思うこと 第18話 2004年7月23日記 、7月25日追記、 2005年8月31日再追記

今一度初心に帰ろう!
ー焼けぽっくりに火がついてー


昨日、大分に出張の機会に、大分県立病院長の谷口一郎先生を表敬訪問した。通常のご挨拶のあと、雑談しているうちに、先生が東大医学部を昭和43年に卒業の予定であったが、「インターン制度完全廃止」をスローガンにした闘争の委員長を務め、昭和44年9月まで卒業を延長して闘い、ついにそれを実現させた人物であることを知った。それを知った途端に私にとって谷口先生は共に闘った同志として、いきなり当時にタイムスリップして話のオクターブが上がり、熱い熱い会話となった。
私も昭和41年(1966年)に医学部を卒業した当時、「インターン制度完全廃止」をスローガンに闘った41青年医師連合の1員であったからである(といっても、結果的には当時3000人の医学部卒業生の全員がもれなく闘争に参加したのであるから、私は3000分の1にすぎなかったがーーー)。当時、鹿児島大学で研修していた我々に、東大41年卒の斉藤芳雄君がオルグに来て、一晩飲みながら話を聞き、そして、31人の研修医の全員の心に火が付いたのであった。その後、全員が血判書を押して闘いを誓い合い、全国のインターン生に向けて、「我々鹿児島大学のインターン生は、明治100年を記念して、桜島の燃ゆる心で闘いぬくので、諸君らも立ち上がれ」の檄文を送ったのであった。この檄文が、全国の運動に、まぎれもなき加速剤となったのであった。結局3000人のインターン生全員が1人のもれなく医師国家試験ボイコットに参加し(当時はインターン1年終了後医師国家試験を受ける制度であった)、我々の運動は最終的には「インターン制度完全廃止」を勝ち取ることに成功したが、しかしながら、運動に参加した人間達はその後大学の管理支配体制から激しい締め付けに会い、私を含め、殆どのものが大学を後にし、「いい医療を実践する」という心の火だけを守りながら、今日を迎えているのである。したがって、経歴に医学部41年卒または42〜44年卒とあれば、初めての出会いでも、共に闘った同志としてすぐに旧知の友の関係になるのである。私みたいに井形先生のような理想の師(井形先生こそは、昭和28年の第一回全国インターン闘争の闘争委員長を務められ全軍を指揮された方である)に出会えたものは、大学の中にもどって、そこで心の火をともし続けることが出来たのであったが、私の場合は稀なケースであるといえよう。さて、先述の斉藤芳雄先生との出会いのことを谷口院長に話したところ、「彼こそは闘争本部で行動を共にした同志だ」とのことで、話はますます熱を帯びたのであった。斉藤芳雄先生が築き上げた新潟ゆきぐに大和総合病院は、厚生労働省からもモデル病院として注目され、病院のあるべき姿と全国から注目を集めている病院である。当時の闘士たちの殆どは斉藤芳雄先生のように、大学にはもどらず、各地で本当の医療を求めて活躍しているのである。ちなみに、究極の離島医療の実践者として有名な甑島の瀬戸上健二郎医師(Dr.ゴトーのモデルになった先生)も先述の血判書の31人の一人で我々の同志である。谷口先生も院長としての立場から、大分県立病院を患者さん本意のいい医療を提供する理想の病院にさらに発展させていかれるにちがいない。私は、今朝、大分からの帰りの列車の中でも、「そうだ、今一度あの時の初心に帰って、頑張ろう!」と自分に言い聞かせることであった。谷口先生との出会いが、焼けぽっくりに火をつけてくれた!今、自分に出来る、最も大事なことは何か? たどり着いた答えは、「患者さん本意の医療を燃えて実践する若い医師を育てること。そのためのシステム作りに今まで以上の情熱を注ぐこと。」であった。 ともあれ、いい時に、いい出会いがあった。感謝!

追記  2004年 7月25日 記

なぜ「インターン制度改善」ではなく「インターン制度完全廃止」の運動をくりひろげることになったかについて、当時の事情をご存じない方にとっては不思議に思われるかもしれないので、一言追記します。当時のインターン制度の実態は、制度として「医学部卒業後1年間のインターン生として研修した者に医師国家試験の受験資格を与える」とうたっているのみで、何ら指導体制もなく、しかも無給で、この間、情熱をもって医学部を卒業した医師たちは、医師免許証も指導体制もないまま無為な1年間を過ごさざるをえなかったのです。ですから、改善運動は井形委員長の時以来づっと行われてきていたのですが、行政はまともにとりあげてくれず、運動は挫折の繰り返しでした。その結果、「改善運動」ではなく「完全廃止」をスローガンに掲げることになったわけです。そしてその戦術として「医師国家試験ボイコット」を掲げたのです。すなわち、「私たちは、インターン制度完全廃止に国が本気で取り組む姿勢をみせるまでは国家試験を受けず、医師になりません。この責任は、すべてこれまでこの重要な課題を放置しつづけてきた国にあります。」と主張したのです。その時の私の気持ちは、ひょっとしたら一生医師になれないかもしれない。でも、ここで受験したら、運動はまたも挫折するから、ここは、死ぬ気で頑張ろう、というものでしたし、31人全員が同じ気持ちで血判書に、本当に自分の血で血判を押したのでした。その血判書の文面は「我々はーー」とせず、「私はーー」として、それに31人全員が個人の責任で血判を押し、そして、先述のように全国のインターン生に送りつけたのですから、インパクトも大きかったのです。結局3000人のインターン生全員が1人のもれなく医師国家試験ボイコットに参加し、それが、「インターン制度完全廃止」に向けて国を動かす原動力となっていったのでした。あのとき、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある、ことを実感させてもらったのでした。
思うに今年の卒業生から2年間の研修の義務化、アルバイトの禁止、そしてアルバイトなしで暮らせるだけの給与の支給が始まったわけであるが、この制度を真に実りあるものに育てることこそ、教育にたずさわるものとして我々が今なさねばならない課題の一つと言えましょう。嬉しいことに、これは、着実に実行されつつあるし、大きく実を結ぶと思っています。

再追記 2005年8月31日
この第18話を書いて約1年余りが経過したが、最近医学部6年生への最終講義で、これに類した話をした際に使ったスライド4枚をここに示して、あの紛争当時の記録を残すことにした。学生に講義したと同じ語り口調で記す。
私の夢を追って生きてきた人生旅路の中でも特に私にとって忘れがたいのが、学生時代と、それに引き続くこのスライドに示してある5年間の出来事です。






私は学生時代は、サッカー部に属していて、毎日、日が暮れるまで練習し、下宿に帰っても殆ど医学の勉強はせず、医学以外の本を読み漁っていました。一方、同じ下宿に住んでいた同級生3人は、皆揃って勉強が好きで、特にトップで卒業した名和田君は学生時代からNew England Journal of Medicine などの医学誌をごく普通に読んでいて、我々の驚嘆の的でした。名和田君の特別の好意で、試験前日だけは、きれいにまとめてある同君のノートを読ませてもらって、その一夜漬けの勉強で、大学を卒業できました。同じ下宿で生活した4人の同級生の全員が医学部の教授になりましたが、私以外の3人は同級生から“当然”と受け止められていたのに反し、私の場合だけは、一瞬耳を疑ったという同級生がいたとのことでした。(笑い)
さて、半年間の国家試験ボイコットの後、受験し、我々の同級生は全員合格しました。入局は、親しかった名和田君を含めて、何と23人という新記録の大人数で九大第3内科に入局したのでした。ここで、私は主に消化器の勉強をして、胃カメラや胃腸透視が好きになり、また同時に、臨床の現場での患者さんとの出会い、次々と診断し、治療する喜びに、感動の日々の連続でした。


しかし、次第に学園紛争は激しさを増し、学内では仕事が出来ないほどになってしまいました。500人もの機動隊員が戦闘服に身を固めて構内に陣取る光景は、われわれの想像を絶する世界でした。とうとう、同意書(詫び状)を書いたものだけにしか構内に入ることが許可されないという決定がなされたのでした。同意書提出の期限の日を前に、我々23人の同期入局者は、どう対処するか皆で協議しました。私は、野に散ることを許してほしい、とお願いすると同時に、名和田君だけは残って、学問を続けてほしい、と発言したのでした。結局、ほぼ半数が野に散り、ほぼ半数が医局に残ることになりました。その時、お互い離れ離れになっても、「いい医療をしてゆく」という心の火を大切に守って生きてゆこうと、泣きながら誓い合ったのでした。
(以上講義から)
私は、この講義をしながら、当時を思い出し、今一度、あの時の誓いを私の人生の目標に高く掲げて、歩んでゆこうと思いを新たにすることでした。