第2章−サイレント黄金時代(特別企画)
京都旅情
〜映画草創期の京都を歩く〜



日本の映画テーマパーク
東映太秦映画村
 


 毎年お正月に京都に行くのが恒例行事となっている。というのも、僕は大学時代から競技かるたをやっていて、その最高峰のタイトルである名人位・クイーン位の争奪戦が毎年、滋賀県の近江神宮で開催されているからである(参照)。いつもは、試合観戦のためだけに来ているのだが、せっかくだからたまにはのんびりと観光もしたいものだ。そこで、京都にある映画スポットをいろいろと見学することにしてみた。

 1月某日朝、東京駅を新幹線のぞみに乗って出発。いつもであれば新幹線の中で飲む缶ビールも今年はがまんして、午前10時30分頃京都駅に到着した。すぐにJR奈良線で東福寺駅へ行き、そこから京阪線に乗り換え終点の出町柳駅で下車。北へ少し行ったところにその男はいた。日本映画最初にして、最大のスーパースター尾上松之助(1875〜1926)。彼の胸像が鴨川公園に立っている。
 



鴨川公園の尾上松之助像
 


 「完全無欠のスーパーヒーロー」に書いた通り、1000本を越える映画に出演していながら、現在観ることが出来る松之助映画は数が限られている。そのため、阪東妻三郎(1901〜53)や嵐寛寿郎(1903〜80)、片岡千恵蔵(1903〜83)といった彼の後輩チャンバラ・スターたちが戦後まで息の長い活動を続け、今なお新たなファンを獲得しているのに比べて、松之助の認知度はどうしても低い。公園の脇の下鴨神社へ向かう道には晴れ着姿の若者の姿もちらほら見えるのだが、こちらにまで足を運ぶ人はまったくいない。なんともさびしい…。
 
松之助の倹約家ぶりは有名であった。その生活は質素というよりはケチそのもので、舌を出すのもケチる「ケチ松」と称されたそうである。だが晩年には、学校や福祉事業に莫大な寄付を与え、その評価を改めさせた。1925(大正15)年には京都府に13,600円を寄付し、20戸の小住宅が建てられている。それが老朽化のため取り壊されることになり、松之助の名を後世に残すため1966(昭和41)年2月、当時の京都府知事・蜷川虎三(1897〜1981)によってこの地に胸像が建立された。

 

下鴨神社
 


 ここまで来たついでだから初詣代わりに下鴨神社にも参拝した。下鴨神社は京都でも最も古い神社の一つで、崇神天皇7(BC90)年に社の瑞籬が造営された記録が「鴨社造営記」に見られる
(*1)。本殿は国宝で、社と境内の糾(ただす)の森は世界文化遺産にも指定されている。いろいろと見所の多い神社であるが、現役国語教師の僕としては、末社・河合神社に、鴨長明(1155〜1216)が「方丈記」(1212年成立)を執筆した「方丈の庵」が再現されているのを見逃すわけにはいかない。

*1 「賀茂御祖神社略史」4ページ



復元された「方丈の庵」
 


 ところで、僕は茶道をやっているのだが(参照)、その茶道仲間にはグルメが多い。彼らは例えば京都のどこそこの店が美味いなんて話をよくしているが、僕は毎年京都に来ていながらいっさいそういった所に行ったことがない。なにしろ僕はアンチ・グルメなのである。ようは味音痴。美味いかよりも安く食べられるかどうかを気にしてしまう…。しかし、せっかく京都に来ているのだから、やはり京都でしか食べられないものが食べたい。そう思って調べたところ、うってつけの店を発見した。
 出町柳駅から叡山電鉄で2駅の茶町駅で下車。そこから5分ほど歩いたところに、こってりラーメンで有名な「天下一品 白川本店」がある。味は賛否両論分かれるほどの個性的な店だが、僕は大好きで東京の支店に時々食べに行く。本家本元の味は…東京の支店よりもこってり度が高いという印象であった。



京都文化博物館近くにある「ケーキ松之助」
 


 おっと、映画の話からだいぶずれてしまった。この日の宿は二条城近くの烏丸御池に取っていた。そこでチェックインの前にそこからほど近い京都府京都文化博物館を訪れた。ここは京都の歴史と文化を紹介する博物館で、この時は民芸運動の創始者として知られる柳宋悦(1889〜1961)の収集品を紹介した「柳宋悦の民藝と巨匠たち展」をやっていた。また、3階の映像ギャラリーには映画のポスターやカメラ等の機材が展示されている。併設の映像ホールでは、京都にちなんだ映画の上映が行われているが、折りしも「没後80年―尾上松之助と監督たち」という企画上映が行われていた。
 その日の上映作品は牧野省三(1878〜1929)監督、尾上松之助主演の「忠臣蔵」(1912年横田商会)。映画史探訪でも何度か紹介してきた「尾上松之助の忠臣蔵」の元となった作品である。すでに何度も観ている作品であるのだが、せっかくの機会だから久しぶりに観ることにした。以前観た「尾上松之助の忠臣蔵」には、音楽や弁士の説明が録音されていたが、今回のフィルムは完全に無声のもの。しかし、冒頭部分にクレジットタイトルの一部が見え、そこには「録音」などの文字があったので、現存の「尾上松之助の忠臣蔵」から追加撮影部分と音声を取り除いたものと思われる。しかし、もともと弁士の説明を前提として作られた作品から、説明部分を除いてしまっては、ただわかりにくくなってしまうだけである…。
 1910年から1917年までに製作された複数の「忠臣蔵」映画を編集しているだけあって、各エピソードの印象はバラバラである。例えば、赤穂城明け渡しのシーンは、二条城だと思われる実際の城を背景に撮影されている。それに対し、吉良邸や泉岳寺の場面の背景は演劇の書き割りそのもの。そば屋の二階では、窓から雪の積もった江戸の町並みが見えるのだが、まるで壁に書かれた絵のようである。その一方で、松の廊下のセットはかなり精巧に出来ている。この場面では、カメラの切り替わりが多いばかりか、浅野内匠頭(尾上松之助)のクローズアップもあることから、だいぶ後のほうに作られたエピソードだと推測される。
 



二条城撮影所跡
あいにくの雪模様
 


 京都文化博物館を出るといつのまにか雪が降っていた。しかし雪の中、二条城に向かった。二条城の南西に中学校があるが、その敷地内には「二条城撮影所碑」が立っている。ここは、1910(明治43)年に横田永之助(1872〜1943)の横田商会(後の日活)によって京都最初の撮影所である「二条城撮影所」が開設された場所である。先ほど観た「忠臣蔵」を始めとする牧野省三と尾上松之助のコンビ作もここで作られた。だが1912(明治45)年1月には、北野天満宮のすぐ近くに新しく撮影所が作られ、牧野もそこに移る。日蓮宗の十如寺、通称法華堂に隣接していたことから、法華堂撮影所と呼ばれていた。二条城撮影所が存在したのはわずか2年間のことだった。この地に京都の映画発祥の地を記念する碑が建てられたのは、1997(平成9)年。「京都映画100年」を記念してとのことである。
 



東映太秦映画村の時代劇のオープンセット
 


 翌1月某日。前夜の雪は幸いにもすっかりあがっていた。前夜飲み過ぎて起きるのが大変であったが、せっかくの旅先でのんびりしすぎるというのはもったい無い。

 二条城から法華堂に移転した横田商会の撮影所は、日活の発足に伴い日活関西撮影所となる。その後、1918(大正7)年には大将軍一条町に、1928(昭和3)年には太秦に移ってくる。この太秦こそが、最盛期(1935年)には大小8つもの映画撮影所がひしめきあった「日本のハリウッド」ともいうべき地なのである。現在でも松竹と東映の撮影所が現存しており、東映撮影所に併設されている「東映太秦映画村」は日本映画のテーマパークとして人気がある。近年大阪にユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)がオープンしたが、あそこでは実際の映画は撮影していないのだから、ただの遊園地にすぎない。ところが、こちらでは本物の映画を撮影しており、運がよければ撮影場面に遭遇することもあるとか。映画好きなら一度は行ってみたい。
 



奉行所の白州
 


 京都駅から山陰線で太秦へ移動。そこから15分ほど歩いて東映太秦映画村に到着した。アメリカのハリウッドは、街に着いた瞬間から、ああ映画の街に来たんだな、と思わせるものがあったが、それに比べると太秦は物静かな場所である。「映画村」への道案内の看板が無ければ、素通りしてしまうかもしれない。だが、一歩映画村に足を踏み入れると、そこには映画の世界が華やかに繰り広げられていた。
 映画村には江戸時代の街並みが再現されている。昨晩の雪が建物の屋根にまだ残っており、それが不思議なリアリティを醸し出している。そんな街を歩いていると、一瞬タイムスリップしたかの感覚に陥る。何しろ、「水戸黄門」を始めとした日本のテレビ時代劇のほとんどはここで撮影されている。だから街の光景はどこかで見たことあるものばかり。過去に来たことあるような、そんな気さえもしてくる。この日はお正月休みもひと段落した平日で、観光客はほとんど見当たらない。それだけにひょいと横丁から髷をつけた侍だか、町娘が出てきそうである。時間があれば、実際にそのような仮装をすることもできる。
 数ある建物のうちで、僕が一番見たかったのは奉行所の建物。遠山の金さんが容疑者に背中の桜吹雪の刺青を見せる、あの場所だ。「遠山の金さん」ではこの場所は北町奉行所ということになっているが、同じ建物が「大岡越前」では南町奉行所に様変わりするというのだから面白い。さらに、奉行所の門には「新撰組駐屯所」の文字が…。なんと外観は壬生駐屯所になっていた(写真下)。
 



新撰組駐屯所
 


 銭形平次の家や、牛若丸と弁慶が戦った京の五条大橋、さらには芝居小屋中村座ではアクション時代劇のショーが観られたりと、とにかくここだけで1日は楽しめる場所なのだが、残念ながらそうゆっくりもしていられない。そこで、最後に映画文化館を訪れた。
 



映画文化館
左側は「映画の女神像」
 


 映画文化館には貴重な資料が展示されている。「映画史探訪」の作者としてみれば今回の旅行の目玉と言える場所だ。1階の「名作ミニ映画劇場」では、日本映画史を彩る名作のハイライトシーンの映像が約30タイトル観られる。その中に未見だった「浪人街 第1話〜美しき獲物〜」(1928年マキノ)があった。名匠・マキノ雅弘(1908〜1993)の出世作であり、日本映画史上に燦然と輝く名作ながら、12分足らずの断片が現存しているにすぎない(「大君降臨」参照)。もちろんここで観られるのは、さらにそのうちの2、3分にすぎないのだが、それだけでも十分に迫力に満ちた素晴らしいものであった。思わず数回繰り返して観てしまった。
 2階に上がるとまず目を引くのが「牧野省三賞」のコーナー。映画の父・牧野省三の業績を讃え、日本映画の創造と発展に寄与した映画人に贈られる賞である。1958(昭和33)年から京都市民映画祭の一環として始められた。1977(昭和52)年に同映画祭が中止されてからは、太秦映画村がこの事業を継承。1999(平成11)年以降は、京都映画祭に引き継がれ、隔年で選出されている。第1回の受賞者である片岡千恵蔵以下のパネルが展示されている。なお、最新の牧野省三賞受賞者は、2004(平成16)年の第42回における女優・淡島千景(1924〜2012)と「特別賞」の脚本家・笠原和夫(1927〜2002)である。
 さらに「映画の殿堂」のコーナーでは、日本映画界に輝かしい業績を残した故人が顕彰され、そのゆかりの品が展示されている。その最初の一人が尾上松之助。そして、「純映画劇運動」の担い手の一人であった小山内薫(1881〜1928/「受難の映画史」参照)、日本映画の父・牧野省三と続いていく…。
 



等持院の牧野省三像
 


 東映太秦映画村を足早に後にして、最後の目的地である等持院に向かった。太秦駅から京福線に乗り、等持院駅で降りて、北へ7、8分歩く。牧野省三が1921(大正10)年に日活から独立して「牧野教育映画製作所」を設立し、映画撮影所を建設したのがこの等持院の境内である。京都に神社仏閣は数多いが、映画スタジオがあったのはこの等持院が唯一ではないだろうか。その後、1923(大正12)年にマキノ映画製作所が発足。1924(大正13)年には東亜キネマと合併し、等持院撮影所も「東亜キネマ等持院撮影所」となる。1925(大正14)年にマキノは再び東亜と分裂し、牧野も御室仁和寺近くに御室撮影所を建ててそこに移ってしまうが、等持院撮影所は1933(昭和8)年までこの地にあった。阪東妻三郎や衣笠貞之助(1896〜1982)ら数多くのスターや監督がこの地から巣立っている。そして、その地を見下ろすかのように、牧野省三の像が立っている。
 1908年から1921年までの13年間に牧野とコンビで200本にも及ぶ作品を製作した尾上松之助の墓所もまた等持院内にある。等持院のすぐ北は立命館大学のキャンパス。もともとは等持院の地所であったが、その後大学の所有となり、現在も旧墓地はキャンパスの中に残っている。学生で賑わうキャンパスを抜けて墓地の中を歩きながら探すと、西南の一隅に松之助の墓を見つけた(写真下)。
 



等持院墓所の尾上松之助の墓
 


 松之助が亡くなったのは1926(大正15)年9月11日。51歳の誕生日の前日であった。牧野と共に草創期の映画界を支えた大スターは、昭和という時代の到来を待たずに、若くしてこの世を去った。そして、牧野もまた松之助に遅れること3年、やはり51歳の若さで亡くなっている。最後の頃には日活京都撮影所長の牧野と、副所長の松之助との間には様々な確執があったということだが、今頃天国ではそんなわだかまりもなく、二人仲良くしていると願いたい。
 



雪の近江神宮
 


 京都にはこの他にも様々な映画の史跡が残っている。例えば嵐山には阪東妻三郎が眠る二尊院や大河内伝次郎(1898〜1962)の別荘・大河内山荘があるし、マキノの撮影所のあった御室には片岡千恵蔵や伊藤大輔監督(1898〜1981)の眠る蓮華寺がある。他にも映画のロケ地や舞台にいたってはそれこそ枚挙にいとまがない。時間があれば、それらの史跡も見ておきたかったが、時間の関係もあり、今回は映画草創期の足跡を大急ぎで歩くに留めた。残りは今後の楽しみにとっておくことにしたい。

 映画の旅を終え、競技かるたの名人戦前夜祭の記念講演会とパーティに参加するため大津の琵琶湖ホテルに向かった。明日は西大津の近江神宮で名人位・クイーン位戦を観戦する予定となっている。気がつくとまた雪が降り始めていた…。
 


(2006年1月25日)


(参考資料)
尾上松之助、中村房吉「目玉の松ちゃん―尾上松之助の世界―」1995年11月 日本文教出版(岡山文庫)
都築政昭「シネマがやってきた!―日本映画事始め」1995年11月 小学館

「賀茂御祖神社略史」2004年12月 賀茂御祖神社社務所

「京都映像文化デジタル・アーカイヴ―マキノ・プロジェクト―」(http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/index.html
「京都新聞:京都シネスポット」(http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/koto2.html
 

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