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BGMは、一高大正九年寮歌「のどかに春の」。「若きがゆゑにあこがれの 丘にのぼりしこのほこり、・・・手をあげ舞ひて友よいざ、
 かたみに美酒くまんかな」。今も 一高生に広く愛唱されている。

 名刹巡り 奈良の寺
唐招提寺

 

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 薬師寺に続く西の京は、お隣の唐招提寺です。
 薬師寺から北に3、4分程歩くと、唐招提寺に着きます(薬師寺は平城京右京6条2坊、唐招提寺は同5条2坊)。唐招提寺は、唐の高僧鑑真が創立した律宗総本山の寺です。唐招提寺を理解するためには、唐僧鑑真がいかなる事由でわが国に招聘され、その渡来の航海が如何に困難を極めたものであったかを知る必要があります。唐招提寺の案内は、まずこの辺りの説明から始めねばなるまい。見学後は、まだ田園風景の残る西ノ京界隈をぶらぶら歩いて帰ることにしましょう。

鑑真の来朝と唐招提寺の創立

             若葉して 御めの雫 ぬぐはばや       芭蕉

 日本に仏教が伝えられたのは、欽明天皇の時代538年(一説に552年)のことである。それから200年経った聖武天皇時代には鎮護国家の思想の下、中央に東大寺・薬師寺等の大官大寺が、地方に国分寺・国分尼寺が建立されて、仏教は大いに栄えた。聖武天皇などは、「盧舎那仏の前で北面し、三宝の奴」と自称した程仏教に帰依した。しかし、その時においても、なお日本にはまだ正式な僧侶は存在しなかった。何故か?仏教において正式な僧侶となるためには、三師七証(3人の僧と7人の証人)による授戒が必要であるが、授戒する資格を持った僧が日本にいなかったからである。国家仏教を完成させるためには、中国(唐)から日本に授戒僧を招来することが必要であり、聖武天皇の熱望するところであった。


井上靖小説「天平の甍」の碑
 
 733年の遣唐使とともに入唐した興福寺の僧栄叡と大安寺の僧普照は、中国各地を旅し授戒僧の派遣を懇請したが、目的を達することなく、むなしく10年が経過していた。揚州に入り大明寺の高僧鑑真に会い、授戒僧の日本への派遣を懇請した。鑑真の弟子たちは、誰一人、この要請に応じる者はいなかった。日本行きは国禁を犯す重罪であったばかりでなく、波涛遥かの東夷の国日本への渡海は、航海技術の未熟な当時においては、命をも失いかねない危険なものであったからである。その時、鑑真は既に55才と高齢であったが、鑑真の足下に頂礼して来朝を懇願する日本僧栄叡と普照の熱心さに、「誰も行かぬなら我行かん」と決然と応えたという。鑑真の受諾の言葉を聞いた栄叡と普照の喜びと感激は、いかばかりであったか、察するに余りある。

 鑑真が遣唐船に乗り、薩摩の坊津を経て、9人の弟子とともに平城京に入ったのは754年2月であった。渡航を志してから12年、5度にわたる失敗を経た苦難の道であった。その間、栄叡は漂着した海南島で無念にも倒れ、鑑真自身も目を病んで両目を失明した。度重なる困難にも負けず初志を貫徹した鑑真等の不撓不屈の精神力は、誠に驚嘆すべきであり、今日も鑑真が多くの人に追慕され崇敬される所以である。
 
 鑑真は、同年4月には、東大寺大仏殿前に設けられた戒壇院において、聖武上皇・孝謙天皇はじめわが国の多くの高僧に授戒した。758年に大和上の称号を授けられ、翌年、東大寺戒壇院を退き、かねてより賜っていた新田部親王の旧宅に、わが国唯一の戒律専修道場として、唐招提寺(古くは建初律寺ともいった)を創立した。。鑑真は、763年、76歳で寺内に波乱の人生を閉じた。西に向かって結跏趺座した静かな死であったという(唐招提寺は、平安時代には一時衰退するが、鎌倉時代に入り、覚盛により教学の再興が成された)。

境内の案内

 
 南大門をくぐると、真正面に天平の面影を静かに、しかし強烈に残す金堂、講堂が一直線に並ぶ。二つの堂の間に向い合って、東に鼓楼(舎利殿)、西に鐘楼が建つ。鼓楼の東隣に南北に続いて礼堂・東室、礼堂のさらに東には校倉造りの経蔵と宝蔵が並ぶ。講堂の後方、一番北に御影堂、その右方、東北の奥まったところに御廟。金堂・講堂の西に少し離れて戒壇が位置する。
 かっては南大門に続く中門の左右から回廊が伸びて金堂と、講堂も東室、西室(跡)、食堂(跡)と回廊で結ばれていた。五重の塔も境内の南東に跡を残す。天平の昔、西ノ京の空には、唐招提寺の五重塔と薬師寺の双塔が高さと美を競っていたのであろうか。


南大門


南大門
 南大門は、近年、新築されたものであるが、往時もここに南大門があり、南大門を入るとさらに、中門があった。
 薬師寺や法隆寺で見てきたような回廊が、中門から両翼に延びていたはずであるが、今は失われている。この回廊は、金堂前端の吹き放しの柱列に続いていたのだろう。

大寺のまろき柱の月影を 土に踏みつつものをこそ思へ    会津八一

金堂

 南大門を入ると真正面に金堂(国宝)。本瓦葺き寄棟造の大屋根(「天平の甍」)が目に入る。厚ぼったく見えた屋根は、近づくにつれだんだんと薄くなり、やがて視界から消える。代わりに、吹き放しの柱がぐっと迫ってくる。高い基壇の石段を登る頃から、柱と柱の間にまるで額縁の中に入れたように内陣に座すご本尊様がくっきりと大きく見えてくる。誰もがその威厳ある堂々としたお姿に圧倒される。そして、鑑真の唐招提寺にいることを実感するのである。


金堂前面
 金堂は、天平時代に建てられた金堂として唯一の遺構である。ただし、金堂は、これまでに大きな修理を4回受けている。その結果、現在の姿は、当初のものとは、かなり変わっているということである。たとえば、寄棟造の屋根は、もとは入母屋造で、勾配は今よりはずっと緩やかであったという。また、金堂の屋根の東西には鴟尾を上げる。西の方が天平時代のものだが、東の方は鎌倉時代の補作である。和辻哲郎は、「鴟尾の一つが後醍醐時代の模作として幾分拙いために・・・・」(「古寺巡礼」)と評する(東の鴟尾は、もともと西の鴟尾を裏表ひっくり返したものとの異説あり)。
 柱は直径約60センチ、中央がややふくらんだエンタシスとなっている。吹き放しの柱列は、遠くギリシャはパルテノン神殿のそれを思わせる。柱と柱の間隔は、中央を離れるほど狭くなっている。視覚効果をねらったものであるが、回廊を失った今、柱列は際立って開放的である。
金堂東側、右側に小さく礼堂が見える。  金堂内陣上には、長さ8メートルの大虹梁がかり、支輪で折り上げた天井が張られている。内陣には、化粧した石の須弥壇上に、千体に及ぶ化仏を背にした気宇壮大で堂々とした体躯の本尊盧舎那仏座像(脱活乾漆 国宝)を中央に、向かって右に薬師如来像(木心乾漆 国宝)、左に千手観音像(木心乾漆 国宝)が並ぶ。いずれも3メートルから5メートル以上の誠に大きな仏像で、ほぼ等身大(約186,7センチ)の前面に立つ梵天像・帝釈天像(いずれも木造 国宝)、および四隅に配置される四天王像(いずれも木造乾漆併用 国宝)がまるでミニチュアのように小さく見える。盧舎那仏は鑑真の弟子の唐僧義静が制作にかかわたという。豊かな頬のふくらみや、すっと伸びた眉など今までの仏像にはない表現で、鑑真がもたらした新しい唐風を示すものであろう。盧舎那仏の脇侍に薬師と千手を配する形は経典には明記がなく、独自の考えの下に組み合わされたものとされる。

講堂


左から金堂、講堂、鼓楼(舎利殿)、礼堂
講堂(国宝):鑑真の唐招提寺創立に際し、特に朝廷から平城京の東朝集殿を賜って移築したものである(平城京の発掘調査では東朝集殿は建替えなしとの結論。このことから講堂への移築は平城京廃止後とする説が出てくる。金堂の説明で引用した弟子忍基の講堂の棟の折れた夢は、作り話となる)。講堂は、平城京の宮殿建築物として唯一の遺構である。かつ、天平時代の講堂遺構としても、他に法隆寺伝法堂を残すのみで、はなはだ貴重な建物である。
 移築に際しては、講堂として利用するために、切妻造から入母屋造の寺院建築に改められ、壁や扉も新たに設けられた。移築後も特に鎌倉時代に大修理があり、外観はまったく中世の建物となった。内陣の折上組入天井も、鎌倉時代に取付たもので、もとは天井はなかった。
 創建当初の講堂本尊は、鑑真とともに来朝した軍法力作の弥勒三尊であったというが、現在の本尊は鎌倉時代に造立されたものである。迦陵頻俄や飛天を周縁部に配する後背は秀麗である。
 本尊弥勒如来像(木造 重文)の前に、西に講師用、東に読師用の論議台が相対して置かれている。講堂は、学問寺としての講筵聴聞の場であったことが分かる。

鼓楼 礼堂・東室 経蔵・宝蔵 鐘楼


鼓楼(真中)と礼堂・東室(右)
鼓楼(舎利殿 楼造 鎌倉時代 国宝):各階とも壁面と扉と連子窓で構成し、高欄をめぐらす。鑑真請来の仏舎利を納める金亀舎利塔(国宝)が安置されていることから、舎利殿ともいう。この鼓楼の西には鐘楼がある。位置から言えば、本来は経楼であったのだろう。楼造とは二階建て一重屋根の構造をいい、経蔵や鐘楼に用いられた。

東室(左側)・礼堂(右側)
礼堂・東室(重文):講堂の東方に位置する南北に細長い建物。南から九間目の馬道(めどう)という通路から以南を礼堂、以北を東室と言う。本来はともに僧坊であった。
 古代寺院は全寮制の学問寺であった。唐招提寺でも多くの僧がここで戒律きびしい起居をしたところである。
鑑真請来の舎利が納められた鼓楼(舎利殿)の礼拝所となったため、鎌倉時代に東室を改造して礼堂と呼ぶようになった。

宝蔵(左)と経蔵(右)

経蔵と宝蔵
(ともに国宝 校倉造):礼堂のさらに東に南北に並んで建つ。
 経蔵は新田部親王宅時代からの遺構であるのに対し、宝蔵は寺創立時に新築されたものである。天平時代の校倉は、東大寺正倉院が有名であるが、二棟が並んで現存しているのは貴重である。

鐘楼

鐘楼:鼓堂に相対し、金堂と講堂の間の西側には鐘楼がある。
梵鐘は平安時代の作であるが、後世の追刻銘に「南都左京」とある。唐招提寺は、平城京右京5条2坊の地、明らかな誤刻である。

 

鑑真御廟



 経蔵・宝蔵から北に上がっていくと御影堂に出る。ここで右に折れ、さらに砂利道を踏みしめて静寂の中を東に歩を進める。やがて古びた土塀の途中に小さな門がある。この門の中に入ると、そこは「鑑真大和上御清域」である。
 鑑真和上の遺骨を祀った御廟宝筐印塔は、こんもりと木々の茂った円丘の上にある。


 私がこの写真を撮ったのは、何年か前の6月5日で、ちょうど開山忌にあたっていた(鑑真の命日5月6日を新暦6月6日にあて、例年6月5日から7日まで)。和上像公開の御影堂の辺りは、この像をひと目見ようという参拝者ですごい人出であった。しかし、ここ御廟まで足を伸ばす人はいないとみえて、私以外の人影はなく、誠に静かであった。御廟に手をあわせて合掌しながら、あれこれ天平の昔に思いを馳せた。
 弟子に看取られながらとはいえ、異国の地に示寂した高僧の胸に最後に去来したものは、いったい何であったのだろうか? 幾多の困難を克服し、わが国に唐律を伝え、目的を成し遂げた満足感であったろうか? 否、そうではあるまい。決して帰ることのなかった故国への郷愁の念ではなかったのではないだろうか。鑑真も、最後は、またひとりの孤独な老人であったと思いたい。
 
 天平の昔もそうであったろう静寂の空間に心地好くしばし憩った後、私は再び参拝者の雑踏する現実の世界へと戻っていった。

鑑真和上御廟手水場

鑑真和上御廟焼香台

鑑真和上御廟宝筐印塔

 御影堂に戻る。


御影堂
御影堂は、もと興福寺旧一乗院門跡の宸殿で、昭和39年に移築されたものである。平安貴族の邸宅とその生活様式をうかがうことの出来る貴重な建築物で、鑑真和上像(脱活乾漆 国宝)を安置する。昭和50年には、東山魁夷作の障壁画5部作が奉納され、例年開山忌に和上像とともに公開される。下に開山忌当日に御影堂参拝記念として寺から頂いた三枚の絵葉書の写しを載せる
 前述したとうり、弟子の忍基が、講堂の棟梁が折れた夢を見たことから、和上の死期が近いことを悟り、肖像画の制作にとりかかったという。この像には、鑑真の面影をこの世に末永く、かつ正確に残そうという弟子たちの願いが込められているのだろう。
 乾漆の肖像画は、極めて写実的で、瞑想する静かな表情の中に、幾多の困難を乗り越えた高邁な気骨を感じさせる。和上像は、現存するわが国最古の肖像彫刻といわれている。
 
 私は出来るだけ近く、出来るだけ長く和上像の傍にいたかった。最前列に正座合掌して、ただひたすらこの高僧の開眼を祈った。頭を上げて、再び和上像を注視したとき、灯りの加減か、わずかに一瞬、お目を開け私に微笑んだかに見えた。
             
鑑真和上坐像

御影堂宸殿 上段間 山雲

御影堂宸殿 松の間 揚州薫風

 興奮の余韻覚めやらぬ中、御影堂を後にした。西隣の本坊の庭には、大きな蓮の鉢がたくさん置かれていたが、残念ながら葉っぱのみで、花はなかった。寺には蓮の花がよく似合う。これから向かう戒壇への途中にも時期がくれば、蓮の花が咲き競う。せめて、写真だけでも、和上に蓮の花を供えよう(写真の花は、埼玉・行田の古代蓮の花)

 南に下り戒壇場に向かう


戒壇
戒壇:東大寺に作られた戒壇は土造のものであったが、唐招提寺に設けられた戒壇は、石造三段の豪壮なものである。もともと覆屋があったが、江戸時代末期の火災で失われた。写真にみる基壇上の宝塔は、昭和53年に、インド・サンチーの古塔を模して奉安されたものである。
 
 この場所は、授戒が行われる重要な場所であるが、一見、奇異な感じがして、厳粛な戒壇場と気づく人は多くはない。私もなかなか見つからず、この戒壇場を探しまわった一人である。

 以上で、唐招提寺の見学を終える。鑑真和上に合掌して、別れを告げよう。

 西ノ京の薬師寺・唐招提寺を見学した後は、そのまま、近鉄西の京駅から電車に乗り、帰るのはもったいない。時間に余裕があり、特に、天気のいい日には、遠ざかる塔や甍に名残を惜しみながら、西ノ京周辺を散策しよう。

 周辺の平城京跡、垂仁天皇陵、喜光寺、菅原神社の写真と簡単なコメントを以下に載せる。


平城京跡
垂仁天皇陵

喜光寺

菅原神社
 薬師寺・唐招提寺の東側に流れる秋篠側沿いを北にぶらぶら歩こう。やがて広大な平城京跡に至る。ここには、朱塗りの朱雀門と往時の貴族の優雅な暮らしをしのばせる東院庭園が復元されている。  近鉄の線路にそって、北に長閑な田園を歩く。しばらくすると尼ヶ辻駅手前の左に豊かな水を湛えた垂仁天皇陵が広がる。陪塚の一つに、陵前で殉死したという田道間守の墓もある。また、近く北西には安康天皇陵がある。  尼ヶ辻駅をさらに北に、阪奈道路を越えて左に歩く。
 東大寺大仏殿の「試みの堂」として知られるが、今の本堂・阿弥陀堂は1544年に再建されたもの。古くは菅原寺と呼ばれていた。行基の創建。
 喜光寺の北隣。菅原は、菅原道真の「菅家」(先祖は土師氏)発祥の地といわれている。神社から東北約100メートルのところに、菅原道真の「産湯池」がある。道真の母が京都からこの地に帰って使ったという伝えがある。

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