第2章−サイレント黄金時代(12)

第三の天才
〜ハロルド・ロイド〜



ハロルド・ロイド
(「週刊THE MOVIE 64」より)
 


 あれはまだアメリカに住んでいた頃だから、4〜5歳のことだったろう。友人の家に遊びに行って、そこで8ミリの映画を観た記憶がある。一人の眼鏡をかけた男が、自殺をしようと思い立つ。落ちていたピストルをこめかみに当てるとそれは水鉄砲。川に飛び込めば浅瀬で、深みを選べば船の上に落ちる…。20年も昔に一度観たきりの映画なのだが、これらの場面だけは鮮明に覚えている。その後、この時の映画の主人公を演じていたのはハロルド・ロイド(1893〜1971)ではなかったのかという気がしていたのだが、再びこの映画に出会う機会はなかった。
 それが、2年程前だったろうか、近所のビデオレンタルで借りてきた映画の中に、この作品を発見し、とても懐かしい気分になった。その作品は「ロイドの化物屋敷」(1920年 米)。あの男はやはりハロルド・ロイドで間違い無かったのだ。つまり僕にとってロイド体験は、チャップリンやキートンよりもはるかに古かったのである。



20年ぶりに再会した
「ロイドの化物屋敷」(1920年米)
(「週刊THE MOVIE 64」より)
 


 喜劇王の1人ハロルド・ロイド。彼はフランネルのスーツにストロー・ハットといういで立ち。そして、忘れちゃいけないのが丸い眼鏡、いわゆるロイド眼鏡である。本人いわく「グラス・キャラクター」。清朝最後の皇帝・宣統帝溥儀(1906〜67)の生涯を描いた「ラスト・エンペラー」(1987年伊/英/中)。近眼のため初めて眼鏡をかけることになった幼少の溥儀は、そのことを知るなりすかさず「ハロルド・ロイドみたいだね」と語る。まさかロイド喜劇を紫禁城で上映したとは思えないから、おそらく英国人家庭教師レジナルド・ジョンストン(1874〜1938)からもらったアメリカの雑誌あたりで知ったのだろう。いずれにせよ、東の果ての清朝皇帝までもが眼鏡といって真っ先にロイドを思い出すとは。ロイドの世界的人気の高さをうかがわせる。

 もっとも、ロイドも最初からこの格好をしていたわけではない。喜劇映画のプロデューサー、ハル・ローチ(1892〜1992)の下で彼が最初に生み出したのは「ロンサム・リューク(Lonesome Luke)」というキャラクターであった。これはつんつるてんの上着に、チロリアン・ハット、大きなドタ靴に二つに分かれたちょびヒゲといういでたち。まあ、ようするにチャップリンの亜流である。しかしなかなかの人気があったそうで、グラス・キャラクターを生み出してからもしばらくは、平行して製作され続けたらしい。「ロンサム・リューク」シリーズは、残念ながら僕もドキュメンタリー「命知らずの喜劇王」(1989年英)で断片的に観るのみだが、キーストン的なドタバタ喜劇であったようだ。
 



「ロイドの人気者」(1925年)
右はジョウビナ・ラルストン
(「アメリカ映画200」より)
 


 ロイドは“三大喜劇王”の一人であるのだが、その位置付けはチャップリン、キートンに次いで3番目に来ることが多い。現に彼の生涯を追ったドキュメンタリーのタイトルでさえも「The Third Genius(邦題:命知らずの喜劇王)」となっている。僕もそれを敢えてこの項の題名につけた。だが、彼は興行収益面においてはチャップリンに次いで高く、「ロイドの人気者」(1925年 米)はその年最大のヒット作となっている。早くに凋落したキートンに引き換え、トーキー以降も人気を持続していったのだから、その評価は必ずしも当たっていない。
 

 パントマイム出身のチャップリン、アクロバット出身のキートンに比べ、ロイドはヴォードビルや舞台の経験が無かった。それは当時のコメディアンとしては異例のことだそうである。チャップリンやキートンのように肉体を駆使することで笑わせることができないロイドは、アイディアで観客を笑わすしかなかった。それが、彼がコメディアンとして低く評価される要因なのかもしれない。だが、考えてみれば、自らの肉体に依存しない分、彼こそが最も映画作家的だと言えるのではないだろうか。

 先日、ソ連の巨匠フセヴォロド・プドフキン(1893〜1953)の初期作品「チェス狂」(1925年ソ)を観る機会があった。チェスに熱狂する人々の姿を描いた軽快なコメディで、設定やテンポはまさしくロイドの喜劇を思わせた。ネコをギャグに用いる点でもロイドを彷彿させる。
 小津安二郎(1903〜63)も、初期の作品にはロイドの多大な影響が見てとれる。「学生ロマンス/若き日」(1929年松竹)は、現存する小津作品で最も古い映画だが、ロイドを思わせる眼鏡のキャラクター(斎藤達雄)が登場する。「大学は出たけれど」(1929年松竹)では、主人公野本(高田稔)の下宿の壁に「ロイドのスピーディ」(1927年米)のポスターがでっかく貼られていた
(*1)
 このように、ロイドは多くの映画作家に影響を与えている。もっとも、天才のチャップリンやキートンでは、真似したくてもなかなか真似できるものではないのだが…。

*1 先日NFCで観た小津の「和製喧嘩友達」(1929年松竹)には、洋服の防腐剤をお菓子と間違えて食べてしまうという、「豪勇ロイド」(1923年 米)と同じギャグが用いられていた。(2004年1月追記)
 

 そんなロイド喜劇のアイディアの豊富さは、動物を使ったギャグが多いことからわかる。もちろん、チャップリンにも「チャップリンの拳闘」(1915年米)や「犬の生活」(1918年 米)のように犬との触れ合いをテーマにした作品があるし、「サーカス」(1928年米)では動物をふんだんにギャグとして用いている。キートンも「キートンの西部成金」(1925年 米)で牝牛との友情をテーマとする。しかし、種類の豊富さではロイドの比でない。ロイドの場合、その作品のほとんどに何らかの形で動物が出てくる。
 ロイドがビルの壁をよじ登る「要心無用」(1923年米)では、ネズミやハトが彼を邪魔する。頭の上にこぼれた豆を、ハトが啄ばもうとする。「ロイドの初恋」(1924年 米)では、両手いっぱいに買い物を袋を抱えたロイドが、福引で七面鳥を当ててしまい、余計に四苦八苦する羽目になる。「ロイドの活動狂」(1932年米)では、マジシャンの仕掛けの入った上着を着てしまったロイドが、ダンスの最中にハトやウサギを服から出してしまい、混乱を巻き起こす。
 中でもロイドが最も好んで用いたのはネコ。「ロイドの人気者」(1925年米)では、子猫を上着に入れたままスピーチをすることになったロイドの足元に、親猫が心配してまとわりつく。「豪勇ロイド」(1923年 米)でも、靴に塗ったガチョウ油を子猫たちが舐めに来るので、ロイドは犬のぬいぐるみで彼らを撃退するのであった。

 ロイド喜劇には動物がただ顔を見せに出てくるわけではない。時にあっと驚く名演技を披露する。「豪勇ロイド」では、凶悪殺人犯が現れると人々が一斉に逃げ出すのだが、その中にはアヒルも混じっている。人々が角からこっそりと男を覗き込むと、アヒルも一緒になって心配そうに顔を出す。「田吾作ロイド一番槍」では、ブタとニワトリが喧嘩をしているシーンがある。これらのシーンはストーリーと直接関係は無いのだが、思わず唸らずにはいられない。

 しかしなぜ、ロイドばかりが動物を好んで用いたのであろうか? その肉体がギャグとなるチャップリンやキートンの場合、動物に見せ場を奪われることを良しとしなかったのだろう。その点、肉体で笑わせられないロイドは、そんな心配がないから、アイディアとして動物を大いに活用することが出来た。
 もっとも、動物を好んで用いたのはロイドだけではない。ロスコー・アーバックルは犬のリュークをしばしば映画の中で使っている。このリュークの名犬ぶりは、ゲスト出演したキートンの「案山子」(1920年 米)に見ることができる。彼を狂犬と間違えて逃げるキートンを、どこまでも追いかけていく演技は見物である。
 



「ロイドの人気者」(1925年米)
(「週刊THE MOVIE 64」より)
 


 ロイド喜劇のもう一つの特色は、サイレントながら音を用いたギャグを効果的に利用している点である。例えば「猛進ロイド」(1925年米)の主人公には吃音(どもり)の癖がある。伯父が笛を吹いた時だけうまく喋ることが出来るのだが、このことが災いして彼は恋人に思いを打ち明けられない。また、「ロイドの人気者」では、応援の練習をしているのを、父親が中国のラジオを受信したのだと勘違いしてしまう。「田吾作ロイド一番槍」のギャグはいかにもサイレントらしい。女の子にさよならを言うために木に登ったロイド。彼女が遠くから叫ぶと、字幕の文字もまた小さくなっている。
 ロイドは早くからトーキーの到来を予見していたのだろうか? そうした傾向は短編時代から早くも見られるのである。「ロイドの猛進結婚」(1918年米)では、偽者の大学教授になりすましたロイドが、歌を披露するはめとなり、レコードをかけて口パクでごまかそうとする。ところが、裏で勝手にレコードを取替えられてしまうから、いきなり歌が変わって困ってしまう。このギャグ、トーキーになってからマルクス兄弟が「御冗談でショ」(1932年米)で再利用していた。唖のハーポ・マルクス(1888〜1964)が、シャンソン歌手のモーリス・シュヴァリエ(1888〜1972)に成り済ますために、レコードにあわせて口パクで彼の歌を歌う。だが、レコードの回転が変わってしまったためにバレてしまうのだった。

 そういうわけだから、ロイドはトーキーになってからも無事生き残ることができたのだろう。凋落してしまったキートン、喋ることを拒否し続けたチャップリンとは異なっている。後には「ロイドの大勝利」(1934年 米)のように、セリフの面白さを活かした作品までも生み出した。
 トーキーならではギャグは「ロイドの牛乳屋」(1936年米)に出てくる。こっそり子馬をタクシーに乗り込ませたロイド。馬がいななくのをごまかそうと、自分が笑っているふりをする。なんでもこの馬の鳴き声、監督のレオ・マケアリー(1898〜1969)自身がやっているんだそうな。
 



「ロイドの牛乳屋」(1936年米)
(「週刊THE MOVIE 64」より)
 

  
 「ロイドのスピーディ」(1927年米)という邦題の作品がある。これは、クライマックスでロイドが乗合馬車に乗ってニューヨークの街を疾走する、文字通りスピーディな作品であるが、題名につけられた「スピーディ」はロイドのあだ名の一つであった。
 キートンは自分自身で走るが、ロイドは乗り物を駆使して走る。「猛進ロイド」では、車や路面電車、馬などありとあらゆる乗り物を乗りつぎ、ロイドは愛する人のもとへ向かう。とにかくこうしたテンポあふれるアクションもロイドの魅力の一つである。
 

 さて、ロイドのアクションとして真っ先に思い浮かぶのは、何と言っても高所でのギャグであろう。サイレント期の代表作の一つ「要心無用」(1923年米)と、トーキーになってからの「ロイドの足が第一」(1930年 米)がこうした高所を舞台としている。それら以外にも短編時代にも同じテーマで2本製作しているというから、よっぽど好きだったのだろう。「要心無用」でのロイドは、デパートの宣伝のためにビルの壁をよじ登る。一方、「足が第一」では、郵便袋の中に身を隠したロイドが、誤って工事用のゴンドラに乗せられ、ビルの上へと上がっていく。高い所が苦手な僕なんか、観ていてハラハラしっぱなしである。
 ところで、ロイドには右手の親指と人差し指が無かったのをご存じであろうか? 「ロイドの化物屋敷」(1920年米)の撮影中に、爆薬を用いた撮影で怪我をしてしまったそうなのである。現在観ることのできる「化物屋敷」には、そのシーンは残っていないので、まったくもって無駄な怪我になってしまったようだが…。ともかく、以降は義指をつけており、映画を観る限りではまったくそのことに気がつかない。だが、よく見ると細かい作業はすべて左手で行なっていることがわかる。「命知らずの喜劇王」には、彼の指の欠けた右手が映ったホーム・ムービーが挿入されていて、大変貴重である。それでいてよくもまあ「要心無用」のビル登りなんてことを思いついたものだ。そういえば、この「要心無用」も、アメリカに住んでいた頃にテレビで観た記憶がある。

 「要心無用」では、ロイドが時計の針にぶら下がるシーンがある(写真下)が、後に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年米)に引用されていた。この時、ロイドの手に針が食い込んでしまい、その後もずっと痕が残っていたとのこと。
 彼の高所ギャグの与えた影響は計り知れない。最近の「マイノリティ・リポート」(2003年米)に至るまで、様々な作品に様々な形で再現されている。そんな中でも、ジャッキー・チェン(1954〜)は、とりわけ高所でのアクションを得意としている。「プロジェクトA」(1984年香港)には、ポールに手錠でつながれたジャッキーが抜け出そうと10メートルの高さをよじ登るものすごいアクションが登場する。その後には、「要心無用」同様に時計の針にぶら下がるのだが、彼の場合はロイドと違って落っこちてしまう。もちろん、ジャッキーもロイド同様スタントはいっさい用いていないので、その点でもロイドの正統派の後継者と呼べるだろう。彼は「サンダーアーム龍兄虎弟」(1987年香港)の撮影中に頭蓋骨骨折という大怪我を負ってしまった。
 



「要心無用」(1923年米)
(「週刊THE MOVIE 64」より)
 


 ロイドが映画の中で演じた役柄は、どこにでもいそうなごく普通のアメリカ青年である。上流階級を演じたキートン、下層階級を演じたチャップリンとはその点でも異なっている。うだつのあがらない平凡な青年が、ひょんなことからハッスルし、見事成功するというのがロイド喜劇のパターンである。これは言ってみれば、一種のアメリカン・ドリームと言えるのではないだろうか。
 

(2002年3月27日)


(参考資料)
筈見有弘「無声映画人物史」(「世界の映画作家26/バスター・キートンと喜劇の黄金時代」所収)1975年1月 キネマ旬報社
 

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