第2章−サイレント黄金時代(19)
聖女たちのララバイ
〜カール・ドライヤーとデンマーク映画〜



デンマークの巨匠カール・ドライヤー
(「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」35ページ)
 


 デンマークも映画製作においては長い歴史と伝統を持っている国である。映画の誕生から1917年までの映画を集めたアンソロジー「シネマ・クラシクスVol.1〜3」(1987年米)には、米英仏独伊の映画に加え、デンマークの映画が数多く収められている。ところが、他の5ヶ国に比べ、デンマークという国は僕ら日本人にはどうもなじみが薄い。サミットにも加盟していないし、漠然と北欧の国ということは分かっても、具体的な地図を思い浮かべられる人は少ないのではないか。
 今から5、6年前になるだろうか、中学以来の友人の家にヤコブという名のデンマーク人留学生がホームステイしていたことがあった。一度、僕と友人とそのヤコブ君の3人でお台場までドライブして夕食を食べに出かけた。彼は相当日本語が達者で、いろいろ話をしたはずなのだが、どんな内容だったかはほとんど覚えていない。僕にデンマークについての知識がほとんどなかったこともあって、彼の母国についての話は大してしなかったように思う。話したとしても、「国に彼女はいるのか?」とか「デンマークではどういうところにデートするのか?」といった、どうでもいいようなことばかりだったはずだ。これが今のところの僕のデンマークにまつわる唯一の思い出である。後はウィリアム・シェークスピア(1564〜1616)の代表作「ハムレット」の舞台であったということを思い出すぐらい。
 



ドライヤーの代表作「裁かるるジャンヌ」(1927年仏)
ジャンヌを演じるルネ・ファルコネッティ
(「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」15ページ)
 


 デンマーク映画と言うと、古くはカール・ドライヤー(1889〜1968)の「怒りの日」(1943年)や「奇跡」(1955年)、最近ではラース・フォン・トリアー(1956〜)の「奇跡の海」(1997年)や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(2000年)といった作品が思い浮かぶ。では、サイレント時代の映画は…? ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」(1927年仏)は映画史上のベスト10では必ず上位に入ってくる作品であるが、残念なことにフランス映画として製作されている。
 しかし、「シネマ・クラシクス」に多くの作品が収められていることからもわかるように、デンマーク映画の歴史は長い。1906年に設立されたノーディスク社は、現存する映画会社としては、レオン・ゴーモン(1864〜1946)によって1899年に映画製作の始められたフランスのゴーモン社に次いで古い。しかも、現在では配給中心となったゴーモンとは異なり、ノーディスクは今でも映画を製作している。また、1920年代のカール・ドライヤーの活躍も目覚しいものであった。こうした事情を考ると、「サイレント黄金時代」としてここでデンマーク映画を取り上げる事には何の異論もない。むしろ当然である。
 ところが、話はそう簡単ではない。なぜなら、サイレント期のデンマーク映画は、ドライヤー作品を始めとしてまったくビデオ化されておらず、観る事ができない。したがって何も書く事ができないのだ。しかし、当時のデンマーク映画の重要さを考えると、まったく無視するのも難しい。
 幸いにもドライヤーの初期作品では「裁かるるジャンヌ」(1927年仏)と、トーキー(発声映画)ではあるがドイツで製作された「吸血鬼(ヴァンパイア)」(1931年独/仏)がビデオ化されている。取りあえず、それらの作品と、アンソロジーで断片的に観た作品とで何とかお茶を濁そうかと思っていた。ところが、そんな矢先、昨年(2003年)の10月から12月にかけて国立近代美術館フィルムセンター(NFC)を中心に「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」という回顧上映が行われたのである。その際には、ドライヤーの製作した長編全14本と、主要短編7本が上映された。僕も連日のようにNFCに通い、さすがに全部というわけにはいかなかったが、何とかサイレント期の作品 5本
(*1)を観ることができた。ドライヤーは、初期の頃から外国で映画を撮っているので、サイレント期の彼のデンマーク映画はわずか4本しかない。今回はそのうちの3本(*2)を観ることができた。これで、何とかサイレント期のデンマーク映画の一端を覗くことができたと言えるのではないだろうか。

*1 観たのは「裁判長」(1918年デンマーク)、「サタンの書の数ページ」(1919年デンマーク)、「牧師の未亡人」(1920年スウェーデン)、「あるじ」(1925年デンマーク)、「グロムダールの花嫁」(1925年ノルウェー) 。それに「裁かるるジャンヌ」(1927年仏)である。
*2 サイレント期のドライヤーのデンマーク映画としては上記の他に「むかしむかし」(1922年)があるが、残念ながら観損ねてしまった。
 

 もちろん、それにはそれで問題がないわけではない。ドライヤーは必ずしも当時のデンマークを代表している作家とはいいにくいのである。その証拠に、ドライヤーはデンマークではあまり映画を製作していない。長編14本のうち半分の7本が外国資本の作品である。また、トーキー以降の約35年間にはたった5本を発表したのみ。このことから、彼は故国デンマークで思うように映画が撮れなかったのではないかと想像できる。また、小松弘(1956〜)によれば、「ドライヤーの映画は全体においてまったくデンマーク映画の特徴を現していないどころか、彼のような映画はほかにデンマークではまったく製作されていない」
(*3)のだという。ということは、いくらドライヤーの作品を観たからといって、サイレント期のデンマーク映画を知ったということにはならないのではないか。
 それでは、当時のデンマーク映画はどのようなものであったのか。まずは手っ取り早くジョルジュ・サドゥール(1904〜67)著「世界映画史」(1980年12月 みすず書房)などで当時のデンマーク映画の状況を確認しておくことにしたい。サイレント期のデンマークには、「スカンジナビアのサラ・ベルナール
(*4)」と称された大女優アスタ・ニールセン(1881〜1972)が現れ、世界的な人気を博している。僕は彼女の出演作は、後にドイツでグレタ・ガルボ(1905〜90)と共演した「喜びなき街」(1925年独)を観ているだけだが、当時は上流階級を舞台に、女性の悲劇を描く作品に数多く出演している。それらの作品は「ヴァンプ(妖婦)映画」と呼ばれ、ちょうど同じ頃にイタリアで流行した「ディーヴァ映画」(「???」参照)と似たようなものであったらしい。その後、上流階級以外も多く描かれるようになったが、悲劇性はより強められた。「ハムレット」の舞台だけあって悲劇を好む国民性なのだろう。1914年に第一次世界大戦が勃発し、中央ヨーロッパの映画界が荒廃すると、その穴を埋めるようにデンマーク映画の需要は高まり、黄金時代を迎えるが、大戦の終結と共に再び衰退してしまう。女性の悲劇…つまりメロドラマ的な要素を多く含んだデンマーク映画は、北欧ばかりか、アメリカなど世界的に大きな影響を与えたそうである。

*3 小松弘「妥協なき孤高の芸術家,カール・ドライヤー」(「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」所収) 28ページ
*4 サラ・ベルナール(1844〜1923)。史上最高といわれたフランスの伝説的舞台女優。1910年代には映画にも進出し、「エリザベス女王」(1912年仏)などに出演。



ドライヤーのデビュー作「裁判長」(1918年デンマーク)
オルガ・ラファエル・リンデン(右)
(「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」42ページ)
 


 カール・テオドア・ドライヤーは最初ジャーナリストとして出発。その後脚本家として映画界に入り、1918年にノーディスク社が製作した「裁判長」で監督デビューを果たしている。「裁判長」はオーストリア出身の通俗作家カール=エミール・フランツォス(1848〜1904)の同名小説を原作としているが、ストーリーは以下のようなものである。
 主人公は尊敬を集める裁判長のカール(ハルヴァーズ・ホフ)。彼が裁くこととなった容疑者は自らの子供を殺した若い母親(オルガ・ラファエル・リンデン)であったが、彼女こそはかつて自分が捨てた娘であった。彼女に死刑を言い渡さねばならないカールは良心の呵責に耐えかね、自らの名誉を捨てて彼女を牢から逃がし一緒に海外に逃亡する…。
 まさにメロドラマとしての特徴を強く兼ね備えた作品で、これは当時のノーディスク社の他の作品にも通じる要素を持っていたという。つまり、「裁判長」は孤高の映画作家ドライヤーの作品群において唯一当時のデンマーク映画的な特色を持ち合わせた作品と言えるのだ。
 メロドラマ(melodrama)というと、我々はしばしば低く評価しがちである。辞典などにも「蔑称として用いられる」と述べられていたりする。しかし、メロドラマとは、そもそもは19世紀に欧米で流行した演劇のスタイルのことであり、映画史においても1ジャンルとしておおきな役割を果たしてきた。例えば、アメリカ映画最初の巨匠D・W・グリフィス(1875〜1948)の名作「散り行く花」(1919年米)、「東への道」(1920年米)、「嵐の孤児」(1921年米) などはいずれも純然たるメロドラマである(「アメリカの恋人たち」参照)し、「哀愁」(1940年米)や「君の名は」(1953年松竹)などもそうである。
 



「サタンの書の数ページ」(1919年デンマーク)
(「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」44ページ)
 

 
 デビュー作「裁判長」こそメロドラマに分類されるべき作品であったが、その後のドライヤーの作品は一作ごとに違った側面を見せるようになる。
 ドライヤーの2作目「サタンの書の数ページ」(1919年デンマーク)は、紀元前1世紀のパレスチナ、16世紀のセビリアの異端審問所、フランス革命、現代のフィンランドという4つの異なった時代において人間を誘惑するサタンの姿を描く。過去の時代において人間の誘惑に成功し続けたサタンであったが、現代では人間の善の力に屈し、失敗を喫する。4つの異なった時代を一つのテーマにおいて結びつけるというスタイルは、間違いなくグリフィスの「イントレランス」(1916年米)からの強い影響である。
 



「牧師の未亡人(1920年スウェーデン)
(「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」12ページ)
 


 「牧師の未亡人」(1920年スウェーデン)と「あるじ」(1925年デンマーク)は共にコメディに分類されるべき作品であるが、シニカルな味わいがある。「牧師の未亡人」は、牧師の職を得るために、前牧師の未亡人の老婆(ヒルドゥア・カールベルイ)と結婚した神学生(エイナー・レード)が主人公である。彼には婚約者(グレータ・アルムロート)がいるが、彼女を妹と偽り一緒に暮らし始める。こうして始まった3人の奇妙な生活だが、若い二人は老婆が死ねば晴れて結ばれるために、何とかして彼女の寿命を短くしようと策を練るのであった…。シニカルどころかブラックなことこのうえない。かつて自分も同じ境遇であったことを若い二人に語り、静かに息を引き取る老婆の姿には思わずホロリとさせられる。老婆を演じた76歳のヒルドゥア・カールベルイは当時病魔に冒されており、自分の死期の近いことを悟って迫真の演技を見せたという。
 一方の、「あるじ」は暴君のようにふるまうフランセン家の主人ヴィクトリア(ヨハンネス・マイヤー)が主人公。妻(アストリズ・ホルム)は、そんな夫をいさめるために乳母と計って家出をしてしまう。残された夫は、初めて妻の苦労を知るのであった…。ありふれたストーリーではあるが、軽いタッチで楽しめる。ドライヤーの国際的出世作となった。
 



「あるじ」(1925年デンマーク)
娘を演じるカーリン・ネレモーセ
(「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」12ページ)
 


 ドライヤー作品の大半は「室内劇」として屋内を中心に展開し、自然描写には乏しい。室内劇と言えば、当時のドイツ映画に多く見られたスタイルであるが、それは他のヨーロッパの映画にも大きな影響を与えた。例えば、ジャン・ルノワール(1894〜1979)のサイレント期の代表作「女優ナナ」(1926年仏)は、ドイツで撮影されたが、ドイツ的な室内劇の雰囲気を強く備え持った作品となっている。ドライヤーもやはり、ドイツで映画を製作したことがあり、ドイツ映画からの影響を受けているようである。彼がドイツで撮ったのは「不運な人々」(1921年独)と「ミカエル」(1924年独)の2作品であるが、残念ながら僕は観損ねてしまった。

 ところで、ドライヤーがノルウェーで撮影した「グロムダールの花嫁」(1925年ノルウェー)は、彼の他の作品とは異なった趣がある。それは、ロケーションによる自然描写が効果的に用いられている点である。小作人の息子と地主の娘の恋を、ノルウェーの農村を舞台に描いたこの作品は、のどかな牧歌的雰囲気を漂わせる。オリジナルは2時間を越えていたというが、現存部分は約70分でしかない。前半、若い二人の恋は順調で、事件らしい事件は起きないが、ドライヤーの卓越した演出力によってそれでも充分にドラマチックに感じられる。クライマックスは恋敵によって激流に流される主人公の青年(トーヴェ・テルバック)。愛の力によって“最後の救出”がなされるのは、グリフィスの「東への道」(1920年米)を彷彿させる。
   

 ドライヤーの代表作「裁かるるジャンヌ」(1927年仏)は、時にアヴァン=ギャルド(前衛)映画に分類されるように、革新的な手法にあふれた作品であった。また、トーキー作品「吸血鬼(ヴァンパイア)」(1931年独/仏)も、流れるような映像が交差する、幻想的な恐怖映画で、やはりアヴァン=ギャルド映画的な作風を持つ。

 このように、ドライヤーの作品は一作ごとに様々な顔を見せる。それこそジャンルを一括りにすることは難しい。だが、彼が好んで取り上げた題材として、キリスト教世界があったことを指摘することが可能である。ドライヤー作品にはしばしば「聖なる映画」という言葉が冠されことがあるが、それはこの点に由縁している。例えば、神の命によって人類に悪をささやくサタンの姿を描いた「サタンの書の数ページ」や、年老いた前牧師未亡人と若き牧師を描いた「牧師の未亡人」。また、「裁かるるジャンヌ」は神の声を聞いて祖国フランスを救うために立ち上がったうら若き少女ジャンヌ・ダルク(ルネ・ファルコネッティ)を主人公とする。後年の代表作「怒りの日」(1943年デンマーク)、「奇跡」(1954年デンマーク)もキリスト教の世界を題材とするが、ドライヤーは晩年、イエス・キリストその人を主人公とした「ナザレのイエス」の企画を進めていたそうだ。結局、彼の死によって実現はしなかった。
 ドライヤーがいかなる信仰を持っていたか僕は知らないが、デンマークの国教はルター主義のプロテスタントで、現在全人口の90%を占めている
(*5)というから、おそらく彼もそうであったのだろう。例えそうでなくとも、強い影響下にあったはずである。だが、ドライヤーの作品を眺めると、例えキリスト教世界を描いてはいても、「神による救済」といった要素はほぼ皆無である。むしろ神の無力さが描かれている。
 「サタンの書の数ページ」第4話のヒロイン・シリ(クララ・ポントピダン)は、内戦下のフィンランドで、共産主義軍から夫を救うためにサタンの誘惑をはねつけるが、彼女自身は死を選び、救われることはない。「裁かるるジャンヌ」のジャンヌも、神や祖国から見捨てられ、生きたまま火あぶりとなる。


*5 橋本淳編「デンマークの歴史」 2ページ 
 



「裁かるるジャンヌ」(1927年仏)
ルネ・ファルコネッティ
(「世界映画オールタイムベストテン」64ページ)
 


 また、彼の作品では常に女性が大きな苦しみを味わわなくてはならない。“女性の受難”こそが、ドライヤー作品を貫く大きなテーマとなっているのだ。デビュー作「裁判長」はメロドラマに分類される作品であったが、メロドラマこそまさしく女性の悲劇を描くジャンルである。「裁判長」の若き娘ヴィクトリン(オルガ・ラファエル・リンデン)は、家政婦として働く家の息子と関係を持った後、捨てられてしまう。家を追われ野外で子供を生んだ彼女は、結局その子を死なせてしまう…。また、コメディ「牧師の未亡人」と「あるじ」には苦労する女性の姿が描かれる。後年の作品でも、魔女狩りをテーマとした「怒りの日」や、満たされない妻の姿を描いた遺作「ガートルード」(1964年デンマーク)など、このテーマは彼の生涯に渡って追求されてきた。
 なぜドライヤーは“女性の受難”に強く引かれていたのだろうか? それには、彼の生い立ちが深く関わっているように思われる。彼は、裕福な地主の息子と家政婦との間の結婚外の関係によって生まれている。貧困のために子供を育てられない母は、幼い彼をドライヤー家に養子に出した。まさしく「裁判長」のヒロインそのものである。やがて18歳となったドライヤーは、生みの母親を探し当てるが、二人目の子供を身ごもった母親が、中絶のために毒を飲み、それが原因となって死んでいたことを知る
(*6)。このことが彼の生涯に重く圧しかかったであろうことは、彼がその生い立ちに生涯触れることがなかったことからも明らかと言える。

*6 ダン・ニッセン/小松弘訳「カール・TH・ドライヤー―情熱の映画芸術家」(「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」所収) 18ページ
 

 ドライヤーの作品で最もよく知られているのは、「裁かるるジャンヌ」であろう。「キネマ旬報」の「世界映画オールタイムベストテン」でも堂々の22位にランクイン
(*7)している。サイレント映画でこれより上位にランクインしているのは6位の「戦艦ポチョムキン」(1925年ソ連)だけで、グリフィスの「イントレランス」(1916年米)が30位、チャップリンの「黄金狂時代」(1925年米)が38位である。つまり、「裁かるるジャンヌ」は、単にドライヤーの代表作というだけではなく、サイレント映画の代表作の一つと言っても過言ではないのだ。
 日本で書かれた映画史の本でドライヤーの項を見れば、それらのほぼすべてが「裁かるるジャンヌ」を大きな扱いで取り上げている。だが、彼のそれ以外の作品はと言うと、「吸血鬼」や「怒りの日」といったトーキー以降の作品への言及は見られても、サイレント期の他の作品について触れたものはまず見られない。そもそもドライヤー作品の大半が、製作当時日本で未公開に終わっていることとも関係があるかもしれない。映画館で一般公開されたのは、戦前が「あるじ」「裁かるるジャンヌ」「吸血鬼」の3作品。戦後も「奇跡」(1954年)がようやく1979年に公開されているだけである
(*8)。もっとも、キネマ旬報ベストテンでは「裁かるるジャンヌ」(公開当時の題名は「ジャン・ダーク」)が1929年度7位。「奇跡」も7位と、常に高い評価を受けてはいる。
 ドライヤー作品が、これまであまり好まれてこなかった理由は、ハリウッド映画に比べ「映画の内容(物語)よりも形式(スタイル)のほうに力点がある」
(*9)ためだという考え方がある。だが僕は、デンマークが我々日本人にとって馴染みの薄い国であったということこそが最大の理由であったように感じている。僕自身デンマークについて無知であったということは、最初に述べた通り。しかし、ドライヤーが活躍していた頃に比べ、今日世界ははるかに狭くなった。これを機にデンマークという国についてもっと知りたいと思う今日この頃である。

*7 「世界映画オールタイムベストテン」(1995年10月 キネマ旬報社)
   ちなみに1位は「七人の侍」(1954年東宝)。以下、2位「市民ケーン」(1941年米)、3位「2001年宇宙の旅」(1968年米/英)、4位「東京物語」(1953年松竹)、5位「天井桟敷の人々」(1945年仏)という順位。
*8 濱田尚孝「カール・ドライヤー作品上映記録」(「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」所収) 88ページ
*9 中条省平「ドライヤー,スタイルを超越する映画作家」(「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」所収) 75ページ
 


(2004年9月8日)


(参考資料)
ポール・シュレーダー/山本喜久男訳「聖なる映画」1981年2月 フィルムアート社
「世界映画オールタイムベストテン」1995年10月 キネマ旬報社
ジョルジュ・サドゥール/丸尾定、村山匡一郎、出口丈人、小松弘「世界映画全史8/無声映画芸術の開花」1997年12月 国書刊行会
ジョルジュ・サドゥール/丸尾定、出口丈人、小松弘「世界映画全史12/無声映画芸術の成熟」2000年7月 国書刊行会
「聖なる映画作家,カール・ドライヤー」2003年10月 国際文化交流推進協会

橋本淳編「デンマークの歴史」1999年6月 創元社

 

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