ホームトップ 古寺巡礼    俳句 

    BGMは、一高明治三十八年第十五回紀念祭寮歌「平沙の北に」。斉藤茂吉が一高を卒業した明治38年の寮歌である。 

小さな旅ー名所旧跡を訪ねて
山寺と斉藤茂吉記念館


山寺駅から五大堂を望む
 延暦寺第3代座主慈覚大師円仁は、東北地方に多くの寺を創建した。その一つに宝珠山立石寺がある。「奥の細道」で芭蕉がこの寺に立ち寄り、「閑さや岩にしみ入蝉の声」と詠んだ、あの「山寺」である。 

 東北新幹線で仙台へ、仙山線に乗換え約20分、その名も「山寺」駅で下車。正面を見上げると切り立った宝珠山の中腹一帯、凝灰岩の奇岩怪石の上、老松の間に、五大堂・開山堂などの堂宇を垣間見ることが出来る。立谷川が岩山を押しのけて流れる崖上、深山幽谷の風情にて、まさに芭蕉の世界である。
 
 「岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」(奥の細道より)

 小雨ふる中、麓の根本中堂から山上の奥の院まで急峻な千余の段々を喘ぎ喘ぎ上りながら山寺の諸堂宇にお参りした。。
 帰りは、上山温泉に一泊し、登山の疲れを温泉で癒し、近くの斉藤茂吉記念館を訪ねることにした。

山寺(立石寺)

 立石寺は清和天皇の勅願で、860年に慈覚大師円仁が創建したという天台宗の寺である。寺の説明によれば、鎌倉時代には盛況を極め、山上山下300余の寺坊に1千余名の修行僧が住んでいた。戦国時代は、兵火により衰退したが、江戸時代に御朱印2800石の寺となり復興した。
 現在は山内35万坪の岩山に40余の堂塔を配し、平安初期からの歴史を有する日本を代表する霊場として多くの人の信仰を集めている。

根本中堂
 根本中堂は、入母屋造りの五間四面、ブナ材の建築物では日本最古のものといわれている。1356年初代山形城主斯波兼頼の再建。 
 本尊は秘仏薬師如来坐像(慈覚大師作と伝えるが、11世紀後半の作か)。写真で見る限りでは、彩色もない素木の、ずっしりとした大きな像で、大きな目がやさしい。東北の仏像らしく雄大素朴である。
 堂内には、千百余年も前に比叡山から分けてもらった不滅の灯を今も守っている。織田信長の焼討で、叡山の灯が絶えたときには、逆にこの寺から灯を分けたという。*異説もあり。
 根本中堂の側には、芭蕉の門人たちが1853年に建てた古びた句碑が立つ。
 別の場所に立つ芭蕉と曾良の像及びそこの句碑は、後年のものである。

芭蕉と曾良の像

山門(登山口)
 山門から奥の院までは八百余段の石段を登る。
かなり急である。私は、今までに3回山寺にお参りしたが、この急な坂が来るたびにだんだんと緩く感じるのは仏のご利益のお蔭であろう。

 石段脇の岩の窪みには、所々に古びた石塔や石仏が立つ。昔、この地には遺骨を山寺の岩の窪みに納める風習があったとか。その名残であろうか?
 女の子の供養であろう、お地蔵様の横に可愛い人形と真っ赤な花が手向けられているのが目をひいた。。

石段
 
石段横の岩窪の人形
  石段の中ほど、仁王門の少し手前に茶店があり、その横に「せみ塚」と呼ばれる石碑が立っている。
 芭蕉没後の1748年、芭蕉の句をしたためた短冊をこの地に埋め、石の塚を建てたものという。
 「せみ塚」の「せみ」は、「岩にしみ入蝉の声」の「せみ」でしょう。この「せみ」については、いろいろと文学論争があるようだが、ここでは不問。
 この辺りの岩は凝灰岩で柔らかく、大小の無数の孔があいている。静寂の中、せみの声が岩にしみ込んでいくという表現が、この地に来て初めて理解できた。
せみ塚
 
仁王門
 せみ塚からしばらく歩くと仁王門、その左上には百丈岩が大きく立ちはだかり雄大である。
 仁王門は1848年、ケヤキ材で再建されたもので、仁王像は運慶の弟子の作という。この辺りの石塔、岩穴には人骨が納められているとの説明あり。この霊場には、慈覚大師入寂以前の昔から、そういう風習があったというが、大師を慕って大師の入定窟近くに遺骨を納めてもらったのだろう。
 仁王門をくぐり、またしばらく石段を登る。右手金乗院を左に曲がると、最上義光霊屋、記念殿(大正天皇が皇太子の時に参拝休憩したところ)、納経堂(慈覚大師入定窟の上に立つ。最上義光が建てた山内で最も古い建物で写経を納める)を経て開山堂、そして五大堂へと続く。

開山堂
 
五大堂
  開山堂は、立石寺を開いた慈覚大師のお堂で、大師の木像が安置されている。
 五大堂は、五大明王を祀って天下泰平を祈る。舞台造りのこの堂からの眺めは素晴らしく山寺随一の展望台となっている。
 前述のとおり納経堂の真下が、慈覚大師が眠る入定窟である。大師はこの地で亡くなったが、頭部を比叡山に送り、体部を山寺に安置したという。そのため入定窟の奥深くに置かれた棺内の遺骨には頭部を欠く。代わりに日本版デスマスクともいうべき木像の頭部像が安置されている。
 

五大堂からの眺め
 
納経堂
 写真で見る限り、全てを悟り入寂した安らかなお顔ながら、耳・目・鼻がいやに大きく、目を開き今にも起き上って活を入れられそうで、真に迫る像である。大師の死後間もない頃の作といわれている。

 もと来た道を戻り、再び石段を登る。奥の院の手前を左に曲がると岩窟の中に三重小塔がある。この塔は、高さ約2.5メートルの木造の小塔で重文、碑文によれば1519年の造立である。
 登山道の石段に戻ると、すぐ上が奥の院である。
 
三重小塔
 
奥の院
 左の写真の向かって右の建物が奥の院といわれる如法堂で、慈覚大師が入唐中に持ち歩いていたという釈迦如来と多宝如来を本尊とする。
 向かって左の建物が大仏殿で、像高5メートルの金色の阿弥陀如来を安置する。

 以上で山寺の参拝は終わり。麓から奥の院まで1千余段の石段を一段一段登ることによって、「煩悩が消滅され、幸福になれる」という。
 確かめようがないが、3回もこの石段を登って山寺に来たのだから、それなりのご利益はあるのだろう。
 
山上の鐘楼


斉藤茂吉記念館


斉藤茂吉銅像
 斉藤茂吉記念館は、山形から在来線で茂吉記念館前駅下車、徒歩3分のところにある。最上川の支流須川の崖上、東に蔵王を仰ぐ景勝の地である。明治14年、東北・北海道御巡幸の明治天皇の御休所ともなり、その時の建物が環翠亭として復元されている。
 茂吉は、ここから約2キロ北東の山形県南村山郡金瓶村に生まれた。
 旧姓守谷。14歳の時に斉藤紀一を頼って上京、開成中学から一高、東大医学部へと進む。正岡子規の影響を受け作歌を初め、「馬酔木」主宰の伊藤左千夫に師事した。
 東大卒業後は、精神病理学を専攻する傍ら「アララギ」の編集を担当、1913年歌集「赤光」を出版して、写生派歌人としての地位を不動のものとした。昭和26年文化勲章受賞。
 記念館には、茂吉の自筆の書画、原稿、映像などの資料を展示公開している。また、敷地内には斉藤茂吉のほか伊藤左千夫・島木赤彦の歌碑が立つ。

 死に近き母に添寝のしんしんと 遠田のかはづ天に聞ゆる

 私の好きな茂吉の歌である。

茂吉歌
  
茂吉歌碑

蔵王お釜

左千夫歌
 
左千夫歌碑

環翠亭
*島木赤彦の歌碑には、「わが庭の柿の葉硬くなりにけり 土用の風の吹く音聞けば」 とある。

名所旧跡トップに戻る