2004.02.28

根室本線漫遊(富良野−新得)   路線図を表示

 綾小路さんは旅行が好き・・・、もとい大好きである。 というか、ほとんど生きがいでもある。 みなさんにも、すでにお分かりいただけていると思う。 しかし、旅行の計画を立てるのも好きなのである。
 高校の時だったか忘れたが、週に1時間のクラブ活動があった。 そのとき、綾小路さんは確か写真クラブに入っていた。 昔からカメラが好きだったのである。 学校の授業の一環なので、文化祭に強制的に出品させられたこともあった。 その後、大学に進学、就職とだんだんカメラとは疎遠になって行った。 そしてデジカメ時代が到来した。 デジカメ登場からはかなり経ったが、遅まきながらH13年に5000円のデジタルカメラを購入したのである。 そして鉄道廃線跡巡りから、鉄道旅行にも嵌った訳であった。
 おっと、話があらぬ方向に・・・。 そのクラブ活動で他に旅行クラブというのが確かあった。 なんでも時刻表を使って旅行の計画を立てるものといった印象が残っている。 そんな旅行の計画を立てるだけなんてと、当時は思っていた。 しかし旅行の計画を立てるのも面白いものである。 綾小路さんは日々、時刻表とにらめっこして、次にどこに行こうかと計画を練っている・・・。 やっぱ、実践が伴わないと面白くないか。
 綾小路さんはけっして計画を立てる事だけを楽しんでいるのではなかった。 常に行くつもりで計画を練っている。 しかし、よくよく考えると日程が合わなかったり、もっと魅力的な計画が立てられるとそちらを実行、その結果お蔵入りした計画も多い。 昨年には、暮れの帰省を兼ねた九州旅行を計画した。 先の九州新幹線開業により、第3セクター肥薩オレンジ鉄道に移管した、川内−八代間も探索する予定であった。 しかし、これも計画を練るうちにどんどん肥大して行き、計画を断念せざるを得なくなったのである。 結局は高山本線と紀勢本線を中心にした漫遊となった。 ただし、九州の漫遊は今年のGWにパワーアップして実施予定である。 そしてその紀勢本線の写真を整理しているときには、すでに2泊3日の紀勢本線アゲインの計画が完成していたのである。 これは今年のGWに実施予定だったが、九州の漫遊を実施するので先送りとなった。 他にも、まだ未乗の飯田線と小海線をセットした計画など、未だ日の目を見ていない計画も多い。 そして、北海道においては1日散歩切符などを利用した、日帰りの鉄道旅行計画は山と立てられているのである。
 2004年の2月も月末が迫ってきた。 なんと、もう来週は3月ではないか。 北海道の春はまだまだ先であるが、魅力的な北海道の冬の旅を楽しむ期間は残り少なくなった。 いかん、すぐに行かねば!

 という訳で今日はその数ある計画の中のひとつ、根室本線の富良野−新得間の漫遊を実施する事にした。 パーク&トレインも1年ぶり、初めて利用した昨年に悩んだ事が遠い昔のようであった。 6時14分発の列車に白石駅から乗車して、茶志内駅での交換列車待ちなど、1年経ってもまったく同じであった。
 そして滝川駅での5分間の乗換時間でダッシュ! 今回は根室本線の内、富良野−新得間の漫遊である。 しかし、根室本線の起点駅である滝川駅の日中の写真を紹介したこともなかったので無理した訳であった。(左) 根室本線の0キロポストは2番線のホームの下にあった。(右:H15-10-4撮影) 今日は撮影する時間などなく、昨年に雑誌で紹介されて始めて知り、確認しに行った時の写真である。


 8時05分に滝川駅を発車した列車はほぼ満員だった。 駅舎の写真を撮らないで、まっすぐこの列車に乗車していれば少しはましな席につけたかもしれない。 しかし今日はこの区間が目的ではない。 いずれ根室本線の滝川−富良野間の漫遊も実施しよう。 その時にはローカル線の旅を楽しみたいものである。
 列車は9時08分に富良野駅に到着した。 この時期、まだ富良野駅の駅弁は販売されていないとは思うが、念のため改札を出てキオスクまで行ってみた。 しかし幟は立ってなく、やはり販売されていないようだった。 駅舎の写真は駅弁のついでに撮ったようなものである。(左) ここからは旭川駅発で富良野線経由の帯広行きの列車に乗換えする。 車両はキハ150-10で滝川から乗車した列車が到着した時にすでに入線していたようである。(右) 前面展望ができる車両で、今日はこのあと、思いもしなかった様々な光景が撮影できた。


 キハ150-10は9時15分に富良野駅を発車した。 隣の駅は布部駅である。 あーあーあああああー、あーあーあああああー、あああああーあああああー、ああー・・・ 綾小路さんは見たことないが、ドラマ”北の国から”に登場していらい人気の駅らしい。 しかし残念ながらここでは下車できなかった。 札幌から日帰りで富良野−新得間の探索を試みて、最大限の駅で下車する計画を立てたら、布部駅は外さざるを得なくなったのである。 その上、乗車したキハ150-10は快速列車だったので布部駅は通過してしまう。 この区間を再度通過するのも夜の帳も降りた時なので撮影機会がなかった。 しかたないので通過中の列車から布部駅の撮影を試みた。 しかしデジカメのシャッターが下りるのが遅く失敗。(左) ここはなかなか趣のある駅舎だったので本当に下車したかった。(右:H14-10-14撮影)


 金山駅を過ぎると次の東鹿越駅までの区間は、昭和41(1966)年の金山ダム建設によって、10キロにも及ぶ路線変更を余儀なくされたのである。 これにより、もっとも影響を受けたのが鹿越駅であった。 ダムの建設により水没して廃駅、現在は金山湖の湖底に眠っている。 そして近くの新線上に鹿越信号場が設置されたのである。 その鹿越信号場も後年になり、廃止となったそうである。 金山湖橋梁を渡り、鹿越信号場跡が近くなったが、場所を勘違いしていて、気づいてシャッターを押したときにはすでに目の前、管理棟の壁面しか写らなかった。 これではしかたないので、現地に車で行ったときの写真を掲載。 金山湖の中間付近を渡る道路橋の南側から、ダートの道路をしばらく進むと鹿越信号場跡に行き着いた。(左:H15-6-18撮影) 元は管理棟らしき建物はあったものの線路は単線、本当にここが信号場だったのかと思ったが、列車交換していた線路が撤去されたような雰囲気が漂っていた。(右:H15-6-18撮影)


 キハ150-10は落合駅に停車した。 そして停車時間もほどほどに、10時07分に新得駅に向けて発車した。 ここから新得駅までの28.1キロで狩勝越えをする事になる。 この区間はかつて狩勝峠を越えて新内を通るルートだったが、新狩勝を経由する新ルートに変更された。 金山−東鹿越間の新線が開業した翌日の事である。 旧線は落合駅から東進、ほぼまっすぐに狩勝峠に向かっていた。 しかし、新線を走るキハ150-10はすぐに右にカーブして南に向かった。 そこから何本かの短いトンネルを通過して左方向にカーブ、再び東進したが、すぐにトンネルの入口が見えてきた。 新狩勝トンネルである。(左) このトンネルに入ってすぐのところには上落合信号場がある。 ここで信号が赤だったのか、キハ150-10は速度を落とした。 おお、停車するのかと思ったが、直前には青に変わったのか、また速度を上げだした。 外はトンネルなので真っ暗で、撮影できないのが残念だった。 実はこのトンネルには入口がもうひとつある。 昭和56(1981)年に開業した石勝線が新狩勝トンネルに合流することになった。 おそらくは上落合信号場で合流するのだろう。 ということは上落合信号場から新得駅までは根室本線と石勝線は同じ路線を走っていることになる。 信号場自体はトンネル内であるが、管理棟らしき建物はトンネル入口の脇に設置されている。(右:H15-5-18撮影) 見えているトンネル入口が根室本線からの入口、すなわち今入った入口で、石勝線の入口はこの施設の右側にある。


 全長5648mにもおよぶ新狩勝トンネルを抜けると、キハ150-10は新狩勝信号場に停車した。(左) ここで、なんらかの作業を終えたのか、3人程の作業員が乗り込んできた。 ちなみに新狩勝信号場は車でやってきて、ダートの林道を探し回った末に、ようやく探し当てた事があった。(右:H15-5-18撮影)


 新狩勝信号場を発車するとゆるやかに右方向にカーブ、再びキハ150-10は南に向かって走りだした。 路線はこのあたりから新得駅まで、雄大なS字カーブを描いている。 アルファベットのSを右に90度回転したのを思い浮かべてほしい。 その回転したS字の左側から右側に向かう感じである。 南下を続け、1本のトンネルと何本かの短い橋梁を渡ると、S字の最初のカーブの手前側には広内信号場がある。 ここでキハ150-10は再び停車した。 管理棟らしき建物と2つのスノーシェッド、その奥にはトンネルが見える。(左) 待つこと数分、新得からのキハ40がやってきた。(右) 石勝線の新得−新夕張間は普通列車の運行はないため、このキハ40は根室本線の上り列車になる。


 キハ40との列車交換を終えるとキハ150-10は発車した。 そして次のトンネルを抜けると、すでにS字の最初のカーブに差し掛かっていた。 かなり半径の小さなカーブである。(左) ちなみに新得からの帰りに撮ったのが(右)の写真。


 カーブを曲がりきって、キハ150-10はこんどは北上を開始。 さらにトンネルを1本、そのトンネルから続いているスノーシェッドを抜け、しばらく走るとまたスノーシェッドが見えてきた。 西新得信号場である。 周辺に何もない台地上に巨大なスノーシェッドが建設されている。(H15-5-18撮影)


  そのスノーシェッドを抜けたところには小さな管理棟が立ち並んでいる。(左:H15-5-18撮影) キハ150-10は管理棟から少し先の位置に進んで、そこでまたも停車した。 前方には別のスノーシェッドが見えている。 そしてここで再び列車交換となるのである。 すると今度はスーパーおおぞら4号がやってきた。(右)


 西新得信号場を発車したキハ150-10はその後、新得山トンネルを通過した。 その後にS字のもうひとつのカーブを曲がり、南下して新得駅に向かった。 新得駅もまさに到着間際になると、列車が走る築堤の下に例の狩勝峠−新内駅回りの根室本線旧線の橋梁が見えた。 あっ、と思ったが、折り返しの列車で撮影する事にしよう。 キハ150-10は10時44分に新得駅に停車した。 6分間の停車の後に帯広駅に向けて発車したが、綾小路さんはここで下車した。 過去にも紹介したことがあったが、今回の漫遊の目的駅なので今日撮影した写真を載せてみよう。(左) そして今日の漫遊では富良野駅弁が販売されていなかったことで、駅弁はなしと確定していた。 ああ、悲し! 駅弁なくしてなんのための漫遊か!(大げさなようですが綾小路さんはそれぐらいの気持ちで旅に出ている。) それならばせめて駅そばだ。 幸い、新得駅には駅そばがあった。(これも計算ずくではある。:右) その新得そばの写真はこちら。


 新得駅からは折返して、富良野−新得間の漫遊を続けることにしていた。 乗車した滝川行きの列車は11時32分に新得駅を発車した。 こんどはキハ40系であった。 この車両は前面展望はできず、今日はこの後に乗車した全車両がキハ40系の運行だった。 先ほど、キハ150系の車両に乗車できたのがなんと運がよかった事か。 当初は富良野駅の次は山部駅で下車する計画を立てていた。 そして新得駅にはもっと後の列車で乗込む予定だったのである。 しかしその後ではどの列車に乗車しても新狩勝、広内、西新得の信号場はおろか、列車交換風景も撮影できなかっただろう。
 旧線の橋梁は新得駅を発車してすぐの右手に見えた。(左) ここには旧線の路線跡が未だに残っているのである。(右:H15-5-18撮影) ちなみにこの枕木の下に橋梁がある。


 新得駅から1時間以上走り、キハ40は12時49分に山部駅に停車した。 そして綾小路さんはここで下車した。 駅には無人だがきれいな待合室があった。(左) 列車交換駅でホームには明治44年建築のレンガ造りの危険品庫が残されている。(右) できたら古い駅舎が残されていてほしかったものである。


 山部駅からはバスで金山駅まで行く事にしていた。 占冠村営バスが富良野駅から山部駅前を経由して、石勝線の占冠駅まで運行していたのである。 しかし、駅前の停留所は別のバス会社のもので、占冠村営バスの停留所は見当たらない。 そこで停留所の場所を駅前のスーパーの店員に聞いてみたが分からないという。 ようやくガソリンスタンドの店員に教えてもらい、駅前から500mほど離れた停留所まで歩いた。 乗車したバスは国道38号線と237号線の重複区間を南下した。 空知川の流れに沿って道なりに左に90度カーブして、今度は東進しだした。 そこから少し走ると、国道38号線と237号線の分岐点となった。 まっすぐ進む38号線は狩勝峠に向かい、やがて新得駅に至る。 しかしバスは右折して237号線を進み、占冠駅に至る。 分岐して少し走ると右手に下金山駅が見えたが、ここは後ほどやってくることにしよう。

 そして山部から乗車20分、金山駅前でバスを下車。 駅前の坂を下ると、古そうな駅舎が建っていた。(左) 建物財産標によると昭和9年12月に建築されたようである。 ホームには山部駅と同じく、明治44年建築のレンガ造りの危険品庫が残されていた。 ここの駅舎は古いので贅沢は言わないことにしよう。 列車交換駅で富良野方面を伺うと、スイッチバックして入庫する車庫も見える。(右) その車庫前の線路には雪が積もっていて、除雪しないと入庫はできない。 今はひっそりとした金山駅であるが、昔は活気があったのだろう。


 金山駅では1時間30分もの滞在となったが、ようやく15時16分発の上り列車がやってきた。 これに乗車して下金山駅を目指した。 途中の車窓からは旧線の路線が見えた。(左) 空知川左岸の断崖沿いに旧路線が敷設されていたようだ。(右) この区間は崖の崩壊により、新線に変更することになったようである。


 ひと駅目で下車した下金山駅には、比較的新しい待合室があった。(左) 一見すると、片面ホームで列車交換もできない小駅のようである。 ところが、雪に埋もれているがホームは島式ホームであり、待合室脇には貨物ホームも残されている。(右:H14-10-14撮影) 線路は現在このホームの左側に敷設されているだけで、待合室側の線路はすべて撤去されている。 もっとも線路が撤去されたスペースには雪が積もっていて、その下を伺うことは今日はできなかった。


 15時41分、落合行きの列車に乗車して下金山駅を後にした。 到着した落合駅には古い駅舎が残されていて、建物財産標では明治34年5月となっていた。(左) そこまで古くは見えなかったが、真偽のほどは分からない。 駅の開業も明治34年9月のはずだが・・・。 北海道における鉄道の最難所である狩勝峠越えの準備で、SLなどは給水・石炭の積載とかしていたのだろう。 そのためか駅構内は広い。(右)


 根室本線の富良野−新得間は官設鉄道の十勝線として、明治33(1900)年12月に下富良野(現富良野)−鹿越(廃止)間が開業した。 翌、明治34(1901)年9月には鹿越−落合間が開業した。 しかし全長954mの狩勝トンネルの開通には長い年月を要した。 岩が予想以上に硬く、先進導抗の試掘の段階では1日に30cmしか進まなかったという。 結局、工事が本格化してから完成までに3年もかかったようである。 その他の工事が終了して落合−新得(帯広)間が開業したのは、明治40(1907)年9月のことであった。 これにより旭川−帯広間の十勝線が全通した。 その後、釧路線、釧路本線と改称され、根室までが開業した大正10(1921)年に根室本線と改称されたのである。

 この落合駅の東側には狩勝峠−新内回りの旧線と、新狩勝経由の新線との分岐点がある。(左:H14-10-14撮影) 右側が新線で、このトンネルを抜けた後に右方向にカーブして南下、新狩勝トンネルに至る。 そして左側が旧線で、この後に狩勝信号場でスイッチバックして、狩勝峠越えに挑んでいたのである。 線路跡はすぐに拡幅された国道38号線にさえぎられ、線路はここで分断されている。(右:H14-10-14撮影)


 綾小路さんは旧線に乗車した事はなかったが、過去に何回か路線跡を探索した事があった。 その時に残されていた遺構が、頭の中に浮かんできた・・・。

 分岐点から2度カーブして東進する国道38号線の北側には旧線跡が残されていて、小さな川を渡河していた橋梁の(レンガ造りの)橋台なども残っているらしい。 ただし綾小路さんはまだ確認していない。 そして4キロほど国道を東進して右側にカーブすると、いよいよ狩勝峠を目指す事となる。 その東側、国道の築堤下には狩勝信号場跡が見えるのである。(写真:H15-6-18撮影) 手前側の法面を降りた写真中央の左側(落合方面)から右側(新得方面)に向けて、ゆるやかにカーブしている切れ目が分かるだろうか。 これが本線跡であろう。 そして中央奥に向かっての木々の切れ目が、落合側スイッチバックの引込線跡である。


 落合駅からカーブして狩勝信号場にきた列車は一旦、新得側スイッチバックの引込線に入って方向転換し、落合側の引込線に入った事だろう。 再度方向転換して発車した列車は、勢いをつけて狩勝トンネルに向かっていた。 上の写真の反対方向にはその狩勝トンネルの坑口が覗いている。(左:写真中央・H15-6-18撮影) 奥の山腹の道路は国道38号線で、左側の頂上が狩勝峠になる。 写真では分かりづらいのでズームしてみよう。(右:H15-6-18撮影) グリーンのシートはSLが通過した後に煤煙が逆流して、機関士が窒息するのを防止する目的の垂幕だという。 このトンネル坑口の右側に新得側スイッチバックの引込線が残されているという。


 狩勝トンネルを抜けた旧線はこのあと全長124mの新内トンネルに続いていた。 国道で狩勝峠を越えて林道に入り、旧線跡をさかのぼると、この新内トンネルの新得側の坑口まで行ける。(左:H15-5-18撮影) 重厚な石造りのトンネルポータル(入口)が残されていて、史跡となっている。 看板が立っていて、狩勝トンネルと新内トンネル、この区間の説明が標されている(右:H15-5-18撮影)


 新内トンネルを抜けた列車は新内駅までの間に、半径180mというS字カーブの大築堤上を走っていた。 あまりにも有名な大築堤である。 綾小路さんもこれを探したがなかなか見つからなかった。 国道38号線脇の斜面を登って撮影したとの記載があって、それらしき場所に行ってみた。 そこで国道から覗くと見えたのである。 あれに違いない。(左:H15-6-18撮影) そして斜面を登ってもう一度見る。(右:H15-6-18撮影) この高さでは分かりづらいが間違いないだろう。 これ以上は登れないしなあ。 これをもっと斜面の上から撮ったカメラマンもやるなあ、と思った。 この付近のパノラマが日本の鉄道3大車窓だったという。 ひとつは肥薩線の大畑駅付近のループ線の景色。 これは今年のGWに行く予定である。 そしてもうひとつは篠ノ井線の姨捨駅からの善光寺平の眺望だそうである。 ところで狩勝峠のパノラマが過去のものとなった今、もうひとつ新たに選ばれたのかどうか、綾小路さんは知らない。


 S字カーブを抜けると、旧線には廃止された新内駅があった。 ここには未だに駅舎が残されている。(左:H15-5-18撮影) ホームも健在で線路の上には59672機が停車している。(右H15-5-18撮影) 列車ホテルとして利用されていたこともあるらしいが、現在宿泊できるかどうか不明である。
 新内駅を過ぎて、もうひとつのS字カーブを通過した旧線は、国道38号線の脇をまっすぐに南下する。 この南下している路線が新得駅の北側の旧路線であり、雪の中に見えた橋梁を渡ると新得駅は目の前に迫っている。 もちろんその間に新線と合流しているのである。


 壮大なパノラマが目に浮かぶようだ。 綾小路さんは我に帰って漫遊を続けた。 夕闇が迫る中、落合駅16時51分発の折り返しの列車に乗車して、東鹿越駅で下車した。 ローカル線の運転手は親切だ。 綾小路さんが下金山駅から乗車して、落合駅で折返したのを知っていて、この後は富良野方面に行くものと思っていたらしい。 下車する際に次の列車は当分来ないと教えてくれた。 なるほど、次の上り列車は3時間後であった。 しかもその列車は東鹿越駅は通過する。 東鹿越駅に停車する上り列車は今から4時間半後だった。 しかし富良野方面に戻る前にもう一度、新得方面に向かうので大丈夫であった。

 その東鹿越駅は少し古そうな木造駅舎だった。(左) ホームには石灰石の塊が置かれていて、裏手の崖上には工場らしきものがある。 そして昔はその石灰石がここから鉄道で運びだされていたのだろう。 こんな小さな無人駅に似つかわしくないほどの線路が敷設されているのである。(右:H14-10-14撮影) いち、にい、さん、・・・5本の線路が見える。 もちろんこのホームの反対側にもあと1本の線路があるのは言うまでもない。


 駅前は前述した金山湖である。 この時期は当然のごとく結氷している。(左) そしてここで釣れる大物が幻の魚、イトウである。 駅舎内には魚の魚拓がはってあった。(右) 金山湖周辺でイトウが釣れるとは聞いていたので、魚拓が貼ってあるならまっさきにイトウだろうとは思った。 しかしどうやら今までに見たイトウとは違うようだ。 もっと頭が”のっぺら”としていたように思う。 ところがこれがイトウだった。 口を開いたイトウはこんなにも野性的なのだった。 ”魚へん”に”鬼”、また凄い文字を当てたものだ。


 東鹿越駅で下車して24分、17時29分発の新得方面行きの下り列車がやってきた。 この列車に乗車して向かったのはもちろん隣の幾寅駅である。 古そうな駅舎、しかしこれは映画:鉄道員(ぽっぽや)のロケで建設されたもの。 今まではそう思っていた。 実際に駅前に食堂などのロケセットが残されていて、説明板が立っている。 ここに”駅舎をはじめ4つの建物が作られた”と書いてあるからである。 しかし”ふるさとの駅”では1990年の写生として現在と同じような形の駅舎が描かれている。 そして他の本で見た1979年に撮影された写真でも、同じ形の駅舎が写っていた。 疑問に思い調べると、どうやら駅舎は古く(レトロに)改装されたらしい。 そうか、きれいに改装するのは当たり前だが、古く改装するとは・・・。


 幾寅駅での待ち時間は2時間以上あった。 そのうちの半分ぐらいはレストランで時間をつぶすか。 駅前の”なんぷ亭”で名物”なんぷカレー”を食べる事にしよう。 今日は車でないのでビールもぐびり! そして、あつあつのライスにまたも火傷しそうになった。 まあ、前回ほどではなかったが。 うーん、学習したのかしなかったのか? しかしうまい!ビールおかわりね。 白石駅から自宅までは車であったが4時間以上後の事。 ま、このぐらいにしておくか。 もちろん、このあとたっぷりと水分を取り、アルコールを抜く事も怠ってはならない。


 そのまま2時間店にいればいいものを、店に長居することが苦手な綾小路さんは食事が終了するとさっさと支払い。 レストランをでた。 その後、幾寅駅で1時間以上も時間をつぶして、19時54分発の列車で札幌方面に向かったのである。

トップ アイコン
トップ
アイコン
鉄道