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    BGMは、一高明治四十五年第二十二回紀念祭寮歌「霧淡晴の」。 陸軍幼年学校の歌ともなっています。霧深いシュムシュ島でこの歌を歌いながら死んでいった将校がいたかもしれませんね。

小さな旅ー名所旧跡を訪ねて(海外編)
カムチャッカの旅


お土産の人形
 新潟からウラジオストック経由で行った極東ロシア「カムチャッカの旅」です。もうずいぶんと前のことで、記憶も定かでない。間違い・思い違いもあろうかと思いますが、写真を中心に簡単にご紹介します。
 
 酷暑の日本から避暑のつもりで彼の地に赴いたが、期待は見事に裏切られた。日本以上に暑く、午後9時になっても白々として暮れない白夜と、郊外では無数といっていいほどの蚊に悩まされた。一方で、毎夜、皆でワイワイしゃべりながら飲んだ冷え切ったウォッカの味と千島列島最北端のシュムシュ島で見た旧日本軍の放置され鉄さびた戦車の残骸は、今も忘れられない。

シュムシュ島

 シュムシュ(占守)島は、千島列島最北端の島である。霧深く、ヘリコプターが飛べない日が多いと聞いていたが、霧が晴れ、渡島するこができたのは幸いであった。
 終戦後の8月18日午前2時頃、濃霧の中、ソ連軍が上陸してきて日本軍と激戦となり、ソ連側約1500人、日本側約1000人が戦死した。千島列島の領有問題が背景にあったというが、ここでは論じない。島の現状を見るにとどめる。

放置された戦車とtakechan
 島の彼方此方には、鉄さびた戦車がいくつも放置されていた。三好野近くにいた戦車第11連隊のものであろうか。

 島は今、ロシア領となり、国境警備隊が常駐している。右写真は、我々一行を尋問する国境警備隊。兵士は、いかにも獰猛なシェパードを二頭連れ、自動小銃をさげていた。軍用犬がいつ襲ってくるか、正直、怖くてしかたがなかった。

国境警備隊

旧日本軍飛行場跡
 島には今も旧日本軍の施設が残る。
左写真は片岡飛行場跡である。古びた建物(村上大隊本部跡)の前の飛行場跡には、無数のタンポポが戦死者を弔うかのようにコンクリートの割れ目に咲いていた。

 右写真は旧日本海軍潜水艦基地。旧日本軍施設跡には、かって漁師が住んでいたというが、今は無人である。多数の燃料用ドラム缶が今も放置されたままである(写真左下辺りの茶色の物体)。なお、旧日本軍の司令部は、隣のパナシムル島にあった。
 

旧日本軍海軍基地跡


アバチャ湾クルーズ

 水鳥やアザラシの群生を観察しながらアバチャ湾をクルーズした。途中船は停泊し、船員が海に潜ってカニとウニを獲ってくれ我々にその場でご馳走してくれた。食べ放題でおいしかったですね。

アバチャ湾をクルーズした船
 アバチャ湾をクルーズした。我々一行だけのクルーズにしては大きな船(写真左)だった。

 右の写真は、船員が小さな船に乗り換えて、潜って獲ってくれたカニとウニ。ウニは、所謂”馬糞ウニ”の類で、実は少ないが、とにかく食べ放題!二度とこういう経験はないでしょうね。
 

カニとウニ

船内でくつろぐtakechan(右から2人目)
 獲れたカニとウニをさっそく食べさせてもらった。カニはさっとゆで、ウニは生のまま。それをフォークやナイフで豪快に食べました(写真右)。

 船内でパンとバターで軽い昼食をとった(写真左)。takechanは、ウオッカを一杯。だって、旅行中、アルコールといえばウオッカだけ、ビールもワインも飲んだ記憶はありません。

 

ウニを食べるtakechan


公設市場

 買物をかねて、ペトロパブロフスク市のデパートと公設市場に案内された。デパートは日常使う衣料品や雑貨品が主であり、中国製と韓国製が多く、日本製はなかった。公設市場は野菜や魚介類の生鮮食料品や菓子が中心、上野のアメ横のように賑わっていた。
 takechanは、デパートでは人形(冒頭の写真)を公設市場ではキャンデイーを買った。キャビイアは、帰りのウラジオストック空港の売店(階段の片隅で店を出していた)で買った。缶詰でも輸出用を買わないと長持ちはしないらしい。

どこの国でも主婦はよく喋る

鮭の切身を売る威勢のいいオバサン

キャンデイー売場の少女

日本人捕虜収容所
               
 アバチャ湾捕虜収容所跡地とベレズナマ捕虜収容所跡を訪ねる。どちらの収容所も当時の建物など、今は跡形もない。
アバチャ湾捕虜収容所では日本軍捕虜約1000名が海産物の加工作業を、べレズナマ捕虜収容所では日本軍捕虜約300名とドイツ軍捕虜がロシアの囚人と一緒に収容され、橋の建設など土木作業等に従事させられたらしい。詳細は不明である。

アバチャ湾捕虜収容所跡の海岸
 アバチャ湾捕虜収容所は、切り立った崖の下にあった。この地で海産物の加工作業に従事させられたという(左写真)。

 アバチャ湾の向こうには、富士山に似た火山のカリヤーキ山が見える。この山を眺めるたびに、望郷の念を募らせたことであろう。江戸時代の漂流民大黒屋幸太夫と同じように・・・・・・。

捕虜収容所跡からの眺め

軍用輸送トラックに乗った
 一行は、左の写真の軍用トラックに乗って、ベレズナマ捕虜収容所跡へと向かった。途中から道がなくなり原野となったが、この軍用車は、運転席からタイヤの空気圧や位置を変えられるとか、山の中を問題なくどんどん進んだ。

 右の写真、今はコルホーズの畑となっている辺りがベレズナマ捕虜収容所跡地とか。何もないが、この地で日本人捕虜1名が銃殺、1名が故郷に帰ることなく病死と聞く。冥福を祈るのみである。

今はコルホーズとなった収容所跡

日本人捕虜等が作った橋
 さらにアバチャ川を遡り、日本人捕虜がドイツ人捕虜、ロシア人囚人と一緒になって作った橋を見る。壊されたのか、工事が途中で終わったのか不明だが、今は残骸を残すのみ。この辺りは、ロシア人でも立ち入り禁止地域と聞くが、川べりには多数の腹を裂かれた鮭が多数打ち捨てられていた。
 蚊が多く、まるで雲霞の如く襲ってくる。持参した蚊除けのマットなどは、まったく役に立たなかった。
 右の写真は、国道沿いのタバコ屋のロシア娘。あまりに可愛いので、つい飲めぬタバコを買ってしまった。コーラも売ってましたよ。

国道沿いのタバコ屋の娘


ナリチボ自然公園

 ペトロパブロフスクよりヘリコプターで約1時間、ロシアで初めての世界遺産ナリチボリ自然公園を訪ねた。
ヘリコプターから下を見ると、走っている熊が見えることがあると日本で聞いていたので、一生懸命に窓の下を見ていたが、結局、熊を見ることが出来なかった。残念である。

洒落たヘリコプター
 現地での移動手段は市内はバスだが、郊外は軍用トラックか軍用ヘリコプターだった。
 この時はパイロットこそ軍服を着ていたが、ヘリコプターも洒落た格好の機種で、搭乗員も若いロシア娘が案内してくれた。

 カムチャッカは火山の半島で、あちこちに富士山に似た火山がいくつもある。このナリチボ自然公園も火山地帯にあり、噴出する温泉原が290箇所もあるという。

お湯を噴出する温泉原

温泉の脱衣場
 活火山地域にあるナリチボ自然公園には、温泉の湧出するところが多い。
 ヘリコプターを降り、熊の出没を恐れながら、温泉場に向かった。温泉は露天風呂だが、日本のように岩を積んだり、囲いを付けてなんかない。自然の池のままである。「なんだーっ」て思いましたが、これが本当の露天風呂なんでしょう。
 脱衣場は丸太造りで、少なくとも概観は、チョッと洒落てました。

露天風呂に入るtakechan


takechanロシアで「ともしび」を歌う

 カムチャッカ州政府庁舎前広場には、ソ連崩壊後であったが、レーニン像が立っていた。
そのレーニン像の前に、花嫁花婿の一行がいた。カムチャッカでは結婚式を挙げたあと、レーニン像前の広場に詣でるのが慣わしとか(真偽は知りません)。

レーニン像
ソ連崩壊後のカムチャッカ訪問であったが、レーニン像はまだ州政府前広場に堂々として立っていた。

  レーニン像の前に、花嫁一行がいた。takechanはロシア語は全く話せないが、英語で「おめでとう」といったら、花嫁の母親が英語教師ということで意味が通じたらしい。片言で会話しているうち、なんでもいいから「お祝いにロシアの歌を歌ってくれ」と頼まれた。

花婿と花嫁、ともに子連れ再婚

花嫁とtakechan
 takechanは、昔おぼえたロシア歌謡「ともしび」を大声で「イパカザト マナミ ・・・・オルガニョク」と歌ったら、たちまち我々一行のメンバーも加わって、ロシア語と日本語の混声大合唱となった。思いかけず日露友好の楽しいひと時を異国の地で過ごすことが出来た。

 

花嫁花婿親族と我々一行


 最後に、シュムシュの戦闘で散った日露2500の戦士の御霊に、激戦の地に咲く野の花の写真を手向けよう。




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