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    BGMは、一高明治三十七年第十四回紀念祭寮歌「都の空に」。宇和島出身の穂積重遠大先輩の作詞である。宇和島城天守閣に登り、「あはれ護國の柏葉旗 其旗の下我死なん」と歌いますか。 

小さな旅ー名所旧跡を訪ねて
南予の旅

 宇和島城址  瀬戸内海の小島に住んだことがあるので、四国はよく旅行したが、松山より南の宇和島方面に遊んだことは少ない。宇和島といえば、闘牛や蒲鉾で有名であるが、人情が暑く、なによりも好物の”ざこてん”がおいしい。
 何年か前に宇和島・宇和町(現西予市)・大洲市・内子町をドライブした。天気もよく、海は内海と違い私の故郷熊野灘に似て紺碧で荒く、新鮮な魚介類を肴にお酒もおいしい楽しい旅でした。

 以下、旅の順に宇和島城(宇和島市)、開明学校(宇和町)、大洲城(大洲市)、内子座(内子町)の写真を中心に簡単な説明をしましょう。

宇和島城


宇和島城天守閣
 写真の小さな玩具のような白壁3層3階の天守閣は本物の城、 国の重要文化財である。

 この地に天守閣を持った本格的な城郭を造ったのは、1595年宇和郡7万石に封じられた藤堂高虎であった。その後、この城は、富田信濃守信高居城、幕府直轄地を経て、1614年伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封じられて入城、以来宇和島伊達氏歴代の居城となった。
 現在の天守は、二代宗利が寛文年間に行った城郭の大修理により1671年に完成したものである。

 
 写真左下の藩老桑折氏長屋門は、市内から移設されたものであるが、向かって右側が厩、左側の長屋には門番と家付きの使用人はじめ、中間・小者が居住していたという。江戸時代上級武士の長屋門の様式をよく残している。

 写真右下は、明治の碩学穂積陳重・八束兄弟(ともに法学博士・東京帝国大学教授)の生家長屋門である。兄弟が幼少期を過ごした。
 明治37年一高紀念祭寮歌「都の空に」を作詞した穂積重遠は、陳重の子。今度この城を訪ねることがあったら、大きな声で「都の空に」を歌うことにしよう。

天守閣への登山道

藩老桑折氏武家長屋門

穂積陳重・八束兄弟生家長屋門


開明学校
宇和町


開明小学校
 宇和町(現西予市)には、明治15年に建築されたハイカラな小学校ー開明小学校が残っている。窓は洋風のアーチ型となっており、当時としては珍しい舶来のガラスが使用されていた。有名な長野松本の旧開智学校とは姉妹館提携の間柄で、ともに国の重要文化財に指定されている。

 シーボルトの娘で、日本最初の女医イネが医学を学んだのは、この宇和町。父シーボルトがこの町出身の二宮敬作に養育を託したことによる。二宮敬作という学者は、情に厚く任愛の人だったようで、蛮社の獄を脱獄した高野長英も二宮を頼り近くに隠れ住んだということである。

シーボルトの娘イネ


大洲城


大洲城櫓
 大洲市は、伊予の小京都といわれる上品な街で、街の真ん中を肱川が流れる。夏季には鵜飼いが行われ、川辺には遊覧船が何艘も並ぶ。大洲城はこの肘川を見下ろす小高い丘に立つ。
 
 大洲城は、鎌倉時代末期伊予の国の守護宇都宮豊房が築いた地蔵ヶ岳城が始まり。しかし、天守を中心とする本格的な近世城郭に整備されたのは、藤堂高虎等が相次いで城主になった頃といわれている。1617年米子から加藤貞泰が入城、以来大洲は明治維新まで加藤氏6万石の城下町であった。
 維新の混乱の中、明治21年天守閣は取壊されるが、4つの櫓は解体を免れ残り、国の重要文化財となっている。
 私が訪れた時は、4層4階の天守閣(木造)は工事中であった。従って、写真には天守閣はない。天守閣は、平成16年に完成し、堂々たる勇姿を川面に映して聳え立つという。機会があれば、また訪れてみたいものである。
 

大洲城櫓

内子座


内子座表
 この地域(愛媛県喜多郡内子町)は、木蝋や生糸の生産でずいぶん豊かで、芸術芸能の愛好家が多かったらしい。そういう文化風土の町に、大正5年2月、大正天皇即位を祝って建てられたのがこの内子座(木造2階建て、瓦葺の入母屋造り)である。農閑期には歌舞伎や文楽、時には映画や落語も演じられたりした。
 舞台下の所謂”奈落”や”すっぽん”なども見学できる。芝居好きでなくとも、一見の価値あり。
 サスペンスドラマの舞台としてテレビで見たという人も多いのでは。
 

内子座舞台


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