第1章−映画の誕生(1)
二人の映画の父
〜エジソンとリュミエール兄弟〜


映画の父リュミエール兄弟
 


もう一人の父エジソン
 


 1995年に映画が生誕100周年を迎えたことは、まだ記憶に新しいことと思う。映画の100歳の誕生日を祝うべく、世界各地でイベントが催されていた。わが国日本でも松涛美術館で「シネマトグラフと明治の日本」が開催されたり、僕の母校のW大学でも「早稲田と映像の20世紀」なんて企画が行なわれたものだった。そういった展示会では、映画草創期の貴重な作品を観る機会がずいぶんとあった。リュミエール兄弟のシネマトグラフ。ジョルジュ・メリエス(1861〜1938)のトリック映画。歌舞伎を撮影した現存最古の日本映画「紅葉狩り」(1899年)、etc。そんな中には、発明王エジソンの製作した映画も上映されていたのだが、それらの作品を観ていてふとある疑問に行き当たった。1995年が映画誕生100周年であるなら、映画の誕生は1895年でなくてはならない、実際展覧会のプログラムでも、1895年12月28日にフランスのリュミエール兄弟によって映画が最初に公開されたことになっている。ところが、エジソンの製作している映画の中には、それよりも明らかに古い1894年製作の映画があるではないか。映画の発明より先に作品が出来ている。これはどう考えても変である。

 映画の本によれば、映画というものはある時点においてある特定の個人が発明したというものではないようである。様々な人物のそれまでの長い努力の積み重ねによって生まれたものであり、したがって映画の誕生をどの時点におくかというのも、解釈のしかたによって変わってくる。映画の起源というのも、つきつめていけば有史以前のスペインの洞窟の壁画の、動きを表すために足を何本も書いた動物の絵にまでたどり着くらしい。そうした映画の誕生までの歴史も「映画前史」という立派な映画研究のジャンルらしいのだが、このエッセイではそれらについて触れるのは避けよう。

 19世紀後半に相次いだ写真を動かそうとする試みの中で、1891年にアメリカの発明王トマス・アルヴァ・エジソン(1847〜1931)が「キネトスコープ」なるものを発明することに成功した。これは、大きな箱の中にフィルムを装填し、筒の中を覗き込むというシステムのもので、一度に一人しか見られないものであった。とても今日の映画と同じ物とはいえないけれども、とにかく世界の人たちはあっと驚いた。僕が展覧会で観た1894年製作の映画というのも、このキネトスコープによって観るための映画であったのだ。

 次いで1895年にフランスのオーギュスト(1862〜1954)とルイ(1864〜1948)のリュミエール兄弟が、スクリーンに映像を映し出す「シネマトグラフ」を発明した。兄弟は同年12月28日にパリのキャプシーヌ大通りのグラン・カフェにおいて「シネマトグラフ」をお金を取って一般の観客に公開した。これが今日の映画上映のスタイルと同じ物であったことから、一般的にはこの日が映画の誕生日と見なされているのである。

 



 



 



リュミエール兄弟のシネマトグラフ
 



エジソンのキネトスコープ
 


 もちろんエジソンやリュミエール兄弟以外にも同様の試みはあって、イギリスではウィリアム・フリース=グリーン(1855〜1921)が1889年に撮影機を発明しているし、ドイツではマックス(1863〜1939)とエミール(1859〜1945)のスクラダノフスキー兄弟が1895年に「ビオスコープ」の上映に成功している。しかしながら彼らの業績はエジソンやリュミエールほどの成功を修めることができず、今日彼らに“映画の父”の称号が与えられることは少ない。
 イギリスで活躍したフランス人オーギュスタン・ル・プランス(1841〜90?)もまたそういった映画の発明者の一人である。彼は1890年、映画を世界初公開するべくニューヨークに向けて旅立つが、その途上忽然と消息を絶ってしまう。エジソンがキネトスコープを発明したのはそれから少ししてからであった。クリストファー・ローレンスの著書「エジソンに消された男」はこのル・プランスを扱ったドキュメントである。エジソンが彼の発明を盗んだのではないかと疑惑を持った家族たちの姿を追う。題名通りミステリーだと思って読むと期待外れに終わるが、ことの真相はともかくとして、発明の裏側にある情報戦といったものが取り上げられていて大変興味深い本であることは確かだ。
 



エジソンに消された?
オーギュスタン・ル・プランス
 


 今見てきたように1895年を映画の誕生とするのは、リュミエール兄弟が今日の映画上映のスタイルを生み出したからに他ならない。兄弟は、その後も世界各地に映画技師を派遣し、映画の普及に務め、同時に世界各地の風景を映画に撮影した。1897年には日本にも2人の技師を派遣し、明治期の日本の風景を撮影している。この時撮影されたフィルムは今日「明治の日本」という作品として知られている。その業績は高く評価してよい。だから、リュミエール兄弟を“映画の父”と見なすことになんら異論はない。
 


〈リュミエール兄弟作品〉


「工場の出口」(1895年仏) 
 

「赤ん坊の食事」(1895年仏)
(左はオーギュスト・リュミエール)
 
 

「ラ・シオタ駅への列車の到着」(1897年仏)
 
 

「カード遊び」(1896年仏)
 

 だが、僕は敢えて「待った」の声をかけたい。確かに以前は映画というものは映画館で大勢の人々が同時に観るものであったが、今やその形式は変わりつつある。例えば、僕はこのエッセイを執筆するために、エジソンやリュミエール兄弟の作品を含め古い映画を何本も観直したが、それらの大半はビデオで観ている。大学図書館のAV資料室にも通ったが、一人でブースに入って小さな画面で映画を観るというスタイルは、実はよっぽどエジソンのキネトスコープ的である。今日の映画の鑑賞のもう一つのスタイルを生み出したのは、実はエジソンであったと言える。また、エジソンが映画に与えた影響も決して小さくは無い。リュミエール兄弟が単なる技術者に終わり、やがて映画製作から手を引いたのに引き換え、彼は世界で最初の映画撮影スタジオを設立すると、エドウィン・S・ポーター(1870〜1941)らを配下に数多くの劇映画作品を生み出してきた。
 映画の父が本当は誰であるのか、そろそろそれを考え直す時期に来ているのではないだろうか。

〈エジソン作品〉



「くしゃみの記録」(1894年米)






「アーウィンとライスの接吻」(1900年米)



「コルベット対コートニーのボクシング」(1894年米)
 

(2002年1月31日)


(参考資料)
朝日新聞社文化企画局「光の誕生 リュミエール!」1995年10月朝日新聞社
吉田喜重・山口昌男・木下直之「映画伝来/シネマトグラフと〈明治の日本〉」1995年11月岩波書店
蓮實重彦編「リュミエール元年/ガブリエル・ヴェールと映画の歴史」1995年12月筑摩書房
クリストファー・ローレンス/鈴木圭介訳「エジソンに消された男/映画発明史の謎を追って」1992年3月筑摩書房
 


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