佐藤特許事務所  東京都世田谷区


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第2回「金融の話」
   付録の章:数学と経済学 (アングロ・サクソンには敵わないか?)


  @ 経済学者の誤解
読者から次のような質問を頂いた。「或るウェブサイトで大学の先生がオプション理論の解説をしている。それによると、オプションの価格付けは裁定取引の理論に基づいて行うらしい。これは正しいか?」
意味不明なので、そのサイトを調べてみた。見事にトンチンカンな解説をしている。何故こういうことになったのか?この問題を考えてみたい。
先ず裁定取引とは何ぞや?
裁定とは、一物二価における価格差、いわゆる差也(サヤ)のことである。 (“鞘”は当て字らしい。)一物二価というと、一見奇妙キテレツな事象に思えるけれど、「一物」を広く解釈すると、経済活動に於いては至って全うな概念なのである。同程度の製品が、これまでより安価に出まわるようになったら、一時的には一物二価の状態になるが、やがて終息する。つまり、この一物二価は 技術革新と関連する。同じ物の価格が地域ごとに違う場合は、その垣根を取り払う動きが活発になる。この一物二価は市場拡大とか市場統合に関連する。
それではもっと直接的な経済活動の例は何だろうか?
良く知られているのは現物と先物との差也を狙う裁定取引であろう。 本来、現物と先物とは全く別個の商品なのだが、清算日には必ず同じ価格になる(する)ことから、一物と見なすのである。それぞれの値が刻々変動するわけだが(一物二価)、乖離がペイする瞬間を見計らって、安い方を買って高い方を売るわけである。乖離がペイするという意味だが、売買には全て費用(手数料、税金、利息・・)がかかる。それらを考慮してもなお利益が出るという意味である。乖離はもともと大きくはないだろうから、そのペイする一瞬をシステムが捉えるわけで、文字通りシステム運用である。これが典型的な一物二価を利用した取引つまり裁定取引だろう。なお現物と先物の組み合わせはリスクヘッジが目的という場合もある。こちらの方が健全な商行為と思えるが、差也狙いではないから裁定取引とは云わない。
さて、オプション理論に戻る。
「原証券と派生証券のどのような組み合わせを考えても裁定機会(=必勝法)が無い」ような確率(リスク中立確率)を導入してオプションの価格付けを行うというのが、ブラック・ショールズによるオプション理論の中核であった。(勿論この裁定機会とは数学的に厳密に定義されるものであるが、素朴に、一物二価の状態を利用した必勝法と考えて差し支えない。)従って、前述のような先生の解説は意味不明と言わざるを得ないのだ。思うにこの間違いは、価格付けの理論と運用の実態とを混同しているからだろう。投資家のオプション取引に対するスタンスは何か?本来の目的は原証券に対するリスクヘッジである。
次に、小さい元手で大きい取引をすること、所謂レバレッジ(梃子)商品としての運用であろう。最後に、原証券との裁定取引である。オプションの価格付け理論は裁定取引が出来ないようにすることにあるのだが、現実の値動きは乖離するわけだから、そこを狙った差也取りは当然あり得るわけだ。件の先生はそこで混乱したのだろう。ブラック・ショールズの原論文はマルチンゲール(公正さの理論)の応用を展開しているのだから、原論文を読めば混乱する筈はない。とは言っても今私が述べている事は逆に全く机上の知識だから、それはそれで自慢にならないけれど。

A 数学と経済学
ところで私が今このような駄文をものしているのは、この先生を貶める為でもなければ、自分が知ったかぶりをする為でもない。数学と経済学との関係を話したい為である。
然らば、このブラック・ショールズの論文は数学なのか?経済学なのか?
この論文は、純粋数学としての確率論に於ける第一級の論文である。この論文に魅了されて、日本の(多分外国も)確率論のエキスパートが参戦し、先陣争いに鎬を削ったことで(今でも)、この事は証明される。もっとも、これは本来の連続モデルについてである。このモデルの“初心者版”として流布している離散モデルは、“第一級”どころか“数学”とも見なされない。連続モデルと離散モデルとは本質的に異なるものであり、前者は確率論の訓練を受けたものでなければ理解出来ない筈だから、この論文の執筆者(2名+1名)は、文句なく確率論のエキスパートである。蛇足だが、離散モデル(ランダム・ウォーク) の極限として連続モデル(ブラウン運動)を“解説”し、これからかの有名なブラック・ショールズの公式を“導いて”くれる本を見かける。
これは勿論でたらめであり、確率論のプロをウンザリさせる所業なのだが、 ブラック・ショールズ等は無論このようなインチキとは無縁であり、やっぱり 本物の確率論学者なのである。(少なくとも誰か一人は)
次に、この論文は経済学的にはどう評価されるのか?(経済学的な意味に於いてなら、連続モデルと離散モデルの区別はない。)
そのような問いかけに私(確率論は人よりは知っていて金融は机上の基礎知識のみ)が答えられる筈もないが、以下の傍証から“無意味である”と実感できるのではなかろうか。
第一の傍証。本研究に没頭している前述の数学のプロは、経済や金融の知識などまるでない学者、株を買ったこともない人達だからだ。(勿論私の知っている範囲で)原論文はシンプル過ぎて話にならないから、当然“改良・拡張”しなければならないが、それが出来る人は数学のプロで金融方面のアマチュアなのである。経済学者は手も足もでないだろうし、数値解析屋が運用に資するツールを提供したという話も聞かない。というわけで、金融アマの研究成果が頒布されるわけだが、百鬼夜行の金融の現場=キッタハッタの世界で、それが役にたつかどうかなどちょっと考えれば分かりそうなものだ。
第二の傍証。かってソ連でYa.G.シナイという確率論のスーパースターが大活躍していた。例えば、撞球問題という論文を出すと世界中の確率論学者が注目するという具合だった。然らばシナイはハスラーだったのか?その論文を読めば撞球が上手くなるのか?初心者向けの解説書が出回わったか?云うまでもなく全てNOである。難解なエルゴード理論がシンプルな撞球ゲームの上で展開されているだけで、撞球のテクニックとは全く関係がないのだから。
ブラック・ショールズの論文は、これとどこが違うのだろうか?難解なマルチンゲールの理論がお伽の国の市場で展開されているという点で、瓜二つのように私には思える。
両者の違いは何か?一つ目は、後者には“経済学”というそれ自身巨大な市場が存在し多くの人と金が動いているが、前者には“撞球学”なる市場は存在しないということだろう。市場があれば、常に何かビジネスの種を作り出さなければならない。(ユニークな論文にノーベル経済学賞を与えるとか。)、二つ目は、シナイはハスラーを自称したこともなければ廻りも全く期待しなかったけれど、後者ではその当の学者が金融の現場(=キッタハッタの世界)に飛び込み、廻りもそれを応援したということだろう。
第三の傍証。ショールズらの関係する投資会社LTCMが1998年破綻し、彼らやその理論が批判された。(これについては後でも触れる。)破綻したことよりも、それに対する経済学者の批判が下らなかった。
「正規分布の仮定が誤っている」―>破綻する前は正しいと思っていたのか?
「リスク管理が甘い」―>σでどうやってリスク管理をするのだ?
「ベイズ経済学に戻れ」−>これが良く分からない。確率・統計でベイズと言えば条件付き確率の公式しかないけれど、この経済学とは何ぞや?調べてみると情報、事前確率、事後確率を使った解説があるが、“数式をあまり使わない経済学”以上のことは分からなかった。いずれにしても、シナイの例に置き換えて見れば最初から明らかではないか。シナイが「この論文を書いた俺は凄腕のハスラーに決まっている。俺に賭けろ。」と言っても、誰も賭けはしない。(論文を理解しようとしまいと)論文と実践とは全く違うことを人は経験的、感覚的に知っているからだ。ショールズ等の理論が現場でもてはやされたのは論文の経済学的価値とは別の力が作用したからだ。批判の為のつまらない批判はするまい。
以上の傍証から、本モデルは経済学的には全く(或は殆ど)無意味であると主張したい。或る人から、「そうは言っても、現実に使われているではないか。」と指摘された。調べてみると、オプション商品の証拠金の算出に使われている(予定?)らしい。これではあの精緻な理論が泣き出すというものだ。(それにしても、モデルのパラメータをどのようにして決めるのだろう?)
さて、“然らば、お前は何で解説(第2回「金融の話(オプション理論)」)したのだ?”と問われれば困るが、直接的には、数学好きの銀行マンからマルチンゲールについて質問されたからである。確かにアマ用の離散モデルでマルチンゲールとの関係を説明した解説はないようだから敢えて挑戦してみたけれど、力不足で到底成功していない。次に、確率モデルの雰囲気を実感して貰いたかったからである。本モデルに限らず確率モデルというのは、多くの試行を行うことによって段々体感していくものである。
従ってこれをゲーム化して暇な時に試行を重ねていけば、金融の現場の雰囲気 に浸りながら、「成程、確かに裁定機会はなさそうだ」とか「こうすれば必勝法がありそうだ」とか実感できるかも知れない。(例えば、針を何回も投げてπを求め、確率を実感するように。)確率論は精緻な学問でも、現実世界における確率とはこの程度のものではなかろうか。サイコロに工夫を凝らして平均値や分散を自在に変えられるようにすれば、リスク(分散、ボラティリティとも言うそうだ)を計量的に感じ取れる。分散を小さくすれば得られるのは殆ど平均値の周辺の値である。分散を大きくしていけばとんでもない値がどんどん得られる。とんでもない数値を破綻と見なせば、リスクが味わえる。金を賭ければシリアスになる。「分散を大きくしたから、破綻が近そうだ。止めようか?続けようか?皆止めそうにない。自分だけ降りるのは癪だ。続けよう。」裁定機会を狙おうという人がでてくるかも知れない。

  B アングロ・サクソンには敵わない
ブラック・ショールズ理論に携わった人々について述べる。フィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズが原論文を書き、ロバート・マートンがそれをチェックし、ショールズとマートンがノーベル経済学賞を貰い(ブラックは病死していた)、この二人がかのLTCMで活躍し、そして1998年史上最大級の破綻劇に立ち会ったわけである。これで見ると、少なくともマートンは第一級の数学者であることが分かる。あの理論を厳密に証明したであろうから。マートンは一体LTCMで何をやっていたのだろうか?単なる広告塔か?それとも 陣頭に立って指揮していたのか?前者なら面白くもないけれど、後者なら凄い事だろう。日本なら、第一線の数学者が現場のキッタハッタに飛び込むなど考えられないからだ。
ここでLTCMのビジネスについて簡単に述べる。
 1 元手に比して出来るだけ大きい額を運用する(梃子の原理)
 2 ハイリスク・ハイリターン志向
  (最初からではなく段々そうなっていったとも言われている。不調になっ たら撤退するのではなく、一気に挽回しようとするかららしい。これはギャンブラーの通弊であって金融工学の欠陥のせいではない。)
 3 2の結果リスクは増大するが、数式を駆使してそれを分散させる
   (リスクを分散させると言っても、ヘッジなら健全な商行為であるが、隠蔽は犯罪にも繋がる。しかしながら数式を駆使されたら両者の区別など出来る筈もない。複雑怪奇、自分が取っている担保が実は自分が差し出している担保でもあったという事態が精査してやっと分かるわけだ。)
派生商品は1と3に向いているから、彼らはこれを多用したに違いない。
しかし、派生商品の駆使とブラック・ショールズ理論の駆使とは全く関係がない。前者は範囲が広く、昔から行われていたからだ。江戸商人の先物取引だって派生商品と言える。(先渡しが正確かな?)シンプルなブラック・ショールズの公式を使って、これ程多額の資金を運用できる筈もないから、この事からもブラック・ショールズ理論が単なる飾り物(実運用では)であったことが分かる。
さて1,2,3に戻ると、これらを数量化して行ったから、以後この方面のプロをクォンツ(数量屋)と呼ぶらしい。マートンは果たしてクォンツとして活躍したのだろうか?ずっと疑問に思っていたが、その後アメリカの金融事情に詳しい銀行マンとコンピュータ技術者に話す機会があった。二人とも日本の会社からアメリカに派遣されている人でお互い関係はない。別々に話し合ったのに、奇しくも同じことを言っていた。
いわく、アングロ・サクソンには敵わない!(一人はアメリカ人と言ったのだが同じ意味である。)彼らの言うクォンツとは、
 a コンピュータ(インフラからプログラミングまで)に強い
 b 数学に強い
 c 経済、金融の理論に強い
 d 但し、bやcは必要な時に必要なだけの情報・知識を直ちに得る     能力である。つまり不必要なものを遮断する能力がある。
 e 経済、金融の現場に強い(キッタハッタが好きである)
 f 金儲けが好きで、四六時中その事を考えている
かてて加えて
 g アメリカには彼らが活躍できる法的・社会的土壌がある
ということだ。オーバーにしてもこれに近いだろうから、私の疑問も解消する。
つまり、クォンツにとってはブラック・ショールズ理論等本質的にどうでも良いのだ。利用できる局面があれば利用するし、なければそういう局面を作るし、それも無理なら別な理論を作る。理論が必要無ければひたすら行動する。
学者にしても然り、大学で才気煥発切れ味をみせ、物足りなくなったら 現場にでて機略縦横金儲けに精を出し、飽きたら大学に戻るなり他の事を始める・・・。マートンが実際どういう人物か知らないが、いずれにしろ、日本の数学者とは違う人種がゴロゴロいても不思議ではない国がアメリカなのだ。
我が二人の日本人はクォンツと頻繁に接触しているわけだが、コンピュータ氏は「日本も負けてはいけません!」と言って日本へのセールスに利用しているようだ。銀行マン氏は「出来るだけ喧嘩しないように、出来るなら落ち穂拾いで稼ぎたい」などと情けないことを言っていた。しかしこれが現実の世界なのだろう。果たして日本にもクォンツはいるのだろうか?日本の経済学者で、「ギルサノフの定理」まで“解説”してくれている人は結構いる。ギルサノフの定理というのは相当高級な定理で、マートンは成程、こういう定理を駆使してブラック・ショールズの理論を検証し、それに飽き足らずクォンツになって実践活動をしたわけだ。私には目も眩む程かっこう良くみえる。シナイのようなスーパースターもいればマートンのようなスーパースターもいるわけだ。さてギルサノフの定理に戻ると、これは高度に抽象的な概念だから、これを理解するには例えば伊藤清先生のプロ向けの確率論の教科書をがっちり勉強し、先ず“存在定理”みたいな得体の知れない概念をマスターしなければならない。(もっとも、某大先生によれば“マスターしようと思ってはいけない。マスターした積りになれ!適当なところで止めておくのがコツだ。”ということになる。)いずれにしろこの定理は、アマチュアがアマチュアに解説する類の話ではないし、理解したとして別に良いことなど無いだろう。(マートン程の才覚があるのなら別だが)閉ざされた世界でこんな無意味なことをやって自己充足しているのなら、日本にはクォンツは現れないと思う。だから日本は駄目な国だと言う積りはないが、アングロ・サクソンには敵わないという二人の主張はやっぱり正しいわけだ。(経済に限らず、戦争でもノーベル賞の数でも、論争術でも)

  C デリバティブ規制強化法案
  さて目下、デリバティブ規制強化法案がアメリカで審議されている。私も、金融危機の回避なんて、結局法律の問題だと思っている。利便性(金融なら市場の活性化)か、安全性(金融なら危機回避)か、安全性を重視するのなら利便性を犠牲にするしかない。(ゲームに例えれば、分散値を制限する、賭け金を制限する、ゲームを制限する)日本の或る経済学者が「今般の危機を学問的に検証し、今後の危機に対応するための官民共同の研究センターを作れ」などと提唱しているらしいが、これは仕分け対象の組織を新しく作るようなものだ。それで成果があがるのならどうして今まで成果があがらなかったのか?組織(経済学部、研究センター)はすでに沢山あり、経済学者、エコノミストも沢山いるのだから。(何百人か、何千人か?)数学出身の経済学部の先生(知り合い)がリーマンショック後、以下のような“提言”をおおまじめにしていた。「金融危機が起こるのは数学を知らないアマが金融をいじくり廻してるからだ。よって金融業界にも保険業界のアクチュアリのような資格制度を作るべし。アクチュアリは保険料の計算業務など、確率・統計のエキスパートじゃないか。」だって。こういう先生がマートンと論争したらどうなるのだろう?マートンの方が無力感に陥りそうだ。アングロ・サクソンに勝てるかも知れない。
さて、この法案が可決されたらクォンツはどうするのだろう?
 別のシーズを見つけてくるのか?
 おとなしく引退するのか(先生になるなり、ロケット工学をやるなり)?
 外国に行って活躍(暗躍)するのか?
 外国に行ってアメリカに敵対するぞ!と脅して撤回させるのか?
 etc