第1章−映画の誕生(1) | |||||
二人の映画の父 〜エジソンとリュミエール兄弟〜 |
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映画の父リュミエール兄弟 |
もう一人の父エジソン |
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映画の本によれば、映画というものはある時点においてある特定の個人が発明したというものではないようである。様々な人物のそれまでの長い努力の積み重ねによって生まれたものであり、したがって映画の誕生をどの時点におくかというのも、解釈のしかたによって変わってくる。映画の起源というのも、つきつめていけば有史以前のスペインの洞窟の壁画の、動きを表すために足を何本も書いた動物の絵にまでたどり着くらしい。そうした映画の誕生までの歴史も「映画前史」という立派な映画研究のジャンルらしいのだが、このエッセイではそれらについて触れるのは避けよう。 19世紀後半に相次いだ写真を動かそうとする試みの中で、1891年にアメリカの発明王トマス・アルヴァ・エジソン(1847〜1931)が「キネトスコープ」なるものを発明することに成功した。これは、大きな箱の中にフィルムを装填し、筒の中を覗き込むというシステムのもので、一度に一人しか見られないものであった。とても今日の映画と同じ物とはいえないけれども、とにかく世界の人たちはあっと驚いた。僕が展覧会で観た1894年製作の映画というのも、このキネトスコープによって観るための映画であったのだ。 |
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もちろんエジソンやリュミエール兄弟以外にも同様の試みはあって、イギリスではウィリアム・フリース=グリーン(1855〜1921)が1889年に撮影機を発明しているし、ドイツではマックス(1863〜1939)とエミール(1859〜1945)のスクラダノフスキー兄弟が1895年に「ビオスコープ」の上映に成功している。しかしながら彼らの業績はエジソンやリュミエールほどの成功を修めることができず、今日彼らに“映画の父”の称号が与えられることは少ない。 イギリスで活躍したフランス人オーギュスタン・ル・プランス(1841〜90?)もまたそういった映画の発明者の一人である。彼は1890年、映画を世界初公開するべくニューヨークに向けて旅立つが、その途上忽然と消息を絶ってしまう。エジソンがキネトスコープを発明したのはそれから少ししてからであった。クリストファー・ローレンスの著書「エジソンに消された男」はこのル・プランスを扱ったドキュメントである。エジソンが彼の発明を盗んだのではないかと疑惑を持った家族たちの姿を追う。題名通りミステリーだと思って読むと期待外れに終わるが、ことの真相はともかくとして、発明の裏側にある情報戦といったものが取り上げられていて大変興味深い本であることは確かだ。 |
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〈リュミエール兄弟作品〉 |
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「工場の出口」(1895年仏) |
「赤ん坊の食事」(1895年仏) (左はオーギュスト・リュミエール) |
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「ラ・シオタ駅への列車の到着」(1897年仏) |
「カード遊び」(1896年仏) |
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だが、僕は敢えて「待った」の声をかけたい。確かに以前は映画というものは映画館で大勢の人々が同時に観るものであったが、今やその形式は変わりつつある。例えば、僕はこのエッセイを執筆するために、エジソンやリュミエール兄弟の作品を含め古い映画を何本も観直したが、それらの大半はビデオで観ている。大学図書館のAV資料室にも通ったが、一人でブースに入って小さな画面で映画を観るというスタイルは、実はよっぽどエジソンのキネトスコープ的である。今日の映画の鑑賞のもう一つのスタイルを生み出したのは、実はエジソンであったと言える。また、エジソンが映画に与えた影響も決して小さくは無い。リュミエール兄弟が単なる技術者に終わり、やがて映画製作から手を引いたのに引き換え、彼は世界で最初の映画撮影スタジオを設立すると、エドウィン・S・ポーター(1870〜1941)らを配下に数多くの劇映画作品を生み出してきた。 映画の父が本当は誰であるのか、そろそろそれを考え直す時期に来ているのではないだろうか。 |
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〈エジソン作品〉 |
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(2002年1月31日) |
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(参考資料) 朝日新聞社文化企画局「光の誕生 リュミエール!」1995年10月朝日新聞社 吉田喜重・山口昌男・木下直之「映画伝来/シネマトグラフと〈明治の日本〉」1995年11月岩波書店 蓮實重彦編「リュミエール元年/ガブリエル・ヴェールと映画の歴史」1995年12月筑摩書房 クリストファー・ローレンス/鈴木圭介訳「エジソンに消された男/映画発明史の謎を追って」1992年3月筑摩書房 |
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