赤い土の地母神

二.赤 色 の 異 神 た ち


     ★「一.遣唐使と鏡神社」の続き




 引き続き鏡神社の話を続ける。『元要記』には当社の創建に関して、次のような伝承がみられる。

「桓武天皇御宇延暦二十三年、弘法大師(★=空海)入唐して帰朝の時、松浦明神(★=肥前の鏡神社)の加護により風波が静まったので感銘した大師は大同元年帰朝の時山階寺(興福寺)の庭中に松浦明神を奉斎し鏡大明神と号した。(『鏡神社小誌』)」

 この伝承は、「入唐僧が帰朝の船中で神の示現にあって暴風雨から救われ、帰国後に神恩に感謝して祠を建て、その神を祀る。」というタイプのそれで、これからここではこうした伝承の類型を新羅明神型の伝承≠ニ呼ぶことにする。
 新羅明神型の伝承としては、「円珍と新羅明神」、あるいは「円仁と赤山明神」が文献に登場する年代が古く、有名である。

 新羅明神のほうから紹介すると、『園城寺龍華会縁記』(1062)によれば、円珍が唐からの帰国の際、船中で老翁の示現に出会い、「われは新羅国明神である。今、汝の教法を護り、慈尊出世するに至るであろう。」と述べて、かき消えるようにいなくなった。その後、円珍が入京して請来した経典類を太政官に納めた際にもこの老翁が現れ、「日本に一勝地あり。一伽藍を建て籍を移すべきである。」と述べて近江の三井寺に導いた。円珍は貞観二年に三井寺の北野に祠を建ててこの老翁を祀ったが、これが今日の新羅善神(しんらぜんしん)堂である、というものである。

新羅善神堂
 三井寺の北方にある新羅の森の中にひっそりと佇ずむ。現在は訪れる人も少ないこのさびれた森が、かつての三井寺北院跡であり、古い時代の絵図を見ると、多くの堂宇が立ち並んでいた様子が描かれている。それらは、戦前に陸軍用地としてしゅうへんの土地が没収された際、取り壊されてしまった。

 辛うじて残された国宝の本殿は(右画像)、近江地方に多い三間社流造の華麗な建築物で、貞和三年頃に足利尊氏が再興したと伝えわっている。現状では周囲を塀で囲われているために近くから鑑賞できないのが残念。
  ・滋賀県大津市園城寺町

 いっぽう、円仁と赤山明神の場合は、『源平盛衰記』(鎌倉中期に成立)によると、円仁が唐から帰朝する船上で悪風に遭った際、不動明王と毘沙門天が艫と舳に現れ、さらに赤衣に白羽の矢を背負った赤山明神が船の上に現れてて、彼を守護したという。
 また、『慈覚大師伝』(939)によれば、赤山明神はそもそも登州赤山の法華院(現在の中国山東省文登県にあったと推定されている寺院)に祀られていた山神で、当所で承和六年(839)の冬を過ごした円仁が、無事帰国できたら本国に禅院を建てて祀ると願を立て、彼の没後、その遺志を継いだ弟子達が叡山西坂下にこの山神を祀ったのが現在の赤山禅院であるという。

赤山禅院
 上記のような事情で、円仁の没後になってその遺志を継いだ弟子達が、仁和四年(888)に比叡山の西坂にあった南大納言の山荘を二百貫文で買い取って建立したもの。

 もともと別荘があった場所だからかもしれないが、境内には清流も流れ、どこかしら閑雅な雰囲気が漂っている。秋の紅葉が有名らしいが、他の時期に訪れても四季折々の趣がありそうだ。しかし、そのいっぽうでさすがに異神を祀るだけあって、社殿の感じなどからは道教の観のような印象を受ける。また宗教法人法上はたぶん寺院として登録されているのだろうが、参道の入り口には鳥居がある(右画像)等、ミスマッチが連続する不思議空間。主要な観光地からは外れているものの、それだけに京都観光の穴場、というか大穴である。京都が好きだがまだここには行ってない人がいたら、一度、足を運んでみられたらいかがか。
  ・京都市左京区修学院開根坊町

 こうした伝承は有名な僧侶や聖人の事績にありがちな伝説のたぐいだろうが、それにしても新羅明神にしろ赤山明神にしろ、わが国在来の神々ではなく、海外にそのルーツがあるということになっている点が特徴的である。すなわち、新羅明神は自ら新羅国の明神≠ナあると名乗っており、また、赤山明神は山東半島の赤山で祀られていた山神であった。つまり、これらの神々は摩多羅(またら)神などと同じく「異神」なのである。

 ただそのいっぽうで、こうした異神とされる神々の伝承にも、その基層にはわが国古来の神祇信仰が眠っているのではないか、というのがこれからここでの興味の中心である。



   



 私がそんなふうに考えるようになったきっかけは、出雲の松江東方にある嶽山という山に登ったことである。

 『出雲の月神/賣豆紀神社』でも触れたが、「松江藩祖、松平直政の母、月照院の出自は三好氏であった。しかし三好一党は徳川家と仇敵の関係にあったため、徳川が天下を統一するとともに世を忍ぶ零落した暮らしを余儀なくされる。月照院の兄、三好半太夫もまた一時期、朝鮮半島に渡って漂泊の日々を送っていたが、月照院の嫁ぎ先である結城秀康が松江藩主として入部するに及び、彼女を頼って帰国することになった。ところが、彼を乗せた船は筑前の沖合で暴風雨にみまわれ、絶体絶命の危機におちいる。半太夫がこの時、「日本は神国、大小神祇この度の風難を逃れさせたまえ。」、と一心に祈ると、白装束を着た貴人が現れて守護してくれたので、船は無事に筑前の海岸にたどり着いた。彼がこの貴人に名を問うたところ、「我は雲州嶽大明神なり。」という返答があった。半太夫は出雲に入ると直ちに宝剣を打たせ、嶽大明神に直参して奉納した。その後、半太夫は松江藩から二千石を賜り、家老職をつとめ、2代目からは「三好」を「三谷」に改めて代々栄えたという。 ── 」

 これまた新羅明神型の伝承だが、ここで言われている嶽大明神というのは、嶽山の山頂に鎮座する布自伎美神社のことで、嶽山はこの式内社の神体山である。
 
出雲の嶽山
 松江東方にある山(上左画像)で標高300m弱だが、ビルに邪魔されない場所であれば市街地からも良く眺められる。古来、松江の住民達から親しまれてきた。山頂付近には布自伎美神社が鎮座し(上右画像)、当社の神体山である。

 この神社に参拝するには山麓の紙谷にある登拝口から登るが(下左画像)、下右画像はそこに露頭していた赤っぽい土を撮影したもの。同じ土は麓から山頂までずっと見られ、山上の神社の周りもこの土である。これほど全山赤い山というのも珍しいのではないか。

 布自伎美神社は『延喜式』神名帳 出雲国嶋根郡に登載のある同名の小社。『出雲国風土記』には「布自伎弥社」として登載されている。詳しくは「出雲の月神/賣豆紀神社」の下の方にあるコラム「布自伎美神社」を参照。

 ところでこの山を登ったとき、麓から山頂まで赤っぽい色をした粘土質の土がずっと見られるのが印象に残った。しかもこの土は、関東でよく見かけるローム層の赤土のようにくすんでおらず、紅茶のような色合いのバラ色だったのである。
 記紀神話には赤い埴土を使った呪術のことが何度か登場しており、古代人にこうした土に対する深い信仰があったことが知られるが、布自伎美神社の祭祀も、本来はこうした赤い土に対する古代信仰と関わりがあったのではないか、とその時、おもった。
 赤い埴土の呪力のことについては、『海人の国』さんの『丹土』を参照。私のインスピレーション源です。
 ところで、こうした赤色への鋭い傾斜は、新羅明神や赤山明神にも感じられる。
 『園城寺伝記』によると、新羅明神は円珍の没後も長らく「新羅の国の明神」というだけで、新羅本国における正式な神名は伝えられていなかった。しかるに、後世になって来朝した宋の商人によって始めてその名前が明らかにされたところ、その名は4つもあって、一に「ッ嶽(すうがく)王」、二に「朱山王」、三に「松ッ王」、四に「四夫人」で、さらにその商人によれば、新羅本国にては一千の剣を神供してこの神が祀られているということであった。

 ここで新羅明神の4つの名の中に「朱山王」というものが見えているが(※)。この神名は全山、バラ色の土に覆われた松江の嶽山のことを連想させないだろうか。しかも、嶽山の山頂に鎮座する布自伎美(ふじきみ)神社(=嶽明神)の祭神には、新羅明神(=朱山王)と同じく新羅明神型の伝承が伝わっているのであり、また宋から来た商人の証言によると、故国における新羅明神の祭祀は、一千口の剣が神供として備えられたとあるが、嶽明神によって風雨の難を救われた三好半太夫も、無事に航海を終えてから、宝剣を打たせてこの神に奉納している。現在、布自伎美神社は『出雲国風土記』嶋根郡条に登場する都留支日子(つるぎひこの)命という祭神を祀っているが、この神は名前からして剣神であるとおもわれ、こうしたことも新羅明神の伝承を想起させる。



   



 朱山王の朱山≠ヘ、赤山明神の赤山≠も連想させる。もちろん、赤山明神の赤山は、円仁が唐で修行した赤山法華院のあった赤山に由来するものだが、『源平盛衰記』巻十には三井寺に戒壇を許可するかしないかで頭を悩ませていた白河天皇の夢枕に、赤山明神が「赤衣の装束したる老翁」の姿で現れ、大きな鏑矢で威嚇したので、結局、許可はしなかったというエピソードがある。また同書には、唐から帰る円仁の船が悪風に襲われていた時、この神が「赤衣に白羽の矢負ひつつつ、現じ給ひつつ、大師を守護せられけり。」というエピソードがあることもさっき説明したとおりである。さらにまた、古い時代の画像でも赤山明神は、赤や朱の装束を身に着けており、こうしてみると赤山明神にとって赤(朱)は特権的な色彩であったことが伺われる。

 『闇の魔多羅神』の川村湊氏はこれと同じ発想に立って、「朱山王という名称が、その意味からも赤山明神の異称であると考えることは、それほど牽強付会であるといえないだろう。」とした上で、「赤大明神とも呼ばれる赤山明神は、もともと中国の土着の神であって、「赤」(朱)をシンボル・カラーとする山の神が、円仁によって日本に勧請されてきたと考えられる。(川村湊氏『闇の魔多羅神』p94〜95)」と述べている

 いっぽう、新羅明神もまた赤色系統の服を着ているとされていたらしい。というのも、よく書物で紹介される13世紀に描かれた新羅明神の有名な画像は、退色しているが紅色の唐服姿で描かれているからである。

 また、これよりもさらに古い11世紀に作られた新羅明神の国宝の神像は袍ホウと袴を身に着けているが、袍の方はベンガラの地の上に銀箔で模様が施してあった痕跡がある(現在、それらは剥落してしまっているが。)。かなり黒ずんでしまっているが、こうしたベンガラは新羅明神が紅色の衣服を身に着けていたことを示すものだろう。しかも袍の下には襦袢のような下着を着ているが、それが朱色ということになっているらしく、袖口の中が朱に塗られている。この朱はほとんど退色しておらず、すごく鮮やかに残っているが、よく見ると袴の下からも下着の朱が少し覗いていた。
 この像は新羅善神堂で秘仏(仏≠ナはないが)として祀られているものなので、滅多に拝観できないはずだが、たまたま今年の2月に六本木のサントリー美術館で開催されていた『国宝三井寺展』にこの神像が出展されていたため、運良く間近から観察できた。
 こうしたことから、赤山明神と同じく新羅明神もまた、赤い色の衣服を身に着けていたらしい。





2009.04.18







 『寺門伝記補録』には朱山王とッ嶽王を異名同体とする説があり、円珍が渡唐のおりに嵩山に登って朱山王の廟≠ノ詣でたところ突然、暴風雨となって人頭蛇神の者が彼を威嚇し、やがてその異形の者は左手に錫杖、右手に経巻を持つ翁の姿となり、「私はここにいる文殊菩薩で(☆文殊菩薩は新羅明神の本地)、天地が分かれてからは、韓地(=朝鮮半島)と赤土(=唐土)に垂迹し、国家の経営を助けてきた。今度は東に渡りあなたの仏法を衛護しようと思う。」と告げて円珍を喜ばせたという伝承を載せている。ちなみに嵩山は、現在の中国河南省登封県北方にある山。









主な参考文献

 このページで使用した主な参考文献は、「赤穂神社、空海という回路」のページの下の方にまとめてあります。











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