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   BGMは、第一高等学校明治四十五年第二十二回紀念祭寮歌「霧淡晴の」


名刹巡り 奈良の寺   
東大寺

 


小鹿に授乳する雌鹿
 亡くなった母から、大鷲にさらわれた赤ん坊が大きくなって奈良の偉いお坊さんになった話をよく聞かされたものである。そのお坊さんが東大寺を開山した良弁僧正であると知ったのは、ずっと後のことである。
 過日、平城寮歌祭参加のついでに、久しぶりに東大寺を訪ねた。この寺は、”奈良の大仏様”や”お水取り”の寺として余りにも有名である。私も中学の修学旅行以来、何回訪れたことか。しかし、この寺の門前には観光客は余りにも多く、それに最近は強引な人力車の客引きが嫌で、奈良公園をぶらぶらすることはあっても、この寺を訪れることは久しくなかった。
 
 奈良公園をうろうろしていて、今年は「重源上人800年御遠忌」にあたることを知った。突然「奈良の大仏」に会いたくなった。幸い、翌日の午前中は予定が無かったので、朝、早々と猿沢の池畔のホテルを出て、東大寺に向かった。

東大寺の沿革

             

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 東大寺は、旧平城京の京極大路に位置する華厳宗大本山です。
 728年に聖武天皇が早世した皇太子基親王の菩提を弔うために建てた金鐘寺が東大寺の始まりといわれています。
 
 741年国分寺建立の詔により、大和の國の国分寺となり金光明寺、やがて東の大寺(官寺)即ち東大寺と称するようになった。開山は良弁僧正(初代別当)。良弁と大仏を発願した聖武天皇、開眼供養を先導した菩提僊那、大仏の造営の勧進を行った行基の四人の功績を讃え、この寺を「四聖建立之寺」とも「金光明四天王護国之寺」ともいう。
 
奈良の大仏様”と親しまれている本尊盧遮那仏の開眼供養が聖武上皇の出席、インド人僧正菩提僊那の先導で華々しく行われたのは752年のことである。仏教による鎮護国家政策の中心寺院として、また南都六宗(三論、成実、法相、律、華厳、倶舎、後には真言、天台を加え八宗)の兼学学問道場として奈良仏教の最高位を極めた。
 
 しかし、この大寺も都が平安に移ってからは衰微の道を辿り、幾たびかの法難に遭遇する。
 早くも平安の初めには、大仏の首が落ち、治承年間には平重衡による焼討ちに遭い、さらに戦国時代に入り、松永久秀と三好三人衆との戦禍で主要伽藍をことごとく失った。大仏も頭部を欠く無残な姿となり、野ざらしのまま、雨露を凌ぐ術もない状態の時もあったという。その度に重源上人公慶上人等による献身的勧進努力で、不死鳥のように甦った。
 
 明治に入り、一山一宗派ということで、東大寺は華厳宗総本山となった。明治・大正、昭和の大修理を経て、現在に至る。


良弁杉(二月堂前)

境内の案内

 東大寺の主な見どころは、南の南大門金堂(大仏殿)、西の戒壇堂転害門、北の正倉院(現在は宮内庁所管)、東の二月堂三月堂鐘楼手向山八幡宮等である。東大寺の建物のうち、創建当初の建物は三月堂(正堂)、転害門、正倉院だけで、鎌倉再建の建物は南大門、鐘楼、開山堂、三月堂(礼堂)のみである。100メートルを超える高さの東西の七重塔、大仏殿の北に位置した講堂、西に開いた西大門中大門は、今はわずかに礎石や標識でその跡を知るのみである。観光客でごったがえす大仏殿、二月堂、三月堂ばかりでなく、これらの遺構の残る境内をゆっくり散策し、聖武天皇、行基、良弁、重源、公慶上人の事跡に思いを馳せるのも、亦楽しからずやである。そして、時間があれば、二月堂から歴史の道を辿り、春日大社から新薬師寺、さらには白毫寺まで足をのばしたいものである。
 ここでは、東大寺の主な建物を中心に境内をご案内しましょう。
  *写真は平成18年9月30日に撮影したものを中心とするが、他の日に撮影した写真も使用することがある。

    
南大門


南大門
金剛力士像(左阿像、右吽像)
 東大寺の玄関は南大門(国宝 鎌倉 入母屋造り 高さ25.46メートル)。 南大門は我国最大の山門で、五間三戸の二重門、ただし下層は天井がなく腰屋根構造である。平安時代には大風で倒壊したことがあるが、すぐ修復した。しかし、東大寺は平重衡による治承の焼討ちにより、この山門も大仏殿もほとんどの堂宇を失った。再建にあたって重源上人が採用した建築様式は簡潔で豪壮なもので、大仏様(天竺様とも)と呼ぶ。南大門はこの様式を今に伝える貴重な遺構である。
 南大門の写真を見て分かるように、柱がすらりと伸び、二重の屋根の間隔が接近している。屋根裏まで達する大円柱(直径約1メートル)は18本あり、その高さは21メートルである。各柱を何本もの差し木が横に貫いている。鉄筋の骨組みのように建物全体の強度を保っている。8メートルを超える大きな金剛力士像を収容し、人々にその威容を誇示するためにも下屋根を高くとったのだろう。。
 金剛力士像(国宝 鎌倉 寄木造り)は、重源上人の特別の依頼で運慶・快慶一派が法華堂の秘仏・執金剛~像や金剛力士像を参考にたった69日間で完成させた。阿像と吽像には作風に違いがあり、このことから長く阿像は快慶作、吽像は運慶作といわれてきた。最近の調査で前者は定覚湛慶の、後者は運慶快慶の作であることがわかった。金剛力士像の配置は、他の寺のそれとは異なり、左右が逆で、かつ正面を向いておらず、横向きで相対している。当初からそうだったのか、雨風から像の損傷を防ぐために門の正面を閉じたために向きを変えたのか、理由は不明である。昼尚暗く、また前面に金網が張られているため、二つの像をはっきり見ることが出来ないのは残念であるが、大仏様の門を守るにふさわしい巨大で凄まじい憤怒の姿は、見る人を圧倒する。
 

金堂大仏殿)と大仏

 南大門をくぐると、前方に中門・回廊に囲まれた東大寺の金堂すなわち大仏殿が眼前に迫ってくる。鏡池に姿を映して聳える大仏殿は、目の前の中門に遮られてそれほど大きくはない。しかし、西端の入口から一歩回廊内に踏み入れ、大仏殿を見上げる時、世界最大規模のこの木造建築のとてつもなく巨大なことを実感する。
 古代寺院の金堂前には燈籠が配置される。大仏殿前にも大仏開眼法要にあわせ作られた大きな八角灯篭(天平 銅造 国宝)がある。4面の火袋に音声菩薩が、4面の扉には獅子の半肉彫りが描かれている。特に音声菩薩は大空を自由に舞い楽を奏でる天女の姿が見事に描かれていて、目を閉じ耳をすませば、どこからか笛の音が聞こえてきそうである。

鏡池から中門・大仏殿を臨む

大仏殿

音声菩薩
 東大寺の本尊盧遮那仏を安置する金堂は、一般には大仏殿と呼ばれている。大仏殿は過去2回、鎌倉時代と江戸時代に再建されている。現在の大仏殿は江戸時代に公慶上人が勧進して将軍徳川綱吉とその母桂昌院の賛助を得て再建されたものであり、高さ・奥行きは創建時と変わらないが、正面はは往時の約3分の2(11間から7間)に縮小している。

 大仏殿の概要(現在)
           一重裳階付き寄棟造り、本瓦葺き、正面銅版葺き唐破風付き
           東西57.01メートル、南北50.48メートル、高さ48.742メートル

 永禄年間、松永久秀と三好三人衆との戦禍で焼失した大仏殿は、その後、元禄時代まで140年もの長きに亘って再建されることはなかった。上半身のほとんどを失った大仏は、徐々に鋳造されてはいたが、頭部を欠く大仏は、露座に木造銅版張りの無残な姿を曝していたのである。公慶上人の献身的勧進によって復興されたが、往時の大仏殿を再建するに必要な資金も巨木も集めることが出来なかった。そのために、建物の規模を縮小し、柱も数本の材を合わせて、これを金輪で締めて用いざるを得なかった。大仏の写真で、柱の金輪があるのが分かる。

 公慶上人
は、鎌倉再建の重源上人と異なり、不足する資金集めに翻弄され、建築技術の工夫までは及ばなかったといわれる。このように資金不足で建設された大仏殿は、所謂安普請のため、老朽化著しく、十九世紀初頭には、すでに支柱を必要としていた。ために明治・大正、昭和と大修理をして、建物の維持強化を図って、現在に至っている。明治・大正の大修理は解体こそしなかったが、小屋作りを鉄骨構造に改め、柱も一本一本抜いて修理したり、近代的な防災設備を施した大修理であった。大棟両端に聳える鮪もこの時に従来の鳥衾を改めたものである。昭和の修理では、屋根瓦の葺替え、腐朽部分の修理等を実施した。
          
 
 創建当時の大仏殿の模型が大仏殿北側に陳列されている。私達、見学者はこの模型によって、奈良時代の大仏殿を想像するより仕方がないが、余りに大きな大仏・建物であったために、前述のとおり平安初期には大仏の首が落ちたり、建物も傾いたりしたために、守山を築いたり、つっかえ棒をして、大仏と大仏殿を維持してきた。
 
 重源上人
の鎌倉の再建では、源頼朝の資金援助を得るとともに、大仏殿の構造強度を増し、材料の巨木不足を補うため、さらに工期の短縮を図るために大仏様という建築様式を編み出した。外見的にも巨大な大仏殿にふさわしく簡潔で豪壮であったという。
 具体的には、第1に、建物の構造強度を増すために、柱に穴を穿って横材を貫通させた。柱と柱はこの貫によって幾段にも堅く結ばれている。第2に、大仏様は規格的寸法を採用した。巨大建築物の建築を効率的に、かつ短期日に完成させるに多いに役立ったことだろう。重源は勧進のみならず建築技術、さては材料の運搬方法にまで、画期的な方法を工夫して大仏や大仏殿を再建したのである。まさに超人的才能の持ち主であった。
 *重源上人は勅許を得ることなく、周囲の反対を押し切って独断で、大仏保護のために築かれていた背面の山を撤去した。大仏復興の最大の決断であったという。余ほどの強い意志と大仏復興にかける並々ならぬ情熱を感じとることが出来る。

 大仏様の大仏殿は今はないが、東大寺には鎌倉再建期の建物として南大門鐘楼が大仏様建物として残っている(他では播磨・浄土寺が大仏様建物として有名)。

大仏・盧遮那仏
 大仏(国宝 江戸 銅像 )、正式には盧遮那仏といい華厳経の教主である。右手は施無印(畏怖を取り除き安心させる)、左手は与願印(願いを与える)を結ぶ。寺のパンフレットによれば、「あらゆるものを照らす、広辺無限の宇宙そのものである」とある。一般人にはよく分からない説明であるが、密教の「大日如来」のことである。
 前述のとおり、治承・永禄の二度の戦禍で、この大仏は満身創痍、創建当初のままであるのは、わずかに台座蓮弁の一部分であるといわれる。例えば頭部は江戸時代の、腕は桃山時代の作である。
 台座の連弁には壮大な蓮華蔵世界が毛彫りで刻まれている。当初の大仏はこの毛彫り図から想像して、今の大仏よりは、もっと大らかで気品あるものであったらしい。
 大仏の両脇には向かって左に虚空蔵菩薩が、右に如意観音が侍す。ともに江戸時代に作られた木造仏像である。さらに大仏殿の四隅を守る四天王のうち西北隅に広目天像が、東北隅に多聞天像が置かれていた。

 工事に携わった延人数   260万人余り
 鋳造に使用された銅     449トン
 鍍金に使用された金     440キロ
 像高               14.98メートル
 台座高               3.05メートル
 重さ                380トンと推定
 

広目天

多門天
  
 虚空蔵菩薩
 
如意輪観音

 大仏殿の後は、東の二月堂に向かうのが通常のルートだが、私は西の戒壇院を訪ねることにした。大仏殿の雑踏を逃れ、まずは静寂の中に身をおきたかったからである。戒壇院は日本仏教史上、重要な意味を持つものであるが、二月堂や三月堂に比べ訪れる人の少ないのは残念である。

戒壇院

*鑑真和上の招来については、「唐招提寺」参照


戒壇堂
 唐僧鑑真が来日し、我国最初の戒壇を築き、聖武上皇以下に授戒したのは、東大寺大仏殿前の仮戒壇であった。それから3年目に大仏殿の西、現在の戒壇堂の地に受戒堂、講堂、僧坊等からなる常設の戒壇院が完成した。戒壇院は、治承・文安・永禄と三度の戦禍を経て、現在の戒壇堂は江戸時代に再建されたものである。千手堂や授戒堂、庫裏のみがあるのみで、往年の姿は見るべきもない。
 戒壇院は鑑真により、その後、下野の国薬師寺と筑紫の国観世音寺にも戒壇が設けられ「天下の三戒壇」と称せられた。東大寺の戒壇は、その中でも中央戒壇として重きをなした。
 戒壇堂内部は、中央に多宝塔があり、内部に鑑真将来の釈迦・多宝ニ仏(模作)を安置、四隅に約1.58メートルの塑像の四天王像(国宝 天平)を配す。四天王像はもと銅像であったが、今はない。現在の四天王像は東大寺内の中間堂から移されたものといわれている。二月堂の四天王像とよく似ていて、同じ工房で製作されたものらしい。
 狭い堂内ではあるが、この「雄渾にして偉大」「静中動あり」」といわれる天平の傑作を眺めていると結構時間が経つのが早いものです。 

 戒壇堂の門出て、左に北東の方向に歩く。大仏殿の後方、すなわち講堂跡に出る。さらに左に曲がると正倉院正面である。一般には公開されていないし、休日は門内にはは入れない。掲示があって、「東の方向に進み、最初の角を左に曲がると塀越しに正倉院の建物が見える 」とあった。下の正倉院の写真は、その塀越しに撮ったものである。

正倉院と転害門




正倉院
 正倉院とは、もともと国や郡の正税を収める倉庫群のことで、後に、寺社の倉庫にもこの名称が用いられた。一般名詞であったが、東大寺の正倉院だけが残ったので、何時しか固有名詞となった。現在は宮内省の所管で、御物は新しい宝庫に移されている。
 
 聖武天皇遺愛の、また大仏開眼供養の際に用いた貴重な品々を1200年余にわたってこの校倉造りと高床式の倉庫に収めてきた。
 シルクロードの最終地として国際性豊かな品々が多く、しかも保存状態が抜群で、歴史的学術的価値の大きいことはいうまでもない。 

 正倉院から西に行くと転害門に至るが、今回は省略した。写真は以前に撮影したものである。この門は、三間一戸八脚門の切妻造りで、天平の遺構である。
 東大寺には西に開く門としては、この転害門のほか、中大門、西大門(「金光明四天王護国之寺」の扁額で有名)があった。現存しているのは、転害門だけであり、しかも創建当時のものである。 
 
 この門には、注連縄が張ってある。東大寺創建のときに東大寺の守護神として招来した宇佐八幡宮の神輿を迎えるためである。 門の真ん中にある四つの石は、神輿の置き場であり、転害門という名前は、この石と何らかの関係があるらしい。国立奈良博物館で、転害門の名に碾磑門と展示があったように記憶している(間違いか?)。碾磑とは石臼のことである。
 
 「東大寺の鎮守手向山八幡宮の転害会がここをお旅所としたことから転害門と呼ばれた」とのことである。

転害門
 正倉院を後にして、雑木林に埋もれた講堂跡の辺りに戻り、小道を東に進む。小川のせせらぎと時折小鳥の声を耳にするのみ、大仏殿の雑踏などなかったかのように静寂である。やがて両脇に土壁の続く石畳道を登りきると、人のざわめきとともに前方に舞台造りの二月堂が姿をあらわす。天平の昔に思いをはせながら、この道をゆっくりと歩くのが東大寺で一番好きである。

湯屋


湯屋
 二月堂の手前を右に折れると、東西8間、南北5間の大湯屋がある。
奈良時代に創建された。光明皇后の施浴伝説があるように、一般の人にも開放されたという。治承の兵乱で焼失、現在の建物は、1197年に俊乗上人が再建したもので、重文。内部に鉄湯船があり、「最古の洗浴の貴重な遺構である」(東大寺説明看板による)。

 興福寺にも同様の湯屋があった。仏教の法要施設として、湯屋は欠かせないものだったのだろう。ところで、湯船に浸かって入浴する日本人の風習は、ずっと後世になってからという。この湯屋の中央には、鎌倉時代に作られた湯釜(口径231cm、深さ73cm)があり、この湯釜で沸かした湯を浴びていたというが、 具体的な入浴方法にちょっと興味が湧きます。興福寺の釜の口径150cmよりは大きい釜だが、やはり大衆風呂ではなく、一部の高僧が入浴する湯屋だったのではあるまいか。ちなみに、この湯屋(大湯屋)は、東大寺では「温室」ともいうそうです。

二月堂


二月堂
 二月堂(重文 室町時代)は、本尊の秘仏十一面観音のための修二会すなわち「お水取り」が行われるお堂で1669年の再建である。舞台造りで、西向き。仏前にかかった六角灯籠が趣を添える。
 修二会を始めたのは良弁の高弟実忠であるといわれている。修ニ会の盛況と共にお堂も段々大きくなっていったという。
 
 舞台からは大仏殿などの眺めもよく、、長椅子に座りながら、あるいは欄干に寄りかかりながら休憩をとる人が多い。
 
修ニ会:修二月会の略。2月がインドの正月にあたることから、毎年2月の7日間に国家の招福除災・豊穣を祈願して寺院の堂ごとに行われる法会である。東大寺修二会は、古態をよく伝えているといわれる。

閼伽井屋(若狭井)
 二月堂の下にある閼伽井屋
毎年3月1日から14日に行われる修二会本業の際、12日深夜、閼伽井屋の井戸より本尊十一面観音にお供えする水(香水閼伽)を汲む儀式の行われるところである。
 伝説として若狭の国(福井県)から流出してくる井戸ということで「若狭井」ともいう(閼伽井屋の前に立つ石碑には「若狭井」とあります)。若狭では遠敷川(小浜市)で3月2日に「お水送り」の儀式が行われ、その日に注いだお水が地下水となって10日後(閼伽井屋の説明板では「当日」)に閼伽井屋の井戸に到着するということです。
 
 「お水取り」が昔から関西に春を告げる行事に間違いはない。母から「奈良のお水とりも終わったから、これから段々と暖かくなる」とよく言われたものである。

 法華堂(三月堂)

 二月堂の南隣下に建つのが法華堂(三月堂)である。大仏殿の前の道を東にとるコースの場合は、鐘楼・開山堂等を経て、石畳の坂道を上ると、正面に法華堂が見える。
 
法華堂(正堂側)

法華堂(礼堂側)

不空羂索観音と伝日光・月光菩薩像
 法華堂は、東大寺の前身・金鐘寺の主要伽藍で、ここで我国で華厳経が最初に講義されたといわれている。この堂は、東大寺最古の建物で国宝である。天平時代の正堂(北側)と鎌倉時代の礼堂(南側)の二つの部分からなるが、何の違和感も感じさせない。
 本尊が不空羂索観音であったことから、羂索堂と呼ばれていたが、この堂で法華会が行われるようになって9世紀には法華堂に、さらに法華会が三月に行われたことから、後世、三月堂とも呼ばれるようになった。
 
 堂内には本尊の不空羂索観音像を中心にして合計16体の仏像が所狭しと立ち並び、「仏の世界」を醸し出している。このうち12体が国宝、4体が重要文化財、14体が天平仏(9体は乾漆像、5体が塑像)である。日光・月光両菩薩、弁財天・吉祥天の各像はもともと法華堂の仏像ではなかったようである。

 「堂々たる体躯で悩める人々をどこまでも救いに赴こうとされている不空羂索観音像、端正な顔立ちで合掌し、透徹した美しさで人を魅了して止まない(伝)日光・月光両菩薩像。哀愁の美をとどめる吉祥天像、髪を逆立て忿怒の相もすまじい金剛力士像、それぞれにほとけの世界を守ろうと多様な表情でたたずむ四天王像、それに東大寺創建以来今なお色あざやかに、金剛杵を振り上げ忿怒の相で仏敵より人々を守ろうとする秘仏執金剛神像など、天平彫刻の粋が集まっている」(法華堂パンフレットより)
 
 中央の不空羂索観音は、三目八臂の複雑な体系ながら、堂々とした体躯でもって見事に均斉を保っている。最初は奇異な感じがして、なかなか親しめなかったこの仏像だが、壁際の長椅子に座り、一心に祈っていると、いつしか観音様の懐に抱かれている自分に気づく。観音様にお参りする時は、ただひたすら自分をさらけだし観音様に祈る、おすがりすることが大切である。法華堂に来ると、いつもそう思う。

 これらの仏像が立ち並ぶ内陣の天井(国宝)も見逃せない。大虹梁二本に支えられた折上組入天井がゆるぎなく張られ、三個の天蓋が吊られて仏の位置を示している。

 法華堂の前には、四月堂があり、その横の石畳を下りていくと鐘楼や開山堂を経て、大仏殿へと続く。石畳には燈籠が立ち並び、「今、自分は古寺の境内にいるのだなー」とつくづく感じさせてくれる趣深き小道である。
            鐘楼と梵鐘

 古代寺院の鐘楼は、楼造すなわち二階建てが多い。東大寺の鐘楼(国宝 鎌倉)は珍しく一重である。重源の次の勧進栄西禅師が再建したもので、大仏様に禅宗的要素が加わっている。ピンと両翼を天に張り出した屋根は、がっしりした軒の高い太柱と共に、重さ26.3トンもある鐘を吊り下げるにふさわしい豪放な建物を形作っている。

 梵鐘(国宝 天平)は、東大寺創建当初のもので、大仏の鐘として中世以前の古鐘中、最大のものである。鐘の音も振幅が非常に長く、「奈良太郎」と親しまれており、、日本三名鐘の一つである。
 
 
 

鐘楼

大仏殿へ続く石畳

 手向山八幡宮


手向山八幡宮
 東大寺が大仏鋳造という大事業成功のご守護を祈るために、749年に筑紫の宇佐から八幡大神を勧請した。これが手向山八幡宮の起りであるとされる。
 宇佐神宮は、大仏造立の際に託宣を発したことなどにより、朝廷の尊崇を得、莫大な封戸・位田を与えられたということである。

 はじめ、大仏殿の東南、鏡池の辺りに祭られたが、治承の乱後、三月堂の南に遷された。

 休日であったのに、この神宮には人影もなく、お参りは私だけであった。門前には、数頭の鹿達がのんびりと日向ぼっこを楽しんでいた。
 
 これで東大寺の散策を終えます。若草山の麓を、時に道をはずれて山中の小径をさまよいながら県新公会堂に向かいました。会合の後は、夕闇迫る興福寺周辺を散策し、いつもの通り猿沢の池で一休みとって、ホテルに帰りました。

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