第2章−サイレント黄金時代(2)
グッドモーニング・スペクタクル
〜D・W・グリフィス最後の救出〜



アメリカ映画最初の巨匠
D・W・グリフィス
 


 イタリア映画「カビリア」(1913年)は世界中に大きな衝撃を与えた。中でもアメリカの巨匠D・W・グリフィス(1875〜1948)は、ちょうどその頃作っていた映画の製作を取りやめ、新たなシーンを追加することを決意した。グリフィスは現代劇を作っていたのだが、彼はそこに古代バビロニアを始めとする3つの物語を付け加え、4つのエピソードが交錯する一大叙事詩を作り上げようとした…。


 と、まあこれは巨匠グリフィスを語る上で非常によく知られたエピソードなのだが、どうもうまくできすぎていて僕には作り話のような気がしてならない。グリフィスはそれ以前にも「ベッスリアの女王(アッシリアの遠征)」(1913年米)
という作品を発表しているが、これはイタリア史劇の影響を強く受けた作品であったようで、おまけに4つのシーンから成り立っていたと言う
(*1)。グリフィスの頭の中には「カビリア」を観る以前からそう言った構想があったのはほぼ間違いないのではないだろうか。いずれにせよ、1916年グリフィスは大作「イントレランス」を発表した。

*1 先日NFCで「アッシリアの遠征」を観ることができた。間違いなく「イントレランス」の「古代バビロニア篇」の先駆けとなった作品であろう。しかし、4つのシーンから成り立っているというのはどうもよくわからなかった。(2003年1月18日追記)
 
 
 
さて、このアメリカ映画最初の巨匠と言うべきグリフィスはどんな人であったのか。
 デビッド・ワーク・グリフィスは幼少をアメリカ南西部に過ごしている。父は南北戦争の英雄であったが、グリフィスが生まれた頃はすっかり没落していた。やがて7歳で父を失った彼は、エレベータ・ボーイや、本屋の店員などの仕事を転々とするが、22歳の時に地方劇団に加わると、俳優として活躍し始める。その一方で、戯曲を執筆していた彼は、1907年エドウィン・S・ポーター(1870〜1941)のもとへ映画のプロットを持ち込んだ。結局この時のプロットは不採用となったのだが、グリフィスは俳優として採用され、「鷲の巣より救われて」(1907年米)で映画デビューを果たした。その後、バイオグラフ社に脚本家として採用される。
 グリフィスの監督デビュー作となったのは「ドリーの冒険」(1908年米)であった。物乞いを断られたジプシーの夫婦が、ドリーという名の少女を誘拐。ドリーが閉じ込められた樽が川に落ち、そのまま流されて行く…。とまあ、簡潔なストーリーだが、グリフィスが後に得意とする「最後の救出」が早くも現れていることに注目したい。その後グリフィスは1913年までの5年間に計457本の作品を監督するが、カメラマンのG・W・“ビリー”・ビッツァー(1872〜1944)と組んでクローズ・アップやクロスカッティング、フェイドイン&アウトなどといった様々な技術を開発していった。
 1913年からは長編映画にも進出し、数多くの傑作を生み出した。彼は、人材を育てることにも長けており、女優のメアリー・ピックフォード(1892〜1979)、リリアン・ギッシュ(1893〜1993/共に次項参照)をはじめ、俳優のライオネル・バリモア(1878〜1954)、後に「愚なる妻」(1922年米)などを撮る異才エリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885〜1957)、コメディ界の大物マック・セネット(1880〜1960)、「風と共に去りぬ」(1939年米)を監督するビクター・フレミング(1883〜1949)、怪奇映画で鳴らすトッド・ブラウニング(1882〜1962)らといった人物が彼の下から巣立っていった。

 1915年にグリフィスは南北戦争を題材とした「国民の創生」を発表する。これは、製作費11万ドル以上を費やし上映時間3時間という当時としては空前の大作であった。
 物語はアメリカ北部と南部の2組の白人一家の交流を描くところから始まる。北部のストウマン家の息子ベン(ヘンリー・B・ウォルソール)と、南部のキャメロン家の娘エルシー(リリアン・ギッシュ)との間に恋が芽生えていく。だが、やがて勃発した南北戦争によって両家は敵味方に引き裂かれる。終戦を迎えるが、黒人と白人の対立は深まるばかりであった。黒人と白人の混血サイラス・リンチ(ジョージ・シーグマン)は、強引に奴隷解放運動を推し進めていく。やがて、その魔手はエルシーのもとにも迫ろうとしていた。クー・クラックス・クラン(KKK)を結成したベンは、仲間と共にエルシーの救出に向かう…。
 



「国民の創生」(1914年米)
中央がヘンリー・B・ウォルソール
 


 クライマックスでは、危機が迫ろうとしているエルシーと、助けに向かうベン達をクロス・カッティングによって交互に映し出し、サスペンスを高めていく。もちろん最後の瞬間には見事救出に成功する。グリフィスはこの「最後の救出」を得意としており、彼の作品において常に大きな見せ場となっている。「国民の創生」はその他、大胆なクローズ・アップや移動撮影などを駆使することによって迫力のある映像を生み出すことに成功した。また、ドキュメンタリー的なリアリティあふれる戦闘シーンや、クライマックスにおけるサスペンスなどは、この映画がまさしく映画史上に燦然と輝く名作であることを証明しているだろう。
 事実、この「国民の創生」は空前の大ヒットとなった。その後数年間のうちに1800万ドルもの収入を得たと言う。現在の入場料に換算すれば、「風と共に去りぬ」(1939年米)ともほぼ匹敵する、史上最高級のヒットであったそうだ。だが、もちろん問題が無いわけではない。それは、黒人を悪とし、過激な人種差別主義を掲げるKKKを正義の味方として描いている点である。そのため、この作品は黒人や、差別撤廃運動家達の猛烈な抗議を受けた。中には「アメリカ映画史上最大の恥」という評価まで与える人もいる。アメリカ南部に生まれ、黒人とともに育ったグリフィスが知らず知らずのうちに偏見を持っていたことは否定できない事実であろう。「黒人の敵対者」であるという批判に対して、彼が「まるで我々が生涯を通じて我が子同様に愛し育ててきた子供たちに向かって自分が敵だと言うようなものだ。
(*2)」と答えたことにもそれは現れている。だが、グリフィスは歴史家として公正な態度で歴史を叙述しようとしていたのではない。あくまで彼は南部人としての彼自身の感情の中にある南部をそこに再現したにすぎない。例え差別や偏見を伴っていたとしても、この作品の持つ迫力や、映画史的な価値までもが否定されることはないだろう。

 グリフィスは、非難に対し出版したパンフレットの中で、こう述べている。「我々の自由を阻害するとの名目で不寛容(イントレランス)を叫ぶ一群の圧力が新しい芸術に襲いかかる
(*3)」と。彼は非難に対する反論として「不寛容」をテーマとした映画を撮影することを決意する。それが「イントレランス」(1916年米)であった。

*2 リリアン・ギッシュ、アン・ピンチョット/鈴木圭介訳「リリアン・ギッシュ自伝/映画とグリフィスと私」191ページ
*3 同書 190ページ

 



「イントレランス」(1916年米)「古代バビロニア篇」
 


 こうして完成した「イントレランス」は次の4つのエピソードからなる。無実の罪で死刑にさせられそうになる貧しい青年の姿を描いた「現代篇」。聖バーソロミューの虐殺を描いた「中世ヨーロッパ篇」。十字架にかけられようとするナザレ人イエスを描いた「ユダヤ篇」。バビロニア王を愛した山の娘を描く「古代バビロニア篇」。これら4つのエピソードを、オムニバスではなく、平行して交互に描くと言う大胆な構成が取られているのがこの映画の大きな特徴である。この構成がいかに大胆で革新的であったか、それは未だに同じようなスタイルの映画が現れないことからもわかる。唯一の例外的作品がバスター・キートン(1895〜1966)のコメディ「キートンの恋愛三代記」(1923年米)であるが、これだって主人公、ヒロイン、恋敵を3つのエピソードで同じ俳優が演じ、内容的にもある程度の一貫性が持たれている。ところが「イントレランス」の場合は、4つのエピソードはまったくもってバラバラであり、相互に関連性は見出せない。ただ「イントレランス(不寛容)」というテーマによって結び付けられているだけなのである。そして各エピソードは、聖母マリアを思わせるゆりかごを揺らす女(リリアン・ギッシュ)によって見つめられている。



「イントレランス」(1916年米)
揺りかごを揺らす女
(リリアン・ギッシュ)
 


 各エピソードは最初、長い間隔でもって交互に描かれて行く。物語が進むにつれ、その間隔は短くなっていく。ついにはめまぐるしいまでのすばやいカットバックとなるが、その頃各時代の主人公達には危機が訪れている。やがて、イエスは十字架にかけられ、山の娘の努力もむなしくバビロニアは灰塵と化し、聖バーソロミューの大虐殺によって若い恋人たちは生命を散らす。現代編の主人公も、今まさに絞首刑に処されようとする。その時…間一髪、無実の証明を持った恋人が刑場に駆けつける。過去の3エピソードの悲劇が、現代編のサスペンスを盛り上げ、ハッピーエンドへとつながるのである。
 



「ユダヤ篇」
 


 グリフィスはこの作品についてこう語ったという。「この物語は丘の上から見下ろされた四つの流れのように始まる。四つの流れは別々にゆっくりと静かに流れ、やがて近づいていき、流れも早くなる。そして最後にそれらは表現された感情という一つの力強い川に合流してしまう…」。これは、単なる編集技術という枠を飛び越えた、カットバックの極致であった。
 


 構成の斬新さだけではない。スケールの大きさにおいても「イントレランス」は空前絶後の作品であった。バビロニア編の城塞のセットの巨大さには目を見張らされる。高さが280フィートで、その上を2台の馬車が通れる程であった。そうしてその壮大なセットの遥か奥にまで群衆が蠢いている。あまりに巨大に作りすぎたために、取り壊す費用もままならず、その後10数年に渡ってセットがハリウッドに残されていたというのは有名なエピソード。
 



「古代バビロニア篇」
 

 
 「イントレランス」は、製作されてから90年近くたった今見ても決して色あせていない。いやむしろ、未だに斬新な作品であろう。僕は観ていてふと思った。1910年代の、大部分の映画が20分程度でしかなかった時代に、4時間を越える長さを持ち、なおかつ4つのエピソードが複雑に絡み合うこの映画…現代の複雑な筋の映画を観慣れた我々ならともかく、はたして当時の観客がこれを理解できたのであろうか。実際、この映画は当時の一般客には受け入れられず、興行的には失敗に終る。私財を投じてこの映画を製作したグリフィスは、以後借金の返済に追われることとなった。その後もグリフィスは、「散り行く花」(1919年米)、「東への道」(1920年米)などといった名作を生み出していくのだが、次第に落ちぶれていく。頑固で完璧主義、時代の流れを読む事には疎かった。「イントレランス」の平和主義的な思想が、第一次世界大戦の参戦ムードの中で受け入れられなかったことや、参戦プロパガンダ目的として製作された「世界の心」(1918年米)が完成したのは大戦の後であったことが、そのことを証明しているのではないか。

 グリフィスは1931年以降は映画を撮ることもままならず、晩年は酒びたりで孤独のまま1948年に永眠。だが、彼の業績は計り知れないほど大きい。それは彼の作品こそが証明している。1987年のイタリア映画「グッドモーニング・バビロン」は、「イントレランス」の「バビロニア篇」の象の彫刻を作ったイタリア人兄弟を主人公とした映画だが、その中でグリフィスが語った言葉を引用したい。兄弟の父は、先祖代々の家業である聖堂作りの夢を諦め映画に関わることになった二人を叱る。それに対しグリフィスはこう答えた。

「聖堂も建てられた時は、映画と同様皆の夢の結果であったはずだ。(略)聖堂は無名の石工によって築きあげられ、世界的な芸術に仕上げた。そして人々に信じる事を教え、生の歓びを与えた。だからこそ、私も映画を愛し尊敬する。」

 グリフィスの残した作品も、例え彼の名が無名の石工たちのように消えたとしても、聖堂のように永遠に残っていくであろう。

 
(2002年4月27日)

(参考資料)
Iris Barry「D.W.Griffith:American Film Master」1940年Museum of Modern Art(N.Y)
リリアン・ギッシュ、アン・ピンチョット/鈴木圭介訳「リリアン・ギッシュ自伝/映画とグリフィスと私」1990年8月 筑摩書房
向後友恵「グリフィス〜ハリウッドに巨大な城塞(バビロン)を築いた魔術師」1992年5月 メディアファクトリー

LD「アメリカン・ジーニアス」1970年アメリカ
 

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