「思うこと」第39話      2005年7月26日 記   

私が追い求めている医師育て(卒後研修体制)のありかた

 研修必修化も2年目を迎えたこの時点で、私が追求してきた、そしてまた追求中の、医師育て(卒後研修体制)のありかたについて語りたい。 私は、左のスライドに示したように、1966年(昭和41年)に医学部を卒業した。当時は、インターン制度がまだ存続していた時代であったが、このインターン制度は現在の研修制度にくらべると極めて劣悪なものであった。なぜなら、ア)完全な無給で、ロ)医師免許証はないので(1年間のインターンが終わってはじめて医師国家試験の受験資格が与えられる)、研修といっても医療をする資格がないため見学にすぎず、しかも、ハ)研修の指導体制は全くないに等しい状態であった。このような制度ではいい医師は育たないことは明らかであったので、私たちの昭和41年卒業の学年が全国的に団結して、インターン制度改革を訴える運動を行った。これが、世に名高い「41青年医師連合運動」である。この運動については、第18話「今一度初心に帰ろう!」で詳しく述べたのでそちらをぜひご参照いただきたい。 私はその後、幾くつかの変遷を経て、聖路加病院でシニアレジデントとして研修する機会を得て、ここで日野原重明先生の薫陶を受け、その研修体制のすばらしさに感動した( 聖路加国際病院レジデント時代の思い出、ならびに 日野原先生講話「輝いて生きる」 をご参照ください。 )。 その後、井形先生に出会い、大学病院・医学部で研修・研究の体制のあるべき姿を追求しながら今日に至っている。 私は幸いにして、研修病院の良いところだけでなく、短所も学び、また、大学の良いところも悪いところも学んだので、私が一貫して追い求めてきたものは、大学の良いところと研修病院の良いところを組み合わせた体制を構築することであった。1988年に私が教授に就任して考えた方針は「本物を育てる」ということであった。 そのために、大学の良いところと研修病院の良いところをハイブリッドさせた「徹底臨床コース(通称、臨床真っ黒こげコース)」を設定し、それを卒後研修の選択肢に加えたのであった。
 すなわち、左のスライドにあげた3つの方向のいずれも選択肢にあげ、そえぞれにおいて「本物が育つ環境」を整備することに力を注いだのであった。











 臨床のプロを養成するために、私は医学徒達が左の図に示したような本邦でもずば抜けた実績をもつ病院で研修することを薦め、また、そのための環境整備を行った。これらの病院で育った若者達が教室に帰ってきて、私の期待通り、というより、期待をはるかに超える活躍をし、鹿児島の研修体制を大きく発展させ、あるものは、全国各地に巣立ち活躍してくれている。







 この制度の構築にあったって、沖縄県立中部病院院長の宮城征四郎先生のお力添えを得たことは大きく、この病院で左図のように多くの若者が薫陶をうけ、育ってくれた。










 私の教室員で沖縄県立中部病院で研修していた出口君がNHKスペシャルで大きくとりあげられ、その流れで、私が推進した上述の「徹底臨床コース」も取り上げられたのであった。主役の出口君だけでなく、この映像にうつしだされた久松君と西垂水君は、内科のチーフレジデントとして活躍した後教室に帰り、私の理想とした研修体制を鹿児島の地にみごとに構築してくれた。 ただ、久松君が、その後の米国での臨床研修中に急死したことは、胸を裂かれる、残念な出来事であった。





 上記の西垂水君をはじめ、全国の研修病院で研鑽した教室の若者達により私が追い求めた夢を、今村病院分院で実現してくれた。











 あるいはまた、脳卒中の専門病院もこのような形で研鑽を積んだ若者達により、鹿児島に次々と構築されていった。











 臨床研修の必修化が1年前の4月からスタートしたが、この制度は、私の理想とする研修体制を行うには絶好の制度であり、約40年前にインターン闘争に情熱を燃やした我々にとって、夢の一部かなった思いがする。すなわち、1966年(昭和41年)当時のインターン制度と比較すると、ア)完全な無給であったものが、今や、一応充分な給料が支給され、アルバイトなどする必要はなく研修に専念できる状況が保障された、ロ)医師免許証なしの研修ではなく、もちろん、医師の免許証を持った上での研修であり、ハ)研修の指導体制は全くないに等しい状態であったものが、今や、殆どの病院で指導体制に力を入れ始めている。 私が推進した「臨床真っ黒こげコース」もさらにやりやすくなってきたし、その内容をさらに充実したものにしたいと思う。 有村助教授をはじめとした教室の若者達と一緒に、今こそ、究極の研修体制を確立しようと、夢を膨らませているところである。大学でしかやれない高度の臨床研修体制、ならびに患者さんのための治療法開発研究も希望する人には提供できる体制も出来上がっているが(左の図)、これをさらに充実させたい。 この図にある「両者の中間」の1例をあげると、私の教室に入局と同時に虎ノ門病院のレジデントの難関に合格し、6年間にわたる内科研修で臨床を極めたあとに大学に帰ってきて、臨床で後進の指導をした後、大学院コースに進み、難病の原因と治療法の開発でめざましい成果をあげつつある能勢君をみていると、まさに、研修病院の良さと大学の良さを存分にハイブリッドさせつつあるといえよう。 先述の沖縄中部病院で研修した西垂水君、久松君と同じ平成4年に私の教室に入局し、「本物に育て」という私の夢を共有してもらって、虎ノ門病院に巣立った川畑雅照君や聖路加国際病院に巣立った種子田憲一郎君は、どちらも、内科のチーフレジデントとして活躍した後、すざましいばかりの成長をとげ、今や日本の内科臨床のリーダーの一人として活躍しているが、このように、教室に帰らずにそのまま発展してゆくことも、選択肢の一つとして最初から推奨していたことであり、若者達と夢を共有できることは本当に嬉しいことである。  平成12年に鹿児島大学を卒業と同時に私の教室に入局し、聖路加国際病院の内科レジデントとして巣立った野間聖君(リンク参照)も、チーフレジデントを経て現在同病院の内科研修医の指導にあったり信頼と評価を一身に集めているが、同君は平成18年の4月に教室に帰って来て、病棟で活躍してくれることになっており、楽しみである。平成15年卒業の堀之内秀仁君も野間君と同じ夢を共有しながら聖路加国際病院で頑張っており、私の楽しみはこれから先どこまでも続きそうである。また、飯塚病院からも優秀な若者が育ち、その一人が現在今村病院分院で後進を指導しながら活躍している林 恒存君(リンク参照)である。一方、今、全国各地で夢を追って臨床現場で活躍している教室出身者(OB)の数も相当数にのぼり、いずれもいろいろな方向性でそれぞれ本物に育っており、頼もしい限りである。 このように、一人一人の紹介をしていると、時間を忘れてしまいそうになるが、今日は、一部の教室員の紹介だけにとどめて、ここで筆を置くことにする。

 以上、卒後臨床研修にまとを絞って「私の夢追い物語」を述べたが、その他の教室運営に関する私の夢追いの話は、「夢追って30余年」で語ったので、そちらをご参照いただければ幸いである。