第2章−サイレント黄金時代(10)

ほほえみと一粒の涙
〜喜劇王チャールズ・チャップリン〜



「黄金狂時代」(1925年)
チャールズ・チャップリン
(「世界の映画作家19/チャールズ・チャップリン」より)
 


 僕がそもそも映画好きになったきっかけは、チャップリンと出会ったからだ。「チャップリン(Chaplin)」、何とも不思議な響きの名前である。その名を知ったのは小学校4年生の頃だったろうか。歴史が好きだった少年の僕は、当時NHKで放送していた「おしゃべり人物伝」(1984〜85)という番組を毎週楽しみに観ていた。ある週、その番組が取り上げたのがチャールズ・チャップリン(1889〜1977)であった。インパクトのあるあのスタイルと共に、偉大な喜劇王の名は僕の中に刻み込まれた。
 実際に作品を観たのは、それからしばらくして、テレビで放送された「サーカス」(1928年米)が最初だった。サーカスを舞台に、様々なギャグが満載のこの作品を、僕は大笑いしながら観て、すっかり彼に魅せられてしまった。
 翌年にはチャップリン作品の日本での上映権利が切れるとかで、「さようならチャップリン」と銘打ち、最後の劇場上映があった。「街の灯」(1931年米)と「ゴルフ狂時代(のらくら)」(1921年米)を友人と観に行き、「ライムライト」(1952年米)を父親と観に行った。映画上映会で「モダン・タイムス」(1936年米)が上映されると聞けば、はるばる 隣の区まで出かけ
(*1)、その後すぐにビデオでも作品が発売されたので、レンタルで借りたりして彼の名作の数々を片っ端から観ていった。
 その後も、チャップリン作品は欠かさず観ようと努めてきたおかげもあり、現在までに全81本のチャップリン作品のうち実に80本までを観ることができている
(*2)。そういうわけであるから、今回ここでチャップリンについて語ることができるのは願ってもないことだ。

*1 小学生当時の僕にとっては、自宅の隣の区に出かけるのだって十分、冒険であった。ちなみにこの時は「雨に唄えば」(1952年米)も上映していたが、そっちにもすごいインパクトを受けた。
*2 ちなみに観ていないのは「彼女の友人である追いはぎ(チャップリンの悪友)」(1914年米)だけだが、現在フィルムがまったく残っていない。
  

 学習用の人名辞典で映画関係者を検索してみよう。映画の父エジソンを別にすれば、取り上げられているのはおそらくチャップリンとウォルト・ディズニー(1901〜66)ぐらいだろう。それ程、チャップリンの存在は多くの映画人の中でもずば抜けている。まさしく偉人の一人になってい る。だから、数多くいる同時代の喜劇スターの中でも、彼だけは別格に扱うべきだ。もっとも、あまりに偉大すぎて、彼を批判することは難しい。文芸評論家の大井廣介(1912〜76)も著書の中でこう述べている。

 日本人は権威に弱い。徳球(徳田球一)をかれこれいっても、スターリンにはふれたがらない。東條をくさすが、天皇はタブウだ。チャップリンは賞められるものと相場が決まっていて、やっつけた文章に出会ったためしがない。『伯爵夫人』という彼がシナリオを書き監督した作品が先年公開された。閑とカネがあり、寡作である彼があの程度の(あの程度のものならたんとあるさ)ものをつくり、なおかつ偉大なのかね。
(*3)
*3 大井廣介「ちゃんばら藝術史」58ページ 
    「伯爵夫人」(1967年英)はチャップリンの遺作。 


 ただ笑わせるということだけであれば、おそらくチャップリン以上のコメディアンは数多く存在したであろう。では、彼はどこが違ったのか。彼はただ笑わせるだけに留まらず、作品に ペーソスを与え泣かせることができたのだ。



チャップリン・スタイル
(岩崎昶「チャーリー・チャップリン」より)
 


 チャップリンといって誰もが思い出すのはあの扮装(写真上)。今では創造主である彼自身を飛び出し、キャラクター自体が一人歩きしてしまってさえいる。山高帽にちょびヒゲ、きつめの上着にダブダブのズボン。大きなドタ靴にステッキというスタイル。両足を外側に向けて大きく開いた、ヒヨコ歩きでちょこちょこと歩き回る。人にぶつかれば、帽子を軽く持ち上げて挨拶する。
 チャップリンが最初に出演した映画はキーストン社製作の「成功争ひ」(1914年米)であったが、この作品での彼はあの扮装をしていない。フロック・コートにシルクハット。それに八の字ヒゲというペテン師の格好であった。例の格好が初登場するのは2作目の「ヴェニスにおける子供自動車レース」(1914年米)。彼が1968年に執筆した「チャップリン自伝」によれば、3作目にあたる「メーベルの窮境(犬の為め)」(1914年米)で初めてこの格好をしたとあるから、こっちのほうが先に撮影されたのだろう
。当時は、一本の映画の上映時間はせいぜい15〜20分。撮影日数もわずか数日であった。
   
 



若き日のチャップリン
(「チャップリン自伝(上)−若き日々−」より)
 


 当時のコメディアンは特異な風貌でおかしさを生み出すことがほとんどであったということは前項で述べた通り。ところが、チャップリンの場合、身長こそ162センチと小柄だが、写真を観てもわかるように素顔はむしろ美男子の部類に入る。そこで、笑いを取るために何か喜劇的なキャラクターを創造する必要があった。
 キーストン社の制作責任者のマック・セネット(1880〜1960)に「なんでもいいから、なにか喜劇の扮装をしてこい」と言われたチャップリンは、衣装室に行く途中に例の意装を思いついたという。ちょびヒゲをつけたのは、老けて見せるためであった
(*4)。実際のところ、彼の扮装は必ずしも彼オリジナルのものではなく、ダブダブのズボンと山高帽はロスコー・アーバックル(1887〜1933)、大きなドタ靴はフォード・スターリング(1882〜1939)、ヒゲはマック・スウェン(1876〜1935)からの借り物であった(*5)。だが、先人からの借り物であっても、それらを組み合わせたとき、新たなキャラクターが生まれた。それが、「放浪紳士チャーリー」と、今日呼ばれる人物である。ここでも以降はキャラクターのことを指してチャーリーと呼ぶことにしよう。ちなみにフランスでの呼び名は「シャルロ」で、「巴里のアメリカ人」(1951年米)の中に、チャップリンの真似をするジーン・ケリー(1912〜96)に向かって、パリの少女がそのように呼ぶ場面があったように記憶している。ついでに、日本ではその酔っ払い演技の巧みさから「アルコール先生」と呼ばれており、邦題に「アルコール先生ピアノの巻」(1914年 米)とか、「アルコール先生公園の巻」(1915年米)などがある。彼の酔っ払い演技がいかに見事であるかは、チャーリーが家具を相手に格闘する「午前一時」(1916年米)を観れば明らか。虎の皮の敷物や、折りたたみ式ベッドを相手に滑ったり転んだりする。一級のパントマイム芸である。

 さて、チャップリンのスタイルの影響がいかに大きかったかは、数多くの模倣者を生んだことからもよく解る。ビリー・ウェスト(1893〜1975)のように、チャップリンの偽者として活躍した俳優もいたそうだ。三大喜劇王の一人ハロルド・ロイドでさえも、初期には「ロンサム・リューク」というチャップリンの亜流で人気を博していた。日本でも、「子宝騒動」(1935年松竹)の小倉繁(1904〜58)がちょびヒゲを生やした点から「和製チャップリン」と称されたそうである。
 外見ではなく、笑いの中にペーソスを織り込むというスタイルによって「現代のチャップリン」と言う称号が与えられることもある。古くはフランスのジャック・タチ(1907〜82)。最近では「ミスター・ビーン」ことローワン・アトキンソン(1955〜)や、「ライフ・イズ・ビューティフル」(1998年伊)のロベルト・ベニーニ(1952〜)がそう呼ばたりする。
 ところで、チャップリンと同じちょびヒゲで最も有名な人物と言えば、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラー(1889〜1945)ではないだろうか。彼とチャップリンは奇しくも同じ1889年の4月に4日違いで生まれている(チャップリン16日、ヒトラー20日)。写真を見ると、彼も第一次大戦の頃は違った形のヒゲを生やしていた。ということは、ヒトラーがあのちょびヒゲを生やし始めたのは、チャップリンが世界的に有名になった後のことになる。当然意識はしていたはずだ。なぜヒトラーがチャップリンと同じヒゲを選んだのか、それはわからない。だが、ヒトラーがあのヒゲを生やしさえしなければ、彼を茶化した「チャップリンの独裁者」(1940年)は生まれなかったに違いない。ヒトラー自身は早くから「独裁者」に興味を示し、ポルトガルでプリントを入手。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス(1897〜1945)の反対にも関わらず、少なくとも2度、一人で鑑賞したとのことである
( *6)

 「もつれタンゴ」(1914年米)に素顔で出演したり、「つらあて(多忙の一日)」(1914年米)では女装して嫉妬深い若妻を演じたりと、若干の例外はあるものの、チャップリンは例のスタイルをかたくなに守り続けた。チャーリーの登場する最後の映画になったのは、26年後の「チャップリンの独裁者」(1940年米)であった。

*4 チャールズ・チャップリン/中野好夫訳「チャップリン自伝(上)―若き日々」 252ページ
*5 岩崎昶「チャーリー・チャップリン」 53ページ
*6 「映画史上200シリーズ/アメリカ映画200」(1982年12月 キネマ旬報社)
 



「独裁者」(1940年米)
独裁者に扮するチャップリン
(「世界の映画作家19/チャールズ・チャップリン」より)
 


 先に「放浪紳士」という言い方をしたが、チャーリーといえばまっさきに浮浪者がイメージされる。確かに「チャップリンの失恋」(1915年米)、「チャップリンの放浪者」(1916年米)、「街の灯」(1931年米)など、浮浪者の悲しい恋を描いた名作は数多い。しかし、実際のところ、チャーリーの境遇が浮浪者であると明確にしている作品は意外に少ない。むしろチャーリーは、様々な職業を演じる。「チャップリンの番頭」(1916年米)では質屋の店員、「新米雑役夫」(1914年米)と「チャップリンの掃除番」(1915年米)では掃除夫。「チャップリンの勇敢」(1917年米)では警官。「チャップリンの消防夫」(1916年米)という作品もあるし、「チャップリンの独裁者」(1940年米)ではユダヤ人の床屋であった。「男か女か」(1914年米)、「チャップリンの役者」(1915年米)、「チャップリンの道具方」(1916年米)のように映画界を舞台にした作品も多い。
 ただ、どんな役柄を演じていても、共通するのはチャーリーが下層の庶民であるということ。「キッド」(1921年米)のガラス屋も、「モダン・タイムス」の工場労働者も、決して裕福ではない。その日をギリギリで暮らしている。「チャップリンの霊泉」(1917年米)や、「のらくら(ゴルフ狂時代)」(1921年米)での二役のように、チャーリーが金持ちを演じることもなくはないが、全体としては極めて少数である。「黄金狂時代」(1925年 米)のラスト、チャーリーは金鉱を発見して大金持ちになる。立派な身なりになったにも関わらず、昔の習性で落ちている吸殻を拾ってしまうという、おかしいけれど、笑うに笑えない結末がついていた。チャップリン喜劇の本質はここにある。
 



「黄金狂時代」(1925年米)
左はジョージア・ヘイル
(「世界の映画作家19/チャールズ・チャップリン」より)
 


 チャップリンがこのように映画の中で常に下層庶民の生活を念頭に置いていたのは、言うまでもなく彼自身の生い立ちが大きく関係している。寄席芸人であったチャップリンの両親は幼くして離婚。父チャールズ(1863〜1901)は若くして死に、チャールズを異父兄シドニー(1885〜1965
(*7))と共に引き取った母ハンナ(1865〜1928)も喉を痛めて歌手としての生活を失ってしまう。彼らはやがて乞食同然の生活を送り、その中で母親は発狂。チャップリンが映画の中で見せる寂しげな目…それは、この時期に身についたものなのだろうか。

*7 後に弟を追って映画にも出演。「ベター・オール」(1925年米)が最高傑作とされる。弟の作品では「犬の生活」「担へ銃」(共に1918年 米)、「給料日」(1922年米)、「偽牧師」(1923年米)などに出演している。トーキー後引退、弟のマネジャーとなる。
 



「公債」(1918年米)
カイザーに扮したシドニー(左)
(「チャップリン自伝(下)―栄光の日々」より)
 


 だから、チャーリーは生きること、食べることへの執着を見せる。浮浪者が似た境遇のノラ犬と心を通わせる「犬の生活」(1918年米)は、まさにそうしたチャップリンの感情のにじみ出た作品であった。チャーリーは最後、強盗が紳士から奪った財布を手に入れて幸福を手にする。他人の金ではないのかと、純粋に疑問が湧き上がるのだが、そうまでして金への執着を見せる点が、貧しさに苦しめられた少年時代の反映なのだ。チャップリンは後に「ライムライト」(1952年米)の主人公カルベロの口を借りて「人生に必要なものは勇気と想像力、それに少しのお金」とまで語っている。
  
 チャップリンの初期の作品では、警官や金持ちといった権威が、チャーリーの標的であった。だが、やがてチャップリンは彼らもまた同じく被害者であったことに気づく。「モダン・タイムス」(1936年米)では機械文明と資本主義社会、「独裁者」(1940年米)ではファシズム、「チャップリンの殺人狂時代」(1947年米)では大量殺戮兵器と軍需産業…彼は次第に社会全体に対して批判の目を向けていく。最初のトーキー「ジャズ・シンガー」(1927年米)が誕生してから、10年以上もこだわったサイレントを捨て、彼は映画の中で語ることを始める。同時に、下層庶民の象徴であった放浪紳士チャーリーをも捨てることになる 。
 



「黄金狂時代」(1925年米)
飢えたチャーリーは靴を食べる
(「世界の映画作家19/チャールズ・チャップリン」より)
 


 チャップリンが映画の中でこだわったもう一つのこと。それは愛への執着であった。チャップリン自身は53歳で生涯の伴侶となるウーナ夫人(1926〜91)と出会うまで、スキャンダルにまみれた生活を送っていた。生涯に4度結婚したが、ミルドレッド・ハリス(1901〜44)が16歳であったのを始め、リタ・グレイ(1908〜95)は18歳、ポーレット・ゴダード(1911〜90)は22歳、ウーナ・オニールは16歳と、いずれもうら若き乙女を彼は相手に選んでいる。このうちミルドレット・ハリスは後に女優としても成功。ポーレット・ゴダードとは「モダン・タイムス」、「独裁者」で共演しているし、リタ・グレイは「キッド」の夢のシーンに天使の役で出演している。さらに、チャップリンのロマンスの相手に至っては枚挙に暇がない。その中には永年の共演者であったエドナ・パービアンス(1895〜1958)や、ドイツ出身のポーラ・ネグリ(1894〜1987)も含まれていた。ネグりは、ヴァレンチノ(第2章(5)参照)の最後の婚約者でもあったが、チャップリンとも婚約の手前までいったらしい。1943年には女優ジョーン・バリー(1920〜2007)の生んだ子供の認知をめぐって裁判で敗訴している。
 映画の中のチャーリーもやはり、女性には目がない。初期の作品ではしばしば好色ぶりを発揮する。「もつれタンゴ」や「衝突」(共に1914年米)で、チャーリーは他の男と一人の女をめぐって争うが、こうした女好きの系譜は後年の「チャップリンの殺人狂」(1947年米)にまでつながってくる。「殺人狂時代」の主人公ヴェルドゥ氏(チャップリン)は、持参金目当てに女と結婚しては次々と相手を殺す殺人鬼であった。

 だが、チャップリン作品が次第にペーソス色を帯びるようになると、チャーリーも一途な愛を求め始める。「犬の生活」ではノラ犬に、「キッド」では捨て子の少年にその愛は向けられた。チャーリーはその惨めな境遇にも関わらず、必死にその愛を貫こうとするのだ。その最たるものが、「街の灯」でのチャーリー。自身が貧しい浮浪者にも関わらず、盲目の花売り娘(バージニア・チェリル)を救おうと、必死に働き、ついには刑務所に入るはめになる。にも関わらず彼の愛は報われることはない。
 



「街の灯」(1931年米)
右はバージニア・チェリル
(「世界の映画作家19/チャールズ・チャップリン」より)
 


 チャーリーの紳士然とした格好は、貧しい中でも品位を失うまいとする気概の現れである。とりわけ、ヒゲは虚栄心の現れとされる
(* 8)。例え、着ているのはボロであろうと、自動車に泥をはねられれば、きちんと払う(「チャップリンの失恋」)し、拾った吸殻もきちんとシガレット・ケースに収める(「キッド」)。これらのギャグ、確かに笑うことはたやすい。だが、よく考えてみよう。本当に可笑しい場面なのだろうか。いやむしろ、チャーリーには哀れみが感じられるではないか。

 「チャップリンの改悟」(1916年米)のチャーリーは刑期を終えて出獄した囚人。新たな希望に胸を脹らます彼に近づいてきたのは偽の牧師。説教をする振りをして、彼が獄中で貯めた大金をごっそりと盗んでしまう…。「チャップリンの移民」(1917年 米)で、新天地アメリカをめざす移民のチャーリーたちは、自由の国についた途端にロープで区分けされ、まるで家畜のような扱いを受ける。作家チャップリンによって、チャーリーはとことんまで突き落とされる。

 「チャップリンの失恋」(1915年米)のラストは、娘の哀れみを愛情と勘違いしていたことに気づいたチャーリーが、一人孤独に旅立っていくものであった。「サーカス」でも、恋に破れたチャーリーは、サーカス団の馬車には乗らず、たった一人反対の方向へと去っていく。それまではギャグで大いに笑わされているにも関わらず、寂しい姿を見せられて、ラストでホロリとさせられる。
 「ほほえみと一粒の涙」とは、チャップリン自身が「キッド」の冒頭に用いた字幕の言葉である。このように、笑いの中に涙を織り交ぜるという手法によって、彼は作品に感動を加え、ただのコメディアンには終わらなかった。現に彼は「巴里の女性」(1923年 米)、「ライムライト」(1952年米)という悲劇でも、名作を残している。

*8 ピーター・コーツ、セルマ・ニクロース/岩崎昶訳「チャーリー・チャップリン」 220ページ
 



「モダン・タイムス」(1936年米)
ラスト・シーン
右はポーレット・ゴダード
(「世界の映画作家19/チャールズ・チャップリン」より)
 


 だが僕は、この笑わせてから泣かせるという手法こそが、チャップリンの最大の欠点であったと、あえて言いたい。なぜ我々は喜劇映画を観て笑いたいのか。それは、現実の苦しみを忘れることができるからなのだ。それならばなぜ、笑いの果てに、哀しさ=現実を思い出さなくてはならいのだろう。「街の灯」のラストに至っては残酷でしかない。目が不自由であった花売りの娘。彼女の目が見えるようになった時、自分の恩人が実は浮浪者であったことを知る。映画はそこで唐突に終わる。果たして二人のその後はいかに。二人が結ばれるとは思えないし、ただ時間よ止まれと祈る他はない。

(2003年2月14日)


(参考資料)
ピーター・コーツ、セルマ・ニクロース/岩崎昶訳「チャーリー・チャップリン」1959年2月 中央公論文庫
「世界の映画作家19/チャールズ・チャップリン」1973年4月 キネマ旬報社
岩崎昶「チャーリー・チャップリン」1973年11月 講談社現代新書

チャールズ・チャップリン/中野好夫訳「チャップリン自伝(上)−若き日々」1981年4月 新潮文庫
チャールズ・チャップリン/中野好夫訳「チャップリン自伝(下)−栄光の日々」1992年12月 新潮文庫
大井廣介「ちゃんばら藝術史」1995年9月 深夜叢書社
大野裕之編「チャップリンのために」2000年11月 とっても便利出版部
大野裕之「チャップリン再入門」2005年4月 NHK出版

「歴史読本ワールド/アドルフ・ヒトラーの謎」1987年10月 新人物往来社

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