二. 賣 豆 紀 神 社 |
『日本神話の新研究』の松前健は、「海人族と日月崇拝」という章を設けて、「次に月神も、記紀に公認されている月読命以外に、古代には異系統の月神が祀られていた形跡が確かにある。」と言い放つ。
記紀神話で月神と言えば月読尊だけだが、この他にも各地で祀られていたローカルな月神、すなわち紀神話とは「異系統の月神」があったというのだ。そしてそのような「異系統の月神」の例として、出羽の月山神社、丹波の小川月神社及び壱岐の月読神社等と並び、『三代実録』に記事のある出雲の「女月神」のことをあげている。とうがい「女月神」の場合、女性の月神らしいので、その特異性は一層きわだつと言えよう。
この『三代実録』に記事のある出雲の女月神とは、貞観七年と同十三年にそれぞれ、従五位、正五位に昇階された『延喜式神名帳』出雲国意宇郡に登載のある小社、賣豆紀(ひめつき/めつき)神社の祭神である(※1)(『出雲国風土記』の「賣豆貴社」)。
この神社は現在、松江市街のやや外れ、同市雑賀町の高台に鎮座しているが、現在の祭神は下照姫命である(『雲陽誌』『雲州式社集説』『神社覈録』等、いずれも祭神を下照姫命としている。)。したがって『三代実録』にある表記、「女月神」から、当社の祭神を記紀の月読尊とは「異系統の月神」とした松前の説は必ずしも通説となっていない。が、そのいっぽうで、『式内社調査報告』で賣豆紀神社の項を執筆した青木基は、松前が執筆した『神話伝説辞典』の「月読命」の項を引用し、彼の説を紹介するのを怠っていない。おそらく、これは公平な扱いであって、通説とはいえなくとも、松前の説が無視しがたいことを示しているように思われる。
賣豆紀神社 |
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社頭 |
社殿 |
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【社 名】 めづき 【所 在】 島根県松江市雑賀町1663 【祭 神】 下照比賣命 【例 祭】 10月3日 |
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私自身も、『三代実録』にある「女月神」の表記は、単なる当て字ではなく、この祭神が月神であることを示しているように思う。
もともと当社は旧津田村の「賣豆紀脇」という山畑に鎮座し(現在でも旧社地には「みつき坂」の地名が残っているらしい。)、安産の神として信仰されていた。それが寛文六年、老朽化した社殿の建て替えにともない現社地に遷座してきたらしい。この旧社地は、現在の松江市西津田町にあり、同町はいくつかの河川が貫流する松江の水郷に隣接し、この水郷を抜ければ東に中海、西に宍道湖に出られるという好立地である。「津田」という地名からも感じられるが、その付近には港があったのではないか。
月神は交通、なかんずく水上交通と縁が深い。とくに出雲でこの傾向が顕著であることは、月神の都久豆美命を祀る爾佐神社が、隠岐へと渡航する船の港があって、古代には駅が置かれた交通の要衝、千酌に鎮座していたことによく現れていた。したがって、付近に水運の存在を感じさせる賣豆紀神社の立地からも、何となく当社の祭神、「女月神」が月神ではなかったかと、という疑いが生じるのである。
ところで、賣豆紀神社の鎮座する松江という地名を耳にすると、小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンの名前を思い出す人がいるかもしれない。ハーンが松江に住んでいたのは、実はたった1年と3ヶ月程度だったのだが、その体験に取材した紀行文集、『知られざる日本の面影』等により、彼の名はこの城下町と固く結び付いている。とくに、同書に収められた松江の印象記、『神々の国の首都』は『知られざる日本の面影』全編を通しても名作であり、文庫本などでアンソロジーが組まれる時も選ばれる頻度が高い。
この『神々の国の首都』の魅力の1つは、それが夜明けから日没までの耳の情景として構想されていることにある、 ── クロード・ドビュッシーが読んだら喜ぶんじゃないだろうか。それは最初、「松江の一日は、寝ている私の耳の下から、ゆっくりと大きく脈打つ脈拍のようにズシンズシンと響いてくる大きな振動で始まる。<中略>それは米を搗く、重い杵の音であった。」という風に始まる。やがて、洞光寺にある大きな鐘の音が響いてきて、朝早い物売りのかけ声が聞こえてくる。東の空から日が昇ると、それに向かってパンパンパンパンと4回、手を打つ出雲式の柏手が聞こえてくる。ハーン家で飼われている鶯が囀り出し、人々の活動が活発になるとともに、松江大橋の上を渡る下駄の響きが大きくなってゆく。軍隊のラッパの音が聞こえ、うどん売りやあめ湯売りや辻占いなどの、さまざまな物売りの声が聞こえてくる、 ── といった具合。
この随想は日没で終わる。もちろん、それからも松江の夜の生活は続いていくのだろうが、ハーンは日が没しさり、月が出たところで『神々の国の首都』の筆を置いているのだ。その幕切れはこうである。
町のあちこちから、沼に住む大きな蛙の鳴く声に似た音が、夜の闇に沸き起こってくる。舞妓や芸者の打ち鳴らす小太鼓の響きである。滝が落ちる音のように途切れることなく、橋の上を行き交う無数の下駄の音が木霊し合っている。東の空から、新たな光が昇ってきた。山の頂の背後から、とても大きくて不気味な青白い月が、白い靄の中を抜けて出てきたのである。 ちょうどそのとき、多くの人たちの柏手を打つ音が聞こえてきた。道行く人々が、お月さんを拝んでいるのである。長い橋の上から、白い月姫の到来を讃えているのである。 さて、私もそろそろ床について、どこか古びた苔蒸す寺の境内で、影鬼の遊びなどをしている幼い子供たちの夢でも見ることにしよう。 ・『神々の国の首都』角川ソフィア文庫 池田雅之訳 |
私はやはりここで、松江大橋を渡る人々が、橋上から柏手を打って礼拝する月が、「月姫」と呼ばれていることに注目したい。
私が持っている角川ソフィア文庫の『日本の面影』に収録された『神々の国の首都』は、この「月姫」の語が出てくるセンテンスに原著者による注がついている(この注は他社の文庫本には載っていないことがあるが、何でだろう。)。それを引用すると、「『古事記』によると、月の神は男性となっている。しかし、学識のある人しか読まないこの日本の古文書を、一般の人はほとんど知らない。だから、一般大衆は、ギリシャ神話のように、月を「お月さま」とか「月姫」とか言って、女性のように呼ぶのである。」とある。
しかし月を「月姫」などと女性のように呼ぶことが、とくにハーンの住む松江きんぺんに多くみられた風習だったとすればどうだろう。その場合、松江には月を女神と見る信仰があったことになり、それは賣豆紀神社に祀られていた「女月神」の記憶がハーンの時代にまで残っていたからとも考えられる。
次のようなことも見逃せない。
松江の起源は、慶長十二年(1607)に堀尾吉晴が松江城を築城した際、対岸にあった末次郷と白潟郷を併せて城下町としたことに始まる。この都市はその後に発展し、特に大橋川右岸の和多見町・八軒家町は、中海や宍道湖をはじめとする水上交通の拠点として栄えるようになった。現在では船舶の大型化に伴い、こうした機能は両町から他の港に移っているが、ハーンの時代にはまだそこで、中海や宍道湖をはじめ、離島や日本海沿岸の各港へと渡航する船舶の発着がたくさん見られたはずである。ちなみに、米子から汽船に乗ったハーンが松江で最初に下りたのも八軒屋町にある船着き場であり、彼が2ヶ月ほど滞在した富田屋旅館はその対岸にあった。この旅館は、彼が松江大橋の上から月姫を礼拝する柏手を聞いたあの場所であり(現在でも同じ場所にこの旅館はある。)、この橋が架かっているは和多見町である。つまり、ハーンが耳にした柏手は、和多見町・八軒家町という出雲東部における水上交通の中心地で打たれたものだった。
その場合、この月に柏手を打つ習俗は存外、出雲ならどこでも見られたというわけではなく、たまたまハーンの投宿していた和多見町・八軒家町辺りにおいて顕著であったのかもしれない。というも、出雲の月神信仰は航海安全等の、海上交通との繋がりが強く認められるからで、その場合、松江大橋の上から月に柏手を打った人々は、ただの通行人ではなく、その付近で水運に携わっていた人たちであった可能性があるからだ。『神々の国の首都』のこの部分で、もう一つ注目したいのは、ここでの月の出が「東の空から、新たな光が昇ってきた。山の頂の背後から、とても大きくて不気味な青白い月が、白い靄の中を抜けて出てきたのである。」と描写されていることである。
ハーンの描写に従うと、松江大橋から礼拝されていた月は、東方にあるどこかの山の頂から昇ってきたことになるが、私はこの山とは、松江市街東部にある嶽山ではなかったか、と考えている。
松江市北田町に普門院という寺院がある。慶長年間に初代の松江城主が開山した天台宗の寺院であるが、近くには官庁街もあって、松江市街でも中心部に近い方である。普門院には庭園があり、この庭園に「観月庵」という茶室がある。大名茶人として知られる松平治郷が茶事を催したと伝わる茶室で、名前からも明らかな通り、観月を意識している。茶室内には二帖隅炉の席があり、その東側には腰なしの障子窓があるが、この窓は東の空に昇った月の眺めを楽しむために、天井いっぱいにまで開けてある。
観月庵
寺家の人からうかがった話では、観月庵から眺める月は、ちょうど嶽山から昇るようになっているという。また、観月庵の前には心字池があるが、茶室から眺めるとこの池は、奥に向かって細長く見えるため、嶽山の上に月が昇れば、この山から観月庵の方に向かって流れる大河の上に、月が影を落としているように見えるとのことだった。
今では付近にマンションや庁舎のビルが建ち、普門院の庭園からは嶽山や北山山系を望むべくもないのだが、ここで観月庵が嶽山に昇る月を意識して建てられていることは、松江で生活する人々にとってこの山が、月と関係深いものとして意識されていたことを証言している。
観月庵の窓
左画像の奥の方に写っている障子二枚が、観月を意図した大窓。軒が異様に短く切ってあるのも、月を眺めるための配慮であろう。
右画像は、観月庵の入り口から東の方向を撮影したもの。現在は建物や樹木によって視界が遮られているが、かっては正面に嶽山が見え、月もそこから昇った。昇った月が落とす月影は池の水面に落ち、嶽山から流れる大河に金波がさゆらいでいるように見えたという。
爾佐神社の社頭から眺めた麻仁曽山
爾佐神社について触れたところで、この神社の社頭に立つとほぼ正面に麻仁曽(まにそ)山という山が見え(上の画像参照)、当社の境内にいると、月はだいたいこの山辺りから昇ることを紹介した。麻仁曽山の麓には、式内社ではないが『出雲国風土記』に名前が見られる伊奈阿気神社があり、麻仁曽山は当社の神体山と思われた。また、伊奈阿気神社には海上守護の利益があるという信仰があった。これとだいたい同じことが嶽山にも言える。というのも、嶽山の山頂には「布自伎美神社」という式内社があり(このページの下にあるコラム参照)、当社は嶽山を神体山とするとともに、次に紹介する伝承をみると、海上守護の信仰があったらしいのである。
松江と嶽山 |
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現在の松江大橋 |
松江大橋から見た嶽山(左)と和久羅山(右) |
嶽山は、松江東方にある標高300mほどの山で、その高さは北にそびえる北山山系に比べるとさほどでもないが、松江の中心部から見て稜線のフォルムが印象的なのはむしろこちらの方である。南にある和久羅山等と合わせて、「寝仏山」などと呼ばれることもあるらしい。ビルが増えた現在、市街からこの山を眺めることは難しくなっているが、松江大橋の上から東を眺めると、現在でもハーンの頃と同じく、川越しにこの山が眺められる。 嶽山は、『出雲国風土記』嶋根郡条に記事の見られる「布自枳美(ふじきみ)の高山」であるが、山頂には布自伎美神社という神社が鎮座している(このページの下のコラム参照)。当社は式内社であり、三好半太夫の乗った船を暴風雨から救ったと嶽明神は、この神社であった。 左画像は現在の松江大橋、右画像は橋の上から眺めた嶽山。ビルを無視すればハーンの頃とさほど変わらない景色であろう。ちなみに、左画像の橋のたもとにある黒っぽいビル(白いビルの右)が、ハーンが投宿していた福田屋旅館の現在の姿。彼が、松江大橋を渡る下駄の音やら、月を参拝する柏手の音やらを聞いたのはここなのだ。 |
松江藩祖、松平直政の母、月照院の出自は三好氏であった。しかし三好一党は徳川家と仇敵の関係にあったため、徳川が天下を統一するとともに世を忍ぶ零落した暮らしを余儀なくされる。月照院の兄、三好半太夫もまた一時期、朝鮮半島に渡って漂泊の日々を送っていたが、月照院の嫁ぎ先である結城秀康が松江藩主として入部するに及び、彼女を頼って帰国することになった。ところが、彼を乗せた船は筑前の沖合で暴風雨にみまわれ、絶体絶命の危機におちいる。半太夫がこの時、「日本は神国、大小神祇この度の風難を逃れさせたまえ。」、と一心に祈ると、白装束を着た貴人が現れて守護してくれたので、船は無事に筑前の海岸にたどり着いた。彼がこの貴人に名を問うたところ、「我は雲州嶽大明神なり。」という返答があった。半太夫は出雲に入ると直ちに宝剣を打たせ、嶽大明神に直参して奉納した。その後、半太夫は松江藩から二千石を賜り、家老職をつとめ、2代目からは「三好」を「三谷」に改めて代々栄えたという。 ──
この伝承は(※2)、文政十二年(1822)の『嶽御信仰三谷家因縁伝記』にも見られるが、ここに登場する「雲州嶽大明神」とは、布自伎美神社のことで、ここから当社に海上守護の信仰があったことがうかがわれる(※3)。
ここからは私の推測である。
松江城が築城されるより以前、現在の松江市街いったいは沼沢地か何かであったが、松江城が築城されるとともに城下町の発展がみられるようになる。観月庵について触れたところで説明したが、松江市街にいると、月はいつも嶽山辺りから昇るのが見られる。このため、この城下街の人口が増えるとともに、いつも月が出るこの山に、だんだん月との関係が生じてくる。そしてそれに伴い、もともと式内・布自伎美神社の神体山であった嶽山の信仰に、月神のそれが習合されていったのである。
何度も言うが、出雲の月神信仰は海上守護であるとか、海上交通に関わる信仰色が強い。したがって、嶽山の信仰に月神信仰が習合されると、その結果、嶽山を神体山とする布自伎美神社にも海上守護神としての神格が二次的に派生すると考えられる。嶽明神の加護により暴風雨から救われた三好半太夫の伝承も、こうした背景から生じたのではなかったか。
いずれにせよ、このような信仰が生じたのも、近世初頭に松江の城下街ができるよりもはるかに古くから、航海民の間で「女月神」をはじめとする、海上守護を目的とした月神信仰が行われていたためであった可能性がある。
H18.04.23
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2006.04.23
※1 | 貞観十三年の叙階時には、能義、佐草、揖野屋、御澤、阿式等、出雲国内の錚々たる名社とともに叙階にあずかっており、当社が早くから中央に名を知られていたことを感じさせる。 |
※2 | 近江の園城寺(三井寺)を再興した円珍と新羅明神のエピソードなど、入唐僧が帰国する船の中で神の具現に出会うそれと同型説話である。 |
※3 | 現在の当社にも、海上守護の信仰が残っているかどうかはよく分からないが、『式内社調査報告』によれば、「布自伎美神社には社頭に人等大の人形の石があり、俗に姫宮と呼んでをり、愛する人のつつがない旅帰りを祈り、成就の節は数をふやしてお返しをする信仰がある。(第二十巻 p191)」というから、海上交通とは言えないまでも、これまた交通に関係する信仰があるらしい。 |
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