第2章−サイレント黄金時代(8)

フロンティア・スピリットいまいずこ
〜西部劇「幌馬車」と「アイアン・ホース」〜



「アイアン・ホース」(1924年)
(「アメリカ映画200」より)
 


 1991年にソビエト連邦が解体。アメリカは世界唯一の超大国となった。このこと自体に関しては僕も異論を挟む気はまったくない。だが、ジョージ・W・ブッシュ大統領(1946〜)がイラクや北朝鮮を「悪の枢軸」と切って捨て、「世界の警察官」として振舞う姿勢には、ちょっとばかし引っかかるものがある。ましてや、そのアメリカにベッタリとなっているわが国日本。歯がゆい思いをしている人も、きっと多いに違いない。
 一昨年(2000年)7月のことであった。わが国の首相は、アメリカとイギリスのイラク爆撃に対して「全面的に支持する」と述べた。女性・子供を含め10名の死傷者を出したにもかかわらず…。フランスやロシア、中国などといった国は一斉に米英を非難した。敗戦国であるわが国の首脳がこのような軽率な発言をするとは…ずいぶんと憤った記憶がある。どうして日本はこうもアメリカに頭があがらなくなってしまったのであろうか。

 マシュー・ペリー(1794〜1858)率いる黒船が1853年浦賀に来航して、それがきっかけとなって日本が近代化の道を進んでいったのは紛れも無い事実である。この点で日本はアメリカに感謝すべきだ。だが、アメリカがイギリスから独立を果たした18世紀終り。その頃の日本は徳川幕府を中心に町人文化を花開かせていた。それどころか、それより千年以上も前の7世紀にして、日本は中央集権国家としての形を整えていたのである。1492年にクリストファー・コロンブス(1446頃〜1506)が新大陸に到達した頃、後のアメリカには未開の地が広がっているだけであった
(*1)。つまり、文化の点でアメリカは日本の伝統に遠く及ばないのである。日本人はもっと誇りを持たなくてはならないと思う。

*1 もちろん、コロンブスがやってくるよりはるか昔からアメリカには人間が住んでいたわけであるから、普通言うような「アメリカ大陸発見」というのはおかしい。ちなみに、その頃すでに後のメキシコにアステカ王国、ペルーにインカ帝国といった高度な文化を持つ文明が存在していたのは周知の通り。アメリカ合衆国は田舎もいい所だったのである。

 

 1945(昭和20)年、太平洋戦争で手痛い敗北を喫するまで、わが国はアメリカをはじめとした欧米の列強に対して引け目を持ってはいなかった。そればかりか、アジア唯一の大国として、欧米諸国と東南アジアの覇権を競ってさえいた。
 今でこそ、日本人の海外進出が何かと騒がれているが、当時の日本人にとって欧米諸国は決して見上げるような存在ではなかったと思われる。サイレント期にハリウッドで映画に主演していた早川雪洲(1886〜1973「日本人の肖像」参照)が、当時の日本でさほど話題になっていないという事実が、そのことを裏づけている。

 だが言い換えると、アメリカという国は誕生してからたった100年余りで、世界の列強に追いつき、瞬く間に追い越していったということなのである。
 最初のイギリスからの入植者たちがアメリカ東海岸(後のヴァージニア)にやってきたのは17世紀のはじめ。密林と湿地の中、インディアン(ネイティブ・アメリカン
*2)の脅威と闘いながら、最初の国作りを始める。植民地アメリカが、イギリスとの独立戦争の末に勝利をつかみ取ったとき、そのアメリカ合衆国の領土は東海岸の13州に過ぎなかった。西に広がるのは広大な未開の地、すなわちフロンティア(辺境)であった。
 「フロンティア」とは、1平方マイル(1.6q四方)の土地に人口2〜6名の地域のことを指す。厳密には、そうした地域と、人口が1名以下の地域との境界線を指すので、より正確に言えば「開拓線」と言ったほうが良いだろうが、大抵の場合、境界線を中心とした地域全体を指している。境界線そのものは「フロンティア・ライン」と言って区別するようだ。

*2 「インディアン」という言い方は、アメリカ大陸をインドの一部であると誤解していたコロンブスによる言葉なので、最近では「ネイティブ・アメリカン」という言い方が主流である。しかし、「Native American」には「アメリカ生まれのアメリカ人」という意味もあるそうなので、ここでは以後も「インディアン」という表記を用いることにする。

 

 そもそも、イギリスやオランダといったヨーロッパの故国を捨てて、新大陸へと渡ってきたのはどのような人たちであったのだろうか。彼らの中にはやむにやまれぬ事情でやって来た人たちもいたのかもしれないが、食い詰めた挙句にやって来たのではない。海を渡ってくるには何と言っても大金がかかるからである。それは、後に日本からアメリカへと移民していった人たちにも当てはまる。当時のヨーロッパは、貴族や教会によって土地を独占されており、民間人の土地の入手
は極めて困難な状況であった。そこで、彼らは新大陸の広大な土地へと目をつけたのである。彼らの多くは中産階級に属していた。彼らは自らの手で自らのための新しい土地を切り拓こうという大きな気概を持ち合わせていたに違いない。
 やがてアメリカは1783年のパリ条約の結果独立を承認される。同時にアパラチア山脈からミシシッピ河に至る土地をイギリスより手に入れる。1803年にはルイジアナをフランスより購入。ここでいうルイジアナは現在のルイジアナ州のみではなく、ミシシッピ河からロッキー山脈までの82万8000平方マイルに及ぶ広大な地域である。1500万ドルという値段であるから、1エーカー当りたった3セントという安い買い物であった。1845年にはメキシコから独立したテキサスを併合。1846年のメキシコとの米墨戦争の後にはカリフォルニア、ニューメキシコを割譲される。

 このようにアメリカはその領土を西へ西へと広げていった。それに伴い、フロンティアもまた西へ移動していく。開拓民たちは森を切り開き、家を建て、土地を耕した。部落は村になり、町になり、住人の数は増えていった。アメリカは、こうしたフロンティアの開拓と共に発展していったと言える。だからこそ、アメリカ人の気質は、時に“フロンティア・スピリット”と称されるのである。日本語に訳すと“開拓精神”とか“辺境魂”であろうか。この“フロンティア・スピリット”こそが、アメリカを短期間のうちに大国へと発展せしめた原動力であったのではないだろうか。
 

 アメリカ人たちがフロンティア・スピリットを発揮したのは18世紀の終り以降のことである。1820年代の初め、当時まだメキシコ領であったテキサスにアメリカ人が開拓地を作り始め、サンタ・フェ(現・ニューメキシコ州)を通ってカリフォルニアへ向かう道(トレール)が整備されたころから、国勢調査局によってフロンティアの消滅が発表された1890年までがいわゆる“西部開拓時代”と言われている。多くの西部劇はこの約70年の間を舞台としている。
 



オレゴンへ向かう幌馬車隊を描く
映画「幌馬車」(1923年)の撮影風景
(「西部劇−サイレントから70年代まで」より)
 


 以前「アメリカ人の郷愁」でも述べたが、「西部劇」とは、西部開拓時代のアメリカ南西部を舞台にしているばかりではなく、この「フロンティア・スピリット」をも持ち合わせていなくてはならないのだ。
 西部劇と言うと善玉カウボーイと悪玉カウボーイが拳銃で撃ち合うのを真っ先に思い浮かべるが、これは明らかに間違ったイメージである。確かにカウボーイたちは拳銃を携帯していたが、それはあくまでも自衛用であり、弾薬が高価であったこともあってむやみやたらに発砲するようなことはなかった。第一、カウボーイ(Cowboy)とはその名の通り、「牛(Cow)」を世話する人なのであって、ガンマンのことではない。また、メキシコではヴァケーロ(Vaquero)」とも呼ばれるが、これもやはり「牛(Vaca)」を語源としている。ちなみに南アメリカでは他にもガウチョ(Gaucho)とも言われるが、こちらはペルー中部のケチュア族の言葉で「貧しい者」を意味する「Wahcha」から来ているそうである。

 16世紀にメキシコを支配したスペイン人達は、後のテキサスを含めたメキシコ北部が農耕に向かないことから、牛の放牧に従事することになる。やがて、テキサスにやって来たアメリカ人達も同様に放牧を生業とするようになった。
 1850年頃、カリフォルニアで金脈が発見され、ゴールドラッシュが始まる。食料としての牛肉の需要が高まったことで、牛の群をテキサスからカリフォルニアまで運ぶ、いわゆる「ロング・ドライブ」が始められた。鉄道建設が西部へも延びてくると、東部の市場への牛の輸送が可能となり、1865年以降は鉄道の通過するカンザスやコロラドまで牛を追っていくようになった。その距離は場合によっては2000キロ以上にも及んだ。
 一般的なロング・ドライブは、次のようなものである。一回に平均2300頭から2500頭の牛を追うために12、3人のカウボーイが従事した。加えて、食料や生活必需品を満載したチャック・ワゴン(炊事車)や、替え馬も必要であった。月給はカウボーイ1人につき25〜40ドル(カウボーイの指揮を取る隊長は90ドル程)であったというから、2・3ヶ月の旅の後には50〜90ドルの大金を手にすることができたことになる。
 


 ロング・ドライブの終点の町は、自然に人が集まり活気を帯びるようになってくる。酒場であるサロン、賭博場、売春宿などが次々と作られ、それに伴い治安は悪化。喧嘩口論、殺人などといった犯罪のはびこる無法地帯と化す。だから町の人たちは治安を守るために腕利きのガンマンを保安官として雇ったのである。ワイルド・ビル・ヒコック(1838〜76)、ワイアット・アープ(1848〜1929)といった西部劇でお馴染みの人物は、こうした保安官として活躍した人たちである。

 1860年代になると、鉄道の路線に近いコロラドやワイオミングといったアメリカ中西部でも放牧が始まるようになる。そして、1880年にはテキサスにまで鉄道が開通したことで、ロング・ドライブの時代は終りを遂げる。
 この頃になると牧草地では牛の増加が問題となっていた。牧場主たちは自分達の支配する牧草地を有刺鉄線で囲むことによってその権利を主張しようとしたが、それらは大抵が個人所有の物ではなく公有地であったことから時に争いにまで発展した。やがて、鉄道の発達によって新たな開拓民がこうした土地へも入植を始めるようになる。合衆国政府もそれを奨励し、1890年までにほぼすべての公有地は姿を消し、フロンティアは消滅したのである。
 

 こうした時代を背景としているからこそ、西部劇は“フロンティア・スピリット”を持っていると言うことが出来る。例えば、西部劇の名作「シェーン」(1953年米)。流れ者のガンマン、シェーン(アラン・ラッド)がやってくるのは、ワイオミングの開拓農民のスタリット一家のもとである。古くからこの地にいる大牧場主のライカー(エミール・マイアー)は、放牧地の確保のために彼ら開拓農民を追い出そうと、ガンマンを雇って妨害する。ただ観ているだけでは、単なる勧善懲悪のストーリーに思えるこの映画も、こう考えればれっきとした“フロンティア・スピリット”を持っているわけである。
 西部劇が西部劇であるためには、フロンティア・スピリットを持っていれば良いのであるから、ガンファイトなどははっきり言って不必要とも言える。もっとも、ガンファイトの無い西部劇は、チャンバラのない時代劇と一緒で、どこか物足りなく感じてしまうものだ。例えば、日本でも人気のあったローラ・インガルス・ワイルダー(1867〜1957)原作のテレビシリーズ「大草原の小さな家」(1974〜83年米)。これを西部劇だと思っている人たちは少ないと思うが、1870〜80年代のアメリカ北西部を舞台としている。新天地を求め開拓生活を送るインガルス一家の物語は、存分にフロンティア・スピリットを持ち合わせている。
 



開拓者一家を描いた
「大草原の小さな家」
 


 それでは次に、フロンティア・スピリットに溢れているとされる作品を観て、西部劇のフロンティア・スピリットについて考えてみたい。こうした作品の代表として、サイレント期では「幌馬車」(1923年米)と「アイアン・ホース」(1924年米)を挙げることができる。
 



「幌馬車」(1923年)
(「アメリカ映画200」より)
 


 「幌馬車」はエマーソン・ハフ(1857〜1923)のベスト・セラー小説をジェームズ・クルーズ(1884〜1942)が監督。1848年、遠くオレゴンの新天地を目指して旅立った幌馬車隊を描いた超大作である。
 カンザスを出発したジェド・ウィンゲイト(ジョニー・フォックス)を隊長とする一団と、ミズーリを出発したウィル・バニオン(J・ウォリン・ケリガン)を隊長とする一団が合流してのオレゴン・トレールの旅がスタートする。道中、一行は様々な困難に出会うが、それを乗り越えて進んでいく。その間に、ジェドの娘モリー(ロイス・ウィルスン)とウィルの間にほのかな愛情が芽生える。やがて、ゴールド・ラッシュのニュースを知ったウィルは一行と別れてカリフォルニアへと向かう…。数年後、ゴールドラッシュで富を築いたウィルは、オレゴンで暮らすモリーと再会し、ハッピー・エンドとなる。
 オレゴン・トレールの実話を元に、ドキュメンタリー・タッチで物語が描かれる。ストーリーがやや平凡であるとの批判もあろう。だが、この作品のスケールの大きさは、そうした欠点を覆い隠してしまう。出演者はエキストラを含め3000人(うち1000人はインディアン)。さらに幌馬車700台、馬1200頭を用いているというから、当時としては破格の規模である。残念ながら僕はビデオで観たのだが、地平線に沿って画面一杯に連なる幌馬車の群れは、スクリーンで見たならさぞかし迫力があったであろう。
 



「幌馬車」
J・ウォーレン・ケリガン(左)とロイス・ウィルソン
(「西部劇−サイレントから70年代まで」より)
 


 幌馬車に丸太を括りつけ、ミシシッピの大河を河る。食糧不足にあっては、バッファローを狩り、インディアンの襲撃をも退ける…。いかなる困難にあろうとも、めげずに新天地を目指す幌馬車隊の姿は、まさにフロンティア・スピリットを体現している。
 



「幌馬車」(1923年)
 


 フロンティア・スピリットは何も開拓民の生活のみに現れるわけではない。「アイアン・ホース」(1924年米)では大陸横断鉄道建設の大事業が描かれる。監督は当時29歳、のちに「駅馬車」(1939年米)や「荒野の決闘」(1946年米)などで「西部劇の神様」と称されるジョン・フォード(1895〜1973)である。
 1862年7月1日、アメリカ大陸の東西を鉄道で結ぶ大陸横断鉄道建設に関する法案が、議会を通過。翌1863年、セントラル・パシフィック鉄道(以下C・P)が中国人労働者を動員してカリフォルニア州サクラメントから東へ、1864年ユニオン・パシフィック鉄道(以下U・P)が南北戦争の復員兵を中心としてネブラスカ州オハマから西へ向かって工事を進めていく。U・Pの測量技師の娘ミリアム(マッジ・ベラミー)は、その幼なじみで、父を殺したインディアンを探すデイヴィ(ジョージ・オブライエン)と再会し、恋がめばえる。一方、自分の土地に鉄道を通すことで、金儲けを企む土地の顔役ボウマン(フレッド・コウラー)は、インディアンを使って工事を妨害しようとする…。ボウマンこそは実はデイヴィの父を殺したインディアンの正体であった。
 



「アイアン・ホース」(1924年)
 


 クライマックスは、1869年5月10日、ユタ州オグデンのプロモントリー・ポイントにおける東西の鉄道の結合の場面。ここに登場する鉄道は、本物のジュピター号(C・P)と116号(U・P)であるというから、すごいではないか。また、エキストラに本物の騎兵隊1個連隊、鉄道工夫3000人、中国人労働者1000人、インディアン800人を動員。彼らをまかなうコックだけでも100人に及んだという。また、馬は2000頭、バッファロー1300頭、テキサス牛に至っては1万頭が使用されたというから、規模としては「幌馬車」以上かもしれない。フォードは、南北戦争時の南軍の名将ロバート・E・リー(1807〜70)の部下の統率の仕方を参考に、彼らに軍隊式の采配を振るったという。
 



インディアンに演技指導をすジョン・フォード
「アイアン・ホース」撮影風景
(「西部劇−サイレントから70年代まで」より)
 


 「幌馬車」と「アイアン・ホース」を比較してみると、迫力という点ではリアリズムに徹した「幌馬車」が勝っているが、ドラマとしての面白さや人物像の奥深さでは「アイアン・ホース」がはるかに優れているという印象である。とりわけ、「アイアン・ホース」は個性的なキャラクターが魅力的に描かれており、後のフォードの作品を彷彿させる。例えば、「幌馬車」にはモルモン教の指導者ブリガム・ヤング(1801〜77)の残した道しるべがほんのちょっと出てくるにすぎない。それに比べて「アイアン・ホース」では幼いミリアムとデイヴィと出会う若き日のアブラハム・リンカーン(1809〜65)や、鉄道工夫の食糧としてバッファローを狩るバッファロー・ビル(1846〜1917)、シャイアンの街の保安官ワイルド・ビル・ヒコックなどの実在の人物がさりげなく配置されているという楽しみがある。
 また、「アイアン・ホース」には珍妙な南軍の戦友“三銃士”が登場するが、その中の一人J・ファレル・マクドナルド(1875〜1952)は後にフォードの「三悪人」(1926年米)でも人間味あふれる悪役を好演していた。この作品は、1877年のダコタの土地解放に伴うランド・ラッシュ(土地争奪戦)に殺到する人たちの姿を描いており、内容的にも、フロンティア・スピリットに溢れるという点でも「アイアン・ホース」の続編とも言うべきものとなっている。
 



「アイアン・ホース」
ジョージ・オブライエン(中央)
(「西部劇−サイレントから70年代まで」より)
 


 さて、「幌馬車」と「アイアン・ホース」の大ヒットによって、その後も同様の作品が数多く製作されたが、残念なことに、優れたものは少ないとのことである。そんな中で特筆すべきものとしては、フォードが戦後に製作・監督した「幌馬車」(1950年米)であろうか。こちらは1871年のモルモン教徒のユタとアリゾナの境サン・フワンへの移民を描いている。また、セシル・B・デミル
(1881〜1959)監督の「大平原」(1939年米)は、原題が「Union Pacific(ユニオン・パシフィック)」とあるように、大陸横断鉄道建設をU・Pの側から描いている。活劇的な見せ場に溢れた痛快作である。
 



「大平原」(1939年)より
 


 1890年にフロンティアは消滅する。つまり、広大なアメリカの土地のすべてが人によって足を踏み入れられたのである。この後、彼らの精神つまりフロンティア・スピリットはどこへ向かったのであろうか。
 国内のフロンティアが無くなったのであるから、新たにフロンティアを求めるには海外に進出するしかない。19世紀末、アメリカは太平洋を越えてさらに西をめざした。遅ればせながらアメリカもまた、帝国主義の列強に加わったのである。
 その一方で、フロンティア・スピリットが国力の向上に向けられたと考えることもできる。19世紀にはアメリカの産業は飛躍的に発展したが、これはかつて開拓に向けられたエネルギーが国力に発揮されたからではなかろうか。

 とまあ、このようなことはこれまでよく言われたことで、珍しい意見でも何でもない。もちろん、僕自身にも異論はないのだが、すべてのアメリカ人がここまで前向きに、ポジティブに考えていたとは思えない。開拓すべきフロンティアを失った時、大きな喪失感に襲われたアメリカ人も少なくなかったはずだ。その後の人生を彼らは過去の栄光にすがることで、生きていったに違いない。そういえば、南北戦争の英雄であったD・W・グリフィス(1875〜〜1948)の父も、幼い息子に戦場の思い出話を繰り返し語っていたと言う。それが、後のグリフィスに大きな影響を与えた訳だが、かつての開拓者たちも、同様であったとは想像に難くない。
 「幌馬車」「アイアン・ホース」が公開されたのは、フロンティアが無くなってから30数年が経った頃である。西部開拓時代に働き盛りであった人達もすでに老年に差しかかっている。彼らはきっとスクリーンの向こう側に、若き日の自分の面影を見つけていたに違いない。1920年代、フロンティア・スピリットを体現する名作が相次いで生み出されたのは、決して偶然ではないのだ。

 

(2002年12月13日)


(参考資料)
双葉十三郎「アメリカ映画史」1951年7月 白水社
G・N・フェニン、W・K・エヴァソン/高橋千尋訳「西部劇−サイレントから70年代まで」1977年11月 研究社出版
中屋健一「アメリカ西部史」1986年9月 中公新書
鶴谷壽「カウボーイの米国史」1989年7月 朝日新聞社
アリステア・クック/鈴木健次・櫻井元雄訳「アリステア・クックのアメリカ史[上]」1994年12月 日本放送出版協会

「新詳世界史図説」1993年11月 浜島書店

「Wide West Web 西部劇専門サイト」(http://widewestweb.com/
 
 

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