2003.07.14. by てるてる
森岡正博さんの「生命学ホームページ 『脳死・臓器移植』専用掲示板」の対話から
生体肝移植ドナーの会 投稿者:てるてる 投稿日: 6月20日(金)23時45分52秒
生体肝移植のドナーがドナー同士で支えあう会を結成したそうです。
↓
http://www.asahi.com/health/medical/TKY200306200160.html医療機関はドナーの追跡調査をきちんとしていない、と声を挙げています。
--------------------------------
asahi.com 健康:医療・病気
http://www.asahi.com/health/medical/TKY200306200160.html肝移植ドナー支え合おう 体験者の会結成
体験者の会の運営について話し合う若山昌子さん(右)と鈴木清子さん=長野県松本市で
生体肝移植の提供者(ドナー)となって肝臓の一部を摘出する手術を受けた人たちが「生体肝移植ドナー体験者の会」を結成、行政や医療機関に実態調査や術後のフォローアップ態勢の強化を求める活動を始めている。5月にはドナーの死亡事例もあった。多くは合併症や体調変化などに苦しみ、将来の健康に強い不安を抱いているという。「体験者の視点から問題提起をし、生体肝移植の発展に役立てたい」という思いから立ち上がった。
■合併症や手術では体調不良
事務局を担当する鈴木清子さん(45)=千葉県富津市=は98年11月、長女に肝臓の右葉を移植する手術を受けた。胆道閉鎖症で入退院を繰り返していた長女はその3年前にも父親から肝臓を移植されており、2度目の移植だった。しかし、長女は敗血症になり手術から40日後に死亡した。15年の短い命だった。
手術前、医師からは「切除した肝臓はもとに戻ります」と言われたという。だが、実際は左葉がふくらんだだけで、右葉が復活したわけではなかった。術後7年が経過し、肝機能障害が起きた実例などを知ると、不安がよぎる。「体が張るような違和感」は今も続いている。他のドナーと知り合ううちに、手術後の合併症に苦しむ人が大勢いることもわかった。
京都市に住む若山昌子さん(56)もその一人。4年前、C型肝炎から肝臓がんを患った夫(当時57)に肝臓の一部を移植する手術を受けたが、夫は20日後に死亡した。若山さんも手術後に胆汁漏(ろう)を起こし、さらに腸閉塞(へいそく)で手術を受けた。内臓の一部癒着は治らず、体はやせ細ったままだ。
「こんなはずではなかった、という思いは強いですね。リスクをきちんと知らされても提供したでしょうが、気持ちの持ち方が違います」
若山さんが現在、治療を受けているのは手術を受けた病院とは別の医療機関。鈴木さんもケアで病院へ行くことはない。「移植を受ける患者(レシピエント)と比べてドナーは放っておかれているのでは……。ましてレシピエントが死んでしまうと、病院とのつながりはなくなってしまう」と2人は口をそろえる。
若山さんらは昨年7月、専門医らでつくる日本肝移植研究会が、当時のドナーの大部分にあたる1834人の健康状態を調べたところ、229人が何らかの合併症を起こしていたという新聞記事に驚いた。「私たちは調査を受けていないのに」。他のドナーに聞いても同じだった。
「誰を対象に調査されたのでしょうか」。研究会に質問状を送ったところ、医療機関からの回答をまとめただけだったことが分かった。
ドナーをきちんと追跡調査している医療機関がいくつあるのだろうかという疑念がわいた。実際には合併症はもっと多く、合併症でなくとも、ほとんどの人が術後に違和感をおぼえているのではないかというのが、2人の実感だ。
「私たちが声をあげないと、ドナーの実態が正しく行政や医療関係者に伝わらない」。そんな思いを強くした2人は今年2月、他のドナー10人に呼びかけて「体験者の会」を結成。若山さんが会長になった。手始めの活動として、厚生労働省に「手術後、ドナーが安心してケアを受けられるよう、移植医療現場におけるフォローアップ態勢の強化を」との要望書を出した。
その後、ドナーの死亡事例がニュースで伝わった。鈴木さんは「ドナーでさえ放っておかれているのに、残された家族のこれからが心配です。きちんとケアしてほしい」と話している。会では現在、ドナーになる人のためのガイドブックを体験者の側から作る準備を進めており、活動をより深めたいという。 (2003/06/20)
当事者からの声 投稿者:鈴木 清子 投稿日: 6月21日(土)07時07分47秒
「生体肝移植ドナー体験者の会」に関わっております千葉の鈴木です。
てるてるさん、記事のご紹介ありがとうございました。生体肝移植という医療がまだ日本の社会に登場してこなかった
昭和の後半から、平成の今年までの十数年の間に、
この移植医療は劇的に発展し、めまぐるしくそのあり方を
変化させてきたように思います。
今回の「ドナー体験者の会」発足にあたっては、様々な出来事が
その背景にありました。病気に苦しむ大切な家族を前にして、たとえどんな結果になったとしても
これだけはやってあげたいと願う家族の切ない想いと、
何としてでも出来うることを実現し、患者さんだけでなくその御家族
皆の想いに答えるべく、プロとしての英知を結集することに
使命感を燃やした医療者の想いが、ぴったりと重なり合って
生まれてきたのが「生体肝移植医療」であると私自身は思ってきました。しかしながらそういった原点が、特に最近5年ぐらいの間に
急速に影をひそめてしまっているように思えてなりません。
4年前から、個人的には何度も移植施設側に対して
レシピエント、ドナー両方の充実したフォローアップ体制の
整備を御願いしてきましたが、通り一辺倒の御返事しか
頂けず、現実の中で翻弄されるご家族が後を絶たないことに
心を痛めてまいりました。この医療を巡るきちんとした現状把握がなされ、それらの事実に基づいた
良い面、悪い面両方が誠実に語られているだろうか?
「こんなはずでは」という、言うに言われぬ声を聞くたびに、
何かしなくてはと思ってきました。今回の会の結成は小さな一つの試みですが、
ただ単に「批判」することに終わらない、当事者側からの問題提起
のあり方と、現実の改革への足ががりを求めて
これからも模索を続けていきたいと考えております。皆様の忌憚のないご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。
RE:当事者からの声 投稿者:てるてる 投稿日: 6月21日(土)20時30分59秒
>鈴木さま御投稿、ありがとうございます。
記事では、10人での会の発足、厚生労働省への要望やガイドブックの作成への取り組みなど、少人数で労の多い仕事を始められたと思いました。
生体肝移植は、移植医療のなかでは、ドナーやレシピエントのための、術前術後の情報提供や精神的なささえについて、よく研究され実践されている分野だと思っておりました。
この掲示板で、以前、「移植医療のメンタルヘルス」(中央法規)という本を紹介したとき、そのことに触れております。
http://members.tripod.co.jp/saihikarunogo/20010603.html
http://members.tripod.co.jp/saihikarunogo/20010801.html日本では、移植医療の精神的な方面についての成書は初めてで、他の国に比べても、この分野の立ち遅れは目に余る、とも書いてありましたが、そのなかで、生体肝移植は、よくやってられるほうだと思いました。
リエゾン精神医学の学会での報告も、web上で読んだことがあります。福西勇夫先生はよく研究されているようで、トリオ・ジャパンでも講演をされていますね。
http://square.umin.ac.jp/trio/triohist.htm
1998. 3.28 第17回トリオ・ジャパン談話会
「臓器移植とリエゾン精神医学」
講師 福西勇夫(東京都精神医学総合研究所)それなのに、5年くらい前から、あまり発展的でないほうに変化してきたようだということは、臓器移植法の施行により、脳死肝移植に、エネルギーがシフトしてきたからなんでしょうか?
しかしながら、移植件数が日本と桁違いに多いUSAの現状を見ても、脳死移植がふえても臓器は不足し、生体移植もやっぱりふえ続けます。 生体肝移植での、術前術後の情報提供や精神的支援への取り組みは、移植医療全体にとって貴重な蓄積であり、今後もますます重要になると思います。
「生体肝ドナー体験者の会」の御活動が、さらによい刺激になることを願っております。
それから何よりも、会の皆様のおからだがたいせつですから、厚生労働省や医療機関が、術後のドナーの追跡調査をしっかりとしてほしいと思います。
生体肝移植について 投稿者:りんご 投稿日: 6月21日(土)22時15分50秒
清水準一さんのページが充実していると思います。
http://square.umin.ac.jp/%7Ejunichi/lrlt.html
http://square.umin.ac.jp/%7Ejunichi/
生体肝移植医療の変遷 投稿者:鈴木 清子 投稿日: 6月22日(日)06時32分14秒
「生体肝移植ドナー体験者の会」の鈴木です。てるてるさん
ご指摘のここ数年における生体肝移植医療の「変化」に関しては、
昨年9月に行われた日本家族社会学会におけるテーマセッション
「家族愛の名のもとに」:生体肝移植をめぐって 、の中で
少し発表させていただきました。りんごさんご紹介の清水準一さん
も、一緒に参加してくださいました。内容は家族社会学研究第14巻
第2号の中に掲載されておりますが、(ご興味のある方には御送り致します)
当初この医療を受ける側にも、提供する側にも明らかにあった、
「限界を見据えた挑戦」への覚悟が、症例数、対象疾患、
実施施設の増加や、保険適応などにより、医療者、当事者双方ともに
薄れてきていることへの危惧が大きなテーマです。
てるてるさんがご紹介された文献は、確かに貴重な文献では
ありますが、実際の医療現場を経験した者の目から見ると、
残念ながらほんの少しの現状しか表していないというのが
正直な感想です。今回発足の運びとなった私達の会のメンバーの過半数は、この
医療の中で患者を亡くしたドナーです。様々な思いを抱えながら
それでもこの医療がそれに関わる人達の人生の中で、
「やって良かった」と思えるものであって欲しいと、
心から願う人達の集まりです。ご指摘のとおり、分を
超えた目標を掲げてしまっている部分もありますが、
サポートして下さる専門家や、同じ患者家族の方々の
御気持ちに答えられるよう、これから歩んで行こうと
思っております。
当面この会に関する御問い合わせは下記のアドレスまで
ご連頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。連絡先アドレス suzukis@olive.ocn.ne.jp
「家族社会学研究〜『家族愛』の名のもとに:生体肝移植〜」 投稿者:てるてる 投稿日: 7月 4日(金)19時15分28秒
「家族社会学研究」第14巻第2号(2003年1月)の、「小特集 『家族愛』の名のもとに:生体肝移植をめぐって」(p.128-161)を読みました。この特集はたいへんおもしろい、興味深いものなので、臓器移植法改正の議論とも関連付けつつ、御紹介したいと思います。 web上では、「第12回大会報告(日本家族社会学会ニュースレター29号より)テーマセッション部会の概要C.『家族愛』の名のもとに−生体肝移植をめぐって−」で、抄録を読むことができます。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsfs2/taikai/2002_rep.html特集に掲載されているのは、以下の4論文です。
武藤香織「『家族愛』の名のもとに〜生体肝移植と家族〜」(p.128-138)、
鈴木清子(生体肝移植ドナー体験者)「患者・家族からみた生体肝移植医療」(p.139-147)、
細田満和子「生体肝移植医療〜不確実性と家族愛による擬制〜」(p.148-156)、
清水準一「生体肝移植におけるトピックとドナー調査にみる今後の課題」(p.157-161)(参照:「日本における生体肝移植のドナーとしての体験とニーズに関する調査」http://square.umin.ac.jp/%7Ejunichi/lrlt_report.pdf)日本における生体肝移植および生体腎移植の現状について、まず、次のような事実があります。
> 生体腎移植は1997年までに8,800件以上行われ、肝臓は臓器移植法が施行される前の1989年に、島根医科大学で国内1例目が行われたのち、急速に実施数を伸ばし、2001年末までに2,000件行われている。……生体肝移植では一部の疾患が原因の場合は健康保険が適用されており、もはや確立した治療法になっているという認識さえある。(細田、p.149)
> ドナーには保険が適用されないことや入院期間中の収入が保証されないといった経済的問題、術後に元の職場や学校にもどれないという問題、身体の一部を切り取られたあとの生に関する問題など、むしろ余りの問題の多さに、どこから手をつけてよいのか戸惑うほどである。(細田、p.150)
> 生体肝移植におけるドナーには、2親等以内から4親等以内で、提供の自発的な意思があり医学的に適合する者がなることができる。医学的な適合というのは、年齢が20歳以上60歳未満で、血液型が適合的で、肝臓が正常に機能しておりかつ十分な大きさがあり、感染症がなく、麻酔をしても大丈夫な者ということである。(細田、p.150)
> ドナーは手術を受けるための入院中(約2週間)は会社を休む必要があり、入院が長期化した場合には、ドナー自身が病気ではないことから病気休暇などの制度を利用できず、年間の有給休暇をすべて使ってしまう場合や、場合によっては休職を必要とする場合もみられた。……一方、ドナーが死亡した場合に国内の生命保険では死亡保険金が支払われないことも、ドナーになることの妨げになっていると考えられる。(清水、p.160)ちょっと振り返っておきますと、
1989年に日本で最初におこなわれた生体肝移植の手術では、幼い男の子に、父親の肝臓の一部が移植されたのでした。つい最近も、NHKの「プロジェクトX」で、当時のことを振り返る番組が放送されました。その番組では、移植手術を受けたこどもは、とうとう、自分の足で立つことなく、この世を去ったけど、病院に建てられた男の子の像では、母親の希望で、立ち上がった姿にした、と述べられていました。 1990年当時、この生体肝移植について、森岡さんが述べられたことが、「脳死の人」に載っています。
「『聖域』の落とし穴〜生体肝移植への一視点〜」
> そもそも生体肝移植に対する最も本質的な批判点は、「親の自己犠牲と愛情と決断があれば医師は何をやっても許されるのか」という点なのだと私は思う。しかし、この問いが新聞紙上で議論され、深められることはなかった。「この子のいのちを救おうと親が自分の身体を犠牲にしてまで頑張っている」美しき事態に、いったい誰が正面切って議論をいどめようか。
> 今回の生体移植事件は、我々の文化の中に、誰もが批判できないような、ある「聖なる道徳空間」があることを、我々にはっきりと知らしめたのである。そしてこの聖なる道徳空間が、今日では先端医療技術というもうひとつの聖なる技術体系と結合し得るということなのだ。それから14年たって、生体肝移植は、日本では、ことし、2003年になるまでは、ドナーの死という事態を起こすことなく、発展し、医療として確立したとまで言われています。しかしそれゆえにこそ、かつては「聖域」であった、家族愛と先端医療技術との結合という問題が、もはや、聖域ではなくなってきたのだと言えます。
> 成人間の臓器移植が増えたことは、核家族内で解決されていた小児に対する臓器移植とは異なり、より複雑な事情を生んでいる可能性とも重なり合うものであろうか。(武藤、p.137)
> 緊急避難としての性格は薄れていき、当初あれだけ問題になった「健康な人を傷つけてまで行うことが果たして医療とよべるかどうか」といった点が、まったく議論されないようになっていった。それだけでなく、急激なスピードでこの医療を実施する施設は増えていき、いまでは数十にものぼる施設で実現可能な医療となった。(鈴木、p.144)
> 患者自身やその家族が、精神的、肉体的、金銭的すべての面においてたいへんな思いをしてこの医療に望みを託しているとしても、その「想い」にすべて答えられるほど、この移植医療は特別な医療とはなり得ないという事実を、医療を提供する側も、医療を受ける側もどこかできちんと意識していることが、なによりも大切なことであるように思われる。(鈴木、p.145)
> いまやこの移植の大半を占める成人間移植では、1人の患者が移植を受けることによって1つの家族内にとどまらない問題が呼び起こされ、複数の家族間の関係性が根底から揺さぶられる可能性があるのである。……事実、臓器移植を契機に、離婚や対立といった、それまではお互いに考えもしなかったであろう展開がもたらされた例は少なくない。(鈴木、p.146)
> 病気をもつ子を産んだと夫の両親などから非難されている母親は、「周囲の非難から解放されたかった」「罪悪感から逃れたい」という理由でドナーになることもある。表向きは自発的意思でも、その背後に家族や親族からの圧力がまったくなかったとはいえない。(細田、p.150)
> 移植が実際には行われなかった場合にも、家族の関係性が変わることがある。ある成人したきょうだい間で移植の話が持ち上がったとき、兄は「弟を救えるのは自分しかいない」と思い臓器提供の意思をもったが、自分の妻からそんな危険なことをしないでほしいと懇願され、最終的にはドナーになることをやめ、弟は亡くなった。この兄弟の両親は、兄が弟の命を救うことを妨げたと嫁に対して怒りをもち、それ以降の交流は途絶えているという。(細田、p.151)日本の臓器移植法では、生体移植について規定していません。たとえば、1999年に制定された韓国の臓器移植法では、生命を有する者、死亡した者、脳死者の三者からの臓器提供について、規定しています。
韓国臓器移植法第18条(臓器等の摘出および移植)
(1)生命を有する者の臓器等は、本人が同意した場合に限り、これを摘出することができる。ただし、十六歳以上の未成年者の臓器等と十六歳未満の骨髄を摘出しようとする場合には、本人の同意のほか、その父母(父母がなく兄弟姉妹に骨髄を移植するために摘出しようとする場合は法定代理人)の同意を得なければならない。(「生命倫理コロッキウム2 臓器移植と生命倫理」、太陽出版、2003年2月、p.289)このような本人意思の尊重の規定さえ、生体移植について、日本の臓器移植法では規定していません。ことしに入ってから臓器移植法の改正についてテレビ番組でとりあげられたときも、こどもの心臓移植の問題がクローズアップされ、また、この6月の、自民党の改正素案では、こどももおとなも本人の事前の同意がなくても家族の同意だけでも臓器提供できるという提案が出されるほどで、生体移植の規定については、マスコミでも、議員立法に取り組む国会議員の議論でも、とりあげられていません。
このように生体移植についての法規定やそれについての議論が遅れたり、盛り上がらない理由には、「家族愛の名のもとに」生体移植が実施されてきた点が挙げられるようです。> 生体肝移植の当事者は、たとえ問題を抱えていたとしても、家族が自発的な意思によって「家族愛」の下に行っているのだから、起こっている問題も家族で解決せよという暗黙の圧力を受ける。問題の多い医療であるにもかかわらず、生体間の移植が大きな議論にならずに急速に広まっている背景には、こうしたメカニズムが指摘される。このようなメカニズムの下、問題は沈殿化し、表に出てこなかったのである。(細田、p.153)
逆に、脳死後の移植も、生体間の移植に近付けて、家族愛の名の下に語ろうとする意思は、医師や法律の専門家の間でも、一般の人々の間でも、強固なものがあるようです。 武藤香織は、2002年の、厚生労働省臓器移植委員会での、生前に臓器提供先を家族・親族に限ることを認めるかどうかという議論について、次のように述べています。
> しかし、仮に認める場合に、さまざまな医学的・法的な付帯条件を設けることになるとしても、「対象を親族に限定すれば」よいのではないかという意見は最後まで消えることがなかった。公的にレシピエントを選択しようとする脳死臓器移植を貫く「公平性」という価値観がある一方で、私的な「家族」という空間から任意にドナーを選び取る生体からの臓器移植を容認している現状もあり、「身内優先」を認めない理由を探すのは困難だというわけである。……この「身内」の定義として、法的な家族・親族関係以外のパートナーシップは、生体からの臓器移植の施設内規定と同じく、まったく考慮の対象になっていないことを添えておく。(武藤、p.136)
武藤は、現行の臓器移植法や、生体間移植を実施する際に各医療施設が設けている規定で、法律上・血縁上の親族や家族に、臓器提供の承諾権などが限られている現状を、「愛」が試される家族・親族と、「愛」や自発的意思があっても認められない関係との区別(差別?)として、指摘しています。
> 「愛」が試される家族・親族がある一方で、正統的な家族・親族に属さない親密なパートナーシップの関係では、臓器を提供することが認められていない。レズビアンやゲイのパートナー関係、法的なつながりのないきずなをもつ関係では、いかに自発的な意思があろうとも、いかに「愛」があろうとも、現状では認められる気配がない。2002年度の日本肝移植研究会でも、「家族以外は認めない、さもなければ臓器売買の危険」とする意見が出るのみで、それ以外の人間関係の存在すら認められていないと考えられる。(武藤、p.135)
生体移植について法の規定のある韓国では、もう少し柔軟です。
> 韓国では、すでに腎移植の分野で、「親等」に含まれない、親しい友人やボランティアからの腎臓提供を認めている。「病院倫理委員会によって1件ずつ審査することにより、適切なドナーであることが認められている」という。(武藤、p.133)
USAやカナダでも、「感情的なつながりのある提供者」(emotionally-related donor)が認められていると指摘し、さらに、Parkによるドナー・スワッピングの提案を紹介しています。
Park K., 1998, "Emotionally related donation and donor swapping," Transplantation Proceedings, 30 : 3117.
> Parkらは、親族の臓器が適合していない2組の患者とドナー候補者を組み合わせて、ドナーの臓器が、親族でないほうの患者に適合すれば、本来近親者同士で行う生体腎移植を、交換で移植しあうドナー・スワッピング(donor swapping)という試みを提案し、ドナー・プールを増やすことを目指しているという。以上のように、これまで生体移植は、「『家族愛』の名のもとに」、臓器移植法で規定することなく、実施されてきましたが、もはや、それでは済まされなくなってきたことが、この特集のすべての論文で指摘されています。
全体の基調として、武藤香織が、現代の医療と人との関係を総体的にとらえた視点から問題を提起しています。> 私たちは「リサイクルするサイエンス」の時代に生きようとしている。(武藤、p.129) > 「資源としての人体」だけではなく、「資源としての家族」という視点から、この先端医療技術と対峙する個人の意思、そして家族の意思について考えていかねばならない。(武藤、p.130) > 使えるものは使う、「リサイクルするサイエンス」の時代における、家族のあり方とはいったいどのようなものになるであろうか。……家族社会学と医療社会学の協力によって、生体肝移植医療を含めた先端医療技術にかかわる研究を進めていけないであろうかと考える。(武藤、p.136)
そして、各論文では、具体的に、移植医療の当事者のための方策が提示されています。
> 今後は医療従事者だけによらない多方面にわたる専門家(たとえば心理学や社会学の専門家)や、医療当事者(経験者)の側からのサポート体制の確立が早急に求められていくといえるであろう。(鈴木、p.147)
> 法的な保護が1つの方法としてある。たとえば、一部の法学者が提案するように、ドナーを保護するために、臓器を提供するという意思が本当にドナーの自発性による揺るぎないものなのか、徹底的に確認することを臓器移植法に盛り込むという方法がある。(細田、p.153) > ドナーを保護するための方法として、移植に関する情報を提供したり、カウンセリングもできる移植コーディネーターを養成し、設置を義務づけるということも構想されている。(細田、p.153)
> 全ドナーを対象とした健康状態の把握のための調査と術式などの医学的データをマッチングさせた追跡研究を実施し、結果を公表していくことが必要と思われる。(清水、p.159)
> 医療者の視点では、レシピエントのベネフィットとドナーのリスクのバランスを検討しているが、ドナーの視点では、ドナーとレシピエントという個々の人間についてだけでなく、家族全体の生活の質を検討している点も重要で、ドナーやレシピエントのみならず双方の家族を視野に入れたケアが求められているといえる。(清水、p.160)
> 移植医療にはいわゆる身体的な面での「医学的適応」のほかに、家族の問題や経済的な問題などとそれに対する家族の調整機能や問題解決能力を考慮した「社会的適応」とでもいうべきものが存在していると思われる。
> これまでは臓器提供が「家族」からなされることから、ともすると家族のもつ調整機能や問題解決能力に医療者側が安易に期待してきた面もあるのではないかと思われる。……医療者はそれらについてレシピエント、ドナー、家族のそれぞれと事前に確認し、将来について具体的なイメージを形成しながら移植医療を進めていく(場合によっては「進めない」)ことで、こうした問題の発生を予防していく必要がある。……「社会的適応」にかかわる状況を見定めたうえでレシピエント、ドナー、家族のそれぞれを支持し、必要に応じて介入していく専門職の養成が必要であると思われる。(清水、p.161)ここで指摘されている、社会的適応のためのサーヴィスをおこなう「専門家」ですが、これは、欧米では、以前より、メディカルソーシャルワーカーの役割として、実施されてきたのではないでしょうか。海外で移植手術を受けた人の手記などでは、ドナーコーディネーター、レシピエントコーディネーターと並んで、ソーシャルワーカーの仕事もよく紹介されています。
なお、武藤さん、細田さんの論文では、「現代思想2002年2月号〜先端医療 資源化する人体〜」や、森岡正博著「生命学に何ができるか」「脳死の人」、ぬで島次郎著「先端医療のルール」などが、参考文献に挙げられています。
武藤さんは、「現代思想2002年2月号」の増井徹論文「資源となる人体」(p.194-206)から、「人間の肉体だけでなく知・情・意のすべてに渡って利用可能なものを資源として掘り尽くそうとしているかに見える」という文を引いています。
武藤さん自身も「現代思想2002年2月号」で、ハンチントン病の患者さんの家族のメーリングリストやネットワークを紹介しています。 「検体のまま取り残されないために〜ハンチントン病をめぐって〜」(p.228-243)生体肝移植については、2冊の新書判の本が出ています。
「生体肝移植を受けて」(是永美恵子著、光文社、2003年6月)
「生体肝移植〜京大チームの挑戦〜」(後藤正治著、岩波新書、2002年9月)
生体肝移植ドナーの会の要望書 投稿者:てるてる 投稿日: 7月 5日(土)21時05分26秒
生体肝移植ドナーの会から厚生労働省への要望書が、アップされています。
↓
http://www.lifestudies.org/jp/seitai.htm森岡さん、ありがとうございました。
ありがとうございました 投稿者:武藤香織 投稿日: 7月 7日(月)12時49分37秒
てるてるさま、はじめまして(私は一方的に「てるてる案」で存じ上げております)。
鈴木清子さんから教えて頂いてやってきましたが、驚きのあまり腰が抜けました・・・。「家族社会学研究」の紙面を著者たち以上に丁寧に読み込んで下さり、本当にありがとう
ございました。生体肝移植を取り巻く氷山の一角をわずかになめた、という程度のもの
かもしれませんが、こうして(別の拙稿まで)ご紹介くださったことに感謝いたします。法改正問題の中で、子どもの臓器提供の問題と足並みを揃えて、あるいは少し後からでも、
生体肝移植も取り上げていかれるようにと思いますが、いまは戦略を練っている段階です。
そして、鈴木さんをはじめとするドナーの皆さんからの発言を、その戦略のなかでどう大切
に生かしていくのか、という課題もあります。ドナーが(今のところお一人以外には)生きて
いらして、臓器提供・受領後も家族・親族とのかかわりをもちながら暮らしている、という
ことに様々な問題が隠れてしまっているところが、問題への触り方を慎重にさせる原因でも
あり、また一番の気がかりです。今後ともよろしくお願いいたします。
武藤さま 投稿者:てるてる 投稿日: 7月 7日(月)23時32分08秒
恐れ入ります。驚くといえば、私のほうは、生体肝移植ドナー体験者の会の新聞記事を紹介したあとに、鈴木清子さんが書き込まれたときに、腰が抜けるほど驚いたのですが、更にずっと前、生命倫理事典の記述について書いたときに、執筆者の方が投稿してくださったときにも、腰が抜けるほど驚きました。
きょうは、3回目なので、だいぶ、慣れてきました。
「家族社会学研究」は、ほんとうにおもしろい論文集でした。
>法改正問題の中で、子どもの臓器提供の問題と足並みを揃えて、あるいは少し後からでも、
>生体肝移植も取り上げていかれるようにと思いますが、いまは戦略を練っている段階です。
>そして、鈴木さんをはじめとするドナーの皆さんからの発言を、その戦略のなかでどう大切
>に生かしていくのか、という課題もあります。ドナーが(今のところお一人以外には)生きて
>いらして、臓器提供・受領後も家族・親族とのかかわりをもちながら暮らしている、という
>ことに様々な問題が隠れてしまっているところが、問題への触り方を慎重にさせる原因でも
>あり、また一番の気がかりです。当事者の声をどういうふうに社会に届けていくのかが、一番むずかしいのでしょうか……
今後も、御研究を楽しみにしております。
武藤さんに引き続き…。 投稿者:J Shimizu 投稿日: 7月 8日(火)16時33分19秒
東大大学院健康社会学の清水準一と申します。
「脳死」臓器移植の掲示板なのに、生体肝移植に関連した僕のホームページを紹介していただいたり、「家族社会学研究」について6本も投稿してくださったりと、恐縮してしまいます。
僕は生体肝移植のドナーさん25人ぐらいと面接調査でお話ししましたが、本当に人それぞれに移植についての考えをもっておられたのを覚えています。僕に伝わってくる家族愛の深さは変わらなくても、おかれている社会状況も様々ですし。
僕はもともとが看護師ですので、倫理学や法律的な問題よりも、どちらかと言えばドナーの皆さんの個々の問題に一つ一つ対応していけるような研究をしていきたいと思っています。
またドナー体験者の会の皆さんが要望しているドナー対象の調査は予算と施設の協力が得られればやりたいと思っています。(もちろん多くの方の協力が必要でしょうね。)
さいごに家族社会学研究で僕が書いた論文の内容についても、色々厳しい指摘などもいただけたらと思います。 それでは。
Shimizuさん 投稿者:てるてる 投稿日: 7月 9日(水)07時17分48秒
はじめましてドナーへの面接調査で、
移植を実施するかどうかの意思決定には、レシピエントのベネフィットが最も重視され、ドナーが移植してよかったかどうかを評価するときも、レシピエントの回復状況がよいときに満足度が高く、悪いと評価しているときには、自分が臓器を提供したことも否定的にとらえることが多い、という結果に、強い印象を受けました。「臓器移植のメンタルヘルス」(中央法規、2001年)でも、手術前の情報提供や移植後の精神支援がだいじなのは、レシピエントの予後に影響するからでした。
移植の目的がレシピエントの回復なんだから、当然だと思います。だからこそ、ドナーが健康でなくなったら、レシピエントにとってもつらい……
ちょっと話がずれますが、
立岩真也さんの「私的所有論」で、サバイバル・ロッタリーという、移植を必要とする患者数人の命を救うために、健康な人から抽選で一人のドナーを選んで心臓も含めて必要なすべての臓器を提供させる、という思考実験が載っていました。
生体移植が実施されるとき、家族・親族、あるいは、それ以外の親密な関係にある人からの臓器提供が許されている場合はそれらの人も、極端にいうと、そのサバイバル・ロッタリーに参加させられているように感じるのではないか、と思います。
社会的に移植医療について考えようとするとき、臓器売買の懸念があるという実際的な理由以外に、そういうことも潜在的に恐怖する気持ちが湧いてくるのではないかと思います。
*参照
「生体肝移植の適応拡大−臓器移植法改正論議の前提として−」
青野透著、『金沢法学』41巻2号、1999年3月刊行、所収
「森岡正博さんの『脳死・臓器移植』専用掲示板」過去ログハウスより
|