのために苦しめられていることを知る。卯之吉がやくざの親分の元へ斬り込んだ時。銀平も加勢のために後から卯之吉を追う。そして、すべての罪を一人で負うと、捕り方の縄にかかって引かれていくのであった…。 愛する人の幸せを願い、自分のすべてを捨てる銀平は「雄呂血」の平三郎にも相通ずるものがある。このように阪妻が好んで演じ続けた人物像は、屈折した性格を持ち合わせていて、単純明快ではない。こうした、アンチ・ヒーローの理解されない苦しみ、悲哀は、阪妻作品の大きなテーマとなっている。 |
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こういった阪妻の好みは、「砂絵呪縛」(1927年阪妻プロ)にも良く表れている。「砂絵呪縛」は4社で競作されたが、現存するのは日活版とマキノ版(1、2篇のみ)だけで、残念ながら阪妻プロ版はまったく残っていない。ストーリー等については「大君降臨」を参照して欲しい。もっとも阪妻版は、原作に忠実なのは1、2篇のみで、3篇は大きく原作からストーリーが外れるとのことではあるが…(*6)。ただ、注目したいのは、阪妻が演じたのは主人公の勝浦又之丞ではなく、敵方の浪人・森尾重四郎なのである。森尾重四郎は、柳影組に属しながらも、自身の思うままに行動する一匹狼的な人物であって、清く正しい人物とは言い難い。阪妻の森尾は「作中で最も生々と動いている強みがあり、その上ニヒルでデカダン的な、たとえ性格的には多分にあいまいな形であっても、当時としては新しいタイプとしての魅力を持っていた」(*7)とのことである。 「砂絵呪縛」はトーキー以降、阪妻自身が主演した「砂絵呪縛/森尾重四郎」(1936年阪妻プロ)を含め3回再映画化されているが、いずれも主人公は森尾重四郎に変わっている。それだけ阪妻の森尾重四郎の印象が強かったということだろう。 *6 丸山敞平「剣戟王 阪東妻三郎」224〜225ページ *7 同上 224ページ |
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こうして次々と野心的な作品を生み出し、その地位を確かなものにしていった阪妻だったが、彼のスター生命に最大の危機が訪れる。それは、トーキー(発声映画)の登場であった。阪妻は1935年に「新納鶴千代」(1935年新興キネマ)でトーキー・デビューを飾るが、その声が細く甲高かったため、ファンの失望を買ってしまう。興行面でも大きく落ち込み、翌年のプロダクション解散につながるのである。 だが阪妻は、発声練習を積み重ねると、みごとその困難を克服。1937年に日活に入社すると、やはりマキノを解散して日活に入社したマキノ正弘(1908〜1993)の監督による「恋山彦」(1937年日活)で見事に復活を遂げたのである。現在彼のトーキー作品を観ると、確かに声は高く、そのことで多少違和感を感じなくも無い。僕も最初、どこから声が出ているのだろう? と思ってしまったものである。しかし、彼の台詞回しには気迫がこもっており、彼ならではの個性的な魅力となっているとも言える。この裏には、彼のたゆまぬ努力があったのである。 その後の活躍は周知の通り…。 |
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「無法松の一生」(1943年大映)や「王将」(1948年大映)など、阪妻は戦後になるまで活躍を続ける。遺作の「あばれ獅子」(1953年松竹)まで全部で217本の映画に出演した。そして「あばれ獅子」撮影中の1953年7月7日、脳膜 出血のため急死。享年52歳という若さであった。 市川右太衛門(1907〜99)が92歳、嵐寛寿郎(1903〜80)が77歳、片岡千恵蔵(1903〜83)が80歳と長生きをし、しかも晩年まで映画やテレビに出演していたことを考えると、あまりに早すぎると言う気がしないでもない。 その一方で、他のスターたちのように晩年は端役に甘んじることなく、最後までスターであり続けることができたのだから、ある意味幸せであったとも言えるのかもしれない。 阪妻は1927(昭和2)年に結婚した静子夫人との間に4人の息子を設けた。上から田村高廣(1928〜2006)、田村俊麿(1938〜)、田村正和(1943〜2021)、田村亮(1946〜)。このうち次男の俊麿を除く3人が映画俳優として成功しているのは言うまでも無い。 阪妻自身は若くして映画界から去ったが、彼の血はきちんと映画界に受け継がれているのである。 |
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(参考資料) 秋篠健太郎「阪東妻三郎」1977年2月 毎日新聞社 橋本治「完本チャンバラ時代劇講座」1986年1月 徳間書店 尾上松之助、中村房吉「目玉の松ちゃん―尾上松之助の世界―」1995年11月 日本文教出版(岡山文庫) 丸山敞平「剣戟王 阪東妻三郎」1998年1月 ワイズ出版 田村高廣「剣戟王阪妻の素顔/家ではこんなお父さんでした」2001年12月 ワイズ出版 山根貞男責任編集「阪妻/スターが魅せる日本映画黄金時代」2002年5月 太田出版 「別冊歴史読本/源義経のすべて」1986年9月 新人物往来社 「大河ドラマ『義経』完全ガイドブック」2005年2月 東京ニュース通信社 市古貞次校注・訳「平家物語 二/日本古典文学全集30」1975年6月 小学館 梶原正昭校注・訳「義経記/日本古典文学全集31」1971年10月 小学館 |
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