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    BGMは、一高明治四十五年第二十二回九大寄贈歌「筑紫の富士に」。

小さな旅ー名所旧跡を訪ねて(海外編)
西安(咸陽)と天津の旅


兵馬俑
 友人とふたり、ぶらりと中国の咸陽と天津に10日間行ってきた。
友人の知り合いが咸陽にいて、向こうへ行けばホテルも観光も大丈夫ということだった。ボストンバッグ一つで九州かどっか国内を旅行するように気軽に出かけた。
 成田から北京経由で西安咸陽空港に着いた。友人の知り合いTさんに会ってびっくりした。Tさんは3ヶ月前に脳梗塞で倒れ、頭はそれほどでもないが、歩くのがヤットで、口が全くきけない。声のかわりに口からは涎を垂れていた。コミュニケーションは筆談、これは前途多難であると思った。不安はは的中、Tさんお勧めのホテルは、水まわりを工事中で宿泊できず、タクシーをつかまえて、先ずは宿探し・・・・。
 しかし、世の中はなんとかなるもので、終わってみれば無事に中国10日間の旅を終えることが出来た。苦労話は省き、観光スポットの写真を中心に若干のコメントを掲載します。

*写真は平成17年10月撮影。
*咸陽は西安の北西25kmに位置し、秦始皇帝など古代11王朝がこの地に都をおいた(現在の咸陽は旧都咸陽より10km西方)。ここでは西安と咸陽を特には区別しない。大雑把なところは、いつものとおりである。

兵馬俑坑博物館

 秦王政は前221年、斉を滅ぼして天下を統一、始皇帝と称した。都は咸陽。始皇帝は、前246年に秦の王位に付いた13歳の生前から陵墓の建設に着手し、36年の歳月と70万人の労力を費やして壮大な秦始皇帝陵を完成させた。建設当初は、陵外に宮殿や地下宮殿があったという記録が残っている(司馬遷の「史記」)。しかし、楚の項羽により阿房宮などとともに焼き払われたという(兵馬俑坑博物館のビデオ説明)。
 兵馬俑坑は、秦始皇帝陵の倍葬坑である。1974年、この地に井戸を掘ろうとした農民が陶片を見つけ、これをきっかけとした発掘調査で発見された。兵馬俑坑の総面積は2万2780u、坑内には実物大の陶俑と陶馬が約7400体置いてあり、戦闘用馬車が130余出土した。2200年の時を経て、秦の始皇帝の地下軍団が悠久の眠りから醒めたのである。

兵馬俑坑博物館
 兵馬俑坑は1号坑から3号坑に分かれ、その上に秦始皇帝兵馬俑坑博物館が建つ。

 1号坑は最も大きく、面積は1万4260u、陶俑と陶馬6000余体が整然として環状の方陣を敷いている。 

 2号坑は、面積約6000平方メートルで、陶俑と陶馬が1300余体、戦闘用馬車80余および大量の金属兵器を携える。

 3号坑は、面積約520uで陶俑68体と馬車1。1号坑・2号坑道と有機的な統一体を構成し、3軍を統率する司令部といわれている。

 兵馬俑とは、殉死者の代わりに埋葬された陶俑のことで、日本で言えば埴輪のことである。このような兵馬俑は漢代の陵墓でも発見されているが(咸陽博物館)、秦の始皇帝兵馬俑の大きさ・坑の規模がずば抜けている。
 
 兵馬俑は秦の始皇帝の近衛兵をモデルにして作られ、同じ顔付きの俑はない。秦自身が西方の異民族であったというが、兵馬俑には明らかに胡人の顔付きのものがあり、既に秦の時代から咸陽は国際都市であったことが分かる。
 兵馬俑の種類には、将軍俑、軍使俑、武士俑などがある。大きさは、高さが1m78cmから1m97cm、体重は110kgから300kgである。

 秦帝国の永遠の存続を望み、万世一系の最初の皇帝・始皇帝と称したが、死後、わずか2年で秦は滅亡した。しかし中国の国名、チャイナ・シナは、秦の国名に由来する。始皇帝死し、国が滅び、宮殿が項羽に焼き払われようとも、中国最初の統一帝国としての国名・皇帝名、地下軍団は後世まで残ったのである。
 

兵馬俑(1号坑)

銅馬車(文物展示館)

兵馬俑(1号坑大写)

跪射俑(2号坑 ガラス越し))

兵馬俑(3号坑
*項羽 秦末の楚の武将。前209年に挙兵、劉邦(後の漢の高祖)とともに秦を滅ぼし、覇権を握った。ついで劉邦と天下を争ったが、垓下の戦いに敗れ、四面楚歌の中で自殺した。興味のある方は、司馬遼太郎「項羽と劉邦」参照。

鐘楼・鼓楼


鐘楼
 西安市の中心、東西南北の大通りが交差するところに鐘楼と鼓楼がある。

           鐘楼
 明代の1384年に建てられ、1582年に今の場所に移された。
 警報を発し時間を知らせために楼閣の上の大きな鐘を撞いたので、鐘楼と呼ばれるようになった。
 鐘楼は煉瓦木造の2階建てで、全体の高さは36m、土台は一辺5.5mの正方形で高さは8.6mである。
 鐘楼の鐘は有名な景雲鐘であるが、今は碑林に保存されており、観光客が撞くのは複製品である。
 朝に鐘を撞き、夕に太鼓を打つのが古風な形。1997年から「晨鐘暮鼓」の正式な儀式が行われている。

           鼓楼
 同じく明代の1380年に建てられ清代の1699年と1740年に2回修理されている。昔、楼の上の大きな太鼓を打って、時を知らせたことから鼓楼と呼ばれるようになった。もちろん警報を発する機能もあった。
 鼓楼は煉瓦木造の2階建てで、全体の高さは33m、土台は東西52.6m、南北38m、高さは7.7mである。

鼓楼

鐘楼の鐘

鼓楼の太鼓

興慶宮公園

興慶宮
 興慶宮は、唐の玄宗皇帝が子供の頃に住んでいた隆慶坊を714年に宮殿に改築したものである。その宮殿跡が興慶宮公園となり、当時の建物「沈香亭」等が模倣され再建されている。

 公園南門の東側に阿倍仲麻呂(中国名晁衡)の記念碑がある。彼の唐朝留学1200年にあたる1979年に日中友好に貢献した功績を称えるために建てられたものである。

 記念碑(中国では「紀念」碑)側面には、有名な仲麻呂の望郷詩と李白の哀悼詩(日本への帰国船が遭難、仲麻呂が死んだとの知らせを受け)が刻まれている。

     阿部仲麻呂の望郷の和歌
   天の原ふりさけ見れば春日なる
   三笠の山に出でし月かも


    李白哀悼詩 哭晁卿衡
   日本晁卿辞帝都
   征帆一片遶蓬壺
   名月不帰沈碧海
   白雲愁色満蒼梧

 
 仲麻呂の帰国にあたっては、王維が送別の詩を贈っている。仲麻呂の交友の深さと唐朝宮廷での活躍が偲ばれる。
 

仲麻呂の望郷詩と李白の追悼詩 

阿部仲麻呂紀念碑
*阿部仲麻呂 中国名は晁衡(朝衡とも)。717年第9次遣唐使に従い入唐。753年藤原清河らと鑑真和上の入朝に尽力し、自らも帰国の途につくが今のべトナム辺りに漂着し失敗。科挙の試験に合格、玄宗に仕え左散騎常侍、鎮安南都護を歴任した。一方で詩文をよくし、王維・李白と交流。唐土で770年に没す。

青龍寺

青龍寺雲峰閣
 青龍寺は唐代の仏教蜜宗を伝播する主な寺院の一つで、9世紀初葉から中葉にかけて日本から留学層を多く受け入れた。
 真言宗の開祖空海は、804年に入唐し、翌年長安・青龍寺で恵果和尚に胎蔵・金剛界・阿闍梨位の灌頂を受け、正統な密教を全て受法して、806年に帰国した。

 その後、青龍寺は荒廃し、長く場所も定かでなかったが、1973年に建物の跡が発見された。1980年代に日本仏教界の提唱と支援で、青龍寺跡に空海記念碑、雲峰閣などの唐風建物が建設された。

空海紀念碑

華清池


楊貴妃像
  春寒くして浴を賜う華清池
  温泉の水滑らかにして凝脂を洗う

          
       (白居易「長恨歌」)
 華清池は、唐代玄宗皇帝の時代に整備され、毎年冬には玄宗は楊貴妃とここで過ごしたといわれる。
 園内九龍湖に立つ楊貴妃は、いやに濃艶、中国もよくもここまで開かれたものである。

 華清池は、また西安事件の舞台である。1936年12月に内戦停止を主張した張学良等の説得にあたった蒋介石が逆に逮捕監禁された。この時に南京政府からは宋子文・宋美齢、共産党からは周恩来が交渉にきた。蒋介石も内戦停止を受け入れ、南京に帰還した。抗日統一戦線を大きく促進した歴史的場所は、五間庁として保存されている。

蒋介石執務室
*玄宗 唐の第6代皇帝。中宗を毒殺した葦后を殺して父の睿宗を復位させ、その譲りを受けて即位した。治世前半は、開元の治と呼ばれ唐朝中興の名君であった。しかし、晩年は楊貴妃との愛に溺れ、宰相楊国忠、節度使安禄山らを信じて安史の乱を引起し、唐朝衰退のきっかけを作った。
*楊貴妃 初め玄宗の子の妃であったが、玄宗に見出され、宮中に入り貴妃(女官の位)となった。玄宗の寵愛を一身に受け、一族の楊国忠は宰相にまでなった。安史の乱で逃亡中、長安の西の馬嵬駅で楊国忠とともに殺された。


大慈恩寺

大雁塔


大雁塔入口
 大慈恩寺は、唐の高宗が太子の頃、母の文徳皇后を追念するために天漏寺(隋代建立)を改築し、大慈恩寺としたものである。
 唐代の高僧玄奘は、インドから持ち帰った経典をこの寺の塔東院で翻訳し、中国仏教の一大宗派慈恩宗を創立した。ために寺勢は隆盛を極めたが、唐代以降、たびたび戦火に罹災し、塔の他、全ての堂宇は焼失した。今の大雄宝殿などの堂宇は、明・清時代のものである。

 大雁塔は、玄奘が持ち帰った仏典を保存するために唐の高宗が652年に建てた。最初は5重であったが、朽果てたために10重に増やされ、則天武后の時に今の姿に改築された。塔の高さは64m、四角形の角錐状を呈し、七重の塔である。
 *大雁塔・玄奘像の写真は逆光でうまく撮れず。

大慈恩寺山門

大雁塔

玄奘像

大慈恩寺

碑林

碑林正門
 宋代建造の孔子廟に集められた2300点にのぼる石碑のコレクションが碑林である。
 
 石碑の収集は、唐の文宗が経典の散逸を恐れて837年に造らせた開成石経(中国最大の石の書庫)に始まり、その後も漢代から近代に至るまで石碑や石像、墓誌銘が集められた。清代初期から碑林と称されるようになった。
 
 王羲士や顔眞卿等の著名な書家の墨蹟を石碑に刻された文字で知ることが出来る。石碑は芸術的価値のみならず、政治・経済・文化全般にわたり歴史的価値も高い。
 
 石刻では、6頭の馬のレリーフ「昭陵六駿」が有名だが、2頭は1914年アメリカに密輸されてしまったのでレプリカが展示されている。

石台孝経を納めた碑亭

法門寺


再建された真身宝塔
  法門寺は、後漢に建立された寺であるが、何回も破壊され、再建されている。
 1986年4月2日、崩れた宝塔の下から地下宮殿が発見され、翌年釈迦の仏舎利(指の骨、霊骨1、影骨3)が他の文物とともに見つかった。秦の始皇帝兵馬俑に継ぐ重大な発見と世界的に話題となった。
 倒壊した塔は、1988年に再建された。高さ41m、八角形の十三重の塔である。

法門寺入口

 乾陵と永泰公主墓   


乾陵参道
 乾陵は、唐の高宗とその妃で次の皇帝則天武后の合葬墓である(日本にも天武・持統天皇合葬墓がある)。
 
 陵墓参道には124体の石像が並ぶ。朱雀門の外の東西両側に「述聖記碑」「無字碑」の二つの大きな碑があり、この二つの碑の北側に首のない石像が61体立ち並ぶ。彼等は、中国南西一帯属国の首領で、高宗の葬儀に参列のため来た。それにしても、なぜ首を欠くのだろうか。 

 乾陵には地下宮殿が確認されているが、当時はまだ発掘されていなかった。三つの陪塚が先に発掘されている。永泰公主墓、懿徳太子章懐太子墓である。いづれも則天武后の孫や子供で武后を侮辱したとして、また武后に対し謀反を企てたとして若くして殺された。中宗を毒殺した葦后といい、清代の西太后といい、げに女性の嫉妬と権力欲は恐ろしい。
 墓は乾陵博物館として公開されている。このうち永泰公主の墓道の壁画は特に有名。全長87.5mの墓道の主な壁画は剥がされ、陝西歴史博物館に収蔵されているが、墓道には複製の壁画が再現されている。高松塚の壁画に似て見事である。
 

乾陵(後方の山)

首のない石像

乾陵博物館(永泰公主墓)入口
*高宗 唐の第3代皇帝。太宗の第9子。外戚の長孫無忌らの援助で太子となり、即位したが、彼等の反対を排して父太宗の後宮にいた則天武后を皇后とした。晩年は疾病を得て実権を失った。
*則天武后 皇后王氏を失脚させて皇后となった。高宗が病むと独裁権力を握り、高宗の死後、子の中宗、睿宗を廃位させ、690年国号を周と称して自ら即位した。

茂陵


茂陵博物館入口
 漢の武帝は、充実した国力を対外計略に注ぎ、匈奴を討ち西域と交易し、シルクロードを開いた。南は南越を征服し、また東は朝鮮に楽浪郡以下4郡を置き、漢の全盛期をもたらした。
 茂陵は、その漢の武帝の陵墓で、即位翌年から建造を始め、完成に53年を費やした。茂陵の周囲には武帝を支えた李夫人墓、衛青墓、霍去病墓などの陪塚が存在する。
 前121年、漢の将軍霍去病は匈奴を大破、匈奴の渾邪王は漢に降った。王昭君の哀話に代表される北方匈奴に対する高祖以来の屈辱的な立場はこの時より逆転した。匈奴を踏みつける石馬の像と将軍霍去病廟の存在は、武帝の喜びを如実に物語るものであろう。
 

茂陵

匈奴を踏みつける石馬

霍去病像

去病廟

清真大寺


省心楼
 西安市最大のイスラム教モスク。鼓楼北西の化覚巷にあることから化覚巷モスクといわれている。
 明代の1392年の創建、主体建築物は全て東向きで東西に長い構造となっている。東の入口から入って、西のメッカの方向に向かって礼拝できるようにとの趣旨である。
 境内は東から西へ四つの庭が並んでいるが、3番目の庭にある3階建て八角形の「省心楼」は、秀麗優雅である。
 門前には化覚巷の骨董街があり、また「清真料理」を掲げたイスラム料理店が集まる大麦市街がある。
 イスラム教徒は、酒を飲まないと聞く。ただ、唐の時代には、この辺り「紅毛碧眼」の胡姫が酒席にはべる店が大繁盛したとか。李白に「笑って入る 胡姫の酒肆の中」とある。李白が落花を踏んで通ったのは、西市のこの近くの酒場である。

勅賜礼拝所の額


陝西歴史博物館


陝西歴史博物館
 陝西歴史博物館は、1991年に開館した国立の歴史博物館で、陝西で出土した37万点余が収蔵されている。

 博物館は、十三王朝が都を置いた古都にふさわしく中国の宮殿様式、なかんずく唐代建築の雄渾博大、洗練酒脱の特色を採り入れて建設された。
 先ずその規模の大きさと数量の多さに圧倒され、続いて展示物の素晴らしさに感嘆する。

 常設展示室は第1室から3室まで各王朝別に展示されている。主なものは周代の青銅の鼎、秦代の兵馬俑、漢代の兵馬俑、玉璽、杜虎符、獣首瑠璃杯、商・周時期の青銅器、唐代の皇帝陵やその陪塚(乾陵博物館の永泰公主墓の壁画)の出土品、金銀器、耀州窯の青磁器などは、「たいてい神技も及ばない世にも珍しい宝」である(中国観光局)。

 唐文化の国際伝播という意味か、日本の高松塚壁画の複製が展示されていた。

展示物

展示物(唐三彩)

展示物(高松塚古墳)

咸陽博物館


咸陽博物館
 咸陽博物館は、明代に造られた孔子廟を改築して1962年にオープンした博物館、主に秦・漢時代の出土品を展示する。

 その中でも、楊家湾漢墓(漢高祖劉邦の陪葬墓と説明板にある)出土の兵馬俑約3000体は、咸陽博物館を代表する展示物である。
 秦の始皇帝兵馬俑に比べ、高さは約60cmから70cmと小ぶりながら精巧に作られており、整然と隊列を組んで並べられた様は圧巻であり、一部に彩色も残る。

 その他、秦の都咸陽ならではの展示物として咸陽宮跡から出土した建築材料や秦の始皇帝が度量衡の統一を告示した詔書なども展示されている。

展示物(黒甲武士俑)

展示物(兵馬俑)

展示物(大仏)

天津


周恩来ケ頴超紀念館
 一緒に旅した友人の亡くなった細君が天津育ちで、旧天津疎開地を是非見たいという。天津というだけで住所も不明、いい加減だが、とにかく行ってみようということで咸陽のホテル近くの旅行社で天津までの往復の航空切符を買い、天津のホテルを1泊予約した。
 
 天津では半日はタクシーに乗って、旧疎開地らしきところをグルグル廻った。タクシーの運転手は日本語がまったく通じず、天津伊勢丹に寄って日本人スタッフに尋ねてみたが、古い住所番地もわからないのだから、所詮は無理。「まアー、こんなところに住んでいたのだろう」という程度でケリをつけた。

 後は観光と食事。

 観光は、写真にあるとおり周恩来ケ頴超紀念館、天津歴史博物館を見てまわった。天津歴史博物館では、日中戦争での日本軍の悪行を展示したものが多かった。左最下の写真では、「日本帝国海軍陸戦隊先登記」と記した石柱を立て、軍人の個人名をあげて、こいつは「こんな悪いことをした」から死刑にしたとの説明があった。

 天津鼓楼文化街で名物麻花のお菓子を買う。最後は天后宮に寄って観光は終わり、天津伊勢丹の日本人スタッフに教えてもらったレストランで北京ダックの食事をして天津の2日間を終えました。

 ホテルで元に両替してもらおうと5千円札を出したら、50万円札と間違われ、片手で持てないほどの多量の元をもらったり(後に返金)、飛行場でせっかく買った酒ビンを取り上げられたり等など、いろいろありましたが、それは省略。

周恩来夫妻

天津鼓楼文化街

天后宮

天津歴史博物館

天津の繁華街にSONYの看板

咸陽


北京ダック
 最後に8日間を過ごした咸陽での食事と困ったことを記して終わりにします。

 とにかく友人は北京ダックが好きで、咸陽に着いたその日の夜から北京ダック。料理人が宴席まで来て料理してくれます(写真左上)。私は、肉よりも皮が旨かったです。ツアーで日本人が行くような店は行きませんでしたので、ガイドブックに載っている値段よりは、ずっと安かったようです。帰りの前夜は右下の清朝料理。観光店らしきところは、この日だけ、餃子が中心でした。普通の日はホテルのレストランで、地元の酒を飲みながら食事をしました。メニューを見て注文していましたが、予想に反し、辛かったり、変な匂いがしたり、総じて料理は口にあいませんでした。牛や豚肉はほとんどなく、肉料理は羊が多かったようです。麺も日本のようではなく、珍しく日本字で小さくラーメンと括弧して書いてあったので注文したら、全くの別物でした。ガイドブックに書いてある西安料理はありませんでした(特別注文かもしれません。あんな高価な料理は地元の人は常日頃は食べないのでしょう。我々が毎日ご馳走を食べないのと同じ)。

 ホテルで困ったことは両替でした。1週間に金曜日1回、しかも前日午後3時までの予約が必要でした。旅行者には不可能です。銀行はすぐ近くにありましたが、パスポートの写しを出せとか、1万円を元に替えるのに事務手続が煩雑で1時間も2時間もかかりました。

 左下写真は咸陽駅。結構混雑していました。今度この地に旅行することがあったら、鉄道にも乗ってみたいですね。
 

ホテル

咸陽駅

清朝料理店にて

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