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La Rinascita(ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ・ルネッサンス)
エンリコ・テルッツイ氏 ジョバンニ・パニッツイ氏 エリザベッタ&アンジェリカ・ファジュオーリ
よそ者の到来とテクノロジー革新
今やすっかり世界中の人々に求められ、"フルーツや花のフレーバーが適度に香りたち、充実したコクに溢れるボディとアーモンドを思わずほろ苦い後味の心地良さ"のために、食卓を飾るにまさに相応しい白ワインとして知られるように至ったこの"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"。だが、わずか37年前にあたるDOC獲得当時のワインは、この現代に根付いている"奥深さと爽快感"を兼ね備え持つ柔らかなイメージなどは、決して想像だに出来るものではなかったと云われています。委員会創設メンバーの一人を父に持ち、現在委員会副会長をも務めているワイナリー"シニャーノ(Signano)"の"マンリコ・ビアジーニ氏(Manrico Biagini)"はこう当時の"ヴェルナッチャ"を描き出してくれました。
「我々トスカーナ人は根っからの赤ワイン愛好家だからね。要するに全く赤ワイン同様の認識価値のもとに存在していた"テーブル・ワイン"であった。ただ色が白く、そして極めて酸っぱかっただけのこと。」
代々、パンコレ地区に広大な土地を所有し、通好みの"ヴェルナッチャ"を造り上げることで知られているワイナリー"サン・クイリコ(San Quirico)"の"アンドレア・ヴェッキオーニ氏(Andrea Vecchione)"は、
「残念ながら、現在の消費者たちに受け入られるワインではなかった。"頑丈"ではあったが、おそらく"頑丈過ぎた"のかもしれない。」
それでは、一体何が"ヴェルナッチャ"をここまで完全に洗練した内容に塗り替える原因、またはきっかけであったのでしょうか。単純に"近代的テクノロジー"の導入?
そんな議題について人々が語るとき、まさに"100%"の答えがある人物の名前の差します。
「"彼"が全てをまさしく塗り替えた。批評や嫉妬なども沢山ついてまわったけれども、"彼"がいなかったら現在の"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"は存在しなかった。」
その"彼"の名は、"エンリコ・テルッツイ氏(Enrico Teruzzi)"、イタリア銘白ワイン100選に必ずと言っていいほどその名を連ねる著名な白ワイン"テッレ・ディ・トゥフィ(Terre di Tufi)"を生み出したワイナリー"テルッツイ&ピュトゥー/ポンテ・ア・ロンドリー(Teruzzi&Puthod-Ponte a Rondolino)"のオーナーである。
1974年に北イタリアの大都市ミラノから、この地サン・ジミニャーノに舞い降りた一人の実業家。当時既に40歳の熟年期を迎えるにあたっていたとは言え、若くから精力的に父の会社の経営を手助けしては、溢れ出して止まらなかったという情熱とチャレンジ精神から、乗馬、スキー、ヨットの世界においても、並々ならぬ成績を残していた活動的な男性。
「"ワイン造り"など何も知らなかった」 とさえ言う彼であったが、40歳の狭間に"年齢に相応しく田舎で農園でも経営"と比較的軽い気持ちで購入したポンテ・ア・ロンドリーノ農園において、やるからには極めないと気がすまない強気の性格も手伝ってか、自ら生産の現場に繰り出していたという。
「当時の生産方法は素人目に見ても間違っていた。ここトスカーナに深く根付いている"伝統"とは物凄い存在力を持っているものだと関心すらしたね。明らかに結果が思わしくなくても、現地の人々は代々継がれてきたその"伝統"による方法を変えようなどとは、夢にも考えることが出来なかったのだから。」
現地の農民のやり方をかいま見ては、"これでは良い白ワインは生まれない、それならばどうしたら・・・"と生来の探究心をくすぐられる毎日であったらしい。
こうして自らの理論を証明するがごとく、多くの専門家を訪ねて回っては勉強に勉強を重ねたエンリコ氏、"醸造学"の大家アドリアーノ・ロマーノ氏に出会い、温度管理発酵の可能なステンレス樽どころか、イタリア・ワイン史においてもおそらく最初のうちのひとつであっただろう、パネル・コンピューター管理の大型醸造、巨大冷蔵処理システムを導入することに決意するに至ります。だが、彼の偉業はそれだけでは終わりません。
「当時の"ヴェルナッチャ"は、色が濃く、豊かなボディに溢れていた・・・が、既に市場が求め始めていた繊細なテイストとはほど遠かった。」
当初から"ヴェルナッチャ種"自体の品質を賞賛していたものの、時代の変化と共に変わりつつあった世界市場の求める軽やかなテイストに遠く及ばない事をいち早く察していた彼は、成分分析によって好ましくない部分を捨ててまで特別に用意された最上クラスのヴェルナッチャ・モストに、極少量のシャルドネイ種、そしてフレッシュ感の心地良いヴェルメンティーノ種を加え、80年代に導入が進むこととなったフレンチ・オーク100%のバリック樽により短期間の熟成を与える方法により、爽やかなヴァニラ香と軽やかな果実の香り、そして豊かな花のフレーバーに溢れるかの有名な"テッレ・ディ・トゥフィ(Terre
di Tufi)"を生み出したのでありました。
それでもやはり当時は、いかにも"よそ者的"で伝統文化を軽んじた"ブレンド"であるとの非難や嘲笑の狭間に立たされることの絶えなかった彼ですが、今となっては、彼が"ヴェルナッチャ・ルネッサンス"において絶対的な先駆者であり、あまりにも地域の発展に重要な役割を果した偉大な人物であったことを疑う者は誰一人としていません。その後生まれた数々のワインが皆、彼のワインの影響を受けていることから見ても、容易に想像、そして実感できる事実です。
"テッレ・ディ・トゥフィ(Terre di Tufi)"の生誕から20年近くの時が流れ去り、ここ数年において目覚しい発展を遂げている地域全体のヴェルナッチャ像を眺めては、67歳を迎えた巨匠、エンリコ氏はこう一言残してくれました。
「もはや、私のワインが必ずしもナンバー・ワンでなくなってしまったかもしれないが、それら優秀なワインたちの見本となれたことは微笑ましいことであるし、当然これで正しいのだと思う。」
近年、地区内の他のワイナリーが、彼すらも成し遂げることの出来なかった有名ワイン・ガイド・ブック"ガンベロ・ロッソ誌"の3ビッキエ―リを獲得した際に、それがどれほど大変な苦労を伴って生まれたかを察して止まないという彼は、すぐさま賞賛の電話を掛けたといいます。
「心から賞賛の言葉を贈ります。この地から遂に"真の偉大なワイン"が生まれたことに・・・」
その彼の言葉を受けた人とは誰であろう。そう、ここにもう一人あまりにも偉大な偉業を成し遂げたミラノ人がいます。"ジョバンニ・パ二ッツイ氏(Giovanni
Panizzi)"。業界仲間内では、"ジャン二"との愛称で呼ばれている、スーパー・ヴェルナッチャ・リセルヴァの達人はこう語ってくれました。
「"ヴェルナッチャ種"は決して若飲み用の簡易品種ではない。たとえそれが"リセルヴァ"でなくても、よく出来たものはジワジワとその本領を発揮するのさ。そして、まだまだ成長している品種でもある。」
テクノロジー改革がもたらした"伝統的システムの排除"が生み出す爽快なテイストが、現代人の需要に適合したことによる"世界市場"を解放させた事実はしかり、"伝統的システム"が残した掛け替えのない遺産もあります。それは、"白ワイン用品種"としてはあまりにも稀で、DOCG指定ワインとして絶対的に"唯一"でもあるカテゴリー"リセルヴァ"の存在。
「もともと全ての"ヴェルナッチャ"は、あえて言うならば"リセルヴァ"タイプの構造を持っていたはず。つまり、"キャンティ"などの赤ワインのように大樽にての発酵を受け、1年、又はそれ以上の熟成を施されていたワイン。ただ、当時のやり方が正しくなかっただけのことで、それは時代の問題。」
ミラノ近郊に生まれ、精密機器関連業務の指導者として活躍していたジョバンニ氏だが、物心着いた頃から常に頭の中に木霊し続けていたのは、12歳の時に訪れて一目で恋に落ちたという、この街サン・ジミニャーノ近郊の幾千にも変化を遂げる色合いに溢れた美しき丘陵たち。
1979年、兼ねてからの念願を叶え、こじんまりとした館"サンタ・マルゲリ―タ"と僅か4ヘクタールの土地を購入するに至りますが、彼はまだまだ、その心の奥底に潜んでいた"夢"の実現させるべく機会を決してあせることなく待ち続けたと言います。
「古い伝統が持つ消極的な面、つまり、悪習的なまでに過度であった"生産量"を抑える目的におけるワイン・ヤードの再構造や技術的な革新、そしてこの偉大なる品種の持つ"可能性"を見据えた数々の実験が必要であった。」
ミラノで多忙な日々を過ごしながらも、ほぼ毎週のように足を運んでは、徐々に手入れを重ねていたとのことです。そんなふうにして15年にも渡り、重ねに重ね続けた"週末の旅"に終止符を打ち、ミラノを後にしたのが94年のこと。以来、準備の整いつつあったワイン・ヤードと更なる技術革新に自らその身を従事し、現在45ヘクタールの葡萄畑と14ヘクタールのオリーヴ園をまかなう、地区最高レベルの品質を誇るワイナリーへとその成長を遂げたのであります。
凝灰石に彫られた、おそらくこの地区内で最も尊厳を誇るであろう、小さくも古きカンティーナに横たえられ眠るフレンチ・オーク100%のバリックにかの"リセルヴァ"が香る中、彼はこうも続けてくれました。
「ヴェルナッチャ種は非常に難しい品種である。その薄くもろい果皮のためにも、収穫期の天候による瞬時の影響を多々に受け易いことは当然、普通に仕上げてしまうと簡単に酸化してしまう性格をも持っている。"手が掛かる"素材であると共に、それなりの"敬意"を払うべき品種であり、それを他の品種と混ぜ合わせてしまう事は、一種の"大地への冒涜"と言えるかも知れない。これが、私の哲学であり、そして私の造る"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"は100%ヴェルナッチャ種によるものである。」
トスカーナの"古き伝統"の持つ消極的な部分を巧く拭い去った二人のミラノ人の唯ならない成功。いつの日も、名声の光に輝くスター的存在がいれば、それと反対に恵まれぬ評価に苛む存在もいるものでしょう。ここで、"伝統"の残した産物を"積極的"に捉えたもう一人の"よそ者"の存在も忘れるわけにはいきません。 知る人ぞ知るハイ・クオリティ・ワイナリー"モンテニードリ(Montenidoli)"を操る"エリザベッタ・ファジュオーリ(Elisabetta Fagiuoli)"女史。
ヴェネト州は、イタリアを代表する伝統的長熟赤ワイン、ヴァルポリチェッラ・デッラ・アマローニで知られる、名門中の名門ワイナリー、"アッレグリーニ(Allegrini)"家に生まれた一人の女性です。 世紀に渡り、偉大な伝統的赤ワインを造り続けてきた名家に生まれ、幼い頃からワイン・ヤードとカンティーナから漂うモストの匂いに囲まれて育った彼女が目指した仕事は当然ワイン造り。しかし、ワイン造りは男性のする仕事と決め付けられていた時代であった当時、唯でさえ古風且つ高貴な名家の娘としては、あまりにも言語道断の申し出であったとのことです。そうはいっても、彼女にとって他にやるべき事など思い当たらない。世界中を一人で旅しては、行き着くところ全てにおいて、最高レベルのワインだけを探しだしては、直接蔵へ学びに足を伸ばしていた巡業生活が続いていました。 しかし、良いワインを味わえばその行程を学びたくなり、それを学べば自分で造りたくなる。いつの日か名家を後にする決断に至り、ここ、サン・ジミニャーノ西部裏手の山一帯を所有するにあたるのが1965年のこと。
偉大なフランス・ワインたちを敬愛して止まないというものの、彼女が目指したものはあくまでも、その地に根付いた伝統的イタリア古典品種。一切の外来品種を度外視して、ヴァルナッチャ、トレッビアーノ、マルヴァジア、サン・ジョベーゼ、カナイオーロ種と、既に存在していた品種の育成に努めたとのこと。そんな彼女のワイン生産における基本姿勢は"細心の注意が払われた伝統的製法"。時代が軽いワインを求めるに反して、"アマローネ"と共に育った彼女が造り上げるものは、じっくりと造られたフル・ボディ・ワイン。"伝統的(Tradizionale)""フィオーレ(Fiore)""カラート(Carato)"と、3つのバージョンに分けられるヴェルナッチャの全てのモストが、あたかも赤ワインのように一晩たっぷりの果皮の浸透作業を通される。サン・ジミニャーノ地区内で最も肥沃と言われる高台に、計算し尽くされた緩い勾配を見せるワイン・ヤードの美しさはおろか、彼女自身の理念により、自然条件をフルに理由にて生まれた高い天井の見守る地下室に設計されたカンティーナの尊厳も見事。収穫、そして粉砕時においても、じっくりと繰り返されるテマが葡萄自体の旨みを最大限に搾り出すことを信じて疑わぬ姿勢が見事。最新の設備を備えながらも、使い方が一番大事と、白ワインの保存にはステンレス樽を使用しないこだわりが味に溢れた豊かなボディを展開する。全ての作業工程に、他を寄せ付けぬ集中力を求めるエリザベッタ女史の完璧主義は明らかに破格のレベルを誇るワインとなって世に贈り届けられています。 ですが、そんな彼女を待ち構えていた更なる運命の悪戯とは、おそらくそのレベルが高すぎることであったのでしょう。ワイナリーの主軸白ワインである、"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ・カラート'1989(Vernaccia di San Gimignano Carato`1989)"が、1995年にボルドーで行われたワイン・エクスポ(the Grand Prix d'Honneur at Vinexpo in 1995)において1400作品の中からナンバー・ワンに選ばれるなどの輝かしい経歴の裏腹に、時代の流れからか、"真の実力"を理解されないで終わったケースも数多く、そんな苦い経験の繰り返しや、態度のあつかましいイタリア・ワイン・ガイドの審査員連中にすっかり失望してしまい、もはやコンテストの出展すらもしなければ、ガイドの人間は追い返す・・・敷地内のどこにも看板らしき表示がひとかけらすらも見つからなければ、多くの情報誌に電話番号を載せないケースも多々起こる・・・。歴然とした実力を持ちながらも、それだけのものを造り出してしまった強烈な個性と創造性の豊かさが故に、日陰を歩み続ける天才女性、エリザベッタ・ファジュオーリ。
母譲りの才能を受け継ぎ、ワイナリーの柱として大活躍している娘のアンジェリカ女史はこう、母について描写しました。
「母は、これだけの事全てひとりで成し遂げたのよ。きっと、彼女なりに満足しているかどうかはともかく、私には時々うらやましく思えるわ。何故なら、人生の中で溢れんばかりの個性を持って、自分の思うがままのことを遂行出来ることほど幸せなことって、他に存在しないかもしれないし。それに"結果"の良し悪しは解かる人には一目瞭然でしょ。」
"伝統"という厚く高い壁に挑み、期待と失望、称賛と羨望、忍耐、妥協、そして信念や生きがいなどの詩的な感情に煽られながらも、"ヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ"の輝かしき栄光を蘇らせ、更なる未来への掛け橋となった3人のよそ者たちが繰り広げた、美しくも憂いな神話たちでした。
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