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    BGMは、一高明治四十五年第二十二回九大寄贈歌「筑紫の富士に」。三番に「『東風吹かば』など詠じけむ 宰府の宮は今ここに おとづる人のしげくして 飛梅の名のかおりゆく」とある 

小さな旅ー名所旧跡を訪ねて
大宰府散策


コスモス畑より観世音寺を望む
 「都府樓纔看瓦色 観音寺唯聴鐘聲」(菅原道真作)を憶えているだろうか? この詩に魅せられて大宰府を訪れる人も多いのではあるまいか。かくゆう私もその一人である。
 九州寮歌祭のついでに、大宰府を歩いてきた。大宰府は7年振りであるが、前回は、桜を求めて春の散策、今回は紅葉の秋の散策である。

 先ずは大宰府駅前で好物の梅ヶ枝餅を買う。この餅を頬張りながら大宰府天満宮から水城まで昼飯も食べず一気に、しかも往復を歩いてきました。

 その模様を写真を中心にご案内しましょう。

 *写真は平成19年11月19日撮影のものを中心とするが、一部は平成12年4月8日撮影のものを使うこともある。

大宰府天満宮


太鼓橋
  藤原氏の覇権確立のため、右大臣であった菅原道真は、901年讒訴により大宰帥に左遷され、失意のまま903年任地で没した。
 没後まもなく天変地異や菅公を陥れた藤原氏一族の不幸が相次いだ。人々は菅公の祟りであると恐れた。菅公の御霊を鎮める信仰が全国に広がった。雷神や祟りの神様であった天満宮も、いつの間にか文道の神様となり、さらに学問の神様等と神格が多様に変化した。こうした中、大宰府天満宮は、京都の北野天満宮とともに天神信仰の中心となって、人々に広く信仰され各方面に多大の影響を及ぼした。
 
 大宰府天満宮は、その菅公の廟所に、門弟の味酒安行が905年に祠堂を建てたのが始まりで、社殿も919年に築造されたと伝える。
 現在の本殿は、1591年小早川隆景だ再建したもので重文。本殿向かって右に菅公を慕って、一夜のうちに京の自宅からこの地に飛来したとの傳を持つ飛梅が植わっている。
 菅公の「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」の歌はあまりにも有名である。 秋もいいが、飛梅が満開となる早春に、もう一度、天満宮に来たいものである。
 
 末社に海神三桂神を祀った志賀社がある(重文)。天満宮は古代後期から中世、海外貿易を行っていたので、海上安全を祈願したものである。もちろん大宰府が中国・朝鮮に対する外交窓口であったことにも関係があろう。

 私が訪れた時は、菊展が開かれていた。最下段左右の菊もその一つ。特に左側の菊は御紋章菊とも呼ばれ、皇室の紋章のモデルとなったといわれている。
 
 なお天満宮は、安楽寺天満宮ともいわれ、安楽寺とは一身同体である。

志賀社

楼門

本殿

菊展

菊展


光明禅寺


前庭
 光明禅寺は、大宰府天満宮のすぐそばにある臨済宗東福寺派の禅寺である。仏光石庭(前庭)、一滴海の庭(裏庭)が有名である。

 仏光石庭は、十五ヶの石を「光」という字に配した九州唯一の石庭、一滴海の庭は、青苔で陸を、白砂で海を表現し長汀曲浦を描く枯山水の庭である。

*前回工事中であった「九州国立博物館」は、月曜日で休館、ために省略。

裏庭




観世音寺

 光明禅寺からいったん西鉄大宰府駅までもどり、観世音寺まで歩く。南側の県道を歩いても、北側の田園の道を歩いても約30分の道のりである。右に大野城跡を見上げながら、てくてくとのんびり田園を歩く方を私は勧めます。
 ひょっとしたら観世音寺の鐘の音が聞えてくるかもしれませんよ。

本堂
 観世音寺は、百済救援に筑紫に下られ、朝倉の橘広庭宮で崩御された斉明天皇の菩提を弔うために息子の天智天皇が発願した。
 大宰府政庁の東二町にあり、746年に完成し、玄ムを導師として落慶法要が営まれた。
 往時は、南北に南大門・中門・講堂、東に五重塔、西に金堂を配し、回廊をめぐらした西海道随一の寺院で、「府の大寺」と呼ばれた。
 1064年の火災で講堂と塔を失い、1120年には東大寺の末寺となった。さらに1143年には金堂を焼失し、創建当初のものとしては梵鐘(国宝)と塑像の一部を残すに過ぎない。 現在の本堂と金堂は、江戸時代に黒田藩主が再建したものである。
 しかし、平安時代から鎌倉初期の重文の仏像(馬頭観音菩薩像、十一面観音菩薩像、不空羂索観音菩薩像等)を多く残している。
 当初の完全な姿をした唯一の遺品である梵鐘は、京都妙心寺の梵鐘と大きさ・姿・撞座の意匠などそっくりである。七世紀の末期頃、同じ工房で作られたものであろうか?(妙心寺の鐘は、大宰府の北方福岡県糟屋郡あたりで鋳造)
 東大寺文書として伝えられ東京芸術大学が蔵する観世音寺資材帳は国宝である。

 寺の北西に僧玄ムの墓がある。橘諸兄のもと吉備真備と絶大な権力をふるった玄坊も745年に筑紫に追放され、翌年、観世音寺の落慶法要を行った年に没している。決して上等とは言えない墓石を見ると、これがあの玄ムの墓かと涙を誘う。

五重塔心礎

金堂

鐘楼

本堂前の石蕗の花

玄ム墓

僧坊礎石
 僧坊は僧侶の研究室兼寄宿舎で、細長い建物を数室に間仕切りし、各室ごとに数人が起居をともにしていた。
 観世音寺の僧坊跡は、102m×10mの東西棟が検出されている。前回は、この礎石の上に座り、弁当を食べた。懐かしい思い出の僧坊礎石である。
 


戒壇院


山門
 戒壇院は、「天下の三戒壇」の一つ西戒壇として、下野薬師寺の東戒壇と同年の761年に観世音寺境内西南角に建てられた(開山は鑑真和上)。爾来、九州の僧尼たちの登壇受戒の場として継承されてきた。本堂内戒壇には、天竺・唐・大和三国の土が納められているそうである。
 観世音寺の項で既述のとおり、江戸時代黒田藩主等により再興されたが、1703年には藩命によって観世音寺を離れ、禅宗に改宗された。現在は博多・聖福寺の末寺である。
 本尊盧舎那仏は平安時代の作で重要文化財。
 

戒壇院

都府楼
大宰府政庁跡


正殿跡
都府楼とは、北に大野城、西に水城を配する大宰府政庁跡である。
1、7世紀後半創建の掘立柱建物群
2、8世紀初頭造立の朝堂院形式の礎石建物群
3、純友の乱で焼失した後に再建された礎石建物群を確認している。承平・天慶の乱の藤原純友は大宰府を襲ったとは聞いていたが、政庁を焼いてしまったとは驚きです。

 大宰府は、西海道(九州)を統括し、防衛と外交の任に当たっていたが、1019年刀伊の入冠等を契機にして武士化した府官に実権が移り、ついに元寇後、鎮西探題の創設とともに消滅した。

南門跡

筑前国分寺跡

国分寺跡礎石
聖武天皇は、仏教による鎮護国家の考えの下、奈良の都に東大寺を建て大仏を造り、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせた。
 筑前国分寺は、約192m四方の寺域に金堂・講堂・七重塔等が整然と並ぶ寺だったようだが、今は礎石を残すのみである。
 礎石跡の横には、九州四十九院薬師霊場第一番札所の看板を掲げた国分寺があり、こじんまりとした境内の紅葉が綺麗だった。

 なお、国分尼寺は、ここからやく300m離れたところにあったという。苦労して探したが、標識のみで、礎石もない畑だった。

現国分寺境内紅葉


水城



水城標識
 663年白村江の戦いで、日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗を喫し、百済は完全に滅亡した。
 天智天皇は、唐・新羅の侵攻に備え、北九州・瀬戸内海沿岸に城を築き、都を大津宮に遷した。大宰府周辺では、664年、大野城・基肄城とともに防衛施設として土塁を築かせた。世に言う水城である。
 水城は全長1.4km、幅80m、高さ10mの盛土で海側に幅60m、深さ4mの濠を掘り水を湛えた。当時の日本国がいかに唐・新羅の侵攻を恐れていたか、理解できる。

 

水城跡

     最後に、今回は登らなかった大野城跡・大宰府口城門跡の写真を載せておきます。


大宰府口城門跡(前回の撮影)

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