2003/09/13(土)杉本健郎さんの講演会の感想など

2003.09.24. by てるてる

2003年9月13日(土曜日)に関西大学で行われた、杉本健郎さんの講演の感想をまとめました。

関西大学生命倫理研究会

日時: 9月13日(土) 13:00-18:00
場所: 関西大学尚文館507教室
内容:
一、ケアリングに関する臨床的考察(13:00-14:45)
  森下雅一氏(広島市立観音中学校非常勤講師)

一、子どもの脳死・移植(15:00-18:00)
  杉本健郎氏(関西医科大学附属男山病院小児科部長)

 

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杉本健郎(関西医科大学男山病院小児科)さんの、レジメより

《論点を考える》

子どもの脳死・移植……親として、小児神経専門医として
(日本小児科学会の提言作成の一委員として)
子どもの臓器は親の持ち物でない、移植には成人同様に本人の意思確認が必要である。

4) 「試みる・始める」: 12歳以上は確実に自己表現できる。アンケート結果からも。
ならば12歳以上でインフォームドアセントの方法を考えてみる。
この年齢は虐待例がはいることはない。
文部科学省研究事業として全国のいくつかの中学校で「生と死の教育」を開始する。
生と死を考える会などのNPOの活動が盛んなところで、教育と、医療(小児科医)、心理の連携で取り組む。
チャイルドドナーカードも試作してみる。

 

講演の後の質疑応答で、こどもの意思表示は親の代諾はいっさいみとめられないかなどの質問に対して、臓器移植法を、2年の時限立法でもいいから、1回改正して12歳以上から臓器提供意思表示できるようにして実施してみて、その結果をみてから、また次の改正を考えるなりしてはどうか、とも、回答されていました。
まず12歳以上で実施してみて、それからまた次の改正なりを考える、という方法に、賛成です。
ただ、杉本さんのレジメでは、中学校での「生と死の教育」について提案を書かれていますが、12歳以上から「脳死・臓器移植」について意思表示ができるようにしようと思ったら、その前の小学校高学年から、授業でとりあげておくことが必要だと思います。実際に、現在でも小学校高学年ぐらいから、授業で取り上げている先生方もいます。


−脳死と移植−

285 re(2):今日はありがとうございました。
2003/9/14(日)01:41 - てるてる

きょうは、貴重なお話がたくさん聞けて、とてもおもしろかったです。
おもしろい、と言ってもいいことなのかどうかわからなかったけど。
岡田さん、スギケン先生、どうもありがとうございました。

剛亮君の手術のときのこと、なかなか心臓が止まらなくて、
こどもは心拍が止まってもまた打つこともあるし、
結局、完全に止まりきって何分かたってから始めたというわけではなくて、
移植医の方々がもう手術したがっていることがわかってきて、
目と目が合ったときに、手術を始めることになったと、
本にも書いてあったけど、じかにお話をうかがうと、
余計になまなましく感じました。

心停止後の移植では、心停止の前から腎臓保存のための薬剤を
入れるけど、それはやめてくれ、とおっしゃったのだ、
ということは、きょう、初めて聞きました。

人工呼吸器をどうしますか、と聞かれたときに、
止めないでほしい、とスギケン先生が答えられたこと、
臓器保存のためのカテーテルをやめてもらったこと、
それらは、お医者さんで、よくわかってらっしゃったから、
はっきり言えたのかな、と思います。

後で、りんごさんやいずみさんとも話しましたが、
もともとこどもの脳神経の専門のお医者さんで、
剛亮君が脳死になって腎臓を提供したということ、
すごい試練だけど、でも、すごい意味のあることだと、思います。

剛亮君の意思はどうだったのか、わからない。
こうやってずっと話し続けることが、その意思の模索だ、
とか、
いつまでも剛亮君の話ができるのがうれしいのだ、
とか、
ドナーにとっては一生ものだということが、世間の人にはわからない、
とか、いうのは、みんな、同じことをおっしゃってた、と思います。

そういう意味では、腎臓を提供した甲斐があったのかとも思います。
もちろん、レシピエントおふたりのうち、おひとりが元気になられていると
いうことも。

「脳死・臓器移植関西市民の会」の方が、移植医も、なまえのない臓器が
来てくれるからいいので、もしもなまえのある臓器が来たら困るだろうと
思う、とおっしゃいましたが、そのとおりだと思います。

USAでも、日本でも、ドナー家族の人は、なまえのなくなった臓器になまえを
取り戻そうと、一所懸命、ホームページを作ったり、ドナー家族の会を
作ったり、されていると思います。

スギケン先生も、そうだと思います。
ただ、スギケン先生や吉川隆三さんと、間沢朝子さんのお父様とかとは、
また考えが違う、とおっしゃってましたが、それは、
一つには、朝子さんは、若いけどおとなで、臓器提供の意思表示がしてあったこと、
それから、優れたコーディネーターが、お父様の気持ちに寄り添ってくれていたこと、
が大きな理由だと思います。

臓器移植法ができて、本人の意思表示が必要ということになってから、
脳死患者の家族への、医師の説得がなくなってよかった、と、中島みちさんも、
スギケン先生も、おっしゃいます。
確かに、以前は、日本では、稚拙でしつこい説得で、脳死患者の家族は苦しめられたと
思います。

でも、今度は、USAあたりで研修を受けたような優れたコーディネーターが、
脳死患者の家族の看取りを支えるというかたちで、その場に立ち至り、
看取りの一つの選択肢として、臓器提供を勧める、というかたちになるかも
しれない。そういうやりかたなら、いいかもしれないと、間沢さんなどは、
思ってらっしゃらないでしょうか。

臓器移植法改正の話は、ほんとは、脳死のこどもから心臓を移植のために
提供できるようにしよう、ということだけじゃなくて、
もし、本人の意思表示をはずしたら、今の時代は、臓器も組織も細胞も
全部、医療や研究のためにとられる、骨だって加工されて治療のために
売買されてるし、そういう医療資源化のシステムに、どんどん、生きてる
人も死んでる人も巻き込まれていって、気がついたら、あの人もこの人も、
死んだ人や生きた人から提供された臓器や組織や細胞を基にして開発された
薬や治療法に頼って生きている、というようなことになるのじゃないかと、
思います。

USAでもヨーロッパでも、臓器移植の件数が減ってるのは、もしかしたら、
ドナー家族が、なまえをなくした臓器になまえを取り戻したい、という動き、
それをいくらコーディネーターの組織のOPOが臓器提供増進のために利用しようと
思っても、そうじゃなくて、やっぱり本来の、人間の気持ちとして、
そうそう無名の医療資源なんかにされたくない、という気持ちが、
社会になんとなく伝わって、提供を断る人もふえてるんでは、ないでしょうか。

不妊治療で精子や卵子を提供するときに、こどもが出自を知る権利を認めたら、
提供者が減る、という意見があるけど、日本を含めて少数の国で、
出自を知る権利を認めたのは、いいことだと思います。
提供者が減ってもいいと思います。

それと同じように、ドナー家族が、臓器の行く末を知りたいと思ったり、
レシピエントが、臓器の来し方を知りたいと思ったり、するのを、
認めてもいいし、それで移植待機登録する人が減ってもいいと思います。

それで、やっぱり、無名の資源じゃなくて、ひとりの人の存在がそこにあるんだ、
ということを伝えることに意味があるから、これからも、スギケン先生がお話を
続けられることを期待します。

きょうは、ありがとうございました。

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288 re(1):関大での討論会・新たな発見・ありがとう
2003/9/15(月)16:42 - てるてる

脳死心移植と心停止後腎移植の法律上の扱いの違い、どうも気になります。
静岡県では、病院にコーディネーターが常駐して、心停止前に、患者の家族に臓器提供の
「オプション」を提示します。そのおかげで、臓器移植法施行後、多くの県で心停止後
腎移植がなぜか減っているのに反して、心停止後移植件数がふえています。
「腎移植連絡協議会からの提言〜県腎提供をふやすための取り組み〜」では、
他の県でも同じようにすることをすすめる意見もあります。

これは、USAで、病院にコーディネーターが常駐しているところでは、脳死患者の
臓器提供がふえるし、それから、脳死と診断されることそのものも多くなるそうで、
院内コーディネーターを置くことをドナー増加のために推奨する論文もあるのと、
似ています。

もっとも、日本臓器移植ネットワークに登録している患者に移植するために、
全国に照会するから、自分の県で提供件数が多くても、他の県の患者のほうが
リストの上位にいたらそっちにいってしまって、県内の移植件数がふえないと
不満を持つところもあるようですが。それも最近は、県内の移植優先でよい、
という見解が厚生労働省から出たのではありませんでしたっけ。

新潟県でも、移植コーディネーターと移植医と移植患者団体が協力して
がんばって、現場のお医者さんたちにも、心停止前の患者の家族に臓器提供の
オプションを提示してくださいという啓発をやっていて、オプションを提示
しなかったお医者さんには、どうして提示しなかったんですか、と後から
コーディネーターが、病院内会議できいたりしています。

静岡県でも新潟県でも、コーディネーターの報告では、脳死でも心臓死でも、
臨死患者は「ポテンシャルドナー」と呼んでいます。USAと一緒です。

おおぜいの人が腎移植を待っているんだから、献腎移植をふやすのはだいじだと
思いますが、それは、患者が助からないと分かってから家族に承諾を
求めるのではなくて、ふだんから、本人の臓器提供の意思表示をするように
広報したほうがいいと思います。
今は、コーディネーターが家族に同意を求めるときに、心停止前に臓器保存の
薬剤を入れてもいいかと打診します。
それも、もともとドナーカードに記入しておくべきではないかと思います。

こどもも、心停止後でも脳死でも本人の意思表示が必要ということにしないと、
親に対して、コーディネーターがじょうずに寄り添って気持ちをほぐして、
同意をとる、ということが、どんどん進むのではないでしょうか。
それが絶対にいけない、とは言わないけど、歯止めが必要だと思います。
そうしないと、先の投稿で書いたように、人のからだを医療や研究に
利用しつくす、という方向にどんどん進んでいって、それって、
なんだか、人の存在って、なんなの? って、変な気になるし……
本人のドナーカードへの記入があるか、あるいは、
浜辺裕一さんは、救急の現場では、患者の家族から申し出があってから
臓器提供のための脳死判定をするべきだと書いていらっしゃいました。
心停止後移植も、本来は、そうではないでしょうか。

でも、心停止後腎移植が減ってしまった兵庫県では、毎年、神戸新聞で、
腎提供を呼びかけるキャンペーンをはっていて、家族の同意だけでいい、
と強調するのです……院内コーディネーターを置くところまでは
いかないようですが。
院内コーディネーターを置くのなら、その前に、
患者と家族の相談にのるメディカルソーシャルワーカーを置いて、
臓器提供に中立な立場で、脳死や心停止前の患者の家族に
話しかけるようにしてほしいなあ、と思います。
臨死患者は、ただちにポテンシャルドナーじゃないはずです。
コーディネーターがポテンシャルドナーとみなすのはしかがたないけど、
その見方をすべての医師がしてくれるように広げるのが、
コーディネーターたちのする啓発活動だと思います。
でも、そのやりかたではなくて、意思表示カードと説明のパンフレットなどを
広く配布して、移植についての意識を広めてほしいと思います。
院内コーディネーターを置く病院では、臨死患者をポテンシャルドナーと
みなさないメディカルソーシャルワーカーも必ず置くことにしてはどうかと、
思います。
USAでも、コーディネーターと違って中立的な立場で、キリスト教の活動だけど、
チャプレンがいるんだから。

森岡正博さんの掲示板でも、9/13の感想をたくさん書いてしまいました。
あと、別の報告ページもつくりました。学校での生と死の教育に関連してです。
http://members.at.infoseek.co.jp/saihikarunogo/20030913report1.html

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生命学ホームページ 「脳死臓器移植」専用掲示板

今日はありがとうございました。 投稿者:ぽん(おかだ)  投稿日: 9月13日(土)21時23分56秒

スギケン先生の講演、無事終了いたしました。
スギケン先生のお話、やはり迫力がありましたし、
かなり複雑で高度な着眼が見え隠れしていました。
子どもの脳死移植問題、あらためてむずかしさを痛感しました。

いずみさん、てるてるさん、りんごさん、ご出席ありがとうございました。

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こどもの心臓移植 投稿者:てるてる  投稿日: 9月14日(日)09時22分34秒

スギケン先生が、自分とか吉川隆三さんとかは、こどもの心停止後の腎臓提供をやった、人工呼吸器をはずして、こどもの心臓が止まって(止まるか止まらないうちに)、腎臓提供をやったのである。こどもの心臓移植を親の代諾だけでやってもいいというのなら、親が、自分のこどもの心臓が動いているのが取り出されるのを見たらどうか、とおっしゃったのが、強く、共感しました。

もしほんとにそういう立場になったら、本職のお医者さんでも、見るのに耐えられないだろうと思います。あるいは、お医者さんや看護婦さんで、自分のこどもの場合やったら見ることができるという人から、やったらいい、と思います。
スギケン先生が剛亮君の腎臓摘出手術に立ち会われたように。
そんなこと想像しないから、移植医の人は、こどもの心臓移植推進と、いえるのか……
いやいや、USAに勉強に行って、たくさん移植手術をやって、人の命を救った、日本人のお医者さんが、日本に返ってくると、日本のこどもが心臓移植を受けられなくて死んでいくのを見るのがつらい、だから、移植ができるようにしたい、という気持ちが、一番強いのだと思います。

虐待についてのお話では、親は自分が虐待してるなんて思っていないし絶対に言わない、こどもも、おびえているのに、びっくりするほど挨拶が礼儀正しかったりして必死に生きている、親も子供も外に向かってほんとのことを言わずに二枚舌で、虐待がほんとにないと見極めるのには時間がかかるし、一方で虐待が直接の原因で脳死になるこどもは実際多い、欧米でも半数はあるとか、こどもの頭のけがはまず虐待を疑え、とか言われている、とのことでした。

でも、12歳以上だと、小さい子の虐待の場合のような問題はないので、いっぺん、12歳以上の意思表示で、やってみたらいい、そしてようすを見てまた、2,3年後に法改正してもいいし、とおっしゃっていましたが、私も、それがいいと思います。
今でも、小学校高学年以上で、脳死と臓器移植のことを、道徳の授業でやっている例があったり、こどものための、「心臓病の子どもたち」「腎臓病の子どもたち」という本があったり、中学生向けの医療倫理の本で、臓器移植や生殖医療や遺伝子治療や人体実験などの問題をとりあげていたり、高校で脳死と臓器移植についてディベートしたりしています。

だから、12歳以上で意思表示可能だと思います。
今は、このテーマでは、先生方はわりと自由に授業をしている例が多いと思います。だから脳死についての知識が曖昧だったりして、この掲示板でも問題になったことがありましたが、そういう最低限の知識については、先生方にがんばって勉強してもらうとして、この自由さは、保っていったほうがいいと思います。脳死・臓器移植に反対の人も、推進の人も、中間の人も、それぞれの考えで授業をされたらいいと思います。

でも、ほんとにだいじなのは、「葛藤」を、共有できることではないでしょうか。
岡田篤志さんの論文で、USAの病院のチャプレンは、移植を待つ人も、脳死の人の家族も、両方、話を聴いてあげて、両方支えてあげるし、そのうえ、コーディネーターとちがって脳死移植推進を
目的としていないので、そのぶん、思う存分葛藤するはめになるのだけど、彼らはその葛藤をよいものだといっている、そこが、コーディネーターと違う、と述べられていました。

私も、他の人も、脳死のこどもを看取った記録「剛亮生きてや」と、心臓移植を待っていたこどものドキュメンタリー「ふたつの命」(放送後、そのこどもは死んでいる)と、両方見ると、直接患者さんたちの話を聴くチャプレンほどじゃないけど、葛藤を感じます。 そういう葛藤を、共有するのが、本来あってほしい授業だと思います。

スギケン先生が、「後悔しているんですね」とか「遺族」とか、言ってほしくない、でも、自分はこうやってよくしゃべるけど、言いたいこと、自分の気持ちを言えず、言葉を持たずに埋もれて言ってしまっているドナー家族がたくさんいる、とおっしゃっていました。
それから、スギケン先生の御家族も、ひとりひとり、思っていることが違う、と。
「後悔」「遺族」という言葉がいや、というお話と、「自分のこどもを生かすために提供したのだ、自分のこどもの死ぬのがみじめて悲しすぎて耐えられなかったから、何も死を受容したからでも、移植を待つ人の命を救うためでもない」というお話と、同じことを違う方向から見て話されたのだと思います。レシピエントが誰かなんて知らなくてもいいから、元気だという手紙が来ればよい、でも、もしも自分よりも先にレシピエントが死んで、剛亮君の腎臓も一緒に灰になったらいやだ、という話も。
それは、以前、どこかでだれかが書いてるのを読んだんですけど、ドナーの死を2回経験するようなものだから、自分のこどもの臓器提供なんかいやだ、という意見だったのですが、その「ドナーの死を2回経験する」というのと同じやなあ、と思いました。

でも、レシピエントのほうは、生きようと思ったら、移植された臓器がいたんできたら、また、別の人から提供してもらって、再移植します。

ドナー家族にとっては、一回限り、一生続くことでもレシピエントにとっては、2回、3回と、別々の人から移植してもらわないといけない。レシピエントにとって、そのたんびに、ドナーの存在を感じ取るのは、きついことかもしれない。

でもその、移植されるたんびに別の人の存在を感じるしんどさを、生体移植のレシピエントでは、現実に経験している人がいるのではないかな、と思います。

きのうのお話では、ここまで言ってもいいの、と思うようなお話もありましたが、臓器移植法施行後に実施された脳死臓器移植の、ドナー側、レシピエント側の、くわしい報告を公開して、国会でも議論したり、新聞やテレビでもとりあげて、みんなが考えられるようにしてほしいと思います。そこで、いいこともあるけど、わるいこともある、いろんな、マイナス面、ネガティブなことが出てきても、それですぐに移植がだめというんじゃなくて、これからどうしていったらいいかと考えることができるから、全部出してほしい、と思います。 ドナー家族にとってもレシピエントにとっても、いろいろ言われるのがつらいとか、プライヴァシーの問題があると思うけど、プライヴァシーの保護は、なんとか工夫できないものでしょうか……

それともっと心停止後の腎臓移植や生体移植のことも、報道でとりあげてほしいものです。

日本で
(1)こどもからの脳死臓器提供ができなくて、海外へ移植手術を受けに行くこどもが多い状況と、
(2)親の代諾でこどもからの脳死臓器提供ができるようになったけどやっぱり件数が少なくて海外へ移植手術を受けに行く人がいる状況と、 (3)こども本人の意思表示で脳死臓器提供ができるようになったけどやっぱりというか1年に1件あるかないかで海外へ移植手術を受けに行く人がいる状況と、
どれが一番いいかといえば、最善なんてものはないけど、
(3)こども本人の意思表示でできるけど件数が少なくて、というのが、1番ましだと思います。

でも、脳死臓器移植に反対の立ち場なら、(1)が1番ましだろうし、推進の立場なら、(2)が1番ましなんだろうと思います。

昨日は、脳死・臓器移植に反対する関西市民の会の人もいらっしゃってて、実際に病院でこどもを看てらっしゃる看護婦さんでしたが、こどもからの臓器提供を認めるというのは、親の代諾でもこども本人の意思表示でも、、「脳死」という診断で臓器をとるような医療をやっていったら、いつか医療への信頼が失われる、もっと普通の、最後の最後まで命を助けることに全力を尽くす医療であってしい、こどもが、息してるだけでいいから最後の最後までのびのび生きられるようにがんばる医療であってほしい、と、何回も何回も何回も強調されていました。 そのとおりだと思います。

でも、今の時代は、法律を決めなければ、何も脳死移植だけじゃない、医療のためでも研究のためでも、家族の同意だけで、組織もとられるし、手術を受けた人からは、本人の同意で摘出した臓器や組織を研究のためにくださいといわれるし、受精卵をES細胞作成のためにくださいといわれるし、そうやって研究材料にした人のからだの一部で、薬が開発されて特許が申請されて、企業が利益をあげる、そういうふうに、人間のからだが利用され尽くす時代に来ているんだから、せっかく日本で本人の事前の書面による意思表示がないと脳死患者からの臓器提供はやってはだめ、という法律を作ったんだから、今度はそれを、こどもの場合であろうと、心臓死であろうと、組織移植であろうと、細胞提供であろうと、広げていくように、したほうがいいと思います。

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*参照

日本小児科学会提言「小児脳死臓器移植はどうあるべきか」
2003年4月26日

「生と死の教育」の実践例について

2003/09/06(土)臓器移植法学習会の報告
〜NHK特集「剛亮生きてや」(1987年)とKTVドキュメント「ふたつの命」(2003年)を見る〜

2003/09/23(火、秋分の日) 「はあとネット兵庫」設立記念講演の感想


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