「赤い土の地母神」
四.赤穂神社、空海という回路 |
★「三.赤い浪の威力」の続き
だいぶ話が鏡神社から離れてしまったが、ここでもう一度、この神社のことに話を戻す。
『一.遣唐使と鏡神社』でも述べたように、かつての御蓋(みかさ)山麓では、遣唐使たちによる渡海安全の祈願が行われていた。そして私はこの祭祀が行われていたのは鏡神社が鎮座する奈良市高畑町しゅうへんであり、当社はもともと遣唐使たちが天神地祗≠ノ渡海の安全を祈願した神社で、現祭神は天照皇大神・藤原広嗣・地主神の三柱であるが、ほんらいはこの最後に名前のくる地主神≠セけが祀られていてこれこそが、かつて遣唐使たちによって祀られた天神地祗≠ノ他ならないと考えた。
だがその場合、彼らの祀った天神地祗≠ニはどういう神であったのか?
この問に答えるためには、遣唐使たちはどうして鏡神社のある高畑町しゅうへんを祭祀の場所として選んだのかを考える必要があるとおもう。おそらくこの場所こそは、唐へと向かう船の安全を保障する何らかの秘密が隠されている土地だからである。
そこで私が注目するのは、鏡神社と同じ高畑町に鎮座する赤穂神社である。
赤穂神社 奈良市高畑町地内に鎮座。大和国添上郡の式内小社。同じ高畑町内にある鏡神社からは直線距離で北に300m、頭塔からは東に400m程、離れている。
小さな境内に小ぶりな社殿が2つ並んだつつましいただずまいであるが、かつては明井町に大鳥居があったと伝わり、なかなかの大社であったらしい。ちなみに、2つ並んだ社殿のうち、赤穂神社は向かって右手のそれである(右画像)。
興味深い伝承もあり、もっと注目されてよい。
現在、この神社の祭神は天児屋根命だが、『明治七年式社調書』には「祭神、思兼神」とあったりして、天児屋根命が創建当時から祀られてきたほんらいの祭神であるのかどうかはよく分からない。むしろ注目したいのは、当社のふきんに見られる赤っぽい色の土である。『式内社調査報告』はこのことについて次のように触れている。
「赤穂を赤土、丹土、つまり土質による地名とすれば、ここから三〇〇メートル程東に「丹坂町」があり、又、東南約六〇〇メートルにある中世以来の古い集団墓地(現市営墓地)付近は、いずれも黄褐色の粘土質である。(『式内社調査報告』第二巻、赤穂神社の項p89)」
また、池田末則氏はここに出てきた丹坂町について、「奈良市の丹坂は赤坂と同義の地名で、『延喜式』にも赤穂の地名がみえ、事実、酸化鉄を含む褐色土質の露頭地帯である。(『日本地名伝承論』p253)」と述べている。
ところで、赤坂≠ニ丹坂≠ェ同義の地名だとすれば、(単純な類推により)赤穂≠ニ同義の語としてにほ(丹穂、あるいは丹保)≠ネる語もありえるだろう(※1)。その場合、後者は尓保都比売命のにほ≠ニ通じることになる。
『播磨国風土記』逸文によれば、尓保都比売命が出した赤土のマジックによって新羅を無事平定した神功皇后は、神恩に感謝し、帰国後、この女神を「紀伊の国の筒川なる藤代の峰」に祀った。これが丹生都姫神(=尓保都比売命)を祀る神社の総本社である丹生都比売神社の創建である(※2)。
ところで丹生都比売神社に伝わる『丹生大明神告門』によれば、この女神は最初、伊都郡奄太村の石口に天降り、その後、大和国吉野郡の丹生川上水分峰に昇り、さらに大和や紀伊の様々な場所に忌杖を刺しつつ、ついに現社地の天野に鎮まったという。ここで、『丹生大明神告門』の記述に従って、この女神が忌杖を刺したり、あるいは一時留まった地点を書き出すと以下の通りとなる(御田を作った地点は除外した。)。
@伊都郡奄太村の石口
A(大和国)吉野郡の丹生川上水分峰
B(大和国)十市郡の○○
C(大和国)巨勢の丹生
D(大和国)宇知郡の布々支の丹生
E伊勢津美
F巨佐布
G小都知の峰
H天野の原
I長谷原
J神野・麻国
K那賀郡の松門
L安梨諦の夏瀬の丹生
M日高郡の江川の丹生
N那賀郡の赤穂山の布気
O名手村の丹生屋
P伊都郡の佐夜久の宮
Q天野
『古代の朱』の松田壽男氏は丹生都比売命がこ忌杖を刺してまわった地点(上のリストで言うとBCDFHIJLM)について、「大和から紀伊にかけて、むかし丹生一族が散居して、なおニウズヒメ祭祀を保持していた諸地点をよみこんだもの(筑摩学芸文庫版p169)」としているが、これらの中には丹生≠フつく地名が多く目に付く(@CDLMO)。また、Bの巨勢の丹生≠ヘ現在の奈良県高市郡高取町丹生谷に比定されるが、そこには国史見在社の大仁保(おおにほ)神社が鎮座し、背後にある大丹穂山という神体山を祀っている。さらにまた、Nの那賀郡の赤穂山の布気≠ノは、赤穂神社と同じ赤穂≠ニいう地名が見えている。
大仁保神社 奈良県高市郡高取町丹生谷字大入に鎮座する国史見在社。『三大実録』元慶二年条に神階記事のある「大仁保神」に比定される。左画像は大丹穂山。
こうしてみると、あかほ∞にほ≠ニ言った語は、意味上、にゅう≠ニ非常に近しい関係にあったことが感じられ、また、だとすると、赤穂≠ニいう社名と、鎮座地の高畑町いったいに赤っぽい土が見られことから、赤穂神社もまた各地にある丹生神社≠フ系列社の1つであり(※3)、当社の祭神はほんらい、天児屋根命ではなく丹生都比売神(=尓保都比売命)だったのではないか、という疑いが生じる。
以下、赤穂神社は丹生神社の系列社の1つであり、ほんらいの祭神は丹生都姫神だったとして話を進める。
ちなみに、志賀剛氏の『式内社の研究』は、赤穂神社の赤穂≠ノついて、「アカフ(赤生)→アカホ(赤穂)となったものらしくニフ(丹生)と同義で、赤土の出る地名である。(『式内社の研究』第二巻p84)」としているが、これも「赤穂神社」イコール「丹生神社」と同様の見解とみてよいのだろう。 |
その場合、かつて遣唐使たちによる渡海安全の祈願所が高畑町しゅうへんにあった理由も察しがつく。すなわち、ここにみられる赤っぽい土は、遣唐使たちを乗せた船を天災から守護する丹生都姫神のモノザネと見なされていたのである。あるいは、この場所での祈願に参列した遣唐使たちは、儀式が終了してからこの土を取って持ち帰り、難波から出る遣唐船の舷側や艫トモや舳ヘを赤く塗ったりしたのではないか、── というのはラチもない私の空想である。
今度は空海の話をはじめる。
『元要記』は鏡神社の創建に関して、空海が唐から帰る船の上で鏡明神の加護によって風波の難を逃れたので、帰国後に肥前から(本社の)鏡神社を勧請したという新羅明神型の伝承を載せていた。
空海の名は各地の伝承においてあまりによく耳にするので、ほとんど単なる記号と化しているが、以下のような理由で、この伝承の場合は何らかの史実の反映がそこにあるのではないかという期待を抱かされてしまう。
空海は讃岐の佐伯氏(佐伯直)の出身だった。いっぽう、当時の中央官界にはやはり佐伯氏(佐伯連)出身の佐伯今毛人という人物がいた(※4)。
ここで子供の頃、空海しゅうへんにあった空気や、彼と今毛人の関係について説明しておく。
佐伯今毛人は聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武といった歴代天皇に仕え、ことに建築や土木の分野では右に出る者のいない能吏であった(※5)。こうしたことから延暦三年(784)、彼は佐伯氏出身者としては先後に例のない参議の地位にまで昇り、かつ、翌年には門閥貴族出身者ではない者としては極めて異例な、正三位を授けられている。
今毛人が参議になった頃、空海はまだ10歳であった。しかし、彼の並はずれた才知は、幼い頃から周囲の注意を引いていたので両親は彼のことを貴物≠ニ呼んで大切にし、その将来に大きな望みをかけていた。
今毛人が停泊して順風を待った合蚕田浦は、五島列島内のいずれかの港であったことは確かであるものの、いくつかの比定地があって最終的な決着はついていない。画像は有力な候補地の1つ、中通島の青方港。
当時、彼の家庭の雰囲気は、地方の豪族という中間階級にありがちな上昇志向の強いものだったらしい。このことは彼が15才で奈良に入京し、18才になると大学の明経科に入ったことによく表れている。というのも、当時の大学はもっぱら中央貴族の子弟のためだけのもので、いくら神童とはいえ、地方の郡司クラス出身である空海は、普通なら入学できなかったはずだからである。これは、彼の一門の者たちが、空海がやがては讃岐ではなく中央の官界で活躍することを期待して、ときの政府にはたらきかけを行った結果だろう。
とにかくこうした雰囲気の中にあった彼が、物心ついた頃から、「お前も大きくなったら、今毛人様のような立派な方になるんだよ。」といった感じに、一族の出世頭である佐伯今毛人の名前を何度も聞かされて育ったことは想像に難くない。
ところでこの佐伯今毛人は宝亀六年(775)、第12回遣唐使の大使に任命されている。このため、彼は翌年の春には難波を出て五島列島内にある合蚕田浦アイコダノウラに着いが、しかしそこで順風が吹くのを待っているうちに逆風が吹き始める秋にまでなってしまったため、渡海を断念して引き返してしまった。結局、彼は病のため翌年には遣唐大使を辞任し、じっさいに唐に渡ったのは副使であった小野石根らであるのだが、いずれにせよこの大役は彼の輝かしいキャリアの上においても、ことに華々しいものであった(58歳になっていた本人とっては迷惑だったろうが。)。
この第12回遣唐使が渡海した時、空海はまだ4才だったが、彼の里からは今毛人を乗せて沖を進む遣唐船が望まれたかもしれない。司馬遼太郎氏の『空海の風景』には次のような一節がある。
「空海はその屏風ヶ浦でうまれた。瀬戸内海をゆく白帆も、館の前の砂浜から見た。
田ノ浦。上述の青方港と並んで合蚕田浦の有力な候補地となっている天然の良港。空海と最澄もここに停泊したとされ、『空海の風景』にも登場する。久賀島にあり、現在も福江島からの定期船はここに着く。
摂津の難波津を発した丹塗りの遣唐使船が内海を西へ帆走してゆく姿も、おおぜいの里人とともに浜に立って見たであろう。しかも重大なことに、空海の幼少期に一度この華やかな船団が屏風ヶ浦の沖を通り過ぎているのである。彼が数えて四歳のときで、これがかれの年少のころの大事件のひとつだったにちがいないというのは、この年の遣唐大使が佐伯今毛人であることだった。〈中略〉
かれが宰領すべき遣唐船は宝亀八年、空海の四歳のときに讃岐屏風ヶ浦の沖を過ぎている。もっともこれら船四隻は往路はぶじであったが、帰路暴風に遭い、四隻とも九州の周辺の離島に漂着した。遣唐使船に乗ることは危険も多いが、しかし華麗でもあった。要するに空海のうまれた環境は、唐へゆくという、普通ならばとほうもないことが、ごく現実的な風景として、耳目で見聞きできるような機会が多かった。空海はその夢想を育てるには、とびきり上質な刺激に富んだ環境にうまれたということができる。
・司馬遼太郎氏『空海の風景(上)』中公文庫p28〜29」
いくら神童とはいえ、まだ4才の空海に遣唐使の意味が理解できたとは思えないが、しかし彼が大きくなったときに、今毛人を乗せた船が沖合の海を渡っていったときのことを語って聞かせる人が周囲にいた可能性は考えられるだろう。それにそもそも、後に空海は自分でも入唐留学を強く望むようになったのだから、彼の中で今毛人の名前が海を渡って唐に入ることと強く結びついていたいたことは想像に難くない。
さて、『一.遣唐使と鏡神社』で述べたように、『続日本紀』宝亀八年(777)二月六日の条に「遣唐使が天神地祗を春日山(=御蓋山)の下に拝した。」とあり、続けて、去年は航海に適した風が吹かなかったので渡海を見合わせ、さらに大使をはじめ、メンバーの入れ替えがあったため、副使の小野石根が「重ねて」祭祀を執行したとあるのは、この第12回の遣唐使の時のことで、入れ替わった遣唐大使とは言うまでもなく今毛人のことであった。この記事は「重ねて」とあることから、今毛人がまだ大使だった前年においても同じような祭祀が行われていたことを示し、かつ、文脈から考えてそれも「春日山の下」で行われていたと考えられる。してみると、今毛人は渡海にあたって春日山(=御蓋山)の麓の、おそらく赤穂神社や鏡神社がある高畑町しゅうへんで丹生都姫神に渡海安全を祈願したのである。
今毛人と関係が深く、また十代半ばから奈良の都に留学していた空海は間違いなくこのことを知っていたに違いない。というか、彼自身も渡唐の際、この地で赤穂神社や鏡神社に祀られている天神地祗=Aすなわち丹生都姫神にぶじ入唐して目的を果たし、帰国できることを祈願したのではないか。
その場合、空海は高野山を開く前から丹生都姫神のことを知っていたことになるが、だとすると興味深い。
空海と丹生都姫神の関係については、彼が高野山を開山する際、地主神である丹生都姫神からこの地を譲り受けたとする伝承が名高い。
丹生明神の関係を説いた最古の縁起書である『金剛峰寺建立修行縁起』には次のような伝承が見られる。 「弘仁七年(八一七)の春、弘法大師(空海)が霊場を求めて大和国宇智郡(現五条市)まで来たとき、一人の猟者に出会った。それは弓矢をもった大男で、南山の犬飼と称し、霊場の建設に協力することを述べ、大小二匹の黒犬に案内させた。そして紀伊との国境のあたりの川辺で宿泊すると、一人の山民があらわれ、大師は山に導かれた。この山民こそ山の王、丹生明神で、天野宮の神であった。大師はこの宮で一宿し、巫祝に託宣してもらったところ、丹生明神は自らの神領を喜んで献ずると約束したので、大師は六月中旬に朝廷に願い出て許され、さっそく草庵を建てた。以来、丹生明神は高野山の地主神として厚く信仰されるようになったという。 ・『日本の神々6』「丹生都比売神社」の項、p343〜344」 どうようの伝承は『今昔物語集』などにも見られる。 |
こうした縁起を受けて現在、高野山の東塔と西塔の間にある「壇上」と呼ばれる場所には、西隅に御社と呼ばれる社殿があり、丹生明神と高野明神を地主神として祀っている。
御社
もっとも、こうした伝承とは裏腹にも高野山と丹生都姫神の正式な関係は空海ではなく、彼の弟子であった雅真の時代にはじまったという和多昭夫氏の研究もあり、現在ではむしろこの説の方が定説となっているらしい。しかし、だからといって空海は丹生都比売神社とそこで祀られている丹生都姫神に興味がなかったとは言いきれないのではないか。
がいして空海はわが国古来の神道の信仰に対して開かれた心をもっており、唐から密教を持ち帰った後でも八幡神や稲荷神との神仏習合を推し進めている。また、彼には古いシャマニズムの世界に共感できるような素質が備わっていたらしいが(ちなみに、シャマニズムの語源であるツングース語の「シャマン」は、中国語の「沙門」に由来するといわれるが、空海は書簡などに「沙門空海」と署名することがよくあった。)、『播磨国風土記』逸文によれば尓保都比売命は国造の石坂姫命に寄り憑いて託宣している。この女神は巫女などに憑依して託宣する女神なのであり、そこには強いシャマニズム色が感じられる。
ここで連想されるのは、奈良県天理市櫟本町大字和邇ワニに鎮座する式内大社の和爾坐赤坂比古神社である。当社の社名に含まれる赤坂≠ヘ地名であるが(※6)、この赤坂は『日本書紀』崇神天皇条に登場する和珥ワニの坂≠ノ比定されている(※7)。すなわち、大彦命が北陸に遠征へ向かう途中、この和珥の坂で不思議な歌を歌う少女に出会い、それによって武埴安彦が天皇に対する謀反を企てていることが露見したという記事であるが、恐らくこの少女はこの神社の祭神に仕えていた巫女で、彼女に赤坂彦命が憑依して大彦命に託宣したのだろう。
和爾坐赤坂比古神社
池田末則氏は『日本地名伝承論』で、「『延喜式』の「和爾坐赤坂比古神社」の赤坂は褐色土質の埴坂で、大字和爾北方、春日の丹坂も埴坂・赤坂と同義の地名である。(p255)」と述べ、赤穂神社のある高畑町内の丹坂≠ニ、和爾の赤坂≠同義の地名としている。してみると、古代人の脳裏では、現在のわれわれにはもう分からないような観念連合によって、赤っぽい土と託宣のことが結びついていた可能性がある。おそらく古代の赤穂神社でも、丹生都姫神に仕える巫女にこの女神が憑依し、託宣を行うような祭祀が行われていたのではないか。
こうしてみると憑依して託宣する性質のあった丹生都姫神が、沙門=シャーマン°海の体質によく合っており、この女神のモノザネである赤い埴土の露頭した高畑町いったいが(渡唐の安全祈願所があったこととあいまって)彼によって特別の注意をひいた可能性は高いと考える。
その場合、私は高野山に金剛峰寺を創建する際、空海がこの土地の玄関口に当たる天野に丹生都姫神が祀られていることを全く意識しなかったとはどうしてもおもえないのである。
空海は渡唐前のいわゆる謎の七年間≠ノ各地の山獄で修行に明け暮れ、はじめて高野山に足を踏み入れたのもその頃だったらしい(弘仁七年六月九日付けの上表文による)。当時、彼が丹生都比売神社とそこで祀られている女神の存在に特別な注意を向けていたかどうかは分からないが、上述のような事情から、唐に渡る頃にはこの女神が天災から危険な航海を庇護する天神地祗≠ニして高畑町きんぺんで祀られていることに気づいていたとおもう。
高野山の徳川霊台近くで見かけた切り土。このような赤土は、高野山のいたるところで見られる。
もっとも空海の当時、赤穂神社の祭神の正体は天神地祗≠ニいう一般名詞に埋もれてすでによく分からなくなっていた可能性もある。しかし、その場合でも人並み外れた直感力に恵まれた彼は、この神社で祀られる祭神が丹生都比売神社のそれと同じ女神であることをやがては見抜いていてしまっただろう。
さて、帰国後、最澄と並んでわが国の仏教界のリーダーとなった彼は、密教の根本道場として、若い頃に無名の優婆塞として跋渉した高野山に金剛峰寺を建てることになった。そして、その土地の入り口に、渡唐の際、高畑町きんぺんで航海の安全を祈願したのと同じ女神を祀る丹生都比売神社が鎮座していることに改めて気づかされた時、彼はどうおもったか。「俺は縁があってこの女神から守られ、導かれている。」という感慨をもったのではなかったか。
高野山いったいには特徴的な赤っぽい土が見られる。このことも意味のないことではないだろう。空海はこの土に、自分の教義を庇護する丹生都姫神の神気がこもっているのを感じたのではなかろうか。
文化神というと、ギリシア神話のプロメテウスのように、普通は人間の文化に何か新しい価値をもたらしてくれる神のことである。しかし、空海の頃のわが国では、文化とはまず第一に当時の世界文化の中心であった唐から輸入されるものであった。遣唐使も政治使節である以上に、文化使節としての面が大きかった。奈良朝から平安初期にかけて、彼らによっていかに大量の文化が唐からわが国に輸入されたかについては、遣唐使たちが大量の書籍を大陸から持ち帰った航路がシルク・ロードにならって、ときにブック・ロード≠ネどと呼ばれることによく表れている。
だが、そのいっぽうで当時の海を渡る航海はきわめて危険なものであり、毎回の遣唐使ごとに海難による犠牲者を多く出していた。そしてこのような状況の中で、唐土とわが国を結ぶ航海を天災から守る丹生都姫神はやや特異な文化神とも言えた。
こうした流れの中で、空海自身の著作にはこの女神のことは触れられていないものの、この女神と縁のある高野山に金剛峰寺を開いた機縁もあって、文化神でもある丹生都姫神が彼によって真言密教の護教神ともなったのではあるまいか。直弟子にして血縁者でもあった雅真は、生前の彼からこうした話を聞かされていて、師の没後、高野山の壇場に教義の守護神として丹生明神と高野明神を祀ったのではないか。
とにかく、このように空海という回路を経て丹生都姫神が「航海を守護する神」から「密教の護教神」へと変質すれば、そこから新羅明神が生じるまでの行程はそれほど長くはなかったと思う。というのも海上で新羅明神の示現に出会った円珍の母は空海の姪であり、したがって新羅明神はこの回路の延長線上に位置づけられるからである。
高野山金剛峰寺
2009.04.18
※1 | じっさい、『鏡神社小誌』にある赤穂神社の由緒には、「熟稲を御籬に懸けて「赤丹穂に聞食し給へ」と申したが故に赤穂の社と称せられた、と伝える。」とあり、赤穂≠フ間に丹≠入れた赤丹穂≠ネる言葉が当社の社名に関わる縁起として伝わっている。 |
※2 | 『播磨国風土記』逸文にある「筒川」は、現在、丹生都比売神社が鎮座している天野の東方で、高野山東方の山沿いにある伊都郡高野町筒香、また「藤代の峰」はその東にある峰に比定されている。 |
※3 | 『延喜式』神名帳には、本社である紀伊国の丹生都比売神社のほかに大和、伊勢、近江、若狭、越前、越後、但馬などに「丹生神社」という神社を登載しており、系列社と考えられている。 いっぽう、これらの神社にはニウツヒメ系とオカミ系の二系統があるという説や、後者は大和の丹生川上神社の祭神が附会されたもので、ほんらいはニウツヒメを祀る丹生神社しかなかったのだ、という説もある。 |
※4 | 佐伯氏には佐伯連と佐伯直があり、前者は5〜6世紀の中央において、地方の佐伯部を統括していた家柄であった。 佐伯部とは当時、大和朝廷の東方遠征に伴って捕虜として故郷から引き離された蝦夷たちであり、彼らは播磨・讃岐・阿波・安芸などに配置されてそれぞれの地方の国造の支配を受けていたが、こうした地方の佐伯部を統括していた国造が佐伯直の姓を称した。空海は讃岐の佐伯直の出身であった。いっぽう、佐伯今毛人の出身は佐伯連であり、直姓の佐伯氏とは別系統であったが、この時代の讃岐佐伯氏は、中央の(連姓の)佐伯氏に接近し、その支族であるよう系統を合わせるようなことをやっていた。 |
※5 | 造東大寺司長官を3回、聖武・光明皇后・称徳が崩御された際の山稜造営の責任者、造長岡宮司をそれぞれ歴任している。 |
※6 | 現在は「赤坂」という地名は残っておらず、当社の社名だけにそれが残っている。 |
※7 | 『古事記』の応神天皇段に登場する『この蟹や いずくの蟹』の歌に、「櫟井の丸爾ワニ坂の土を、初土は、膚赤らけみ云々」という一節があり、和爾(和珥・丸爾)の坂の土が赤っぽい色をしていたことがわかる。 |
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