第2章−サイレント黄金時代(15)
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〜アヴァン=ギャルド映画〜



ルネ・クレール「幕間」(1924年仏)
(「世界映画全史12」 75ページ)
 


 5年来仲良くしている異性の友人がいる。彼女はアートが好きで、ギャラリー情報誌にアート評を書いたりもしている。彼女とは年に数回食事をしたりするのだが、その際にギャラリーの話をいろいろ聞いているうちに、そんなに面白いものならぜひ僕も行ってみようと思うようになった。銀座や原宿にはギャラリーや画廊が多い。何も予定の入っていない休日など、ふらりと出かけて適当なギャラリーを覗いてみる。絵や写真、彫刻、インスタレーションなど様々なジャンルのアートは、もちろん観ているだけで楽しい。気に入った作品に思いがけず出会えたりする。時には作家自身が会場内にいらっしゃって、作品について素朴な質問をぶつけたりすることができるのも楽しみの一つだ。前項でも書いた通り、もともと絵を観るのは嫌いではなかったので、最近ではすっかりハマってしまった。いい趣味と出会えることが出来て彼女にはとても感謝している。
 僕のアートの“師匠”である彼女とも、何回かギャラリーに足を運んでいるが、観たばかりの作品について2人でいろいろと話をしているうちに、僕と彼女とではアートの観方がまったく異なっているということに気がついた。例えば何が描いてあるのかよく解からないような抽象画を観る時。僕は描かれた対象が何であるかをいろいろと考えてしまう。だが、彼女の場合はその作品が醸し出す雰囲気を味わっているように思える。言ってみれば、僕が絵の向こうにある意味を見つけ出そうとするのに対し、彼女は絵のこちら側にある空気を感じ取ろうとしているのである。僕は理屈で、彼女は感覚で、同じ絵を観ているのである。どちらが正しいというわけではない。単に観る方向が異なっているだけなのだろう。だから二人のものの観方は永遠の紙一重とも言える。このエッセイだって、もし彼女が書いたのならばきっと僕とは相当違ったものになるに違いない。



フェルナン・レジェ「バレエ・メカニック」(1924年仏)
 


 いろいろと映画を観ていると、どうしても僕には理解できない作品に出会うことがある。それらの映画は大概、前衛映画(アヴァン=ギャルド映画)というジャンルに属するもので、ストーリーはあってないようなもの。イメージ映像をひたすらつなげたようなものが多い。理屈とは最もかけ離れたところにある作品だけに、理屈で映画を観ようとする僕には理解できないのである。
 先にあげた友人であれば、感覚できっと理解することができるに違いない。その点ではうらやましい限りだが、無い物ねだりをしても仕方ないので、僕は僕なりにそうした作品を理解しようとするしかあるまい。

 そこでまず、「前衛映画(アヴァン=ギャルド映画)」とは何か? ということについて考えてみたい。手始めに映画辞典をひも解いてみる。それによると、前衛映画の基本的性格は次の3つになる。 
  (1)ものの見方や感じ方の慣習性を懐疑し、既成の表現には見られなかった未知の世界をラジカルに追求していること(実験性)
(2)公的な表現体質を脱却し、自身の肉声に忠実であること(個人性)
(3)商品として興行的に成功しようと世間に媚びないこと(反商業主義)
(*1)
 もちろん、例外となる作品は多い。例えばドイツ映画「カリガリ博士」(1919年)の場合。表現主義の様式が取り入れられているものの、当時のドイツ最大の映画会社ウーファで製作され、商業ベースで公開されている。その点では上記の(2)や(3)の条件には当てはまらない。

*1 浅沼圭司、岡田晋、佐藤忠男、波多野哲朗、松本俊夫「新映画辞典」 283〜284ページ

 前衛映画と、我々が観て「前衛的に感じる」映画とはそもそも別なのである。その作品が作られた時代や背景が異なれば、当然作品の理解も異なってくるからである。例えば、数年前に話題を呼んだインド映画「ムトゥ/踊るマハラジャ」(1995年印)。めまぐるしいまでのテンポに、唐突に始まる歌や踊り。観ていてなんとも奇妙な感覚に捕らわれる。あるいは、前衛的だと感じる人もいるかもしれない。ところが、こうしたスタイルはインドではごく普通の娯楽映画なのである。インドの観客にしてみれば、歌の伴わない我々にとっての「普通」の映画こそ面喰うものに違いない。

 以前、渋谷のイメージフォーラムで開催された「フランス=アヴァンギャルド映画」の特集上映の際に、オープニングを飾っていたのはジョルジュ・メリエス(第1章(2)参照)の 魔法映画であった。確かにメリエス作品の珍妙なストーリーやトリック映像、極端にデフォルメされた舞台装置などは、我々に異様な印象を与える。固定されてまったく動かないカメラというのも、かなり常識破りである。例えばペロー(1628〜1703)童話の映画化である「青ひげ」(1901年)で、血のついた鍵を映し出す必要があった時でさえもクローズアップは用いない。巨大な鍵を画面中央に出現させるだけである。

 だが、メリエス自身は当時意表をついた映画を作ろうとしていたわけではもちろんない。彼はそもそも劇場興行主で、映画も彼の舞台における夢幻劇のスタイルをそのまま受け継いだものであったから、むしろ伝統的な形を踏襲していたと言える。また、魔法映画はフェルディナン・ゼッカ(1864〜1947)やガストン・ベルといった監督によっても作られているのだから、メリエスのオリジナルというわけでもない。

 次に下の絵を観てもらいたい。この絵はネコを描いたものだ。
 





 どこがどうネコを表しているのか、みなさんお解りいただけるであろうか。果たして、これは抽象画なのか? ポップアート? それとも、シュルレアリスム? いずれにせよ極めて斬新かつ前衛的に思われるだろう。ところが、描いた本人はまったくそのようなことは意識していない。なぜなら、この絵を描いたのは僕自身で、それも3歳の頃。当然、アートなんかこれっぽっちも知るよしはない。この絵は母が祖父母に送った手紙に同封してあったものらしい。絵の横には母の字で「どうも、ニャンニャンを描いているつもりのようですが…」と書いてあった。
 

 ようするに、前衛作品とは、観客がどう感じるかよりも、作者自身がそれをそのように意図しているかどうかによって初めて見なされるものなのである。つまり上記の条件では(1)こそが絶対条件であるということになる。その意味からすると、「ムトゥ」はもちろん、メリエスの映画も、僕の描いた絵も前衛的であるとは到底言えないわけだ。

 以下、僕が実際に観ることのできたものを中心に、映画における前衛作品をみていこうと思う。ここで取り上げる前衛映画(アヴァン=ギャルド映画)は、何よりも作者によって意図されたものであるという基準を設けることにしたい。そうすると、特定の芸術運動に連動して作られた映画というのが必然的に多くなってくる。
 なお、この項で取り上げる作品の大半を僕は特集上映などで観ている。前衛映画にはストーリーはあってないようなものがほとんどだから、作品によっては何度観ても、ちっとも理解できなかったりする。おまけに、ビデオ化されている作品は極めて少ないから、観直すのも困難。中には数年前に一度観たきりという作品もあり、多少の記憶違いや勘違いもあるかと思うが、その点はご了承頂きたい。



和製前衛映画(?)「狂った一頁」(1926年日)
(「THE MOVIE 67」 206ページ)
 


 すでに「フロイト・コンプレックス」で述べた通り、ドイツ映画「カリガリ博士」(1919年)や「朝から夜中まで」(1921年)は表現主義の芸術を取り入れて製作されている。この表現主義映画は、特に日本での影響が大きかった。溝口健二(1898〜1956)の「血と霊」(1923年日活)など、数多くの表現主義映画が撮られているが、ほとんどの作品は現存していない。そんな中、唯一現存するのが、衣笠貞之助(1896〜1982)監督による「十字路」(1928年
衣笠映画聯盟/松竹キネマ)である。黒を基調とし、ゆがんだ建物や人工的な風景は、表現主義の特色を強く持っている。ラストでヒロイン(千早晶子)がたたずむ十字路は、黒い地面に白く道が塗られているが、おそらく「朝から夜中まで」を意識しているのであろう。また、僕は部分的に観ただけだが、衣笠はそれに先立って川端康成(1899〜1972)原作・脚本による「狂った一頁」(1926年新感覚派映画聯盟/ナショナルフィルムアート社)を発表している。これは、厳密な意味では表現主義映画とはいえないものの、図形的なセットが、表現主義の影響を感じさせるものであった。
 



「タイス」(1917年伊)
タイス・ガリツキ
(「世界映画全史8」 77ページ)

 


 1909年にイタリアの詩人F・T・マリネッティ(1876〜1944)らによって始められた未来主義の芸術家たちもまた、映画を積極的に製作している。“未来主義”と名乗るぐらいであるから、写真や映画といった新しいメディアを尊重し、巻き込んでいったというのはよくわかる。未来主義映画も大半は現在では失われてしまっているのだが、イタリアの写真家アントン・ジュリオ・ブラガリア(1889〜1960)が製作した「タイス」(1917年伊) が今日唯一現存しており、僕も運良く観る機会に恵まれた。
 主人公は男たちを魅惑する女タイス(タイス・ガリツキ)。彼女は友人の恋人までも自分のものとしてしまう。失意の果てに友人が落馬して死んだことを知ったタイスは、自らを責め、拷問室に入ると死を選ぶ。
 目玉のような模様のついた部屋。煙が噴き出し、刃物が伸びてくる拷問室。奇矯な舞台セットや、主人公の突飛な行動は極めて前衛的である。
 ところが、この「タイス」、厳密には未来主義映画とは言えないのではないかとも言われている
(*2)。写真家ブラガリアが未来主義の芸術家であったのは間違いないのだが、1916年に出された「未来主義映画宣言」の署名の中に彼の名前は見られない。さらに、「タイス」のストーリーというのも、当時イタリアで流行していたディーヴァ映画のスタイルを模したものでしかないと言う。ディーヴァ映画とは女優を前面に押し出した一種のスター映画で、ブルジョワ社会を背景に、三角関係のメロドラマが描かれる。ヒロインは男を誘惑し、最後は自らも滅びていく…。僕が以前観たジョバンニ・パストローネ(1883〜1959)の「王家の虎」(1916年)もディーヴァ映画の一種であるらしい。
 いずれにせよ、現存の「タイス」はオリジナルの約半分の分量でしかなく、他の未来主義映画もまったく残っていない以上、この問題の解決は難しいところであろう。近年では、ブラガリアは名前だけで実際に「タイス」を演出したのはリカルド・カッサノ(1885〜1953)ではなかったのかとの説まで出されている。

*2 以下、小松弘「アントン・ジュリオ・ブラガリア/1916年の実験映画『タイス』を見る」(月刊イメージフォーラム69)および 小松弘「映画『タイス』に関する幾つかの謎」(日伊文化研究33)を参照した。
 



「タイス」(1917年伊)
未来主義的舞台装置
(「世界映画全史8」77ページ)
 


 第一次世界大戦に出征し28歳の若さで戦死したイタリアのニーノ・オクシリア(1888〜1917)は、1915年に遺作となった「サタン狂想曲」を製作した。この作品も発表(1917年)当時は「未来主義」的と評されたが、むしろ象徴主義や耽美主義といった古い芸術運動の傾向にある作品といえる。
 悪魔との契約によって再び若さを取り戻した女性(リダ・ヴォレッリ)が青春を謳歌する。だがやがて、再び老いる時がくる…。ストーリーからも明らかなようにゲーテの「ファウスト」をモチーフにしている。人工的な森の描写はいかにも象徴主義の絵画を思い起こさせる。
 



「サタン狂想曲」(1915年伊)
リダ・ヴォレッリ(右)
(「世界映画全史8」 77ページ)
 


 第一次世界大戦後の前衛芸術運動として目立った活躍を見せたのはダダイスムおよびシュルレアリスムであった。

 1916年2月スイスのチューリッヒに亡命中であったヨーロッパの芸術家達が集結。ルーマニア出身の詩人トリスタン・ツァラ(1896〜1963)たちによってダダイスム(ダダ)の運動が起こる。1918年にはドイツのベルリンにおいて「ダダ宣言」が発表され、その後フランスを皮切りに世界各地に飛び火していった。このダダイスムは「いっさいの既成の社会・論理、いや存在するものすべてを、想像力によって否定し、破壊することを目論んだ
(*3)」もので、無意味こそが重要であると説く。
 1920年代に入ると、ダダイスムは徐々に後から派生したシュルレアリスム(超現実主義)運動に吸収されていく。1924年フランスの作家アンドレ・ブルトン(1896〜1966)らによって第一次「シュルレアリスム宣言」が出された時に、ダダはその使命を終えた。シュルレアリスムは、ダダによって破壊された「廃墟ないし灰塵のなかから、多少とも建設的に新しい価値を生み出す
(*4)」もので、ダダとは逆に意味を見出そうとするものである。そのため、ダダに比べてより通俗的・大衆的であったと言える。
 ダダもシュルレアリスムも、映画を重要視し、その運動の中心に位置付けていた。画家のハンス・リヒター(1888〜1976)に代表されるダダイスム映画は「絶対映画」、シュルレアリスム映画は「純粋映画」と呼ばれる。絶対映画が観念的で 、具体的なものを拒絶しているのに対し、純粋映画は具体的映像を取り入れているのが特徴であると言われるが、実際はその区別は曖昧であるように思われる。中にはマン・レイ(1890〜1976)やマルセル・デュシャン(1887〜1968)のように両方の運動に関わった芸術家もいる。とりあえず、この項ではドイツ製を絶対映画、フランス製を純粋映画であるというように判断することにした。
 
*3 渡辺淳「パリ・1920年代/シュルレアリスムからアール・デコまで」 26ページ
*4 同書 41ページ
 



ハンス・リヒター「リズム21」(1921年独)
(「世界映画全史12」 65ページ)
 


 絶対映画の特色は何よりも具体的映像を拒否した点にある。絶対映画の典型的作品には、黒や灰色の四角形が次々と変化していくハンス・リヒターの「リズム21」(1921年独)や「リズム23」(1923年独)。アニメーターのオスカー・フィッシンガー(1900〜67)の製作による「スタディ」シリーズなどがある。
 フィッシンガーの「スタディNo.7」(1932年独)は、「ハンガリアン舞曲第5番」にあわせて図形が動く。まるで紙吹雪が風に舞っているかのような映像である。音楽にあわせて絵が動くといえば、ディズニー・アニメ「ファンタジア」(1940年米)が思い浮かぶが、その冒頭のバッハ作曲「トッカータとフーガ ニ短調」のエピソードの図案を担当したのがフィッシンガーであった。そもそも、彼は独自に「トッカータとフーガ」の映画化を計画しており、それを指揮者のレオポルド・ストコフスキー(1882〜1977)に打診したことで、おりしも「ファンタジア」の製作を開始したばかりのウォルト・ディズニー(1901〜66)の目に止まりスタッフに加わった。実際には、フィッシンガーは途中で製作を離れ、クレジットにも彼の名前は残っていないのだが、「トッカータとフーガ」のエピソードはイメージの羅列という点で絶対映画を思い起こさせる。こうした絶対映画的なエピソードは60年後に作られた続編「ファンタジア2000」(1999年米)のベートーベン作曲「交響曲第5《運命》」にも受け継がれている。
 もっとも、絶対映画も後のほうになると純粋映画からの影響で具体的・現実的な対象をも撮影するようになる。リヒターの代表作とされるのが「午前の幽霊」(1928年独)。コーヒーカップが突然消えたり、シルクハットが持ち主を探して浮遊したりするといった愛すべき作品であった。さらに彼は、紙幣や絶望する人々の姿をモンタージュした「インフレーション」(1927年独)や、競馬に熱狂する人々の姿を描いた「競馬交響曲」(1928年独)といったストーリー仕立ての作品までも製作しているのである。
 



オスカー・フィッシンガー「スタディNo.7」(1932年独)
(「世界アニメーション映画史」127ページ)
 


 ヴァルター・ルットマン(1887〜1941)の「伯林―大都会交響楽」(1927年独)は、長編前衛映画で、上映時間は1時間を超える。オープニングではまず、白い線がスクリーンに現れる。それが動き出すと、線路の遮断機である。走る列車から見える光景が綴られ、やがて列車は早朝のベルリンに到着する。人々の生活や、工場の様子。昼から夜へと、大都会ベルリンの24時間が描かれる。
 ルットマンも最初は抽象的な図形のみを用いた映画を撮っていたそうである。その頃の彼は「ニーベルンゲン」(1924年独)第一部「ジーグフリード」において、奇怪な鷹が飛び回る夢のシークエンスを担当している。その後、リヒターと同様に具体的な映像を撮影するようになるが、この「伯林」ではそれをさらに押し進め、ドキュメンタリー・スタイルでもって作品を作り上げた。
 やがて政権を取ったナチスは抽象映画を堕落的だと非難する。そのためリヒターやフィッシンガーは相次いで国外に脱出したが、ルットマンはその後もドイツに残り映画の製作に携わる。ベルリン・オリンピックの記録映画「民族の祭典」「美の祭典」(共に1938年独)でも幾つかのシークエンスに協力しているとのこと。第二次大戦中は戦場に赴き記録映画を撮影しているが、1941年東部戦線で事故にあって命を落としている。
 



ヴァルター・ルットマン「伯林―大都会交響楽」(1927年独)
(「ヨーロッパ映画200」 51ページ) 
  


 一方の純粋映画のほうはどうであったか。戦前フランスを代表する映画監督の一人であるルネ・クレール(1898〜1981)も最初は前衛映画から出発している。彼のデビュー作は25歳の時に製作した「眠るパリ」(1923年仏)。エッフェル塔の夜警(アルベール・プレジャン)がある朝起きてみるとパリ中の人間がまったく動きを止めてしまっていた…と言う、意表をついた実験的な作品であった。
 



ルネ・クレールのデビュー作「眠るパリ」(1923年仏)
「世界映画全史12」 72ページ
 


 続くクレールの第2作目が「幕間」(1924年仏)であったが、これはまさしく純粋映画の特色を備えている。「幕間」は1924年のスウェーデン・バレエ団のパリ公演の際に、文字通り幕間に上演された。
 飛び跳ねながら大砲を撃つ二人の男。的を射撃する男は猟師によって撃たれる。バレリーナの格好で踊る髭面男…といった脈絡のないイメージ映像が綴られる。突如棺を乗せた車がジェットコースターのように疾走し、人々は追いかける。草むらに転がった棺から、魔術師のような格好の男(ジャン・ボルラン)が現れ、追跡者達を消し去ると、最後は自分も消えてしまうのだった。この映画の楽しみの一つに、クレールの友人であるダダイストやシュルレアリストたちが顔を出している点がある。マルセル・デュシャンとマン・レイはチェスをしており、大砲を撃つのが原案と美術を担当した画家で詩人のフランシス・ピカビア(1879〜1953)と、音楽を担当した作曲家のエリック・サティ(1866〜1925)。ジャン・ボルランはスウェーデン・バレエのスターであった。
 



「幕間」(1924年仏)
(「世界映画史」より)
 


 キュビズムの画家フェルナン・レジェ(1881〜1955)はレルピエの「人でなしの女」(1924年仏)で実験室のセットを担当していたが、同じ年にカメラマンのダドレー・マーフィ(1897〜)と共同で「バレエ・メカニック」(1924年仏)を製作している。チャップリンの人形が挨拶する冒頭に始まり、幾何学模様や日常調度品、女性の顔のパーツ、アクセサリー 、マネキンの足などの機械的なオブジェがリズミカルに次々と映し出され、まるでキュビズム映画であるかの印象を受ける。
 様々なイメージの中で、とりわけ印象的なのは、時おり挿入されるほほ笑む女性の目元や口元のクローズ・アップ。豊かな表情を見せるこの女性はキキ(本名アリス・プラン/1901〜53)。モンパルナスでキスリング(1891〜1953)やピカソ(1881〜1973)、藤田嗣治(1886〜1968)らのモデルを務め、当時はマン・レイの愛人であった。もちろんレイの映画にも出演している。また、石段を登る太った洗濯のおばちゃんのシーンも面白い。石段を上り詰めると、そこにあるカメラに驚いて、おもわずびっくり。このシーンが何度も何度もひたすらに繰り返される。実に21回とのこと
(*5)。何度も観ているうちに、いつのまにか彼女が驚くのを期待して待っている自分に気づいて可笑しくなる。

*5 村田宏「フェルナン・レジェと映画《バレエ・メカニック》(下)」 25ページ
    僕がわざわざ数えたわけではない。
 



フェルナン・レジェ「バレエ・メカニック」(1924年仏) 
(「世界映画全史12」 69ページ)
 


 しかし、この作品は現在のところ賛否両論大きく分かれているようである。自身もシュルレアリストであった評論家のジョルジュ・サドゥール(1904〜67)が「世界映画史」の中でこの作品を大きく取り上げている一方、アド・キルー(1923〜85)は「映画のシュルレアリスム」において「最悪のもの」
(*6)としてほとんど触れようともしない。どうもこうした意見の食い違いは公開当時からあったようだ。最初に上映されたウィーンでは絶賛されたにも関わらず、フランス国内では1926年まで上映すらされなかった。レジェは最初、前衛映画の庇護者であった映画館経営者ジャン・テデスコ(1895〜1959)のもとにこの「バレエ・メカニック」を持ち込んだのだが、上映を拒否されてしまった。もっとも、テデスコ自身は後にこのことを後悔していたという(*7)。それでは、実際に僕が観た際の感想はというと…。う〜ん、よくわからん。ごめんなさい。ただ、印象的な映画であるのは事実。比較的上映機会の多い作品なので、ぜひみなさん自身の目で判断して欲しい。

*6 アド・キルー/飯島耕一訳「映画のシュルレアリスム」 45ページ
*7 村田宏「フェルナン・レジェと映画《バレエ・メカニック》(上)」 2ページ
 


  
マルセル・デュシャン「アネミック・シネマ」(1926年仏)
(「現代美術の巨匠/マルセル・デュシャン」107ページ)
 


 画家のマルセル・デュシャンが製作したのは「アネミック・シネマ」(1926年仏)である。「アネミック(Anemic)」とは聞き慣れない言葉だが、「シネマ(Cinema)」のアナグラムである。同じ発音の言葉に「Anemique(貧血の、力のない)」があるので、「貧血映画」と翻訳された資料もある
(*8)
 この作品は画面に現れた様々な円盤が回転するというもの。幻想的で不思議な感覚に思わずうっとりとさせられる。字幕までもが円盤の上に渦を巻くように描かれている(写真右上)。ちなみに僕が観たのはフランス語字幕のみのもので、悲しいかなまったく字幕の内容を理解できなかった。ちなみに右上の写真に書いている文字は「ESQUIVONS LES ECCHYMOSES DES ESQUIMAUX AUX MOTS EXAUIS」。どうも語呂合わせのようではあるが、大学時代に使ってた辞書を引っ張り出して訳してみた。「エスキモーから甘美な言葉へ青あざを巧みにかわす」。まったく意味不明。映画の内容とも全然関係はない。つまり、別に字幕は読めなくても大丈夫だったのだ。

*8 マン・レイ/千葉成夫「マン・レイ自伝/セルフ ポートレイト」 403ページ
 



「幕間」(1924年仏)
デュシャン(左)とマン・レイ
(「現代美術の巨匠/マルセル・デュシャン」 23ページ)
  


 レジェやデュシャンがたった一本の映画しか残さなかったのに比べ、アメリカ出身の写真家のマン・レイは、積極的に映画を製作している。そればかりか、彼は他の前衛映画の多くにも何らかの形で協力しているのだ。クレールの「幕間」ではデュシャンと共演(写真上)。デュシャンの「アネミック・シネマ」の製作にもマルク・アレグレと共に参加している。また、レジェの「バレエ・メカニック」には構想の段階で大きく関与していたとのこと。ずっと後になってからはリヒターの映画にも協力している。
 そのレイの最初の映画が「理性に帰る」(1923年仏)である。1923年7月5日、翌日の「ダダ芸術の夕べ」に上映する適当な作品がなかったため、トリスタン・ツァラは、「きみは24時間のうちに映画を作れるかね?」
(*9)とレイに映画製作を依頼した。レイはありあわせのフィルムに塩と胡椒を振りかけたり、釘を乗せたりして現像し、一晩で映画を完成させた。黒地に白い影。暗闇の中に光が現れ、回転をし始める。ラストでキキの裸の上半身(写真下)が登場する以外は抽象的な映像のみに終始しており、絶対映画を思わせるものとなった。

*9 ニール・ボールドウィン/鈴木主税訳「マン・レイ」190〜191ページ
 



マン・レイ「理性に帰る」(1923仏)
(「ダダとシュルレアリスム」 237ページ)
 


 次の「エマク・バキア」(1927年仏)も、暗闇に光が点灯する映像で幕を開けるが、ここでのイメージはより具体的な映像によって構成されている。例えば、踊るハイヒールを履いた女の足、ひとりでに踊り出すYシャツのカラー。ラストは目を開けたまま眠るキキの顔のアップ。その目は閉じた瞼の上に描かれた偽物であった…。
 アド・キルーをして、レイの「最上の映画」
(*10)と言わしめたのがひとで」(1928年仏)である。これは、レイの友人でシュルレアリスムの詩人ロベール・デスノス(1900〜45)の詩に映像をつけたもの。前2作とは異なりはっきりとしたストーリーを持っている。男女の出会いから別れまでを追ったこの映画は、終始極端にボカされた画面で構成される。まるで分厚いガラス瓶の底から覗いているかのようだ。

*10 アド・キルー/飯島耕一訳「映画のシュルレアリスム」 229ページ
 



マン・レイ「エマク・バキア」(1927年仏)
(「世界映画全史12」 81ページ)
 


 最後の映画「サイコロ城の秘密」(1929年仏)はシャルル・ド・ノアイユ子爵(1891〜1981)の依頼によって製作された。覆面をした二人組がサイコロで何かを決めている。やがて二人は車に乗って丘の上の城へと向かう。城に入った二人は中を見て回る。何十枚もの絵画、プール。その豪華さには息を呑む。ようするにノアイユ子爵のお城の紹介映画なわけだが、南フランスにあったこの城は、「人でなしの女」(1924仏/第2章(14)参照)で建築を担当したロベール・マレ=ステヴァン(1886〜1945)の設計によるもので、まるでキュビズムを思わせる外観をしている。資金を提供したノアイユ子爵はこの作品の出来に満足したのであろう。映画製作の味を味をしめたらしく、その後1930年にはルイス・ブニュエル(1900〜83)とサルバドール・ダリ(1904〜89)の「黄金時代」 (参照)、ジャン・コクトー(1889〜1963)の「詩人の血」(参照)にも資金を提供している。ブニュエル、ダリ、コクトーの3人については次項以降でじっくりと述べたいと思う。ノアイユ子爵はマン・レイにも長編映画の製作を依頼したが、彼はそれを断り、以後映画を撮ることはなかった。
 



マン・レイ「ひとで」(1928年仏)
(「世界映画全史12」 81ページ)
 


 シュルレアリスムの詩人アントナン・アルトー(1896〜1948)は、俳優としても活躍している。アベル・ガンス(1889〜1981)の「ナポレオン」(1927年仏)に出演しているということは前回述べた。フランス革命の英雄マラーを演じ、浴槽の中で美女コルデーに暗殺される。また、デンマークの巨匠カール・ドライアー(1889〜1968)の「裁かるゝジャンヌ」(1928年仏)でもジャンヌに好意的なルーアン教徒の長老マシューを演じる。とりわけ「ナポレオン」でのアルトーはその容貌のおかげもあって強い印象を残す。
 アルトーはいくつもの映画の脚本を執筆し、また映画についての理論的エッセイを書いているが、その彼の脚本を女流監督のジェルメール・デュラック(1882〜1942)が演出したのが、1928年の「貝殻と僧侶」である。
 



ジュルメール・デュラック「貝殻と僧侶」(1928年仏)
(「映画芸術への招待」 74ページ)
 


 一人の僧侶が広大な寺院の扉を次々と開けていく。ある部屋に男女の姿を発見した僧侶は嫉妬して、男を殺してしまう…。といったストーリーを極めて絵画的な画面構成で描き上げる。上の写真にある男の顔がざっくりと割れるシークエンスは有名である。
 アルトーは俳優でもあったから主人公の僧侶は自身を想定して描かれていたが、実際にその役を与えられたのはアレックス・アランであった。また、彼は演出への参加を希望していたが、当時精神を病んでいるとかで、デュラックは撮影現場に立ち会うことすら拒否した。そればかりか、映画のクレジットを「アントナン・アルトーの夢、ジェルメール・デュラックによる視覚的構成」としたのである。後にアルトーの抗議によって、脚本=アルトー、監督=デュラックと明記されるようになったという。
 当然、完成した映画もアルトーの気に入るところではなく、公開当日ブルトンらシュルレアリストの仲間と映画館に押しかけると、抗議のための騒ぎを起こした。実際のところ、完成した「貝殻と僧侶」がどこまでアルトーの意図に沿ったものであるかは僕には知るよしもないが、今まで挙げてきた他のシュルレアリスム映画と比べて、この映画はより大衆的なものに感じられる。とすれば、アルトーの意図ももっと不条理なところにあったのではないだろうか。僕はデュラックが監督した一般映画「微笑むブーデ夫人」(1923年仏)を観る機会があったが、前衛的な描写を含んだ不思議な雰囲気の漂う作品であった。ひょっとしたら彼女のめざした前衛映画とは、何よりも大衆的なものであったのかもしれない。
 いずれにせよ、この作品は今日では高い評価を得ており、「最初のシュルレアリスム映画」
(*11)とも言われている。

*11 アド・キルー/飯島耕一訳「映画のシュルレアリスム」 238ページ
 



アルベルト・カヴァルカンティ「時のほか何物もなし」(1926年仏)
(「世界映画全史12」 103ページ)
  

 最後に、前衛映画(アヴァン=ギャルド映画)に分類されるその他の作品をいくつか見てみることにしたい。
 ブラジルのリオデジャネイロ出身のアルベルト・カヴァルカンティ(1897〜1982)は、「人でなしの女」(1924年仏)で美術を担当している。彼の製作した「時のほか何物もなし」(1926年仏)は、パリの朝から夜中までをスケッチのように綴ったドキュメンタリー的な映画である。ルットマンの「伯林―大都会交響楽」(1927年独)の先駆的な作品と言える。パリの風景にペンキが塗られ、ポスターとして破かれる斬新なオープニングや、ステーキの向こうに牛の屠殺の映像がモンタージュされる場面が印象に残る。30分という、割と長い作品だが、イメージ映像をそれだけ観続けるのはなかなか辛いものがある。
 



ディミトリ・キルサノフ「メニルモンタン」(1927年仏)
(「世界映画全史12」 106ページ)
 


 ディミトリ・キルサノフ(1899〜1957)はロシア出身。彼の「メニルモンタン」(1927年仏)は、パリの印象派の絵画を思わせる詩情豊かな作品である。恋人に捨てられて一人子供を生んだ妹(ナディア・シビルスカイア)と、売春婦に落ちぶれた姉(ヨランド・ボーリュー)の姿を無字幕で描く。
 また、後の巨匠で前衛映画を製作したのはクレールばかりではない。ジャン・ルノワール(1894〜1979)もまた初期には前衛色の豊かな映画を撮影している。彼の「マッチ売りの少女」(1928年仏)は、言うまでもなくアンデルセン(1805〜75)童話の映画化だが、少女がマッチを擦って見る幻覚を、おもちゃの世界のようなセットの中で幻想的なバレエによって表現している。
 「新学期 操行ゼロ」(1933年仏)、「アタラント号」(1934年仏)のジャン・ヴィゴ(1905〜34)のデビュー作「ニースについて」(1929年仏)はニースの光景が次々と現れる実験ドキュメンタリーであるが、まるでニースの観光PR映画のようであった。
 



ジャン・ルノワール「マッチ売りの少女」(1928年仏)
(「世界映画全史12」 101ページ)
 


 とまあ、前衛映画の流れをざっと眺めてきたわけであるが、「黄金時代」と「詩人の血」(共に1930年仏/詳細は次回以降)を最後に、前衛映画
はほとんど撮られなくなってしまう。クレールやブニュエル、コクトーは一般映画で傑作を発表。フィッシンガーもコマーシャル・フィルムに活躍の場を移すが、レジェやデュシャン、マン・レイは映画製作から手を引いてしまう。それはなぜだろうか。トーキー化によって、映画がよりリアリティを求められるように変貌したことや、映画界の著しい商業化が、理由として考えられる。今までのように前衛映画作家が内なるこだわりを映像化し、それが通用する時代が終ったということなのである。
 そんな中、ハンス・リヒターだけはその後もたった一人前衛映画にこだわり続けた。彼は戦後「金で買える夢」(1946年米)、「8×8 チェスのソナタ」(1956年米)などを製作したが、それらの作品にかつての前衛映画仲間を集結させた。「金で買える夢」は人の夢を実現できる男のもとを訪ねた人々が見る夢の中身を、「8×8 チェスのソナタ」ではチェスの駒に与えられた物語をそれぞれの作家がエピソードとして担当している。参加した作家は、デュシャン、レジェ、マン・レイ、コクトー、マックス・エルンスト(1891〜1976)、アレクサンダー・コルダ(1893〜1956)らであった。僕は両作品とも部分的に観ただけだが、仲間内の遊び・記録的な側面を持っているような作品であった。
 細々と続いていた前衛映画の流れは、1950年代にアメリカにおいて再び花開くこととなる。
ジョナス・メカス(1922〜2019)、アンディー・ウォーホル(1928〜87)、ケネス・アンガー(1927〜2023)らによって革新的な作品が作られていくが、それはまた後の話。
 


(2003年9月19日)


(参考資料)
杉山平一「映画芸術への招待」1975年8月 講談社現代新書
浅沼圭司、岡田晋、佐藤忠男、波多野哲朗、松本俊夫「新映画辞典」 1980年9月 美術出版社
村山匡一郎「映画100年STORYまるかじり/フランス篇」1994年11月 朝日新聞社
渡辺淳「パリ・1920年代/シュルレアリスムからアール・デコまで」1997年5月 丸善ライブラリー
アド・キルー/飯島耕一訳「映画のシュルレアリスム」1997年12月 フィルムアート社
ジョルジュ・サドゥール/丸尾定、村山匡一郎、出口丈人、小松弘訳「世界映画全史8/無声映画芸術の開花」1997年12月 国書刊行会
ジョルジュ・サドゥール/丸尾定、出口丈人、小松弘訳「世界映画全史12/無声映画芸術の成熟」2000年7月 国書刊行会
山田宏一「山田宏一のフランス映画誌」1999年9月 ワイズ出版
中条省平「フランス映画史の誘惑」2003年1月 集英社新書

〈ブラガリア〉
小松弘「アントン・ジュリオ・ブラガリア/1916年の実験映画『タイス』を見る」1986年6月「月刊イメージフォーラム69」
小松弘「映画『タイス』に関する幾つかの謎」1995年3月「日伊文化研究33」

〈フィッシンガー〉
伴野孝司、望月信夫/森卓也監修「世界アニメーション映画史」1986年6月 ぱるぷ
ジャンナルベルト・ベンダッツィ「カートゥーン:アニメーション100年史」
http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/index.html

〈レジェ〉
村田宏「フェルナン・レジェと映画《バレエ・メカニック》(上・下)」1992年12月、1993年12月「美術史研究30、31」
井口壽乃「『バレエ・メカニック』―レジェの映像製作とその表現―」1993年3月「映像学49」

〈デュシャン〉
グロリア・モウレ/野中邦子訳「現代美術の巨匠/マルセル・デュシャン」1990年5月 美術出版社

〈マン・レイ〉
マン・レイ/千葉成夫訳「マン・レイ自伝/セルフ ポートレイト」1981年6月 美術公論社
ニール・ボールドウィン/鈴木主税訳「マン・レイ」1993年7月 草思社

〈アルトー〉
アノナン・アルトー/坂原眞里訳「アントナン・アルトー著作集V/貝殻と牧師 映画・演劇論集」1996年3月 白水社
宇野邦一「アルトー/思考と身体」1997年5月 白水社

〈ルノワール〉
ジャン・ルノワール/西本晃二「ジャン・ルノワール自伝」1977年7月 みすず書房
 


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