第2章−サイレント黄金時代(9)

“笑”ほどすてきな商売はない
〜栄光のコメディアンたち〜



「デブの海嘯(つなみ)」(1916年米)
メーベル・ノーマンド(左)とロスコー・アーバックル
 


 笑うことは健康に良いそうである。そればかりではない、最近の研究によれば、笑いは免疫細胞を活性化させ、ガンに対しても効能があるという
(*1)
 「笑う門には福来たる」という言葉もあることで、確かに、笑っていれば世の中平和でうまくいきそうなものだ。少なくとも、怒ったり泣いたりしているよりかは…。例えば、誰かと飲みにいった場面を想像してみよう。楽しく笑って飲んでいれば、気持ちよく酔うことができる。だけど、愚痴られたり、怒られたりしながら飲んだんじゃ、とても気持ちよく酔うことなんてできやしない。それじゃあ悪酔いしてしまう。

 *1 詳しくは次のサイトを参照のこと。
    「スマイルニュース第07号」(http://www.egao.co.jp/smile-news/smile-news07.html
    「サンの心理コラム」(http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/7219/columns/6ba_medical/WaraigaKenkouni_YoiRiyuu.html

 

 それでは、人はどういう時に笑うのであろうか。僕が考えるに、それは「意外さ」に出くわした時である。例えばビジネス街を一人のサラリーマン風の男が歩いている…。もちろん、それだけではまったく笑いにはならない。ところが、歩いているのがバレリーナであったとすればどうだろうか。ちなみに、僕は新宿駅でバレリーナの格好をした白塗りのおじさんを見たことがあるが、思わず唖然とし てしまった。あるいは、そのサラリーマンが突然バナナの皮に滑って転んだとしたら。実際、そういった場面に出くわしたら気の毒で笑うに笑えないだろうが、シチュエーションとしては可笑しいことこのうえない。
 よくテレビ番組に視聴者の投稿ビデオを紹介するコーナーがある。そこに採用される映像の大半が、いわゆるハプニング映像であるというのもよくわかる。余談だが、僕も小学生の頃(1985年頃)、「加トちゃんけんちゃんごきげんテレビ」(TBS)という番組の「おもしろビデオコーナー」に投稿したことがある。当時家で飼っていた犬の寒太郎(ハスキーとテリアの雑種)が、ピアニカを吹くと、それに合わせて歌うので、その様子を撮影したのである。ちなみに、僕も指揮者として共演した。見事に採用され、景品に8ミリビデオカメラをもらった。今となっては良き思い出。
 

 さて、映画に笑いが現れたのが映画の誕生のすぐ後であったことは、当然のこととして納得がいく。当時の映画はただそこにあるものを映しただけのドキュメンタリーが多かったから、立て続けに観させられては観客も飽きてしまう。そこで、サスペンスやお色気、笑いといった要素が取り入れられていった(「二人の映画の父」参照)。エジソンが製作したごく初期の作品「くしゃみの記録」(1894年米)は、白衣を着た技師がくしゃみをするだけの、時間にしてわずか数秒の映像であるが、おそらくは当時の観客にしてみればこれさえも笑いを誘うものであったのだろう。
 リュミエール兄弟に至っては、より明らかに笑いを意図した作品を早くから製作している。特に有名なのは「水をかけられた撒水夫」(1895年仏)。一人の男がホースで庭に水を撒いている。そこへやってきた悪戯小僧が、ホースを踏むと水が止まる。男が不思議がってホースの先を覗きこんだ時、小僧は足を離したので、男は噴き出した水で顔を思いっきり濡らしてしまう…。固定されたカメラによって1ショットで撮られたものだが、そこには明らかに笑いを狙った演出が加えられている。
 リュミエール兄弟はその他にも、箱の中に生きた豚を入れるとソーセージなどの加工品となって出てくる「自動ソーセージ屋」(1896年仏)や、御者が居眠りしている間に馬をおもちゃの木馬とすり替えてしまう「御者の居眠り」(1897年仏)といったギャグ映画を作っている。「女の争い」(1896年仏)もそんな作品の一つ。二人の女が喧嘩を始めると、一人のカツラが取れてハゲ頭になってしまう。よく観るとハゲ頭のカツラがずれてしまって、何度も頭を押さえていたりするのだが…。ともかく今観ても十分に笑えることを考えると、笑いのツボというのは100年前も今もそう変わらないということなのだろう。

 



「水を掛けられた撒水夫」(1895年仏)
(「光の誕生リュミエール!」
〈1995年10月朝日新聞社〉より)
 


 エジソンやリュミエール兄弟を始めとする初期の映画作家たちは、笑いを得るために軽業師や道化師を次々と映画に起用していったが、最初の喜劇スターもそんな中から誕生している。第一次大戦前に最も人気があったのはフランスのアンドレ・ディード(1884〜1931/のちにイタリアに渡りクレティネッティと称す)とマックス・ランデ(1883〜1925)だった。ディードは軽業師出身で、メリエス(「20世紀の魔術師」参照)のもとで映画デビュー。作品はアンソロジー「シネマ・クラシクスVol.2」(1987年米)で断片的に観ただけだが、メリエス仕込みの特殊効果と、豊かな表情、軽やかなテンポが持ち味であったようだ。そんな中でも特に面白そうなのが「クレティネッティの借金返済法」(1911年伊)。借金取りに追われたクレティネッティ(ディード)が、鞄の中に隠れて難を逃れようとする。鞄に入ったまま逃げ出すので、世にも奇妙な追っかけに発展する…。
 



マックス・ランデ
(「週刊THE MOVIE 80」3ページ)
 


 一方、マックス・ランデは口ひげを生やし、シルクハットにフロック・コート、手にはステッキを持った紳士然としたいでたちであった。言うまでもなく、喜劇王チャールズ・チャップリン(1889〜1977)に大きな影響を与えている。ランデ作品はビデオにはなっていないのだが、僕はアベル・ガンス(1889〜1981)監督の「助けて!」(1923年仏)という作品を観る機会があった。ガンスは、「鉄路の白薔薇」(1922年仏)や「ナポレオン」(1927年仏)といった超大作を製作した巨匠であるが、「助けて!」が今あげた2作品のちょうど間の時期に製作されているというのは面白い。巨匠もたまには息抜きしたかったのだろうか。「助けて!」は、化け物屋敷で一晩過ごせるかどうかの賭けをした男(ランデ)が体験する恐怖の夜を描く。次々とお化けが出てくるという、軽めの作品ではあったが、高速回転や歪曲鏡を使ったトリックが駆使されている。
 いかにも気取った紳士が、予想もつかぬ事件に巻き込まれていくというランデの面白さは、浮浪者が紳士たろうと振舞うチャップリンとは本質的に正反対であったと言えよう。第一次世界大戦に従軍したランデは、戦後カムバックしたものの人気を取り戻すことはできず、失意のうちに自らの生命を絶ってしまった。
 



マック・セネット
「チャップリン自伝(上)−若き日々」 291ページ)
 


 その後コメディはアメリカに渡り飛躍的な発展を遂げるが、それにはマック・セネット(1880〜1960)の存在が大きかった。セネットはグリフィスのもとで俳優としてデビュー。1912年にキーストン社の製作責任者となり、“笑いの王国”を築いていく…。チャップリンをはじめ、メーベル・ノーマンド(1894〜1930)、ロスコー・アーバックル(1887〜1933)、ハロルド・ロイド(1893〜1971)、ハリー・ラングドン(1884〜1944)らはいずれもキーストンで映画に出演。グロリア・スワンソン(1899〜1983)やビング・クロスビー(1903〜77)も彼に発掘された。サイレント喜劇界の大物ではバスター・キートン(1895〜1966)のみが、セネットとは関係を持っていないが、彼はアーバックルの弟子なので、やはりセネット無くして現れることはできなかっただろう
(*2)
 チャップリン、キートン、ロイドのいわゆる“三大喜劇王”については後で一人ずつ取り上げることにして、ここではそれ以外の、セネット以下の偉大なコメディアンについて見ていくことにしたい。…と言いたいところなのだが、実はこれが簡単なことではないのだ。三大喜劇王の場合、全盛期の作品の大部分が現在ビデオ化されており、簡単に観ることができる。だが彼ら以外は、作品そのものからして観ることが難しい。例えば、アメリカの映画評論家ジェームズ・エイジー(1909〜55
(*3))によって“四大喜劇王”の一人とまで評価される(*4)ハリー・ラングドンであってさえも、ビデオ化された作品は一つもない。セネットが製作したキーストン映画は、チャップリンが出演したものに限られるし、アーバックルもチャップリンやキートンとの共演作品をかろうじて観ることが出来るだけ。そこで、僕が実際に観た若干の作品と、「喜劇の黄金時代」(1959年米)、「喜劇の王様たち」(1960年米)などのアンソロジーに収められた断片を観ながら、何とか彼らの姿を追っていくことにしたい。

*2 ずっと後になってからだが、セネットは「恥ずかしがり屋の青年(The Timid Young Man)」(1936年)という短編でキートンを監督している。
*3 作家、脚本家としても活躍。脚本を手がけた映画には「アフリカの女王」(1951年米)「狩人の夜」(1955年米)がある。
*4 James Agee 「COMEDY'S GREATEST ERA」(1949年9月「LIFE」)
 

 セネットがキーストンで製作したコメディ映画の特色というのは、視覚的ギャグ(サイト・ギャグ)にあった。破壊と混乱、スピード、意表をついた展開など、極端にデフォルメ化された世界を描き出す。そこに登場するスターたちの風貌もまた、どこか異常。例えば、ロスコー・アーバックルは128キロ、マック・スウェン(1876〜1935)は109キロものデブ。フォード・スターリング(1883〜1939)が約2メートルの巨漢なら、チェスター・コンクリン(1888〜1971)は166センチのチビ。スリム・サマービル(1889〜1946)はその名の通り“スリム”だし、ベン・ターピン(1874〜1940)はやぶにらみである。ちなみに今あげた人達はみな、1910〜20年代には主役も演じるスターだったはずなのだが、その作品は今日ではほとんど知られていない。僕も彼らの大半はチャップリンの共演者として観ているだけである。例えばスウェンは「黄金狂時代」(1925年米)で金鉱探しジムを好演しているし、コンクリンは「チャップリンの番頭」(1916年米)等でしばしばチャーリーと犬猿の仲を見せる。チャップリン作品以外では、サマービルが「西部戦線異常なし」(1930年米)に兵士の一人として出演していたのが印象的であったぐらい。キーストン映画では、彼らが水着を着た美女(ベイジング・ビューティ)とからむというのも売りの一つであったそうだ。キーストン出身で成功した女優としてはグロリア・スワンソンがいる。
 



セネットの水着美人
(「日本映画の誕生/講座日本映画1」104ページ)
 


 キーストンが得意としたもの一つに“追っかけ(チェイス)”がある。追っかけはキーストンに限らず、コメディに付き物で、「グレート・チェイス/追跡珍場面集」(1963年米)や、「笑殺のドタバタランナーズ」という追っかけシーンだけを集めたアンソロジーまでもが作られている ほど。「喜劇の黄金時代」でもいろいろと紹介されていたが、背景幕を回転させ、テンポの早い追っかけを展開させる。秘密の文書をめぐって、あるいは浮気相手の夫が帰ってきたから…。追っかけのクライマックスにはいろいろあったが、中でもお決まりだったのはキーストン警官隊(キーストン・コップス)によるもの。彼らは普段、居眠りばかりしているが、事件の知らせを受けると一斉に出動! あまりに慌てたために、パトカーはしばしば警官たちを振り落としてしまう。時には警官隊全員を引きずったまま、パトカーは現場へと急行する。ロスコー・アーバックル主演の「ノックアウト」(1914年米)や、「醜女の深情け」(1914年米)では、逃げる容疑者をロープで捕まえたキーストン警官隊が、たった一人の相手によって振り回されて、全員海に落っこちてしまう。
 



キーストン警官隊
右端が隊長のフォード・スターリング
「チャップリン自伝(上)−若き日々」298ページ)


 そしてもう一つが“パイ投げ”。カスタード・パイを相手の顔めがけて投げるというギャグは、セネットが開発したと言われているが、むしろライバルであったハル・ローチ(1892〜1992)によってより磨きがかけられた。ローチが製作し、スタン・ローレル(1890〜1965)とオリバー・ハーディ(1892〜1957)の“極楽”コンビの主演する「世紀の対決」(1928年米)がパイ投げの代表的作品。ふとしたことで始まったパイ投げが、やがて街中をパイだらけの大混乱に陥れる。

 ところで、現在手っ取り早く観ることのできるキーストン映画は、チャップリンが出演したものに限られている。24歳のチャップリンがキーストン社と契約したのは1913年末のこと。独立することになっていたフォード・スターリングの後釜としてである。彼はアメリカ公演中、その酔っ払い演技を観たセネットによってスカウトされた。翌年の2月になって初めて映画に出演。1年間キーストンに在籍し、全部で35本の映画を製作した。
 1966年に出版された「チャップリン自伝」を読むと、チャップリンはキーストンの監督たちにことごとく反発していたことがわかる。キーストンの名物であるはずの“追っかけ”さえも「俳優の個性をなくすこと」
(*5)として嫌っていた。実際、チャップリンは自作映画の中で不条理なギャグはほとんど用いない。追っかけもパイ投げも好まないのだ。1915年にキーストンを離れてからは、ペーソス色を強め、ドタバタを排除していったから、そもそもセネットとは目指す笑いの方向が違ったのだろう。キーストンでチャップリンが監督した映画は17本(他にセネットと共同が1本、メーベル・ノーマンドと共同が4本)あるが、これらはチャップリン=キーストン映画として、セネット=キーストン映画とは区別する必要があるのかもしれない。

*5 チャールズ・チャップリン/中野好夫訳「チャップリン自伝(上)―若き日々」246ページ



フォード・スターリング
「チャップリン自伝(上)−若き日々」 304ページ)


 そう考えると、チャップリンの出演した作品のうち、セネット=キーストン映画の特色を強く持っているのはセネット自身や、彼に次ぐ第二監督であったヘンリー・レーヤマン(1886〜1946)が監督した、初期の作品だけに留まるのだと言えそうだ。



「醜女の深情け」(1914年米)
左よりチャップリン、マリー・ドレスラー、メーベル・ノーマンド
(「世界の映画作家19/チャールズ・チャップリン」より)
 


 セネットはそもそも俳優であったから、その後も自分の作品にしばしば出演している。しかし、彼自身コメディの才能はなかったらしく、キーストンの俳優たちは「あなたはキャメラの前を歩いたあらゆる人間の中で前代未聞のおかしくない男なのだから」と彼に言って聞かせたという
(* 6)。ビデオ化されたチャップリン作品では「ノックアウト」や「チャップリンの舞台裏」(共に1914年米)に顔を出している。
 「衝突」(1914年米)はチャップリンとセネットが共同で監督した唯一の作品だが、ここでのセネットは、ヒロインのメーベル・ノーマンドをめぐって、チャップリン、マック・スウェンの2人と恋のさやあてを演じる。結局メーベルを射止めるのはセネットというわけで、製作責任者としての面目を守った形となった。

 さて、キーストン時代のセネットの最高傑作とされるのは「醜女の深情け」(1914年米)であろう。他の喜劇映画がせいぜい10〜20分の長さに過ぎなかったこの時代にあって、上映時間 90分というのは前例の無い大作。それほどの意欲作であったから、監督にはセネット自身が当たった。チャップリンは、メーベル・ノーマンドと共に共演者という立場にすぎず、主役を演じたのは演劇界の大物女優マリー・ドレスラー(1868〜1934)であった。そもそもセネットは、同郷カナダ出身のドレスラーの紹介でショービジネス界に入ったという経緯があり、これはその時の恩返しの意味があったのだろう。このドレスラーが純情な田舎娘ティリーを演じ、チャップリン演ずるペテン師は彼女の財産に目をつけて近づく。ドレスラーは当時46歳。かなりの大柄にもかかわらず、純情な少女になり切って演じている点がグロテスクに感じられ、それが可笑しさとなっている。よく考えたら相当俗悪なドラマである。長編だけに視覚的ギャグよりもシチュエーションの面白さを取り入れているが、これこそセネット=キーストン映画の最高峰であろう。なお、ドレスラーはこの作品によって映画スターとしても成功。62歳の時には「惨劇の波止場」(1931年米)でアカデミー女優賞を受賞。グレタ・ガルボが主演した「アンナ・クリスティ」(1930年米)にも父親の愛人という役で出演している。

*6 バスター・キートン、チャールズ・サミュエルズ/藤原敏史訳「バスター・キートン自伝」 159ページ



メーベル・ノーマンド
「チャップリン自伝(上)−若き日々」 319ページ)


 次にキーストンのスターのうちの何人かを取り上げることにしたい。まず最初は、「醜女の深情け」でチャップリンの情婦を演じたメーベル・ノーマンド。彼女はかつてはグリフィスの作品でセネットと共演していた。一時はセネットの恋人で、二人は結婚の目前まで行ったという。チャップリンまでもが「ほとんど恋の一歩手前まで行った
(* 7)と自伝で語っている通りで、誰からも愛される女優だった。作品を観ると、確かに可憐でチャーミング。だが、喜劇映画にありがちの添え物的な存在には留まらず、自身でも体を張ったギャグをこなしてしまうから、メグ・ライアン(1961〜)もびっくりといったところ。彼女自身、脚本・監督をこなすほどの才能があり、チャップリン最初の監督作もメーベルとの共同であった。

*7 チャールズ・チャップリン/中野好夫訳「チャップリン自伝(上)―若き日々」 272ページ
 

 1922年2月2日、映画監督のウィリアム・デスモント・テイラー(1872〜1922)が自宅で他殺死体となって発見された。その彼が前夜に会っていたのがメーベルであった。さらに悪いことに、その2年後の1924年にはメーベルが交際していた富豪コートランド・S・ダインズが、彼女のお抱え運転手ジョー・ケリーによって殺害されるという事件が起こった。ケリーは脱獄囚で、メーベルの無罪は明らかであったのだが、度重なる醜聞(スキャンダル)によって彼女は人気を失ってしまう。そして失意のうちに1930年、35歳の若さで亡くなった。

 



ロスコー・アーバックル
右は犬のリューク
「チャップリン自伝(上)−若き日々」 305ページ)


 ロスコー・アーバックルは、129キロの巨体で、“デブ君(ファッティ)”と呼ばれていた。一時期はチャップリンをもしのぐ人気を博していたそうで、チャップリンファンとして知られる映画評論家の淀川長治(1909〜98)も、「五歳六歳のころのそのときの私は、チャップリンよりもデブ君のほうが好きだった
(*8)と語っている。
 彼の作品は、チャップリンが珍妙なレフェリー役でワンカット出演する「ノックアウト」(1914年米)や、キートンと共演した「ファッティとキートンのコニー・アイランド」(1917年米)、「ファッティとキートンの自動車屋」(1920年米)などがビデオ化されている。それらを観ると、デブ君は巨体にも関わらず身軽で、テンポの良いドタバタをこなす。その作品はとにかく陽気で屈託がなく、なおかつシュール。能天気なコメディとして好感が持てる。後にあげる醜聞によって、彼の作品の多くが現在では失われてしまったというのは何とも残念なことだ。
 彼の最大の功績は、バスター・キートンを発掘し映画に出演させたこと。「ファッティとキートンのおかしな肉屋(デブの肉屋)」(1917年米)を皮切りに二人は15本の作品で共演している。僕が観た「自動車屋」(1920年)は、二人の最後の共演作であったが、ここでの二人は実に息のあったコンビぶりを見せていた。

*8 淀川長治「名作はあなたを一生幸せにする」 218ページ
 

 アーバックルもまた、メーベル同様に醜聞によって葬り去られた。1921年9月5日、彼が開いたパーティに出席していた25歳の新進女優ヴァージニア・ラップ(1895〜1921)が昏睡状態で病院に運び込まれ、10日になってから死ぬ。彼女を寝室に連れ込んだ(とされる)彼が、嫌疑をかけられて逮捕された。裁判では結局無罪となったものの、昔日の人気を取り戻すことはできなかった。このアーバックルの事件は、メーベルの巻き込まれたテイラー監督殺人事件と共に1920年代ハリウッド
における“二大醜聞事件”とされている。キートンは、このことを「ハリウッド中の笑いが止まった」(* 9)と回想する。
 サンフランシスコでの裁判で無罪となってロサンゼルスに帰ってきたアーバックルを出迎えたのは、憎しみに狂った1500人もの群集で、映画関係者はキートンらわずかであった。それにしてもキートンは恩義に篤く、アーバックルのプロダクション、コミーク・フィルムを受け継ぐとバスター・キートン・プロダクションを発足。ここで「文化生活一週間(キートンのマイホーム)」(1920年米)や「警官騒動」(1922年米)、長編「荒武者キートン」(1923年米)といった名作を次々と生み出していったが、その収益の35パーセントを彼が亡くなるまで援助し続けた。さらに、彼のカムバックをも図り、「キートンの探偵学入門(忍術キートン)」(1924年米)では監督に起用している。キートンの自伝によれば、結局うまくいかず、途中降板したということで、クレジットは「監督バスター・キートン」となっている。ところが、アーバックルの未亡人ドリス・ディーンによれば、結局彼が最後まで監督しているのだが、彼自身とキートンによって箝口令を敷かれていたのだとか…。さらに、「キートンの西部成金(ゴー・ウェスト)」(1925年米)にはワンカット出演しているそうである。逃げ出した牛の大群がデパートに入っていくシーンで、エレベータに逃げ込む金髪女性を演じているのが、何と彼。そういえば「コニー・アイランド」でも彼の女装はよく似合っていた。
 アーバックルはその後ウィル・B・グッドリッチ(Will Be Good=きっとよくなる、にかけている)の名前で匿名監督としてヒットを飛ばしているそうなのだが、残念ながらこの期間の作品は僕は観ていない。

*9 バスター・キートン、チャールズ・サミュエルズ/藤原敏史訳「バスター・キートン自伝」 171ページ



「岡惚れハリー」(1927年米)
ハリー・ラングドン
(「映画100物語/外国映画篇」より)


 このエッセイは、僕が実際に観た映画についていろいろ語ることを目的にしている。だから、作品を一本も観ていない人に関しては本来取り上げるべきではない。だが、ハリー・ラングドンの場合、先にも述べたように欧米では「四大喜劇王」の一人とまで称され、アンソロジー「喜劇の王様たち」(1960年米)でもチャップリン、キートンと並んで「3人の偉大なコメディアン」と見なされているから、ちょっと無視することは出来ない。もっとも、「喜劇の王様たち」では、当然加えられてしかるべきロイドが、恐らく権利の問題であろうが、取り上げられていないので、額面通り受け入れるわけにはいかないのだが…。
 ラングドンの容貌は、白塗りで悲しげな“ベビー・フェイス”。アンソロジーで断片を観る限り、チャップリンやキートンのように肉体を駆使したギャグを見せるわけではなく、ごく普通の市民が様々な困難に巻き込まれる点でロイドを彷彿させる。アンソロジー「IT’S 笑 TIME」には後の名監督フランク・キャプラ(1897〜1991)が脚本を努めた「初陣ハリー」(1926年米)が挿入されている。草原を歩いていて羊の群に遭遇したラングドン。逃れようと塀を乗り越えるが、ベルトが釘に引っかかって下りれない。外そうとしながらふと下を見ると何とそこは断崖絶壁である…。この危機的状況にあって表情一つ変えないところはキートン的でもある。
 いずれにせよ、作品を観ていないことには彼の真価は測りきれないので、今後に楽しみを取っておくことにしよう。ラングドンはトーキーの訪れと共に凋落。晩年は不遇であった。
 

 みんな笑うことは大好きなのだが、なぜか笑いはあまり高く評価されない。その顕著な例が映画界最高の栄誉、アカデミー賞に現れている。2002年までに74回を数えるアカデミー賞(オスカー)の歴史の中で、コメディが作品賞を受賞した例は皆無なのである
(*10)

*10 オスカーを受賞した「或る夜の出来事」(1934年米)や「我が道を往く」(1944年米)も確かにコメディの一種であるが、これらは通常「スクリューボール・コメディ」あるいは「シチュエーション・コメディ」に分類されている。前者は会話の妙で笑わせ、後者は設定や物語のおかしさで笑わせるというたぐいのもの。ここで言うコメディとは、コメディアンが体を張ったギャグを見せる「スラプスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)」である。
 

 あのチャップリンでさえも、全盛期にオスカーを獲得したのは「サーカス」(1928年米)での特別賞だけで、後はうんと後になってから1971年に名誉賞、1972年に「ライムライト」(1952年製作)で作曲賞を受賞している。候補になったのも「サーカス」での喜劇監督賞と男優賞、「チャップリンの独裁者」(1940年米)での作品賞と主演男優賞だけと寂しい。ましてや、彼以外に至っては候補にすらあがっていない。
 もっとも、アカデミー賞が設立された1928年は、最初のトーキー「ジャズ・シンガー」(1927年米)が公開された翌年で、スラプスティック・コメディの全盛期は無声映画時代であったことを考えると、コメディ界のパイオニア達がオスカーと無縁であったのは仕方がないことである。
 結局彼らはうんと後になって特別賞という形でオスカーを贈られた。1935年に引退したセネットは1937年に、ロイドが52年、キートンが59年、ローレルが60年(相棒のハーディはその3年前に亡くなっていた)にそれぞれ受賞。セネットのライバル、ハル・ローチにいたっては91歳になった1983年まで待たなくてはならなかった。

 ましてや世間はオスカー以上に冷たかった。醜聞で身を滅ぼしたメーベルとアーバックルは、共に若くして世を去っている。ラングドンも後半生は不遇であった。キートンはアル中で苦しみ、ローレルとハーディは貧困のうちに世を去る。あのチャップリンでさえも、あんなに愛したアメリカから追放の憂き目にあう。人を笑わせることを得意にしていたはずの彼らが、笑うに笑えない人生を歩んでいたということ。これはなんという皮肉であろうか…。

(2003年2月7日)


(参考資料)
「世界の映画作家19/チャールズ・チャップリン」1973年4月 キネマ旬報社
「世界の映画作家26/バスター・キートンと喜劇の黄金時代」1975年1月 キネマ旬報社
チャールズ・チャップリン/中野好夫訳「チャップリン自伝(上)−若き日々」1981年4月 新潮文庫
トム・ダーディス/飯村隆彦訳「バスター・キートン」1987年5月 リブロポート
ケネス・アンガー/海野弘監修/明石三世訳「ハリウッド・バビロンT」1989年3月 リブロポート
山田宏一「エジソン的回帰」1997年2月 青土社
バスター・キートン、チャールズ・サミュエルズ/藤原敏史訳「バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界」1997年6月 筑摩書房
淀川長治「サヨナラ先生の映画史/名作はあなたを一生幸せにする」1999年3月 近代映画社


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