赤い土の地母神

三.赤 い 浪 の 威 力


     「二.赤色の異神たち」の続き




 さて、新羅明神型の伝承に登場する神々は、しばしば唐をはじめとした諸外国から帰朝する船中で、風雨に襲われた主人公たちの前に現れて危難を救う。こうしたことは、天災等から航海を守護する航海神としての神格がこれらの神にあったことをうかがわせる。

 新羅明神型の伝承に登場する神に航海神としての神格があったことについて、川村湊氏が『闇の魔多羅神』で興味深い発言をしている。


「★新羅明神が円珍の帰国の船中で、「素髪の老翁」の姿で現れたという『園城寺伝記』の記事に関して、── 以下引用文。
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 この「素髪」を白髪ではなく、ぼさぼさの髪と解すれば、私は『魏志倭人伝』で語られている「持衰(じさい)」のことを思い出さずにはいられない。危険な船の旅において、倭人は「持衰」という人物を船に乗せる。航海の間中、髪は梳らず、虱はたかりっぱなし、衣類を洗うこともないというこの人物は、航海の安全を祈願する役割であり、無事に航海が済めば多くの褒賞品が与えら、船に危険がさしせまれば犠牲として海に投げ込まれる。日本武尊の妻のように、海神への生け贄としての犠牲者を予め船に乗せておくという、倭人の奇妙で奇異な習慣として、『魏志倭人伝』の筆者は、そこに書き留めたのである。
 こうした残酷な風習がいつまで続いたかはもちろん知ることはできないが、この「持衰」が、現実の人間から、一種の航海神として神格化され、大童の髪の姿の神として形象化されていったという可能性は十分にあると思われる。「素髪」の神とは、こうした「持衰」の流れを汲む、シャーマン的な存在を暗示しているのではないかと考えられるのである。
  ・川村湊氏『闇の魔多羅神』p99〜100」


 そしてこれらの神は、(文字通り)赤色のイメージを身にまとっていた。

赤い唐衣をまとった赤山明神の絵馬

 となれば意外にも、異神とみなされるこれらの神々に、在来の神祇信仰との接点が見出せることとなる。『播磨国風土記』逸文にある尓保都比売命の記事を引用する。
 
 息長帯日女の命(=神功皇后)が、新羅の国を平定しようと思って西行なさった時、多くの神々に祈願なさった。その時、国土を生成された大神のの御子である尓保都比売の命(にほつひめのみこと)が、国の造の石坂比売の命に寄り託き神がかりし、教えて「私を手厚く斎奉ったなら、私はよい効験を出して、<比々良木の八尋鉾根の底付かぬ国><嬢子の眉引きの国><玉匣かが益す国><苫枕宝有る国><白衾新羅の国>(★=いずれも新羅のこと)を赤い浪の威力でもって平定なさろう。」とおっしゃった。a.このようにお教えになって、ここに魔除けの赤土をお出しになった。そこで息長帯日女の命は、その土を天の逆鉾にお塗りになり、船尾と船首にお建てになられた。また船の舷側と兵隊の鎧をこの赤でお染めになった。   b.こうして海水を巻き上げ濁しながらお渡りになる時、いつもは船底を潜る魚や船上高く飛ぶ鳥たちもこの時は行き来せず、前を邪魔するものは何もなかった。   c.こういう次第で、新羅を無事平定され帰還されたのである。そこで、尓保都比売の命を紀伊の国の管川にある藤代の峰にお移しし、お祭り申し上げたのである。

 ・小学館日本古典文学全集『風土記』より、上垣節也氏の現代語訳

 この伝承は、新羅へ外征に向かう神功皇后に、尓保都比売命(にほつひめのみこと)が赤い浪の威力≠授けたというもので、一般的にはこの女神に軍神のイメージを与えるものである。ことに、aの部分にある天の逆鉾にこの神のモノザネである赤土を塗って、船尾と船首に建てたという件りと、兵士達たちの鎧がこの土の赤でもって染められたという件りとは、まことに勇ましい印象でその感を強くさせる。

 が、しかし、ではここに現れている尓保都比売命の神格は本当に軍神なのだろうか。

 ここで下線部a、b、cを詳しくみてゆく。

 まずaは今、言った武器や軍船や兵士たちをマジカルな威力のある赤土の赤によって塗り立てたという箇所であるが、尓保都比売命の神格を判定するためには、こうしたことよりむしろその効果の方が大事だろう。すなわちaに続くbやcの部分である。そしてそこには、こうした赤色呪術の効果により、「b.こうして海水を巻き上げ濁しながらお渡りになる時、いつもは船底を潜る魚や船上高く飛ぶ鳥たちもこの時は行き来せず、前を邪魔するものは何もなかった。」ということとなり、続いて「c.こういう次第で、新羅を無事平定され帰還されたのである。」とある。つまりaによってまずbとなり、続いてcとなるのである。

 もしも尓保都比売命がたんなる軍神であるのなら、bはいらないで、直接、a→cでもよかったのではないか。ところが、それがそうならないで、aの効果によりbとなるのであるから、この女神の神格はbに表れているのである。

 ではbには何が言われているのか?

 bには「こうして海水を巻き上げ濁しながらお渡りになる時、いつもは船底を潜る魚や船上高く飛ぶ鳥たちもこの時は行き来せず、前を邪魔するものは何もなかった。」とある。

 「いつもは船底を潜る魚や船上高く飛ぶ鳥たちもこの時は行き来せず、前を邪魔するものは何もなかった。」というのは逆に言うと、船の進行方向に対して遮るような動きを見せる魚や鳥は航海にとってたいへん不吉とされた、ということだろう(※2)。これはたんなる憶測ではない。というのも『唐大和上東征伝』には、天平勝宝五年(753)、鑑真和上らを乗せた第十次遣唐使一行が帰国の途につこうとした際、蘇州付近で一羽の雉が第一船の前を横切ったため、その日は出帆を見合わせ、翌日に船を出したという記事があるからである。ここから、古代において、そのようなジンクスが本当にあったことが分かる。
 この『唐大和上東征伝』の記事に基づいたとおもわれる『天平の甍』の一節。

 「故国へ向う遣唐船は、第一船、第二船、第三船、第四船の順で黄泗浦の岸を離れたが、江上に出て半刻ほどすると第一船の前を一羽の雉が翔ぶのが見えた。雉は檣ホバシラの高さのあたりを、黒い物体でも投げられたような、そんな直線的な飛翔の仕方で空間を横切った。真昼のように照り輝いている江上で、その小さな物体だけが黒く見えた。雉の姿を見た者は第一船に乗っていた極く僅かの者たちであったが、船頭はそれから不吉なものを感じた。すぐ後に続く第二船に燈火で信号が送られ、四船ともその場に碇を降ろして、江上に一夜を明かすことになった。」

 ・井上靖氏『天平の甍』新潮文庫p174・175
 そしてそうなると、神功皇后が自分の船や武器や兵士たちを、尓保都比売命が提供した赤土によって赤く塗り立てた結果、船が魚や鳥たちによって邪魔されるのが防がれたというのは、赤い土のマジックによって航海の安全が守られた、ということであって、cの「新羅が平定された。」はあくまでもこうして航海の安全が確保された結果であり、この女神の本領は後者のような武張ったことより、むしろ操船や造船の技術が未熟であった時代に、国外へ出るような危険な航海を天災などから守る、という庇護的で母性的なことにあったようにおもわれる。
 ネットで知り合った、さる古い古い丹生の神主家の子孫の方によれば、1700年以上、表に出ないでいる丹生都比売命の祭祀の大元を解釈すると、この女神は「守り導いてくれる母なる神」というイメージで、困ったときには守り、よい方向に導いてくれ、正しくない時には厳しく、というような強い母の様な神様であるという。

 この神秘的な女神のことを、今以上に明きらかにすることができるのはその人しかいない、というのが私の意見なのだが、丹生都比売命の秘祭について彼は沈黙を守っているので、ここで言われていることがどういうことなのかはよく分からない。ただ、「守り導いてくれる母なる神」というイメージは、赤い土のマジックによって航海を守護する尓保都比売命のそれと矛盾しない。
 してみると赤の色彩と航海神を介して、『播磨国風土記』逸文にある尓保都比売命の記事と、新羅明神型の伝承群は通底する。そしてひとたびそういう目で見ると、両者の間には他にも通ずるものが少なくないのである。

 例えば尓保都比売命の記事は、神功皇后の新羅外征伝に付随したものだが、新羅明神型の伝承の周辺にも何故か新羅のことがよく出てくる。すなわち、新羅明神は自ら新羅国の明神≠ナあると名乗っているのであり、また赤山明神はもともと、円仁が修行した山東省の赤山法華院(が中腹にある赤山)の土着の山神であったらしいが、この寺院は別名新羅院≠ニも呼ばれ、新羅人の張宝高によって建てられたものであった。
 当時、赤山法華院の周りには対岸から移住した新羅人たちの一大居留地があり、この寺院じたいがこの居留地に造られた彼らの仏教研究施設であったらしい。この院は本国からの留学僧たちによる仏教信仰のメッカとして新羅仏教揺籃の地であったとも言われ、赤山でこの山神を信仰していたのも、こうした新羅人たちであった可能性が高い。
 また、出雲の嶽大明神をめぐる三好半太夫の説話でも、当時、新羅はとうに滅びていたものの、彼が渡っていたのが朝鮮半島であったことは示唆的である。


香原神社
 最澄の弟子の仁忠が著した『叡山大師伝』によれば、かつて最澄が筑紫で入唐渡海を待っていた時、宇佐神宮等とともに香春(かわら)神社に詣で、無事に渡海できることを祈った。この際、香春神は託宣して、最澄が海上で危難にあった場合は必ず守護するだろうと約束し、また、もしも自分の助けであることを知りたければ光を現すからそれをもって験シルシとせよ、と述べた。そしてじっさいに、海上で最澄が急難に遭うと、常に光が現れて、危機から脱することができたため、帰国後、最澄は香春神社の神宮寺で法華経を講じ、神恩に報いたという。

 この伝承は、神が示現した場所が入唐僧の帰国の船中ではない点が異なるものの、他の点では新羅明神型のそれとよく似ている。類話と考えてよいだろう。そして、『豊前国風土記』逸文によれば香春神社の祭神は新羅から渡来した新羅神であり、当社の主祭神は神功皇后となっている。こうしてみると、新羅明神型の伝承のしゅうへんでは、新羅や神功皇后といったキーワードが見つかることが多く、そのことがこのタイプの伝承の特徴の1つとしてあげられるとおもう。このことは『播磨国風土記』逸文にある尓保都比売命の伝承と、新羅明神型の伝承の近しさを強く感じさせる。


 それからまた、尓保都比売命の伝承で神功皇后は、赤い土を天の逆鉾に塗って船尾と船首(原文は「神船ミフネの艫トモと舳ヘ」)に建てたとあるが、このことは『源平盛衰記』にある赤山明神の伝承で、風雨に襲われた円仁が念仏を唱えて祈願すると、不動明王と毘沙門天がそれぞれ艫と舳に現れたという件りを連想させる。両者は同種の信仰に基づくもので、その頃の外洋船では、風雨などから船を守るために、船体の前後に神が示現するヒモロギが設られていたことを示唆しているのではないか。

 さらにまた、尓保都比売命の伝承では神功皇后が無事、新羅を平定した後で、紀伊の国の筒川の藤代の峰にこの神を手厚く祀ったとあるが、これは円珍や円仁(の遺志を受けた弟子たち)が新羅明神や赤山明神の加護によって無事、帰国した後で、本国に祠を建ててこれらの神を祀った、というのと物語の構造が似ている。


 むろん、両者には相違点もある。もっとも異なるのは尓保都比売命が女神であるのに対し、新羅明神や赤山明神は男神であるという点だろう。しかし私はこの相違点は乗り越えられるとおもっている。近年、注目を浴びるようになった魔多羅神は赤山明神と異名同神であるという説がある(黒川道祐の『日次紀事』)。しかし、神話学者の彌永信美は魔多羅神のまたら≠ヘサンスクリット語で母を意味するmatrの複数形、matarahを音写したもので、いわゆる「諸母天」(「七母天」「八母天」)を意味したものと論じており、また、中世史家の筑土鈴寛はやはり赤山明神=魔多羅神を大地母神として論じている。こうしたことは、新羅明神や赤山明神=魔多羅神の古層に、非常に古い様態をした女神の信仰が眠っている可能性を示唆するものだろう。

 とにかくこういったことから、『播磨国風土記』逸文にある尓保都比売命と伝承と、新羅明神型のそれは、ほんらい同系のものであり、私は前者のやや古めかしい感じがする女神の神話が変形されて、後者が生み出されたのではないかという見通しを立てている。

 だがそれなら、そのような変形はいったいどのような回路の中から生じたのだろうか。





2009.04.18







 この部分は記紀にある神功皇后説話で、皇后が新羅へ外征した際、海中の魚たちが集まってきて船を新羅まで運んだ、という件りと同型の説話として紹介されることがある。しかし両者が違うものなのは明らかだろう。



主な参考文献

 このページで使用した主な参考文献は、「赤穂神社、空海という回路」のページの下の方にまとめてあります。











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