長崎 長崎は、3回目です。最初が1965年11月に修学旅行で訪れ、崇福寺、大浦天主堂、グラバー邸、オランダ坂、長崎文化会館・平和記念像、山王神社などを見学しました。2回目は、2012年4月にザーンダムで訪れ、稲佐山、眼鏡橋、興福寺、崇福寺、丸山、新地中華街、出島、グラバー園などを見学しました。
今回は、金比羅山に登る予定でしたが雨に降られて変更し、午前中は平和公園、原爆落下中心地、長崎原爆資料館を、午後は港から歩いて行けるオランダ坂、東山手十二番館、東山手洋風住宅群、孔子廟・中国歴代博物館、祈念坂を見学しました。
 飛鳥Ⅱが停泊している長崎港松が枝岸壁から路面電車の大浦海岸通り駅まで歩き、新地中華街駅で乗り継いで長崎駅に向かいました。金比羅山に登る予定でバスに乗り換えるつもりでした。バス停を探しているうちに雨が降り始めたので、変更して平和公園へ向かうことにしました。
 10月7日~9日の長崎くんちの前触れでしょうか。太鼓を叩きながら歩く一団と出合いました。
 路面電車の駅名が8月1日から変更されたそうです。松山町駅が平和公園駅に変わりました。エスカレーターを登ると噴水の向こうに平和祈念象が見えてきます。像の後には作者の言葉が彫られていました。「平和祈念像作者の言葉 あの悪夢のような戦争 身の毛のよだつ凄絶悲惨 肉親を人の子を かえり見るさえ堪えがたい眞情 誰か平和を祈らずにいられよう 茲に全世界平和運動の先駆として 此平和祈念像が誕生した 山の如き聖哲それは逞しい男性の健康美 全長三十二尺余 右手は原爆を示し左手は平和を 顔は戦争犠牲者の冥福を祈る 是人種を超越した人間 時に佛時に神 長崎始まって最大の英断と情熱 今や人類最高の希望の象徴 昭和30年春日北村西望」とあります。このほかにも公園内には各国から贈られた平和のモニュメントがありました。
 公園からは、登るつもりだった金比羅山も見えます。
 小高い公園の下には戦時中の防空壕が残っています。
 長崎原爆落下中心地です。長崎原爆遺跡として2016年10月に国指定史跡になったそうです。標柱前の原爆殉難者奉安箱には原爆死没者名簿をマイクロフィルム化したものが納められているそうで、2018年7月31日現在で179,226人だそうです。その脇には、浦上天主堂の遺壁が移築されていました。
 標柱の前で、遠足の子供たちでしょうか、慰霊の歌を捧げていたのとても印象的でした。
 長崎原爆資料館です。資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過、被爆から現在までの長崎の復興の様子、核兵器開発の歴史などが展示されています特に原爆の熱で融けたガラスなどの現物の展示が悲惨さを直に伝えてきます。戦争は悲惨です。原爆も原発も無くしたいものだと思いました。
 右下の写真は、下の川の被爆当時の地層が見ることが出来る施設です。ガラス越しですが、生活用品などが熱で焼けた様子などが良くわかります。
 一度船に戻って昼食を摂り、今度は東山手を歩くことにしました。最初にオランダ坂に向かいました。「オランダさん」が通る坂はオランダ坂だそうですが、観光地としては東山手のここのことです。一番上まで登って見ました。
 一番上の方に東山手十二番館があります。明治元年に建設されたもので、ロシア領事館、アメリカ領事館、メソジスト派の宣教師用住宅などととして使われ、昭和16年に活水学院に譲渡され、昭和51年に長崎市に寄贈されたそうです。今は、旧居留地私学歴史資料館として使われています。当時の写真などが展示されています。
 また、東山手洋風住宅群は、居留地時代の様子を写真・ビデオで解説する東山手地区町並み保存センター、古写真・埋蔵資料館、国際交流の場・ワールドフーズレストラン東山手「地球館」として活用されているそうです。ここに展示されている写真も当時の様子が残されていて楽しく見ることができました。
 東山手洋風住宅群から下に見えていた孔子廟・中国歴代博物館に行ってみました。廟前の72賢人石像は見ものです。
 近くにあった銭湯の日栄湯です。珍しいので撮ってみました。
 祈念坂の土産物屋を冷かしていたらまた雨が降ってきたので、急いで船に戻りました。
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