第46回日本神経学会総会
会長講演 
夢追って30余年

演者: 納
(おさめ) 光弘(みつひろ)

【司会者】
 ただいまより会長講演を開始いたします。演者は、第46回日本神経学会総会会長鹿児島大学病院神経内科教授、納光弘でございます。座長は、名古屋学芸大学学長、井形昭弘先生にお願いいたしております。井形先生、よろしくお願いいたします。

【井形 昭弘】
 それでは、ただいまから会長講演を始めたいと思います。タイトルは「夢追って30余年」ということでありますが、ただいま、木村先生から世界から見た日本のという中でかなりの部分紹介されておりますので、私からは特に詳しい紹介はあまり必要でないかと思います。私はご承知のように納先生のこの30余年の前半を一緒に勉強することができました。私にとっては非常に光栄なことです。サンロイヤルホテルの2階に納画伯の展覧会があるのを、ぜひご覧ください。本当に納先生は夢多き人で、またそれが破壊力があるほど実行力、本当にわれわれが見て誠にうらやましい次第であります。きょうはこれだけ多くの会員の方に会長として講演できる、その座長を務めさせていただいたことを非常に光栄に思っております。では、先生よろしくお願いいたします。





【納 光弘】
 井形先生、ありがとうございました。会場の皆さん方、きょうは本当にありがとうございます。今回皆さまのおかげで、このように順調に成功裏にここまで進んできたことを、会長としてとても感謝いたしております。
井形先生に座長をしていただいて、こうして会長講演できることは本当にとっても感慨無量なものがございます。








この写真はきのうの午後、この会場から撮ったものでございます。
本日は、「夢追って30余年」というタイトルでおはなしさせていただきます。










実はこの私の物語は30余年前の昭和46年10月に始まります。











昭和46年10月、井形昭弘先生は当時42歳でございましたが、鹿児島大学医学部の第三内科の教授にご就任になりました。一方、私は、その時28歳でありました。卒業後、九州大学第三内科で世に名高い大学紛争の時代を過ごして、そしてとうとう、そこを故あって辞めて二度と大学に帰らない決意でECFMGを取り、外国留学をしようということの旅に出た一つの入り口に、聖路加病院でシニアレジデントをさせていただきました。そして父が病気で倒れたために、すでに採用が決定していた米国留学をキャンセルして、開業の父の手伝いに鹿児島に帰ってきました。幸い半年して父が病床から復帰し、もう一度修行することになりました。ここで、縁あって、井形先生との運命の出会いがあったわけでございます。


井形先生に私が初めてお会いした時に、「納君、私はこれまで理想の医療の在り方を目指して、時には体制と戦いながら頑張ってきた。今、鹿児島大学に赴任して、今度は教授としての立場から理想の医療を追求したい。納君、一緒に頑張ろうではないか」という言葉をお聞きして、私にとっては忘れられない出会いの瞬間で、井形先生の一言一言に感動したのでございました。






 当時第三内科は、このプレハブの半分に、医局、実験室、教授室、すべてがありました。










ですから実験ができる状況ではありませんでしたので、診療の合間を縫って鹿児島県、宮崎県、沖縄県の神経筋疾患の疫学調査に、少ない医局員が一丸となって奔走したのでございます。土・日や夏休み等の休日のほとんどは、鹿児島県、沖縄県、宮崎県の疫学調査に充てられました。納が一人で離島を歩き回ることもたびたびでありました。私たちの呼びかけに、こうして結成された学生サークル難病問題研究会も、疫学調査を手伝ってくれました。





この写真はその当時の私が持ち歩いた地図と台帳です。当時5年間ぐらいかけて“納台帳”が完成し、鹿児島県、沖縄県、宮崎県の患者さん方約1000人のリストを作ったのを覚えております。









そのような疫学調査の結果からいろいろの貴重なことが明らかになりました。多くの神経難病の患者さん方が、治療をあきらめ、社会的救済も受けれずに苦労しておられることを知り、われわれ神経内科専門医の責務の重要性に身の引き締まる思いでした。私は班会議で報告の機会もいただき、日本の神経内科のレベルの高さに驚きながら、本当に感動の日々を送らせていただきました。






 それでちょうど、私が井形先生の下に入局させていただいて1年半後の昭和48年の4月から、国立療養所南九州病院に筋ジストロフィー病棟が出来て、そこの神経内科医長ならびに筋ジス病棟医長ということで、勇んで赴任させていただきました。








そして、そこで次の私にとって忘れられない、患者さん方との出会いでございました。筋萎縮症の患者さん方をはじめ神経難病で苦しんでおられる患者さん方の病気を完全に治すための研究に一生取り組むことを決意したのでした。








井形先生のお言葉「医学の進歩に期待しながら、いつの日か治る日のくるのを夢見て頑張っている患者さんたちのために、頑張ってほしい」をいつも胸にいだいておりました。









そのため、国内最高の場所に国内留学したいとの私の希望を井形先生におつたえしたところ、井形先生のお薦めで、その翌年、1974年に東京大学医学部の薬理学教室に国内留学をする機会に恵まれました。そこで、江橋節郎先生と杉田秀夫先生の薫陶を受けました。








そして、やはり杉田先生のご紹介もありまして、私は「メイヨークリニック」に留学する機会を得ることができました。左の写真メイヨークリニック神経内科教授のエンゲル先生が、杉田先生のご紹介で鹿児島に立ち寄られたときのものです。このご縁で、エンゲル先生のもとに留学することが決まりました。私の信念は、「師を選ぶなら必ず世界の一流ではなくて、超一流を」という熱き思いを持っていましたし、筋ジストロフィーで世界の超一流はこの先生をおいてほかにないと思っておりましたので、そこに道が開けたということは、私にとって人生この上ない幸せでありましたし、患者さん方も一緒に喜んでくれたのでした。



もちろん、仕事を人の3倍するのは、男にとって当たり前のことでありますが、家族にとって掛け替えのない大切な留学生活を、人の2、3倍充実したものにできてこそ
男の子というのが、薩摩男児の心意気でございました。








 最初に2年間は、フリーズフラクチャーの技法を用いて、デュシャンヌ(Duchenne)ジストロフィーの筋膜の仕事を行い、一応それが一区切り付いたところで、やっと3年目に運動終板のフリーズフラクチャーの研究に着手いたしました。運動終板をフリーズフラクチャーの中で探す仕事というのは、最初は太平洋で小舟を探すような作業でありした。







この写真が、私が世界で初めて人の正常の運動終板のフリーズフラクチャー法による3次元の姿を見ることに成功した時の感動の写真でございます。そしてその横がこの世で初めてフリーズフラクチャーで重症筋無力症の患者さんの運動終盤を見て感動した時の写真でございます。








そして、私の後に福永秀敏先生が3年間引き継いでくれまして、とうとう世に残るあの有名な仕事、筋無力症候群(mysthenic syndrome)が抗カルシウムチャンネル抗体で起こるという仕事を完成してくれたのでございます。









これが、福永先生が撮られた筋無力症症候群の写真でございます。











そのあと、福岡忠博先生が私たち2人の後輩に当たるわけですが、さらに動物実験で完膚無きまでにこの一連のことを証明してくれたのでございます。










すなわち3人の若者が技術を後輩に重なって伝達しながら、それぞれ3年間、計9年間の文字通り臥薪嘗胆の末、一連の研究を完成させることができたのでございます。









杉田秀夫先生とエンゲル先生からサンプル保存の重要性を教えていただき、その整理を最重要項目とし、筋生検標本の液体チッソ保存体制を、帰国後早速確立したのでございます。これは樋口講師に引き継がれ、現在恐らく、国内最高のストックを有する状況かと存じます。








末梢血リンパ球が、バイヤビリティー95%以上で保存する方法も確立いたしまして、現在、極めて多数の患者さんの生きたリンパ球が、いつでも取り出せる状況でございますが、一番の悩みは、置く場所が今や無くなりつつあるという大問題を抱え始めたのでございます。








もちろん血清・髄液等に関しては、完全な整理がかなり初期より成されておりまして、それのコンピュータによる管理体制も確立できたのでございます。










この一連の流れには、教室出身の出雲教授の甚大なるご努力があったのでございます。










 そして私は帰国後も、「納君、医学の進歩に期待しながら、いつの日か治る日のくるのを夢見て頑張っている患者さんたちのために、君も頑張ってほしい」という井形先生の言葉を胸に歩いていくうちにHAMという病気に出会ったのでございます。これは、はじめに紹介しました私たちの膨大な疫学データの結果が、やはりこのことには大きな意味を持ってしたのでございます。







そしてやはり疫学上、痙性脊髄麻痺が非常に多いことに気づいたのです。











ただこの時点では、まだ1つの新しい疾患概念としての位置付けまでは、できておりませんでした。










しかしながら、本疾患とHTLV−1の関連が初めて問題になったのは、1人の末梢血と髄液中にATL様の細胞が認められたことに始まります。髄液の細胞増多も認められ経口プレドニゾロンが著効したことも驚きでございました。








同様の臨床像を呈する他の患者でも全く同じ事が観察されたため、ただ事ではないかも知れないと考え、納らが中心になりレトロスぺクティブ サーベイ(Retrospective survey)を行った結果、新たな疾患概念として確立されるに至ったものでございます。このお二人が第1症例と第2症例をの担当研修医でございますが、







彼女ら2人と共に新しい疾患概念としての報告を行ったわけでございます。











 私のHAMの研究の中で、私が一番自分でいいことを少しはしたなと思っているのが、このHAM発症前の輸血歴の頻度が高いといことに気づき報告したことです。これはHAM発見の2カ月後のランセットの論文であります。この論文が引き金となり、論文発表の4ヵ月後には全国の輸血のスクリーニングが開始されるという、実に迅速なる行政の対応との出会いがあったわけでございます。






これ以降になされた日赤由来の輸血では、1人のHAM患者さんも出ていなくて、その後の統計で毎年30人の発症を予防したことがわかりましたので、少なくとも500人以上の患者さんの発症が予防されたという計算になるわけです。








行政の重要性は、井形先生がいつも「納君、医学は社会や行政と無縁であってはならない、患者さんを救うためには行政を動かすことが必要なこともある」とよく私たちに教えてくださっておられました。また、井形先生自らスモンの時には、椿先生と厚生省に赴かれて即座に薬の販売を中止させられましたし、水俣病では、泥まみれになることを覚悟で、患者さん救済のために渾身の努力をしてこられた井形先生の言葉の重さというものが、私たちには常にあったのでございます。そのようなわけで私たち、井形先生の言葉を胸に、いろいろな形で社会的な側面ということには力を尽くしてまいりました。




 同じHAMの原因を調べるだけでなく、HAMの患者さんをどう救うかという観点から動いたのが中川君、そして松崎敏男君でございました。 










このHAMの発症機序の解明をして、そして治療法を確立するというのが、私たちの第一の夢でございました。そして、その中にはもちろんかなり大きな位置として、現在プロジェクトチームを作って取り組んでいるのが、HTLV−1プロテアーゼ阻害剤の開発でございます。もう一つの大きな柱として、発症因子の解明と、発症予防オーダーメイドの治療ということにも取り組んでいるのでございます。現在、このそれぞれに関しましては、HAMの病態解明に関しては、かなりのところまできたのではないかというふうに思っておりますが、残念ながら治療法の確立に関しては、まだ山の5合目辺りまできている。これは、1日も早い治療法の確立を願っておられる患者さん方のことを考えますと、いてもたってもおれない気持ちでございます。しかしながら、HTLV−1プロテアーゼ阻害剤の開発を、2年以内に完成させると、少なくともめどを付けるという心意気で現在頑張っているわけでございます。こちらに関しては、今度の学会に多くの演題が出ておりますので、そちらに私はすべて譲りまして、

もう一方のHAMの発症因子のほうについて触れますが、時間の関係でHTLV−1ウィルス側については、古川君が既にはっきりとした因子を見つけ出したという事だけをお話し、あとは文献を見ていただきたいと存じます。そしてまた、宿主側、ホスト側の因子に関しては、現在宇宿君、斉藤君、もちろん出雲先生の指揮下でございますが、10人を超える軍団が夜も昼もなく頑張っているのでございます。






ちなみにHAM300例、キャリア300例を対象に200以上の候補遺伝子の、遺伝子多型の解析もこの作業の中の一つでございます。その中から、HAM発症に関与する因子を探すというわけでございます。これは気の遠くなるような大変な作業でございました。








しかしながら現在その作業が、ほぼ、ほぼと言いますのはまだ完了したわけではありませんが、かなりのところまではっきりしてきまして、これらの因子からHAM発症のリスクを算出する式を確率することができるに至ったわけでございます。








この計算式については今度の学会の中で詳しく能勢が報告しておりますが、この計算式は、HAMとキャリアを鑑別するのにとても有用でございまして、例えば、梅原先生の「variant HAM」のシンポジュウムでも大きく使われたわけでございます。








HAM発症関連宿主、遺伝子の道程ならびに発症システムの開発によりまして多(変)量解析から、HTLV−1キャリアであった場合に臨床データなしにそれがHAMであるかどうかは、88%の確率で言えるような状況までなっているわけでございます。








これが梅原先生がせんだってNeurologyに出した「新しいタイプのHAM variant」という論文でございますが、この時もこの候補になったこの患者さん方のリスクを計算しますと、それは典型的HAM同様の高いリスクがあるということから、やはり新しい疾患であろうというようなことになったわけでございます。







 さて、HAMのお話は、ここでひとまず終了させていただきまして、次に私の教授就任、井形先生から教授職をお引き継ぎさせていただいたときの決意と、その後、今日までの歩みについてのお話に移りたいと思います。









昭和62年9月16日、私は教授に就任した時の決意を、鹿児島大学医学部第三内科医局員心得として全医局員に配りました。その後も新入局者に、一人ひとり手渡すのを行事といたしておるわけでございます。さて、その医局員心得の骨子は、この赤丸で囲ったところでございまして、








すなわち、井形昭弘初代教授の教えを守り実践すること。1、患者の病を治すために努力することが医の原点である。2、原因のない病気はない。原因を見つける努力をせよ。3、地域に根差した医療の中からインターナショナルな仕事。というのが、私が井形先生から教えていただいたことを弟子に語り継ぐ重要な項目というふうに考えました。







そのあと、2から5までが私が勝手に付けたアドリブでございまして、医の道は行である、真心を持って道に励め。社会人としての自覚とけじめを持って行動せよ。激動の医療界に対応できる真に力を持った医者に育て。健康な個人、健康な家庭を。まさに私的なアドリブでございます。








さて、この井形先生の教えこそは、第三内科の中心中の中心でございまして、私たちにとってはこの「井形イズム」がバイブルでございます。この井形先生の教えはいつしか「井形イズム」と呼ばれるようになり、教室には「井形イズム」の信奉者が次々と入局してきて、現在現役医局員221名、OB123名、合計344名の巨大な「井形イズム」信奉者の集団ができているのでございます。






「井形イズム」を信奉する若者たちは、次々と教授となって巣立っていき、現在ここに書いてありますように、11名の若者が全国に散ったのでございます。









井形先生のお口癖は、「私が君たちを伸ばしたのではない。私は君たちが伸びる邪魔をしなかっただけです。邪魔さえしなければ君たちは必ず伸びます」。実は私が教授になってからは、この井形先生の言葉を同じ言葉で医局員の若者に語り続けてまいりました。








 なぜ、「井形イズム」の下では人が育つのか。納のベクトル論というのがございます。権力者がともすれば陥りやすい考え方というのは、国家のために国民は存在するんだ、教室の発展のために教室員は存在するのだという考えでございます。「井形イズム」はこの対極にございます。患者さんのために医学、医療は存在する。教室員の一人ひとりの幸せのために、それのお手伝いができるかどうかが、教室がいい教室かどうかが掛かってくるというのが井形先生のお考えでございます。





では、これをもう少し分かりやすくお話しいたしますと、人間というのは、いろいろなベクトルを持って人皆一様ではございません。いろいろな方向に、ベクトルを持って生きているわけでございます。









その時に大将が、あるいは教授が、「おい、こちらに進め」と、こういう号令の掛け方というのは、軍隊はこれでなければ動かないかもしれません。しかしながら、個人一人ひとりにとっては、こちらに進めと言われたときに、反対側のベクトルの人間にとっては負のベクトルです。これは軍隊で言えば命に逆らって退却するのは、軍法会議にかけられることもありえるわけで、たまったものではありません。ベクトルは短くても、たまたまこの大将が言った方向とベクトルがあった人間は愛い(うい)やつだ、ということになるわけでございます。




しかしながら、 井形先生がいつもおっしゃっていたように、「君の好きな方向に進んでいいよ」という一言があれば、これらのベクトルのすべてが、どの方向であっても、その持っているエネルギーがそのまま力となって動いていくわけでございます。これが私は井形イズムの神髄であるというふうに、弟子の私は看破したのでございます。







それが証拠に、この第三内科から巣立っていった若者たちの肩書をご覧ください。神経内科と書いてあるのはよく目を懲らさないと、一カ所か、一カ所半しかございません。









 それでは、次に少し話題を変えまして、どんなベクトルでもいいよと言われた場合に、これまで私を含めて6人の助教授が、それぞれ好きなベクトルに走っていったという話をしたいと思います。
永松先生は、初代の助教授でございますが、たった4年間しかいなかったのに、黒岩先生、そして荒木淑郎先生の素晴らしいクリニカルニューロロジーの神髄を、私どもに伝授していただいたのでございます。その後、大分県立病院の神経内科部長院長として活躍されて、現在もなお、退官後も神経内科の第一線で活躍しておられるのでございます。




2代目の大勝先生は、これは私たち医局にとって、またものすごく大きな歴史的な意味がございまして、医局の中に本当の意味で「井形イズム」を実践する、患者さんから神様のように言われるそういう先生でございました。昭和55年に大勝病院を開院されまして、








神経のみの単科病院としては恐らく日本一の規模の病院に育て上げたのでございます。










そして、もちろん井形先生が全国の会長でございますが、日本尊厳死協会鹿児島の会長としての活躍とか、いろいろな意味で社会的な活躍で鹿児島の重鎮として活躍しておられます。









納光弘については3代目で、こまかなことは、ここでは割愛いたします。











4代目の丸山助教授は、飛ぶ鳥を落とす勢いで、現在日本の中で、血栓関係の学問をやっておりまして、昨日の朝8時からの教育講演をされたことで、皆さんご存じと思います。井形先生も取り上げられておられたのですが、このように『ドクターズマガジン』みたいな本から取り上げられる人が多いのも、三内科の特徴でございます。







5代目の助教授は栗山勝先生で、この写真は、きのう撮らしていただいたのでございます。この先生も門下生の中には、今、消化器のグループも抱えているのでございます。









6代目の助教授が、今回の学会を取り仕切っている有村助教授で、この有村先生は、村井先生、Daube先生、木村先生、芝崎先生の薫陶も受けさせていただきまして、教育、筋電図というのは、若者を教育することが大事であるという観点から、教育に相当熱心に取り組んで、素晴らしいシステムを現在確立してくれているのでございます。







もちろん学問のほうでは、また、飛ぶ鳥を落とすような勢いで、いろいろと頑張ってくれているのは申すまでもありません。私にとっては、後で話します病気で倒れて以来は、全面的に有村助教授におんぶにだっこで、まさに有村君が私の両腕になっているわけでございます。








 さて、この、いろんな多方面な人材を育成するという意味で、あと二、三紹介しますけれども、先ほど福永先生がmysthenic syndromeで、世界の歴史教科書に残る仕事をしたと言いましたけれども、彼は、今度は日本の病院長としても歴史に残る活躍をしております。








もちろん、この『ドクターズ』にも載って皆さんご存じと思いますが、平成10年度国立病院の最優秀経営賞も受賞し、そして患者さんから神様のように慕われている、まさに「井形イズム」の神髄の男でございます。









それからmysthenic syndromeの研究のもう一人の立役者の福岡君も、出水市立病院の副病院長として頑張っていますし、










それから野元君も、2001年からまた頑張っているわけでございます。











中川君は、就任わずか2カ月後の学生による授業の評価投票の結果、最優秀ティーチャー賞を受賞したのです。これは何を隠そう、「井形イズム」を語ったんだろうと思っております。









それから、この、各方面で、やはり井形先生の薫陶を受けた人間は、社会的な活動というのが非常に得意でございまして、佐野君は行政官として活躍し、注目されています。









あるいは熊本先生も、井形先生が病院長時代に、日本で最初のオーダリングシステムを確立したときの影の立役者で、そして今は医療情報管理学講座の教授として全国のモデルケースを構築し、まさにIT革命の旗手として頑張っているわけでございます。








あるいはまた、離島医療や、へき地医療、自閉症の日本一のセンターを作るために頑張っている伊地知夫妻も特筆すべきものがあると思います。










それから例えば、猪鹿倉君のように、この間、『サイエンス』に画期的な研究を発表し、










日本中、世界中から注目されたこの青年が、











今は精神科の指定も取得し、現在痴呆専門病棟としては日本一の規模のパールランド病院の院長として活躍している。まさにこれも「井形イズム」の一つの方向性でございます。









あるいはまた、宮崎の地で神経内科を開業して頑張っている皆内君。これもまた、こういう介護保険、これも井形先生が、また随分力を入れられた分野でございますが、あちこちで弟子が「井形イズム」を追究して頑張ってますし、








このように『ネイチャーメディスン』に論文を書いた山野君も、現在神経内科臨床第一線で活躍している。これはまさに「井形イズム」の神髄でございます。患者さんから学び、患者さんを基に研究し、そして臨床に還元する。









あるいは、もう臨床オンリーで、在宅医療だけでベッドも外来も持たないという中野君も、これがまた、多くの患者さんから感謝されつつ、相当に大成功しているのでございます。









あるいはまた、私たちの医局を挙げまして、へき地の町立診療所を中心に一個大隊、毎年行って検診し、そして、いわゆる健康長寿の、長期フォローの極めて重要なデータも得つつあるのでございます。これは中川君がかなり中心になって構築してくれました。








 あるいはまた、やっと「日本から世界へ」が出てきましたけれども、やはり若者を、常に常時5人ぐらいは、外国に留学に旅立たせているというような状況で、









あるいは、4年間、5年間と国内研修で、まさにこの内科一般のレジデンシーの研修も、入局後、若者たちが頑張って研修してきてくれているのでございます。









そして、そういう形で帰ってきた若者たちが、次々と目の覚めるような、鹿児島には考えられもしなかったような設備を構築していっているわけでございます。









 あるいはまた、国立循環器病センターで、山口先生方の薫陶を受けた者が次々と帰ってきまして、そしてあるいは、熊本で薫陶を受けた者も次々と帰ってきまして、現在、脳卒中は私たちの教室の柱となっているのでございます。








この脳卒中以外にも30を超す病院で、鹿児島の神経内科に関しては完ぺきな布陣を、今現在、敷きつつあるのではないかというふうに考えております。










 さて、話の最後に「わからない、治らない、あきらめない、の3ない科」、「From Bed to Bench, From Bench to Bed」。そして、「ローカルなテーマこそインターナショナルに通ずる」という井形先生の教えを守った若者たちの、一つのこの診療の現場と、そして大学との関連、そういうものを中心に次々と新しい研究を繰り広げていった若者達のお話をいたします。







先ず初めにご紹介するのは、臨床現場の末原君と大学の研究グループとの共同作業のお話で、










中原君、中川君、末原君たちにより臨床的に新しい疾患が確立され、












その遺伝子座位を同定する困難な作業を進め、










現在、かなりのところまで絞込みに成功し、これが完成させ、次の、治療法の研究に道を開くべく頑張っているところであります。










あるいはまた、臨床現場の末原君が、筋萎縮症のひとつのUllrich病の患者さんは皮膚の皮下組織の病気ではないかという臨床の鋭い観察をし、それにもとづき、









ものの見事にコラーゲン6の異常であるということを、











完ぺきなまでに証明した樋口講師との共同研究でございます。そして、この素晴らしい研究は、










日本で初めてBethlem myopathyも存在し、しかも遺伝子異常の座位が違うということも発見するという仕事まで、樋口講師は発展させてくれたのであります。









うれしいことに、これに加えて、樋口君と同じように杉田先生の薫陶を受けました臼杵扶佐子君が最近出した論文で、皆さんご存じの、今学会でも発表があっておりますが、Ullrich病の治療の可能性が高まっただけでなく他の疾患にも応用可能な、これは画期的な研究も成就しつつあるのでございます。
 







あるいはまた、梅原君が、これもやはり臨床から始まったのでございますが、ポリニューロパシーの患者さんの臨床からずっと突き詰めていって










最終的にはDesert hedgehog遺伝子の異常であるということを











完ぺきなまでに証明して新しい、この分野のまったく新しい道を切り開いたのでございます。










 では、あと10分、時間がございますので、私のお話の締めくくりに、これもまた、私はもう涙なしには語れないのですが、できるだけ涙なしに語ろうと思いますが、私は病に倒れまして、そしてそれを契機にまったく新しい人生を歩み始めた。もちろん、このおかげで有村助教授には、多大の迷惑をかけているわけですが、そういったお話をさせていただきたいと思います。







 2001年2月、鹿児島大学の病院長に就任したときの私は「世の中に、成せばなる、成さねば成らぬなにごとも、成らぬはおのが成さぬなりけり」という、必ず物事は失敗しないのだと、努力が足らないから駄目なんだという考え方でございました。しかしながら、世の中はそう甘くはありませんでした。あの激動の病院長時代に、ちょうど制度改革のさなかに、私の志が高かったから、高ければ高いほど挫折も大きかったわけでございます。とうとう激しいストレスにさいなまれた後に、ストレス性の高尿酸血症で痛風発作を起こしたのでございます。しかしながら痛風発作というのは、後、痛みが治るとなくなるわけですから、後、いろんな意味でこれの研究はいたしましたけれども、こんなのは病気のうちに入らないと今は思っております。
 ほんとに私が心底からひっくり返った病気は、2003年8月に、完全にこの高血圧と、これも結局、もう極度のストレスから来る高血圧、そしていろんな体の症状も出てきまして、これはもう入院するしかないと判断して、病院長を副病院長に託して4カ月間入院させていただいたのでございます。簡単に4カ月間といいますけれども、私は、この入院したときに、これでもう、また再び社会復帰は無理かもしれないなと。本当の話、有村助教授に言った言葉を思い出します。「金澤先生には申し訳ないけれども、2年後の神経総会も、おれは無理かもなあ」と。そしたら有村先生が「先生、大丈夫です。私達がついております」と言うので、「そうか、そいじゃあ、そのまま進もうか」ということになったわけでございます。

そして、その入院の間に、私が味わいました人生観の変化というのは、それまで朝も夜もなく息せき切って走ってきた自分自身を振り返って、病気になったら何にもならないじゃないかと、病気になったら、結局家族にも迷惑をかけ、医局員にも迷惑をかけ、私を頼りにしてくださった患者さんにもがっかりさせるのではないかと。だから自分自身の健康と、そして自分自身の幸せも含めて、そしてまた、自分の最も近い人たち、袖触れ合う人たち、家族であり、私たちを頼っている患者さんであり、教室の先生方であり、そして、教えてもらいたいと思っている学生。そういう最も近い人たちのために役立つということを、人生の第一義に据えて生きていこうというふうに考えを変えたわけでございます。

 そこから自然発生的に生まれてきたのが、昔から、描きたくて、描きたくて、描けなかった絵をまた始めようと。暇はつくらなきゃできるわけがないと。それから痛風の単行本も、これまで日本に3,000種類を超える闘病記がある中で、痛風が1冊もないということが分かっておりましたので、これもやはり、この貴重な体験は世に出す必要があるということで。







まずはこの絵の趣味からお話しますけれども、この岩絵の具は、ものすごく高いもので大変なんですけれども、家内がやっぱり、私が社会復帰したんだからお祝いにという気持ちがあったんだろうと思いますが、「一緒に貧乏になりましょう」と言ってくれたわけでございます。そして、その岩絵の具を買ってから8カ月後には、







納光弘展を三宅美術館の新館落成のプレイベントとして開催させていただく光栄に巡り合わせたわけでございます。










これがそのときの新聞記事でございます。











これが三宅美術館で出した『夕日に映える桜島』、これは朱1色で描いた朱の墨絵でございますが、










これが群青1色で描いた群青の墨絵。全部50号の大きさでございます。











あるいはこれは『蔵王岳と雪の桜島』、全部夜でございます。











それから『屋久島の千尋の滝』。これも夜中に、昼間の感動をもう一度サルの群れ跳ぶ場所に行って、もうサルは寝ていましたけど、じっと1時間半眺めて、印象を基に描いた絵でございます。









これはこの間、中国に講演で行ったときに、感動した景色を描いたもので、この水面の動きを描きたかったという作品で、これも50号でございます。










実は、今お見せした絵も含めまして、すべて、サンロイヤルホテルの憩いの間に、実は荒木先生は、もうこの学会きっての画家でございますし、(永松)先生の木彫もここに展示して、憩いの間という空間を作らせていただきました。








 痛風の単行本の話に関しましては、











これは、今もう出して5カ月ぐらいになりますが、幸い随分売れて、このおかげで現在、岩絵の具代が毎月出ているという、非常に好循環を繰り広げているのでございます。(笑い)









いろんな雑誌でも取り上げてくれまして、私もびっくりいたしました。











そうそう、この本はですね、私の、今、話をした痛風発作、病気入院、人生観の変化、そういうことを、縷々書いた本でございます。この写真は、この会場の入り口の本の売り場に積んであったものを、今朝、撮ったものでございます。もしも、岩絵の具代の協力していただける方があったら感謝いたします。(笑い)







 さて、最後に個人のホームページを作成したお話をいたします。これは、実は学生の教育、若者の教育のためにと思い立ったものでございます。










ヤフー・ジャパンで「納」一つ空けて「光弘」と入れていただきますと、











4,000ぐらいのアイテムが出てくる。大体、痛風のアイテムが多いんですけれども、しかしながらホームページは、必ず一番上に来るように、これは特殊な仕掛けがしてございます。









ここをクリックしていただきますと、この私の表ページが出てまいりまして、結局、例えば「納光弘展を振り返って」ここをクリックするか、「私の画廊」をクリックしていただきますと、これらにかんする結構大きなページがでてまいります。私のゴルフ気違いの話とか、ボーリング気違いの話を満載した項目もございます。それから「芝に学ぶ」という項目、これもまた、自分で言うのも何ですが、なかなか薀蓄があると思います。ぜひ、お暇なときに覗いていただければと存じます。





 さて、きょう、縷々話をしてまいりましたが、ちょうど時間となりましたので、私の井形先生に教えていただいた、夢を追っての私の旅は、これから先も命ある限り続けていきたいという言葉で締めくくりとさせていただきます。どうも、ご清聴ありがとうございました。








【井形 昭弘】
 どうも、納先生、ありがとうございました。会場から割れるような拍手をいただきまして、私も非常にハッピーであります。私の名前が出たもんですから、私はちょっと言いにくいんでありますけれども、納先生は、非常にまれに見る夢多き人、多才な人、バイタリティー、情熱、もうほんとに抜きんでていますね。そういう納先生と一緒に勉強したことを私は非常に光栄に思っております。きょうのお話もいろいろありましょうけども、会員の方々もお聞きになっていろいろなことをお感じになったし、また、納先生に学ぶところもあるんではないかと思います。会長講演としては、非常にユニークかつ有益なお話を伺ってきました。納先生、どうもありがとうございました。