「赤い土の地母神」
一.遣 唐 使 と 鏡 神 社 |
・明恵上人、さて入唐は
30歳になるかならぬかの明恵は、仏跡を訪れる目的で中国に渡って天竺に入る計画をたてる。しかし建仁三年(1202)、従兄弟の妻に春日明神が憑依し、これをいさめる神託を行ったために計画を断念した。謡曲『春日龍神』はこのエピソードを題材にしたものだが、そこでは中国に渡るための海路安全と暇乞いのために春日大社を参詣した明恵の前に、明神の化身である老翁が現れ、釈迦の遺跡しか残っていない天竺へ渡るより、日本に残って身近な人々の救済にあたるよう諭す。その後、後シテで、明神の使いである龍神が現れて釈迦の浄土が描かれてから、両者の間に次のような問答が交わされる。
京都府の栂尾にある明恵ゆかりの高山寺には、金堂の傍らに小さな春日神社が祀られている。
「明恵上人、さて入唐は」
「とまるべし」
「渡天はいかに」
「わたるまじ」
「さて仏跡は」
「たずぬまじや」
名調子といった感じだが、とにかく明恵はこれにて入唐渡天を思い止まったわけである。しかし彼が春日大社に参詣した頃、すでに唐が滅んで300年近くが経っており、この場合、入唐≠ヘありえないはずである。むろん、作者の世阿弥だってそんなことを知らぬはずもないし、唐≠ニいう言葉には、王朝名としてのそれを指すだけではなく、時代を越えて中国全般を指す使われ方もあるので、その場合ならこうしたことは問題にならない。しかし(よく確かめたわけではないが)、後者の場合、唐≠ヘから≠ニ訓むのではないか。入唐(にっとう)≠ニいう場合も、唐≠ェ中国全般のことを指すことがありえるだろうか。むしろここには、遣唐使の時代に御蓋山しゅうへんで行われていた祭祀のこだまを聞き取るべきなのかもしれない。
春日大社
『春日龍神』で明恵が参詣した春日大社は御蓋山(みかさやま)の西麓に鎮座し、社伝によれば神護景雲二年(768)十一月九日に創祀されたという。が、それよりも以前からこの山のふきんではさまざまな祭祀が行われてきた。典型的な神南備山型フォルムをした御蓋山は、おそらくかなり古くから神体山として在地勢力の信仰を受けていたのだろうが、文献によって確かめられる範囲で言うと、春日大社創建以前の御蓋山しゅうへんでは、遣唐使によって航海安全の祭祀が行われていたのである。
春日山の西麓にある。「本宮峯」、あるいは「浮雲峯」とも称され、標高297m、西麓には春日大社、山頂には本宮神社(浮雲宮)が鎮座し、後者は『延喜式』神名帳の添上郡の「大和日向神社」に比定される。このことは平城遷都以前からこの山が在地勢力による太陽信仰の聖地だったことを示すものだろう。 御蓋山という名称は、蓋カサ(笠)に似ていることによると思われ、文献上の初見は下の『続日本紀』養老元年条にある第8次遣唐使が「蓋山之南」で渡海の安全を祈願したという記事である。この記事をはじめ、本文中で紹介したとおり、この山には何故か遣唐使たちによる渡海安全祈願が寄せられていたことが、『続日本紀』や『万葉集』の記事によって分かる。 遣唐使の一員として唐土に渡り、帰国を夢見ながら果たせなかった阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(『古今和歌集』)」は有名だが、この歌もこうした御蓋山(=三笠山)に対する遣唐使たちの信仰と関係があるかもしれない、── そんなこともこれから検討してゆく。 なお、近世になると御蓋山は易しく「三笠山」と表記されるようになり、さらに御蓋山と隣接する若草山が三層をなしていることから、いつしか若草山が「三笠山」ととなえられるようになった。ここから近代になると「御蓋山」と「三笠山」が別に存在するという事態が発生し、いちおう、両者の区別が確立されるのは昭和10年になって崇仁親王の宮号「三笠山」が使われてからであるが、近年でも混乱は続き、最近では、『ならら』平成20年12月号の「大和探訪」で小川光三氏がそのことを話題にしたのを記憶している人も少なくなかろう。 ちなみに国土地理院の地形図には、「春日山(御蓋山)」、「若草山(三笠山)」とあるが、後者はともかく、前者の表記だと春日山と御蓋山が同じものになってしまうので、これはこれで問題である。というのも春日山と御蓋山は同じものではなく、前者は後者の東方に台形状に広がる山塊を指すからである(春日山は『万葉集』にも「借香山」「滓鹿山」の表記で登場する。もちろん、「御蓋山」とは別もの。)。御蓋山と春日山の違いは上の画像を参照。 |
『続日本紀』養老元年(717)二月一日の条には、「遣唐使が神祇を盖山(みかさやま)の南に祠る。」とある。
『万葉集』巻十九には、天平勝宝三年(751)に遣唐大使に任命された藤原清河に光明皇后が賜った次のような歌が収められている。
大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち(4241)
『万葉集』の注には「春日にて神を祀る日に、藤原太后(光明皇后)の作らす歌一首」とあり、やはり御蓋山ふきんで遣唐使の航路安全を祈願する祭祀が行われていたことをうかがわす。
さらに『続日本紀』宝亀八年(777)二月六日の条には「遣唐使が天神地祗を春日山(=御蓋山)の下に拝した。」とある。そしてそこには続けて、「去年、風調トトノはずして、渡海することを得ず、使人復頻マタシキりに以て相替る、是に到りて、副使小野朝臣石根重ねて祭祀を脩するなり。」とある。すなわち、去年は航海に適した風が吹かなかったので渡海を見合わせ、しかもその後、(遣唐大使だった佐伯今毛人が辞退したりして)メンバーの入れ替えがあったので、副使の小野石根が「重ねて」祭祀を執行したというのである。これは前年においても同じような祭祀が行われていたことを意味するが、文脈から考えてその祭祀もまた「春日山の下」で行われていたと考えてよいだろう。
右の『続日本紀』宝亀八年二月六日条の記事で、その前年に遣唐使が風待ちをしたというのは、肥前国松浦郡の合蚕田浦(あいこだのうら)であった。この「合蚕田浦」には複数の比定地があるが、画像はその有力な候補である田ノ浦。長崎県五島市久賀島にあり、現在も福江との連絡便の港があるなど、舟運上重要な場所である。
ちなみに、宝亀八年というと、もう春日大社は創建されていた。にもかかわらず、ここで海路平安が祈願されたのが春日祭神ではなく天神地祗≠ナあったというのは、この時の祭祀の対象が春日大社ではなかったことを感じさせる。
さらに『続日本後紀』によれば、都が平安京に遷ってからも承和元年(834)の第15次遣唐使の際には北野で天神地祗≠祀ったとある(※)。北野には上京区御前通に大将軍八神社という神社があるが、『日本の神々』に紹介のある社伝によれば、当社は平安遷都の際、王城鎮護のため桓武天皇の勅願によって大和国春日山麓より勧請されたものという。桓武天皇自身も第14次遣唐使を唐に派遣しており、こうしたこともあって私は、当社の社伝と『続日本後紀』にある記事の間には関係があると考えている。
大将軍八神社
・遣唐使の天神地祗
それにしても、どうして奈良期の御蓋山しゅうへんは、遣唐使たちによる航海安全の祭祀の場となったのだろうか。また、彼らによって祭祀を受けた天神地祗≠ニは一体、どのような神格であったのか。
ここで奈良市高畑町に鎮座する鏡神社に注目してみる。この神社は現在、新薬師寺の南西に隣接して鎮座しているが、『鏡神社小誌』によれば「社伝に遣唐使派遣の祈祷所たりし当地に、平常天皇御宇大同元年(西紀八〇六年)新薬師寺鎮守として奉祀せられしと謂ふ」とある。
鏡神社(南都) 新薬師寺の南西側に敷地を接して鎮座し、同寺の南門側にある社頭には「南都鏡神社」の石標が立っている(上左画像)。祭神は天照大神・藤原広嗣・地主神で、『鏡神社小誌』によれば、「社伝に、遣唐使派遣の祈祷所たりし当地に、平城天皇御宇大同元年(西暦八〇七年)新薬師寺鎮守として奉祀せられしと謂ふ。」とある。
現本殿は延享三年(1746)、春日大社造営の際に第三殿を譲り受けたものとされる。じっさい、昭和34年の修理の際には屋根裏から「三ノ御殿」の墨書銘が2カ所で見つかった(上右画像)。
・『ななかまど』さんの「神社ふりーく」に、『鏡神社小誌』の紹介がある。
当社の祭神は天照皇大神、藤原広嗣、地主神の三柱であるが、このうち、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は不比等の4子中、式家の藤原宇合(ふじわらのうまかい)の長子であった。文武に優れた英才であったともいうが、4子の相次ぐ死の中で政権が橘諸兄(たちばなのもろえ)に遷ると、大養徳(=大和)守から太宰少弐(太宰府の次官)に左遷されてしまう。事実上、都からの追放である。
天平十二年(740)八月下旬、広嗣は九州から朝廷に政界から玄ム(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)を取り除くよう求めて上表し、返答を待たずに挙兵する。藤原広嗣の乱である。これに対する朝廷側の対応は速く適切だったため、乱は2ヶ月ほどで鎮定、敗れた広嗣は追っ手を逃れて五島列島から船出し、一時は韓国の斉州島ふきんまで達したが、逆風に吹き流されて九州まで戻されたところを捕縛され、十一月一日、肥前国松浦郡で斬られた。
松浦郡には唐津湾沿岸を中心に彼にまつわる信仰や伝承が濃厚にみとめられるが、その中心となっているのは佐賀県唐津市鏡に鎮座する鏡神社である。『日本の神々』の鏡神社の項から引用する。
「当社の祭神は、『松浦古来略伝記』などによると、一の宮は息長足姫尊(神功皇后)、二の宮は藤原広嗣とされている。また『和漢三才図会』には、神功皇后が松浦山(鏡山)に登って天神地祗を祀り、鏡を奉納したところ鏡が石と化したので鏡の宮を創建、天平十年(七三八)になってはじめて祭礼がいとなまれたとある。広嗣(太宰少弐)が祀られているのは、天平十二年(七四○)に反乱を起こした彼が、松浦郡で斬られたとある(『続日本紀』)ことによるのであろう。二の宮は板櫃神社とも俗称されるが、『鎮西要略』や『源氏物語河海抄』などには、広嗣が豊前国板櫃川で戦死した説を立て、鏡明神とならんで板櫃明神の説明をも行っている。また『松浦廟宮本縁起』には、天平十七年(七四五)吉備真備に鏡明神を祀らせ、天平勝宝六年(七四五)その吉備真備が奏して神田を鏡社の神宮寺の無怨寺(浜玉町大村神社内)に寄進したとある。」
・『日本の神々 1 九州』の「鏡神社」の項 p320〜321
藤原広嗣の最期 『続日本紀』によれば、広嗣は天平12年10月23日に肥前国松浦郡値嘉島の長野村で捕らえられた。この「長野村」には、長崎県佐世保市宇久町小浜郷長野、同県上五島町奈摩郷永野、佐賀県伊万里市大川町長野などを比定する説がある。左画像は上五島町奈摩郷の遠景。
その後、広嗣は天平12年11月1日、弟の綱手とともに松浦郡内で斬られた。彼が斬られたのが松浦郡のどこであったかは不明だが、地元の伝承によれば、東松浦郡浜玉町大字五反田に鎮座する大村神社ふきんであるといわれ、その遺骸は当社の社殿の下に葬られているという(右画像)。
大村神社は祭神として広嗣を祀り、明治初年の神仏分離令以前は、無怨寺という鏡神社の神宮寺であった。
薬師寺の隣にある鏡神社が、この肥前国の同名社を勧請したものであることは言うまでもない。現在、奈良の鏡神社には新薬師寺の南門側に向かって「南都鏡神社」と刻まれた社号標がたっているが、これは肥前国の本社と区別するために「南都」を唱えたものだろう。それにしても、どうしてこのような由緒をもつ肥前の社が、新薬師寺の鎮守としてはるばる大和に勧請されたのだろうか。
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・広嗣の逆魂
南都の鏡神社しゅうへんには、当社のほかにも藤原広嗣に関わりのあるような遺跡が少なくない。
鏡神社の鎮座する高畑町内には、玄ムの首を葬ったと伝わる頭塔(ずとう)がある。玄ムと吉備真備は、広嗣が朝廷への上表文で政界からの追放を求めた人たちであったが、玄ムにまつわる遺跡としては頭塔の他にも、中辻町には肘塚(かいなづか)、大豆町の崇徳寺には眉目塚(まめづか)、押上町には胴塚があって、それぞれ玄ムの遺骸の各部位を葬ったと伝承されている。
鏡神社と同じ奈良市高畑町内にあり、方形土壇の上に築かれた七層の土塔で、近年の整備事業によりピラミッドのような個性的な外観が復元された(右画像)。 古くから玄ムの首を葬ったという伝承が伝えられてきたが、『東大寺要録』にある記事から、東大寺の実忠が神護景雲元年(767)に良弁の命によって築いたものであることがわかる。ほんらい、「土塔(どとう)」であったものが「頭塔(ずとう)」に転訛し、そこに玄ムの伝説が附会されたとも言われる。 |
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晩年の玄ムは僧にあるまじき行いが多く、世人から顰蹙を買うようになっていたが、ついには処罰の上、太宰府へ配流となりその地で果てている。奇しくも政敵の広嗣と同じく太宰府に流され、そこで没した訳だが、こうしたこともあってか当時の人々は玄ムの死を広嗣の「霊」や「逆魂」に害されたと噂し合ったという。今、言った頭塔にはこうした広嗣の怨霊にまつわる因縁話が伝わっている。
「昔、玄ム僧正は、筑紫の観世音寺の供養に、導師となって赴いたが、彼処で、藤原廣継の怨霊が雷になり、玄ムを黒雲の中に掴み上げてしまった。その後、その髑髏が、奈良の興福寺の唐院の庭上に落ちて来た。唐院と寺の西大門内の南側、今の『新温泉紅葉館』の地に当たっている。
其骨を三方に分けて葬られた。今の高畑町の指定史跡たる頭塔は、その頭を埋めたところである。市の南端肘塚<かいのつか>町はそのカヒナを埋めた所で、近頃まで肘塚というのがあった。又その眉と目とを埋めたのが、市の中部にある大豆山(マメヤマ)町だと伝えられる。〈後略〉」
・『大和の伝説』
このほか、鏡神社の西にある奈良教育大のキャンパスには、北側にある法務局の敷地に接して吉備真備の墓と伝承されてきた吉備塚がある。吉備塚には現在、広嗣に関わるような伝承は残されていないようだが、肥前の鏡神社は真備によって広嗣が祀られるようになったという社伝もあり、ほんらいは頭塔などと同じく、何か広嗣との因縁にまつわる伝承があったに違いない(でなければ、こんな場所に吉備真備の墓だと伝承されるような塚があることを説明できないだろう。)。
吉備真備の墓所と伝承されてきた吉備塚。実際には5世紀後半〜6世紀前半に築造された古墳であり、真備の時代とは年代が合わない。
とにかく鏡神社を中心とするいったいには、広嗣の怨霊にまつわる伝承が多く残されている訳だが、これは一体どうしてなのか。
藤原広嗣の乱当時の玄ムと吉備真備は、不比等の4子没後の政界で、新勢力として浮上してきた橘諸兄(たちばなのもろえ)のブレーンとして活躍していた。地方の下級官吏の息子であった真備などが、こうして当時の政界で重用されるようになったのも、彼らが遣唐使の一員として唐に留学し、そこで行政や仏教をはじめとする唐朝の先進的な文化を学んだからである。そしてこの2人と広嗣には、遣唐使によって御蓋山しゅうへんで行われた航海安全を祈願する祭祀との関係がみとめられるのである。
大宝二年(702)、わが国では唐の律令を全面的に継受した大宝律令が施行され、和銅三年(710)には唐の都、長安をお手本に造営された平城京に都が遷都する。このように、当時の政府は全力をあげて、唐の政治と文化の移植を図ろうとしていたのであり、遣唐使はそのための耳目として海の彼方に派遣された。最盛期の遣唐使は外交使節というよりも文化使節としての面が強く、その4艘だての船団には、大使や判官、船員のほか、唐の知識を吸収するために選び抜かれた秀才の留学生や留学僧が満載されていたのである。 真備と玄ムはともに、養老元年(717)に第8回遣唐使として渡唐し、帰国まで留学17年に及んだが、この間、こうした政府の要望によく応えて前者は三史五経(とくに儒学)・名刑・算術・陰陽・暦道・天文・書道など、後者は智周について法相教学を学び、ともにその英才によって在唐中から盛名を得ていたことが諸エピソードによって伝わっている。 帰国後の真備と玄ムは、唐で学んだ知識を活かして政界で活躍し、最終的に玄ムは失脚したものの、真備は右大臣の極位にまで昇っている。ちなみに、彼の他に学者で右大臣にまでなったのは菅原道真だけである。帰朝にあたってもたらした膨大な書物とともに、彼らがわが国の政治・文化の発展に寄与した功績には計り知れないものがある。が、総体的にみると歴史家の評価はパっとしない。 |
2人が唐に渡ったのは養老元年(717)の第8次遣唐使の際だが、『続日本紀』に「遣唐使が神祇を盖山(みかさやま)の南に祠る。」とあるのはこの時であった。ちなみにこの際の遣唐使で副使を務めた藤原宇合は広嗣の父である。
また、『万葉集』に「春日にて神を祀る日に、藤原太后(光明皇后)の作らす歌一首」とあることから、この時にも御蓋山しゅうへんで渡海安全を祈願する祭祀が行われていたことが分かるとさっき説明した第10次遣唐使では、吉備真備が副使を務めた。
さらに『続日本紀』宝亀八年(777)二月六日の条に「遣唐使が天神地祗を春日山(=御蓋山)の下に拝した。」とあり、続けて、去年は航海に適した風が吹かなかったので渡海を見合わせた云々の記事がみられることも説明した。これは宝亀六年の六月に遣唐大使となった佐伯今毛人らが肥前国松浦の港で風待ちをしたが、順当な風が来なかったので渡海を見合わせたことを指している。つまり広嗣の終焉の地であり、かつ、南都鏡神社の本社が鎮座する松浦郡がこの祭祀が行われるきっかけに関わるのだ。
こうしてみると、広嗣と、彼の政敵だった玄ムと吉備真備には、遣唐使によって御蓋山しゅうへんで行われた祭祀との関係が指摘できる。これは偶然とは思えない。
鏡神社や頭塔があるのは御蓋山からみればおおむね南である(正確に言えば南西)。いっぽう、『続日本紀』によれば第8次遣唐使も「神祇を盖山(みかさやま)の南に祠る。」とあった。また、さっき紹介した鏡神社は、社伝に「遣唐使派遣の祈祷所たりし当地に、平常天皇御宇大同元年(西紀八〇六年)新薬師寺鎮守として奉祀せられしと謂ふ」とあるのも意味深長である。
『鏡神社小誌』によれば、当社の祭神は天照皇大神、藤原広嗣、地主神の三柱である。このうち地主神≠ニは、他の二柱が祀られるようになる以前から信仰されていた土着の神のことであろう。逆に言うと、天照大神や広嗣は当社のほんらいの祭神ではなかったことになる。その場合、この地主神こそが、遣唐使たちが航海の安全を祈願して御蓋山の麓で祀ったという天神地祗≠ナはなかったか。そしてそこに後世、遣唐使=Aさらには玄ムと吉備真備%凾フキーワードが呼び水となって、肥前国松浦郡の鏡神社で祀られる藤原広嗣の信仰が上載せられ、現在の当社の信仰が成立したと考える。
では、肥前鏡神社で祀られていた藤原広嗣の信仰が重層する以前、この地で遣唐使たちから祀られていた天神地祗≠ニはいったいどのような神格だったのだろうか。今度はそのことを見極めておく必要がある。
2009.01.17
※ | 遣唐使の回数の数え方には諸説あって煩わしいが、本稿では2006年に出版された上田雄氏の『遣唐使全航海』に基づいて「第○次遣唐使」と表記してある。これはたんに出版年度が新しい書物に従おうとしたのではなく、上田氏の論考が妥当だと感じたからである。 |
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