第2章−サイレント黄金時代(18
  映画で革命!
〜ソ連映画とモンタージュ〜
 

 

ソ連映画の最高峰
「戦艦ポチョムキン」(1925年)
(「ヨーロッパ映画200」 41ページ)
 


 アメリカという国は常に敵が必要なようである。2001年にはアフガニスタンのタリバン政権およびオサマ・ビン・ラディン(1957〜2011)率いるテロ組織アル・カイーダと戦っていたが、去年(2003年)はイラクのサダム・フセイン大統領(1937〜2006)が相手だった。ひょっとしたら来年あたりは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の金正日総書記(1942〜2011)と戦っているかもしれない。そのアメリカの好敵手を50年もの永きに渡って務めてきたのが今は亡きソ連であった。

 ソ連…「ソ連邦」とか「ソビエト連邦」などとも呼ばれるが、正式な名称は「ソビエト社会主義共和国連邦」である。英語では「Union of Soviet Socialist Republics」なので、略して「USSR」とも言う。世界最初の社会主義国家
(*1)として1922年に成立した。
 ソ連自体は20世紀になってから出来た若い国であるのだが、その前身の「帝政ロシア」も含めれば、長い歴史を持っている。帝政ロシアの皇帝は「ツァーリ」と称したが、これはそもそも13〜14世紀にロシアを支配していたモンゴル帝国の「汗(ハン)」を指す言葉であった。その後、15世紀にモンゴルの支配を打ち破った大公イワン3世(14401505)によって初めて自身に対して用いられ、1547年にイワン4世(153084)により正式の称号となった。このイワン4世はその恐怖政治により「雷帝」と呼ばれた人物で、セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(18981948)の映画「イワン雷帝」(194446年)の主人公である。1613年に16歳のミハイル・ロマノフ(15961645)がツァーリとなり、その後300年に渡るロマノフ王朝が始まった。
 帝政ロシアは、他の西欧諸国に比べ近代化が著しく遅れていたと言えるのだが、そんな国からも「映画の父」と称する人物が出現している。1893年、モスクワ大学の物理学教授N・リュビーモフと、ノウォロシースク大学技手のI・チムチェンコは螺旋歯車を利用してフィルム間欠運動をさせ、それをスクリーンに拡大して映し出す機械を発明した。そして、翌1894年1月9日に公開している
(*2)。リュミエール兄弟のシネマトグラフの公開に先立つこと約2年。だが、結局実用化はされず、規模も小さく、国際的な影響力もほとんどなかった。だから、ソ連映画史は実質的には1896年6月にシネマトグラフが到来した時から始まる。
 帝政ロシアでの映画製作は1907年より始まり、計1716作品が製作されたことが確認されている(うち286作品が現存
*3)。だが、これらの作品はソ連時代にはほとんど無視され、きちんと評価されてきたとはとても言い難い。実のところ僕も、帝政ロシアの映画は「スペードの女王」(1916年)を断片的に観ただけなので、ここで取り上げるわけにいかない。帝政ロシア時代の映画が陽の目を見るようになったのは、1987年のペレストロイカ以降のことなので、今後目にする機会も出てくるのではないか。ここでは、ロシア革命以降のソ連時代の映画についてみていくことにしたい。

*1 1871年のパリ=コミューンのほうが先だが、こちらは規模が小さく、わずか3ヶ月と期間も短かった。
*2 土方敬太「ロシヤは映画の故郷である/ロシヤの映画発明家たち」(「ソヴェト映画 1−7」1950年9月)
    同書紹介のI・ソコロフ「ロシヤの映画発明家たち」による。
*3 山田和夫「ロシア・ソビエト映画史」 32ページ
 
 



レーニン
(「ビジュアル世界史」〈とうほう〉128ページ)
 

 

 帝政ロシアでは、20世紀に入ると社会の矛盾が次々と噴出してくる。そんな中から、社会主義運動が盛んになってきた。1904(明治37)年に始まった日露戦争においてロシア軍は連戦連敗。さらに1905年1月の「血の日曜日」事件(*4)をきっかけに、第1次ロシア革命が勃発する。そのハイライトとなったのが6月に黒海艦隊の旗艦ポチョムキン号で起きた水兵の蜂起であった。言うまでもなく、セルゲイ・エイゼンシュテインの代表作「戦艦ポチョムキン」(1925年)に描かれた事件である。この事件は当時世界中に大きな衝撃を与えた。同じ年に早くもフランスのリュシアン・ノンゲによって「ロシア革命―オデッサ事件」(1905年仏)として映画化されている。僕はノンゲ版を観る機会があったのだが、冒頭にポチョムキン号の実写フィルムが挿入され、いわば擬似ドキュメンタリーとして作られていた。後半では水兵が対岸を双眼鏡で覗くと、民衆の虐殺シーンが映し出される。
 1905年10月の十月勅令によって、ロマノフ朝の皇帝ニコライ2世(18681918)は国会(ドゥーマ)の開設と憲法制定の導入を約束。12月にモスクワにおける労働者の武装蜂起が鎮圧されたことで第一次ロシア革命は沈静化した。だが、革命後に力を握ったピョートル・ストルイピン首相(18621911)は、言論制圧や、国会の皇室御用機関化などの反動政治を行う。また、ロシアの伝統的な農村共同体(ミール)を、革命の基盤となる恐れから解散したため、農民たちの貧困化を招くこととなった。
 1914年、帝政ロシアは第一次世界大戦に介入し、社会的矛盾はさらに激化した。1917年3月(旧暦2月)、首都ペトログラード(ペテルブルグ)において、労働者・兵士の90%が一斉蜂起する「二月革命」が起き、皇帝ニコライ2世は退位。これによってロマノフ朝は滅亡し、資本家中心のブルジョア臨時政府が成立、アレクサンドル・ヒョードロビチ・ケレンスキー(18811970)が首相となる。一方の兵士や農民、労働者たちは代表組織「ソビエト」を結成する。

*4 司祭ガポン(18701906)率いる労働者とその家族約10万人が「プラウダ(真実・正義)」の実現を求めて、皇帝の宮殿をめざして行進したのに対し、軍隊が発砲。約100人の死者を出した事件。
 
 

スターリン
(「精選世界史図説」〈第一学習社〉111ページ)
 
 
 

トロツキー
(「ビジュアル世界史」129ページ)
 
 
 1917年11月(旧暦10月)、ウラジミール・レーニン(18701924)率いるボリシェヴィキ(のちの共産党)の武装蜂起によってブルジョア臨時政府は倒され、「十月革命」が成功。ソビエト政府による世界初の社会主義政権が発足した。その後、1922年12月に「ソビエト社会主義共和国連邦」が成立。当時の加盟国はロシア、ウクライナ、ベロルシア(後のベラルーシ)、ザカフカス連邦(アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア)の4共和国であったが、後にウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、カザフスタンが加わり、第二次世界大戦と同時にモルドヴァも加盟。独ソ密約によってバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を合わせ、計15ヶ国となった。

 とまあ、ざっとであるがソ連成立までの流れを追ってみた。十月革命の事情についてはエイゼンシュテインの「十月」(1927年)に詳しいので、そちらのほうを観てもらいたい。もっとも、この「十月」、ヨシフ・スターリン書記長(18791953)の批判によってレオン・トロツキー(18791940)の登場シーンがすべてカットされてしまっている。トロツキーは、十月革命においてレーニンにつぐ大きな役割を果たしている人物なのだが、当時スターリンと対立していたのがその理由である(その後1929年にソ連追放、1940年メキシコで暗殺)。現在観ることのできる「十月」には、若干ではあるがトロツキーの登場シーンがあるので、後に復元された部分もあるのだろう。しかし、必ずしもエイゼンシュテインの意図に沿った完璧なものとは言えないのではないか。だが、現存作品はそれでもすさまじいまでのパワーを持っている。
 
 
 

フルシチョフ
(「ビジュアル世界史」152ページ)
 


ブレジネフ
(同左)
 
 
 
 レーニンが1924年に死ぬと、その後を継いだスターリンは恐怖政治を敢行した。第二次世界大戦後は周辺の東欧諸国に次々と社会主義政権を樹立し、自らの陣営に引き込んでいく。そして、1946年のウィンストン・チャーチル英首相(18741965) の「鉄のカーテン」演説によって始まる冷戦以降は、アメリカと並ぶもう一方の超大国として君臨していくわけである。
 スターリン以降のソ連に関しては、指導者の変遷を述べるに留めたいが、歴代の指導者の顔ぶれを見ていくと面白い事実に気づく。なんと、ハゲと髪がフサフサの人が交互に指導者となっているのである。例えば、レーニンはハゲで、スターリンはフサフサであるという具合。以降の指導者に対しても面白い具合にこれが当てはまる。つまり、ニキータ・フルシチョフ(18941964)=ハゲ、レオニード・ブレジネフ(190682)=フサフサ、ユーリー・アンドロポフ(191484)=ハゲ、コンスタンチン・チェルネンコ(191185)=フサフサ、ミハイル・ゴルバチョフ(1931〜2022)=ハゲといった具合。ソ連崩壊後も、その伝統は守られ、ボリス・エリツィン前ロシア大統領(1931〜2007)は髪がフサフサだったが、現在のウラジミール・プーチン大統領(1952〜)はかなり髪が薄い。ちなみにこの伝統、エリツィン辞任後の2000年大統領選挙においてもかなり意識されていたらしい。プーチンの有力対立候補だったジュガーノフ共産党委員長(1944〜)は、「こっちのほうが完璧なハゲだ」と中途半端ハゲのプーチンを批判したとか。この原則からいくとポスト・プーチンは誰か。今年(2004年)3月の大統領選挙ではプーチンの再選が確実視されているので、次の交代は2008年の大統領選挙以降ということになるのだろう。過激な主張で知られるジリノフスキー自由民主党党首(1946〜2022)に も可能性があるということか
(*5)。 

*5 2008年に大統領に就任したドミートリー・メドヴェージェフ(1965〜)氏は髪がふさふさのため、またしても伝統が守られた。
 
 
 



ゴルバチョフ
(「ビジュアル世界史」152ページ)
 

 
 
 さて、冷戦という時代を経て、1985年に57歳の若さのゴルバチョフがソ連共産党の書記長となる。ゴルバチョフはグラスノスチ(情報公開)・ペレストロイカ(建て直し)といった改革を推し進めていくが、その結果として社会主義陣営にほころびが現れ始める。1989年ベルリンの壁が崩壊したのを皮切りに、東ヨーロッパの社会主義国家が次々と民主化。1991年3月にはリトアニア、続いてラトビアとエストニアがソ連からの独立を宣言。他の共和国でも独立の気運が高まる。12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3 ヶ国首脳によってソ連解体、独立国家共同体(CIS)の発足が発表され、ソ連はその70年の歴史を終えた。世界の一方を支えた社会主義勢力はついに、資本主義勢力に敗れてしまったかのようである。
 「勝てば官軍」という言葉があるが、結局のところ勝者こそが正しいというのが、歴史の流れである。社会主義が誤りであったとの風潮が旧ソ連において芽生えてくることになる。それは映画においても例外ではない。体制に迎合していた旧ソ連の芸術家の作品は一斉に否定され、アンドレイ・タルコフスキー(193286)のように、反体制の立場にあった芸術家の作品ばかりがもてはやされるようになる。はなはだしいのは、ソ連時代に否定されてきた帝政ロシアまでもが賛美の対象となるのである。
 社会主義の是非は今ここでは問うまい。もちろん、政治と芸術が別ものだなんて綺麗事も言うつもりはないが、少なくとも現在の僕はそうしたイデオロギーによる先入観をなるべく排除した上で純粋に映画を作品として鑑賞して良し悪しを判断したいと考えている。これは、今後もこのエッセイにおいては常に貫き通していきたい。
 
 
 



「戦艦ポチョムキン」(1925年)
(「世界映画全史10」201ページ)
 

 
 
 社会主義の国においては、映画もやはり国家の事業に当たる。したがって、政府や軍の全面的な協力を仰ぐことができる反面、いろいろと制約を受けなくてはならない。例えば、製作費ひとつ取っても、計画経済で予め決められている以上、そう簡単に変える事はできない。北朝鮮で映画を製作した韓国の巨匠・申相玉(19262006)は、「ある資材が必要な場合、電話で注文して入手できるのではなく、一年前に需要計画を立てて申請しなければならない」(* 6)と、社会主義の構造が非能率的であったことを述べている。
 レーニンもスターリンも社会主義革命において映画を重要視していた。とりわけレーニンが「あらゆる芸術のなかで、われわれにとってもっとも重要なものは映画である」
(* 7)と語ったのは伝説となっている。レーニンが「芸術は彼ら(大衆)のなかに芸術家を目ざめさせ、発展させねばならない」(* 8)と寛容な態度であったのに引き換え、スターリンは映画の内容にも厳しく口を出し、時に修正させるという高圧的な態度に出た。なかんずくエイゼンシュテインは彼の最大の被害者ではないだろうか。先に述べたように「十月」(1927年)ではトロツキーの登場するシーンを削除させられているが、それだけではない。全線」(1929年)はラストを変更させられ、「アレクサンドル・ネフスキー」(1938年)は主人公の死のくだりがカットされ、歴史的事実を無視してまでハッピーエンドにされてしまう。「イワン雷帝」3部作(194446年)に至っては、第2部は上映禁止(スターリンの死後5年してようやく公開)、第3部は約半分の撮影が終了していたにも関わらず全フィルムが廃棄処分とされた。

*6 崔銀姫、申相玉「闇からの谺/北朝鮮の内幕 下」131ページ
*7 山田和夫「ソヴェートの映画製作とその変遷」(「ソヴェート映画史/世界の映画作家30」所収) 247ページ
*8 山田和夫「ロシア・ソビエト映画史」 64ページ
 
 
 
 国の事業として製作された映画は、当然その時々の国の状況によって大きく変化することになる。ソ連が成立した当初は、国民に社会主義を根付かせるということが求められたはずである。さらに、世界初の社会主義国家として、全世界にそのイデオロギーを喧伝する目標を持っていた。当時のソ連映画の大半がイデオロギー色の強いものであったのは、当然のことである。芸術・娯楽という観点から見てやや物足りないとしても、性格上仕方のないことではないだろうか。そういった傾向は、戦前の日本の国策映画や、金日成(191294)・金正日体制下の北朝鮮映画においても少なからず当てはまる。しかし、どのような状況下でも名作は生まれるもの。国策映画からは「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年東宝)が生まれたし、北朝鮮映画でもカルロビバリ映画祭(チェコスロバキア)で審査員特別監督賞を受賞した「帰らざる密使」(1984年)という芸術的に高い評価を受けた作品が作られている。ソ連映画もまたしかり。
 ただ、戦前の日本の場合、ソ連映画を高く評価したのは一部の左翼知識人がもっぱらで、一般の映画ファンからは縁遠い存在であったようだ。1937年に禁止されるまで、ソ連映画は200本以上が日本に輸入されているのだが、実際に公開されたのはうち32本にすぎない
(* 9)。しかも、サイレント期の3大名作のうち、アレクサンドル・ドヴジェンコ(18941956)の「大地」(1930年)は公開されているものの、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」とフセヴォロド・プドフキン(18931953)の「母」(1926年)は未公開に終わっている。戦後は、さすがにそこまでのことはなかったが、ソ連が日本の属する資本主義陣営と対立する社会主義陣営ということで、アメリカ映画などに比べ、あまり脚光を浴びる機会がなかった。

*9 山田和夫「ロシア・ソビエト映画史」157〜159ページ
 
 
 
 ソ連映画の誕生は、レーニンが「写真及び映画の商工業を教育人民委員部の管轄に移す法令」に署名した1919年8月27日をもって始まると見なされる。だが、その後の相次ぐ内戦でロシア国内は荒廃。1919年にロシア国内で年間60本製作されていた映画は、ソ連誕生の1922年には10数本にまで落ち込んでいた(*10)。しかも、多くの映画人は社会主義革命を嫌ってフランスなどに亡命してしまっている。
 一方、1922年当時の世界の映画はどのような状況であったかと言うと…。アメリカではエリッヒ・フォン・シュトロハイムが「愚なる妻」を、フランスではアベル・ガンスが「鉄路の白薔薇」を、ドイツではフリッツ・ラングが「ドクトル・マブゼ」を発表している。さらにルドルフ・ヴァレンチノが「血と砂」に主演し世界中の女性を虜にしていた。D・W・グリフィス最後の名作「嵐の孤児」は前年の作品であるし、チャップリンが「巴里の女性」で芸術家として認められるのは翌年のことである。このように世界中の映画が絢爛豪華に輝いていた時代に、明らかに遅れてソ連映画は登場した。それにも関わらず、わずか数年のうちに世界に轟くような作品を次々と生み出していったのだから、まったく驚くべきことではないか。

*10 ジョルジュ・サドゥール/丸尾定、小松弘訳「世界映画全史10/無声映画芸術の成熟」 11ページ
 
 
 
 さて、当時のソ連映画はどのようなものであったのか。先に述べた通り、イデオロギー色が強い。連帯の重要性を説くと同時に、革命の必要性を訴えているのが、傾向としてあげられる。
 エイゼンシュテインの代表作「戦艦ポチョムキン」(1925年)は、第1次ロシア革命に題材を得ている。上官たちに不当に虐げられるポチョムキン号の水兵達。スープ用の肉に蛆がたかっていた事をきっかけに一斉蜂起する。一方、オデッサの住民たちがパンを求めて宮殿の階段を上るが、護衛兵たちはそれに対して発砲。一躍惨劇と化す。民衆の悲劇を見たポチョムキン号は怒りの砲火をあげる。ラストでは、ポチョムキン号に別の軍艦が近づいてくる。敵か味方か、緊張が走る。その軍艦は仲間である証拠に赤い旗を掲揚するのであった。この赤旗の部分だけ後から彩色が施されているのだが、先日特集上映で観たフィルムは彩色されていないものであった。赤い色はモノクロだと黒く見えるはずだが、その時のフィルムの旗は白かった。つまり、予め彩色を前提に、後から色がつけやすいように白い旗を用いて撮影しているのである。だから、予備知識なしにその上映会に来た人は、きっと意味がよく分からなかったに違いない。また、エイゼンシュテインの「十月」(1927年)は、十月革命(1917年)の10周年記念として製作されている。

 もちろん、歴史的な事件ばかりが題材となっているのではない。身近な民衆たちの姿を取り上げた作品も多い。例えば、エイゼンシュテインのデビュー作「ストライキ」(1925年)では、帝政ロシア時代の大製鉄工場で、過酷な条件と低賃金に対し労働者達がストライキを起こす様子が描かれる。だが最後、軍隊の介入によって労働者達は踏みにじられ血の弾圧と化してしまう…。同じくエイゼンシュテインの「全線(古きものと新しきもの)」(1929年)は、ソビエト政権下の農村を舞台に、農業の集団化と機械化による社会主義化を描く。

 エイゼンシュテインの映画の特色は、ごく一部を除いて職業俳優を用いず、素人を起用している点であろう。「ストライキ」には労働者を、「全線」には農民を出演させている。「十月」でレーニンを演じたのも本職の俳優ではなく、ワシーリー・ニカンドロフという労働者で、ソビエト代議員であった。素人を用いているからであろうか、エイゼンシュテインのサイレント期の作品はいずれも特定の主人公を持たない。「全線」の場合は、農婦のマルファ・ラプイキナを一応は主人公としているものの、あまり個性を感じることができない。マルファが素人であることとも決して無関係ではないだろう。こうした、エイゼンシュテイン作品の傾向と言うのは、あるいは“映画が人民のもの”という考えに立っているからであろうか? しかしながら、彼の作品の人間不在という点が、観ていて少なからぬ物足りなさを与えるのも事実である。
 
 
 



「母」(1926年)
ヴェラ・バラノフスカヤ
(「ヨーロッパ映画200」43ページ)
 

 
 
 例え、どんな思想を持っていようと、そこは人間である。最後まで思想を貫く事が出来るかどうか。「きけわだつみの声」(初版1949年発行)に収められた太平洋戦争の戦没学生が残した手記などを読んでも、「お国のため」と述べ ているものは極めて少ない。むしろ、母親や恋人への想いに胸を打たれる。それは社会主義者であっても同じ人間である以上なんら違いは無いと思う。
 エイゼンシュテインとは異なり、人間を描くことに成功したソ連の作家にフセヴォロド・プドフキンがいる。彼の代表作「母」(1926年)は、マクシム・ゴーリキー(18681936)の小説の映画化だが、革命家の母親の悲哀を人間味豊かに描いている。
 「母」の主人公は貧困に暮らす女ニーロヴナ(ヴェラ・バラノフスカヤ)。夫はスト破りに加わり乱闘の中で殺される。息子パーヴェル(ニコライ・バターロフ)は、ストの扇動者として逮捕されるが脱獄。デモ隊に加わり騎兵隊の銃弾に倒れる。息子の死で革命に目ざめたニーロヴナは、地に落ちた赤旗を手に歩き出す…。
 母親を演じたヴェラ・バラノフスカヤ(1885〜1935)は、モスクワ芸術座の俳優であったが、しっかりとした演技で深い味わいを残す。革命の理想の陰にはこうした家族の涙と支えがあったのだということを、改めて実感させられる。
 
 
 



「アジアの嵐」(1929年)
ワレリ・インキジノフ
(「ヨーロッパ映画200」67ページ)
 

 
 
 ソ連映画には社会主義革命を世界に普及しようと試みるものが多く見られる。社会主義国家の盟主としての意識であろう。その代表的な作品としてプドフキンの「アジアの嵐」(1929年)をあげることができる。モンゴルは、1921年にロシア・ソビエト政府の援助で中国からの独立を宣言。1924年に社会主義国家「モンゴル人民共和国」が成立する。「アジアの嵐」は、清朝が崩壊し、ヨーロッパ列強が進出してきた1910年代末から1920年代初頭のモンゴルを舞台としている。モンゴルに駐留するイギリスの帝国主義に対し、モンゴル人民がロシアの援助で蜂起する…という、典型的なプロパガンダ映画であった。
 ジンギスカンの末裔としてイギリス軍にモンゴル王として祭り上げられる主人公バイールに扮するワレリ・インキジノフ(18951973)は、シベリア出身のアジア系俳優。その彼が無表情で不気味に主人公を演じる。ラストで怒りを爆発させたバイールが、騎馬隊を率いてモンゴルの草原を颯爽と駆け抜ける爽快さ。プドフキンの語り口は、イデオロギーが見え見えであろうと面白い。この映画の製作された当時の日本は、共産党が非合法とされていた時代である。1935年に出版された「ソヴエト・ロシア映画芸術史」(エヌ・イエズイトフ著馬上義太郎訳編)を読むと、「共産」という言葉がことごとく伏字となっている。「ソヴエト××党」なんて表記されているのが、今見るとおかしいのだが、そんな時代にも関わらず「アジアの嵐」は公開されている。というのも、共産主義礼賛を無視すれば、西欧のアジア植民地化に反対するという主張が残るからである。もっとも検閲でズタズタにカットされ、字幕も一部変えさせられてしまっていたそうだ。それにも関わらず、当時のキネマ旬報ベスト・テンでは第3位となっている。
 
 
 



「アエリータ」(1924年)
(「世界映画全史10」41ページ)
  

 
 
 なお、ソ連が社会主義を普及しようとしていたのは地球だけではなかったようだ。ヤーコフ・プロタザーノフ(18811945)は帝政ロシア時代の代表的な映画監督であるが、彼が革命後に製作した「アエリータ」(1924年)は、ソ連最初のSF映画である。その映画で革命がおきるのは何と火星なのである! 主人公は宇宙ロケットの研究をしている技師ローシ(ニコライ・ツェレテリ)。誤って妻を殺してしまった彼は、自ら開発したロケットで宇宙に飛び出す。やがて火星に到着し、そこで出会った女王アエリータ(ユーリア・ソーンツェフ)と恋に落ちる。彼は虐げられていた火星の民衆を決意させ、革命を起こすことに成功する…。この作品はロシア革命の頃の前衛芸術運動である構成主義芸術が取り入れられ、幾何学的なセットや衣装が見所となっている。
 
 
 



「帽子箱を持った少女」(1927年)
(「ロシア・ソビエト映画史」100ページ)
 

 
 
 ソ連映画といっても、イデオロギーに凝り固まった作品ばかりではない。年がら年中理想を語っていたのでは、肩が凝ってしまう。イデオロギーが希薄に感じられる作品もちゃんと存在している。2002年に「生誕100年祭」の特集上映が日本でも行われたボリス・バルネット(190265)のデビュー作「帽子箱を持った少女」(1927年)を 見てみよう。帽子作り職人の少女ナターシャが、モスクワで知り合った住む家の無い男と偽装結婚して自分名義の部屋を貸したことから騒動が始まる。帽子屋の主人が帽子代として渡した宝くじが実は大当たりで、その当たりくじをめぐっての人々のてんやわんやが描かれる。結局のところはドタバタ喜劇なのだが、そのテンポの良さとアイディアの秀逸さで大変楽しめた。当時のソ連の住宅難というのもよく分かるし、「宝くじ」キャンペーン作品にも関わらず、当たりくじに血眼になる人々が描かれる点に皮肉が感じられる。「第三の天才」で紹介したプドフキンの初期の映画「チェス狂」(1925年)もそうであったが、ハロルド・ロイド(18931971)の喜劇に通じるものがある。
 アレクサンドル・メドヴェトキン(190089)の「幸福」(1934年)に到っては、その勇気に敬意を表したい。主人公は農村で生活する貧しい夫婦。幸福を求めて旅に出た夫は金の入った財布を手に入れて幸せを掴んだかに思われたが、その財は人々によって奪われてしまう。30年後夫婦は集団農場(コルホーズ)に加入するが、夫は次第に居場所をなくしていく…。この頃すでにスターリンの恐怖政治が始まっていたのだから、ここまで体制やコルホーズを皮肉ったというかおちょくった作品が作られること自体何とも不思議。さらにはシュールな展開とギャグ、ドイツ表現主義を思わせる歪んだセット。何から何まで驚かされる意外な作品であった。それにしても、こんな映画を作ったメドヴェトキン、ただじゃすまされなかったのではと思うのだが、意外にもペレストロイカ後まで長生きしている。
  
 
 



「カメラを持った男」(1929年)
(「ヨーロッパ映画200」 60ページ)
 

 
 
 当時のソ連においては劇映画と並んで記録映画が重要な位置を占めていた。レーニンは「フィルム製作はニュースより始めなければならない」(*11と語り、内戦及び国家の建設を正確に記録することが、社会主義の宣伝において有益であると考えていた。厳密な意味では記録映画ではないものの、「大地」や「全線」といった名作が極めて記録映画的な性格を帯びていることもこのことと関係あるだろう。こうした記録映画の製作からジガ・ヴェルトフ(18961954)が頭角を表してくる。
 ヴェルトフは、劇映画を古いブルジョア的映画として否定し、物語の無い記録映画を製作し続けた。彼が1921年から1925年にかけて発表した短編記録映画シリーズ「キノ・プラウダ」に彼の思想が端的に現れている。「キノ・プラウダ」とは、ロシア語で「映画真実(真理)」を意味している。僕は、1922年に撮られた「キノ・プラウダ」の一篇を観たが、ロシア市民の生活をスケッチのように綴りながらも、同時に前衛性を感じることができた。ヴェルトフが1929年に製作した長編実験的記録映画が「カメラを持った男(これがロシアだ)」である。
 この「カメラを持った男」は、文字通り“カメラを持った男”が、撮影の準備をする所から始まる。そして、彼の撮影した市民の日常が次々と描かれる。ただし、出来事をそのまま映すのではなく、時にカメラマン自身が別のカメラの被写体となって画面の中に登場する。そして、ストップモーション、スローモーション、二重映しといった様々な技法が用いられる。だが、何よりも忘れてはいけないのが、「モンタージュ」と呼ばれる手法が駆使されている点である。

11 ネーヤ・ゾールカヤ/扇千恵訳「ソヴェート映画史/七つの時代」103ページ 
 
 
 
 「モンタージュ」と言うと、刑事ドラマで容疑者の顔を割り出すときに用いられる「モンタージュ写真」が真っ先に思い浮かぶ。「モンタージュ(montage)」とは、フランス語で「組み立て」という意味であるが、顔のパーツをバラバラにして、別の顔に組み立てるという点では映画の「モンタージュ」とまったく同じである。時間の順序に沿って撮影されたフィルムを、バラバラに切り離し再編集することで、映画的な面白さが生み出されるのだ。それ自体は、すでにグリフィスによって効果的に用いられているのだが、それを理論化し体系づけたのは当時のソ連の映画作家たちであった(*12
 「モンタージュ理論」とは、ある映像を別の一連の映像の展開の中に置いた時に、それがもともとの意味以上の意味を持ってくることである。例えば、まったく無関係の「遊説中の小泉首相」、「山手線」、「ディズニーシー」の3つの映像をつなげれば、あたかも小泉首相が山手線に乗ってディズニーシーを訪ねたかのように思えてくるはず。数年前にアカデミー賞の授賞式で、編集賞の発表の際に「編集の効果」を示すために「ポセイドン号に乗るフレッド・アステア」という面白い映像が紹介された。「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年米)は豪華客船ポセイドン号が、大波によって転覆。上下が逆になった船の中から人々が脱出を試みるパニック映画。一方、フレッド・アステア(18991987)主演のミュージカル「恋愛準決勝戦」(1951年米)では、タップダンスを踊るアステアが、勢いに乗って壁や天井で踊ってしまう。この2つの映画を交互につなげば、まるでポセイドン号が逆さになっても、かまわず踊り続けるアステアというシュールな映像が出来上がってしまうわけである。古い映画の場面をそのまま新しい映画に挿入してしまう方法もある。「グレムリン2/新・種・誕・生」(1990年米)にはジョン・ウェイン(190779)が登場し、グレムリン達と撃ち合いをする。
 レフ・クレショフ(18991970)が行ったモンタージュの実験―いわゆる「クレショフ効果」は有名である。クレショフは、ソ連の国立映画学校の教師であったが、彼は古い劇映画の中から俳優イワン・モジューヒン(18881939)のクロース・アップの映像を抜き出し、それを様々な映像とつなぎ合わせてみせた。同じ顔であっても、その後にスープの皿が映れば空腹を表しているように思えてくる。同様に、子供であれば慈愛を、柩であれば悲哀を、美女であれば欲情を表すのだという…。
 クレショフは弟子と共に映画実験工房(クレショフ工房)を設立し、映画を発表した。プドフキンやバルネットも彼の教え子にあたる。クレショフ自身、サイレント期の“四大巨匠”の一人と称されることもあるが、彼の代表作とされるのが「ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」(1924年)。これはクレショフ工房の最初の作品でもある。
 アメリカからモスクワへやってきたブルジョワ、ウェスト氏(ポリフィリ・ポドベド)の巻き込まれる奇妙な冒険が描かれる。ギャング団のボス(フセヴォロド・プドフキン)は、ウェスト氏からカネを巻き上げるために、罠にはめようと画策する…。
 ウェスト氏がボディ・ガードとして連れてきたカウボーイ(ボリス・バルネット)が、雪のモスクワを舞台に、はぐれた主人を探して拳銃や投げ縄で大暴れする様は、まるで西部劇だし、丸眼鏡のウェスト氏はどこかハロルド・ロイドを髣髴させるように、アメリカ映画からの影響が見てとれる。
 ウェスト氏はボリシェビキを野蛮な者だと思い込んでいるのだが、それを知ったギャングのボスは、その通りに自分たちを演出して見せる。これは、おそらく当時のアメリカ人の持っていたボリシェビキの一般的イメージとそう違わないのだろうが、それをロシア人自らが演じてみせる点が面白い。ウェスト氏は最後、本物のボリシェビキのパレードを見るが、ここで使われるニュース映像にはトロツキーが姿を見せている。パレードに感動したウェスト氏が「ボリシェビキ万歳!」とまで言うのは少々やりすぎでは…
(*13
 
12 1922年、レーニンがグリフィスをソ連に招待し、映画の指導を任せようとしたとのエピソードが「リリアン・ギッシュ自伝」(213ページ)に見える。
13 「ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」については2006年4月20日追記
   
 
 
 クレショフの弟子プドフキンは師の考えを発展させ、独自のモンタージュ理論を生み出した。彼はモンタージュを対照(コントラスト)、平行(類似/パラエリテエト)、近似、同時性、ラシトモティフ(回想)の5つに分類し、モンタージュの内容は細部に到るまで正確に記述されていなければならないと、脚本の重要性を述べている(*14。それに対し、エイゼンシュテインはプドフキンの考えはショットの「連鎖」にすぎないと批判。ショットとショットの「衝突」(*15こそがモンタージュであると主張した。「ショット」とは切れ目無しに連続的に撮影された映画の断片の一つ一つのことであるが、彼によれば、相対立する2つのショットの衝突によって、まったく異なる観念が生み出されなくてはならないということなのである。

 少々わかりづらい。そこで、実際に二人の作品を観て考えてみたい。プドフキンの
母」では、翌日刑務所より解放されることになった息子の喜びを、勢いよく流れる小川や太陽の光、無邪気に遊ぶ子供の姿とモンタージュすることで効果的に表している。また、母親の不安をバケツに滴り落ちる雨だれで表現する。人間以外の映像を織り交ぜる事で、人間の複雑な心理を効果的に描き出しているのである。もちろん、「母」の主人公たちは職業俳優であるから、心理描写は彼らの演技そのものに介在しており、モンタージュはあくまでその効果を高める役割を担っているにすぎない。
 一方、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」では、民衆の虐殺に対して発砲したポチョムキン号の映像に、宮殿の3頭のライオン象の映像がモンタージュされる。うずくまっているライオン、顔を上げたライオン、立っているライオンが順次映し出されることで、まるで1頭のライオンが立ち上がったかのように思える。その結果、ポチョムキン号が兵たち対して怒りをぶつけるかのような印象となってくるのである。このようにエイゼンシュテインの場合は、そもそも別の映像を用いて意味を表そうとするのだから、時に意味がわかりにくくなってしまう。「十月」でブルジョア臨時政府の指導者アレクサンドル・ケレンスキー首相(V・ポポフ)の映像にナポレオン像がモンタージュされるのは何となくわかる。では、ブルジョア臨時政府高官たちに孔雀の装飾品がモンタージュされたり、ソビエト少数派メンシェヴィキの会議にハープの演奏がモンタージュされるのは? 前者は彼らが虚像であると、後者は彼らの論議が退屈であるということを言いたいのだろうが、どこまで当時の観客がこのことに気づいたか、疑問である。こうしたモンタージュに対する批判が1930年代のソ連映画における現実指向「社会主義リアリズム」として湧き上がってくることになる。

14 ヴェ・プドーフキン/佐々木能理男訳「映画監督と映画脚本論」63ページ
15 セルゲイ・M・エイゼンシュテイン「映画形式への弁証法的アプローチ」(「エイゼンシュテイン全集第2部第6巻」所収)114ページ
 
 
 
 エイゼンシュテインが日本文化に対して強い興味を持っていたことはよく知られている。彼は1928年8月、二代目市川左団次(18801939)の歌舞伎モスクワ公演を観劇し、深い感銘を受けた。彼によれば、歌舞伎にはモンタージュを始め様々な映画的技法が見られるという。役者が体のパーツをそれぞれバラバラの動きに分けて演じるというものは「分解された演技」だということになる。「首と足を同時に右に向ける場合、まず足を出し、つぎに首を曲げるというふうに、手や足や首の動きを、それぞれ別々に組み合わせてゆく」(*16というのは人形浄瑠璃からの影響であるそうだが、映画においては、ピアノを弾く男の表情、鍵盤を叩く指先、ペダルを踏む足などを部分的にクローズアップしてつないでいく手法と同じということになる。また、「忠臣蔵」の切腹の場面における役者の緩慢な動きは、スローモーションの効果である。由良之助 (大石内蔵助)が赤穂城を去っていく際に、実物大の背景がたたまれて、より小さい背景が登場するのは時間と空間の省略を表している。
 また、エイゼンシュテインによれば漢字もモンタージュの一種ということになる。つまり、「水」+「目
=「泪」、「犬」+「口」=「吠える」、「口」+「鳥」=「鳴く」といった具合。世界の巨匠が、日本の文化から多大な影響を受けてきたと言う事実。我々日本人としては何ともうれしいことであるが、エイゼンシュテインは次第にその技法に溺れ、その映画も難解なものになってしまった。彼の遺作となった「イワン雷帝」では主人公のイワン4世(ニコライ・チェルカーンフ)が目を見開いて見得を切ったりするから、必ずしもいい影響ばかりであるとは思えない…。

16 杉山平一「映画芸術への招待」 45ページ
 
 
 



「大地」(1930年)
セミョーン・ズヴァシェンコ
(「ヨーロッパ映画200」75ページ)
 

 
 
 ソ連の映画作家のすべてが「モンタージュ」を最重視していたわけではない。エイゼンシュテイン、プドフキンと並び称されるアレクサンドル・ドヴジェンコは、むしろ自然の美しさや生命の尊さを謳いあげた作家であった。ドヴジェンコはウクライナ出身。彼自身ウクライナへの郷土愛を自負している。つまり、今日的な感覚で言うならば、彼の作品は「ウクライナ映画」として扱うべきなのかもしれない。だが、彼の作品は永らくソ連映画として見なされてきたわけで、それに従ってここで紹介する。彼の代表作「大地」(1930年)は、ソ連のサイレント映画の末期を飾る名作である。
 「大地」は、ウクライナの農村が舞台である。村にはトラクターが導入され、集団農場(コルホーズ)の建設が進む。だが富農(クラーク)たちは、自分たちの利益が奪われるとしてコルホーズ建設に反対する。建設運動のリーダー、若きワシーリー(セミョーン・ズヴァシェンコ)は、富農の息子の銃弾に倒れるが、仲間は彼の死を乗り越え、コルホーズ建設に励む…。
 ストーリーだけを追えば、他のソ連映画と同様の社会主義建設の宣伝映画以外の何物でもないのだが、実際に作品を観る限り、そうした印象は極めて薄い。随所に織り込まれた農民たちの豊かな表情、田園風景、自然描写の美しさが、何よりも印象に残る。実際、この「大地」は、「階級闘争に役立たぬ」とイデオロギーの立場から批判されたそうである
(*17。だからこそ、この作品が今日まで名作として伝えられ続けているのであろう。エイゼンシュテインのモンタージュが「動」であるならば、ドヴジェンコは「静」。その味わいはポエジーを感じさせる。

17 「ヨーロッパ映画200」74ページ
 
 
 
 国が出来てからわずか数年でソ連映画がこのように鮮やかに花開いたのは、エイゼンシュテインを始めとする若き作家たち自身が、「芸術の革命」という意欲に燃えていたからであろう。だが、不幸にして日本とソ連の長い軋轢が、ソ連映画の正当な評価を困難なものとしてしまっていた。 現存する全監督作品がビデオ化されているエイゼンシュテインは例外として、サイレント期のソ連映画で観ることのできる作品は限られている。四大監督のうち、クレショフもドヴジェンコも代表作1作を観 ることができただけ。
 だが、社会主義勢力を敵と見なしたのはもう過去のこと。冷戦が終り、ソ連自体崩壊して久しい。ソ連の後継者たるロシアは、日本の北に位置する隣国である。北方領土問題という難問は残されてはいるものの、これからは隣人としてお互いを理解し合えるようになって欲しいものである。 
 
 
 


(2004年3月14日)

 
 
(参考資料)
ヴェ・プドーフキン/佐々木能理男訳「映画監督と映画脚本論」1930年3月 往来社
エヌ・イエズイトフ/馬上義太郎訳編「ソヴエト・ロシア映画芸術史」1935年10月 書林絢天洞
クレショフ/馬上義太郎訳「映画監督論」1937年5月 映画評論社出版部
土方敬太「ロシヤは映画の故郷である/ロシヤの映画発明家たち」1950年9月「ソヴェト映画 1−7」
亀井文夫、土方敬太「ソヴェト映画史」1952年9月 白水社
ヴェ・ジダン監修/高田爾郎訳「ソヴェト映画史1917〜1967年」1971年3月 三一書房
杉山平一「映画芸術への招待」1975年8月 講談社現代新書
「ソヴェート映画史/世界の映画作家30」1976年4月 キネマ旬報社
セルゲイ・M・エイゼンシュテイン/エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳「エイゼンシュテイン全集 第2部映画―芸術と科学 第6巻星のかなたに」1980年4月 キネマ旬報社
セルゲイ・M・エイゼンシュテイン/エイゼンシュテイン全集刊行委員会訳「エイゼンシュテイン全集 第2部映画―芸術と科学 第7巻モンタージュ」1981年10月 キネマ旬報社
崔銀姫、申相玉「闇からの谺/北朝鮮の内幕 下」1989年3月 文春文庫
リリアン・ギッシュ、アン・ピンチョット/鈴木圭介訳「リリアン・ギッシュ自伝/映画とグリフィスと私」1990年8月 筑摩書房

亀山郁夫「ロシア・アヴァンギャルド」1996年6月 岩波新書
山田和夫「ロシア・ソビエト映画史/エイゼンシュテインからソクーロフへ」1997年1月 キネマ旬報社
ジョルジュ・サドゥール/丸尾定、小松弘訳「世界映画全史10/無声映画芸術の成熟」1999年4月 国書刊行会
ネーヤ・ゾールカヤ/扇千恵訳「ソヴェート映画史/七つの時代」2001年3月 ロシア映画社

日本戦没学生記念会編「新版 きけわだつみの声/日本戦没学生の手記」1995年12月 岩波文庫

和田春樹「ロシア・ソ連/地域からの世界史11」1993年7月 朝日新聞社
原卓也監修「ロシア/読んで旅する世界の歴史と文化」1994年2月 新潮社
和田春樹「ロシア史/世界各国史22」2002年8月 山川出版社
下斗米伸夫「ソ連=党が所有した国家」2002年9月 講談社

Ts・バトバヤル/芦村京、田中克彦訳「モンゴル現代史」2002年7月 明石書店
 
 
 
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