第2章−サイレント黄金時代(11)

走れ無表情
〜バスター・キートン〜



「キートンの大列車強盗」(1926年米)
バスター・キートン
(「バスター・キートン自伝」より)
 


 チャップリンと並ぶコメディアンと言えば、やはりバスター・キートン(1895〜1966)を置いて他は無い。それは今日半ば常識のようになっている。ところが、“王様”チャップリンに比べて、キートンの一般認知度はあまりにも低い。名前ぐらいはみんな聞いたことがあるようなのだが、作品を観たことがあるという人はほとんどいない。つい先日も、アメリカ人の学校の先生と話をしたが、その女性もやはりキートンの映画については観たことがないとおっしゃっていた。
 正直に告白すると、僕も大学生になる頃までキートンは名前しか知らない存在であった。だが、一度彼の虜になると、後はズルズルと彼に惹かれてしまう。今ではチャップリン以上の存在とまで思っているのだから、不思議なものである。
 キートンがいかに人々に根強く愛されているかという証拠は、彼の名前を冠した芸能人が多いことに現れている。喜劇俳優に益田喜頓(ますだ・きいとん/1910〜93)がいるし、声優のキートン山田(1945〜)もおそらくはそうだろう。「バットマン」(1989年米)のマイケル・キートン(1951〜)は、本名がマイケル・ダグラス(1944〜)と同じなので、キートンにちなんで芸名をつけたそうだ。一方のチャップリンはと言えば声優の茶風鈴(ちゃ・ふうりん/1961〜)が思い浮かぶぐらいか。
 漫画「MASTER  キートン」(作・勝鹿北星、画・浦沢直樹/1989年1月〜94年10月  小学館)は、どんな難事件にも表情一つ変えずに挑んでいく主人公の姿をキートンにダブらせているのだろう。ひょっとしたら「マスター・キー(合い鍵)」にかけているのかも知れない。  
 



キートン5人組
左より妹ルイズ、母マイラ、
弟ジングルズ、バスター、父ジョー
(「バスター・キートン自伝」より)
 


 キートンはチャップリンと同じく、寄席芸人を両親に持つ。本名はジョゼフ・フランク・キートン。生後6ヶ月の時、階段から落ちてもまったく無傷で平然としていたのを見て、マジシャンで後に映画にも出演するハリー・フーディーニ(1874〜1926)が「おやおや、何て頑丈な坊主だ(My,what a Buster !)」と叫んだのが、芸名「バスター」の由来であったそうだ
(*1)
 3歳の時にはつむじ風に巻き込まれて通りまで飛ばされたが無事であったとか。そこで、両親は幼いバスターを舞台にあげると、放り投げたり、足で踏みつけたりする芸を始める。幼いバスターはどんな災難にあっても泣き声一つあげなかったと言う。バスターは21歳になるまで、両親と「キートン三人組」(のちに弟と妹も加わり「五人組」になる、写真上参照)として舞台に立ち続けた。この時の舞台の経験が、後にスタントを用いず激しいアクションをこなす下地になったのは言うまでもない。
 バスターの父、ジョー・キートン(1867〜1946)は、後に息子の映画に何度となくゲスト出演している。「荒武者キートン」(1923年米)の機関士や、「キートンの探偵学入門(忍術キートン)」(1924年 米)の恋人の父の役など。短編「隣同士」(1920年米)ではバスターの父親を演じている。「荒武者キートン」では、立っている男の帽子を足で蹴り落とすという得意の芸当を披露する。


*1 バスター・キートン、チャールズ・サミュエルズ/藤原敏史訳「バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界」 14ページ
 



「警官騒動」(1922年米)
(「バスター・キートン自伝」より)
 


 キートン映画の特色はそのアクションにある。「キートンの蒸気船(キートンの船長)」(1928年米)のクライマックスは吹き狂う嵐。家は飛ばされ、キートンは翻弄される。突然大壁がキートンに向かって倒れてくるが、彼は窓からすり抜けて無事であった。こうした命がけのギャグをキートンはまったくスタントを用いずにこなすのだ。短編「鍛冶屋」(1922年 米)には、馬車を駆ろうとすると御者だけが手綱を握ったまま引きずられてしまうというギャグが出てくる。後に「腰抜け二挺拳銃」(1948年)でボブ・ホープ(1903〜2003)が同じギャグを見せているが、キートンのは当然それを吹き替えなしでやっている。「キートンの探偵学入門」の撮影中には首の骨を折ってしまったが、後になるまで気づかなかったそうである
(*2)

 また、キートンは走る。走って走って走りまくる。「警官騒動」(1922年米)では数百人の警官に追われる。「キートンの西部成金」(1925年米)ではそれが千頭の牛の大群に変わる。「セブン・チャンス(キートンの栃麺棒)」(1925年 米)では、数百人の花嫁候補、それから崖を転げ落ちる大きな石に追われるのだ。
 
*2 バスター・キートン、チャールズ・サミュエルズ/藤原敏史訳「バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界」 182ページ
 



「キートンの探偵学入門」(1924年米)
(「映画100物語/外国映画篇」より) 
 


 キートンが映画の中で好んで演じたのは、甘ちゃんでひ弱なお坊ちゃんであった。常に最下層の人間を演じ続けたチャップリンとはその点でも好対照である。そうした役柄は、彼の最初の長編「馬鹿息子」(1920年 米)からすでに見られ、「海底王キートン」(1924年米)や「拳闘屋キートン(ラスト・ラウンド)」(1926年米)、「キートンの決死隊」(1930年 米)などで繰り返し再現されてきた。何をやってもうまくいかない主人公も、ひとたび奮起すると、超人的な能力を発揮するというのが、彼の映画のパターンである。「キートンの大学生(カレッジ・ライフ)」(1927年 米)では、最後は万能スポーツ選手ぶりを発揮して、恋人を救う。

 もちろん、キートンはアクションばかりを見せていたわけではない。「海底王キートン」はむしろ設定の面白さを重視していたし、短編「即席百人芸」(1921年 米)や「キートンの探偵学入門」は様々な映像のトリックを見せる。「即席百人芸」の冒頭にはヴォードビルのシーンがあるが、そこに出演する芸人を演じるのはすべてキートン。まるでメリエスのように一人でオーケストラを演奏していたりする。もちろん客席もすべて、女も子供も含めてキートンなのである。「探偵学入門」は、映画館の映写技師であるキートンが上映中の映画の中に入っていくというあっと驚く場面がある。画面の中に入ったはいいものの、次々とシーンが変わるから、彼は翻弄されてしまう。ウディ・アレン(1935〜)の「カイロの紫のバラ」(1985年米)は、この作品をヒントとしているそうだ。
 



「捨小舟」(1923年米)
(「バスター・キートン自伝」より)
 


 チャップリンとキートンの違いは、“夢”の用い方に大きく現れている。しばしば悲劇的なエンディングを迎えるチャップリンの映画では、夢から覚めることで厳しい現実に立ち返ることがある。例えば「担へ銃」(1918年 米)。一兵卒のチャーリーは、ドイツの皇帝までも捕虜にして英雄となるが、それはまどろんでいる間の束の間の夢であった。また、「チャップリンの掃除番」(1915年 米)では、強盗をやっつけ、最愛の女性と結ばれたかと思った瞬間、目が覚めたチャーリーはモップに接吻する。
 一方、キートンは、絶体絶命のピンチを夢で救出するという、考えてみると反則的とも取れる手法を用いることがある。「捨小舟」(1923年米)で大海に捨てられたキートンが、たどり着いたのは軍艦の標的の浮き。砲撃を受けて空中に投げ出されたキートンだが、絶体絶命と思った瞬間に目を覚ます。
 しかし、このようにチャップリンには無い明るさ、能天気さを持っている点こそが、キートン映画の最大の魅力であるとも言える。
 

 ところで、キートンの最高傑作は何であろうか。彼の最大のヒット作は「拳闘屋キートン」であった。タフガイぶりを見せるという点では「キートンの蒸気船」をあげることができるし、走りまくる点で「セブン・チャンス」も捨てがたい。あるいは映像技術の巧みさで「探偵学入門」か。キートン自身は「海底王キートン」と「キートンの大列車強盗(キートン将軍)」(1926年 米)が一番好きだと言っている。
 僕自身も好きな作品を一つ選べと言われると、とても悩んでしまう。だがここでは、世間的な評価も加味して「キートンの大列車強盗」をあげることにしたい。
 



「キートンの大列車強盗」(1926年米)
右はマリオン・マック
(「バスター・キートン100th」より)
 


 この作品でキートンが演じるのは南北戦争当時の南部の機関士ジョニー。彼の愛する機関車が「将軍(General)号」である。初公開時の邦題「キートン将軍」はそこから来ている。ところで、キートンは映画の中に列車を好んで用いることが多い。「荒武者キートン」には機関車「ロケット号」が登場するし、「探偵学入門」や「西部成金」にも列車が出てくる。キートンが生まれたカンザス州ピックウェイに鉄道の中継駅があったことと関係があるのかどうかはわからないが…。
 さて、ストーリーは、北軍のスパイが将軍号を盗み、そのまま北部へ向けて走り出す。将軍号には、ジョニーが想いを寄せるアナベル(マリオン・マック)も乗っていた。ジョニーは、単身将軍号を追跡する。敵の作戦を盗み聞いたジョニーは、アナベルを救い出すと、将軍号に乗り込んで脱出。北軍も彼らを追う…。
 キートンらしい激しいアクションが観られるわけではないのだが、洗練されたギャグで、大いに楽しめる。燃える橋を渡ろうとして機関車がそのまま落ちてしまうクライマックスには、本物の機関車が用いられたとかで、迫力いっぱい。だが、意外なことに公開当時は不評であったという。実を言うと、僕も1回目観た時はそんなに楽しめなかった。だが、何度か観るうちにこの作品の魅力に惹かれていった。そう言う意味からもこの作品は玄人好みと言えるかもしれない。
 



幼少のキートン
(D・J・ウェンデン/横川真顕訳「映画の誕生」
〈1980年4月公論社〉より)
 


 さて、キートンと言って真っ先に思い出すのは、あの表情の無い顔。もはや、チャップリンの扮装と同じく、彼のトレード・マークとなっている。いわゆる“ストーン・フェース(石の顔)”。どんな困難にあおうと、どんな危機に直面しようと、彼は表情を変えない。そして絶対に、笑わないのである。
 「西部成金」で、キートンは悪人に銃を突きつけられて「笑え!」と脅される。もちろん、彼には笑うことができない。そこで「散り行く花」(1919年米)で死んでいくリリアン・ギッシュがやったように、口の両端を指で持ち上げて笑顔を作って見せる。
 このように、後にはセルフ・パロディにまでしてしまうキートンの無表情。いったいいつ頃からそうなったのだろうか。幼少時代のキートンの写真を見ると、早くも無表情ぶりが見て取れる。キートン自身は「まったく自然に身につけた」と語っているが、実際はそうではないだろう。舞台の芸で散々痛めつけられる際に、苦痛を表情に表さないように、訓練させられたに違いない。
 面白いことに、キートンも初期の頃は映画の中で笑っているのだ。ロスコー・アーバックルと共演した「ファッティとキートンのコニー・アイランド」(1917年 米)。ここでのキートンは、笑うどころか、爆笑までしている(写真下参照)。さらに、悲しそうな顔を見せるなど、その表情は豊かで、彼のキャラクターがまだ完全に出来上がっていないことがわかる。それが、3年後の「ファッティとキートンの自動車屋」(1920年)になると、ずいぶんと表情が無くなり、その次の「文化生活一週間(キートンのマイ・ホーム)」(1920年 米)ではすっかり無表情になっているから、彼のキャラクターが次第 に作られていったことがわかる。僕が直接確認したわけではないが、後年の「キートンの爆弾成金」(1934年仏)のラストでキートンはちょっと微笑んでみせ、日本未公開の「愛しのサンディエゴ」(1944年米)の宣伝文章にも「キートンさえ笑う!」とあるそうだ
(*3)

*3 児玉数夫「バスター・キートン100th」 106〜107ページ
 

 

「ファッティとキートンのコニー・アイランド」(1917年米)
貴重なキートンの笑うシーン
(「バスター・キートン」より)
 


 キートンが今日の評価において、チャップリンに遠く及ばないのは、彼がトーキー以降急激に没落していったからであろう。キートンがアーバックルの共演者から独立し、自作の映画を作り始めたのは1920年のことで、以後短編18本、長編10本、いずれ劣らぬ傑作を発表している。チャップリン、ロイドと共に三大喜劇王と呼ばれるようになったのはこの頃からであったが、興行収益面では常に3番目であった。そのことが、後にプロダクションを解散する要因となる。
 1928年にMGMに移るが、このことは自身が後に「我が人生最大の過ち」と述懐しているように、凋落の始まりとなった。最初の作品「キートンのカメラマン」(1928年 米)は、比較的自由に作らせてもらうことができたおかげで、往年の傑作にも劣らない作品となっているが、次第にスタジオ・システムの中でがんじがらめにされてしまう。最後のサイレントが「キートンの結婚狂」(1929年 米)。トーキー (発声映画)になってからは7本に主演している。最初のトーキー「キートンのエキストラ」(1930年米)はミュージカルで、ここでのキートンは歌いそして踊る。
 トーキー作品の中にも面白いものはあるのだが、かつてのように体を張ったアクションを見せなくなってしまった彼に、往年の冴えは感じられない。MGMでの最後の3作はいずれもジミー・デュラント(1893〜1980)を共演者に迎えているが、これもうまくいっているとは言い難い。口数の少ないキートンに対して早口でまくし立てるデュラントは、どうもかみ合っていないのだ。これらの作品の不出来も祟って、キートンは瞬く間にスターの座から転落してしまった。同時に酒にも溺れ、アルコール中毒患者として入退院を繰り返すことになる。
 キートンのこうした凋落ぶりに引き換え、ライバルであったチャップリンはどうだったのか。数年に1本という余裕のペースで大作を発表し続け、巨匠として揺るぎ無い地位を築いていったからなんとも対象的だ。チャップリンとは異なり、キートンは商売人としての才能をまったくといって言いほど欠いていた。旧作の権利を自身で保有していなかったこともあり、往年の名作は一時期現存しないとまでされた。
 



「キートンの歌劇王」(1932年米)
セルマ・トッド(中央)、ジミー・デュラント(右)と
(「バスター・キートン」より)
 


 1933年にMGMを首になったキートンは、その後エデュケーショナル社に迎えられ、2巻ものの短編映画に主演するようになる。同時にフランスやイギリスでも映画に主演しているが、この時期の作品の出来は決して良くないらしく、現在観る機会はほとんどない。唯一、メキシコで製作された「キートンの月ロケット」(1946年墨)がビデオ化されているので観ることができた(なぜか英語吹替え版)。時は第二次大戦末期、キートンは敵にやられて海上を漂流している兵士を演じている。メキシコに流れ着いた彼は、そこを敵国・日本だと勘違いして、自ら望んで囚人となる。ところが、科学者の実験台として月ロケット乗せられ、宇宙へと打ち出されてしまうのだった。作品の出来のほうは正直言って陳腐だが、古き良き時代のスラプスティック・コメディを再現しているかのような、どこか懐かしい雰囲気のある作品であった。
 また、マルクス兄弟やローレル&ハーディのコメディにギャグマンとして参加したこともあった。僕の大好きな作品である「マルクスの二挺拳銃」(1940年米)にもノン・クレジットで関わっているとのこと。しかし、キートンは世間からはすっかり忘れ去られた存在となっていった…。
 

 キートンの再評価が始まったのは1950年代になってから。一時は失われたとされた旧作も次々に再発見されて、リバイバル上映される。現在では、不完全なものもあるが、彼のプロダクションで製作された作品のすべては現存しており、ビデオ化されている。
 この頃のキートンの姿は「サンセット大通り」(1950年米)や「80日間世界一周」(1956年米)のゲスト出演に観ることができる。前者では、サイレント期の名女優ノーマ(グロリア・スワンソン)の屋敷の客という役で、H・B・ワーナー(1876〜1958)、アンナ・Q・ウィルソン(1890〜1974)というやはり往年の俳優と4人でポーカーに興じている。主人公を演じるウィリアム・ホールデン(1918〜83)は彼らを見て「蝋人形」のようだと呟くが、それについてキートン自身は「言いえて妙だね」と語ったという
(*4)

 1952年には「ライムライト」で、かつてのライバル・チャップリンと夢の共演を果たす。キートンが演じるのはチャップリン演じるカルベロのかつてのヴォードビル仲間。楽屋でカルベロに再会した彼が「こんなことになるとは思わなかった」と語るのに、感慨深いものがある。ヴォードビルの場面では、チャップリンのバイオリニストに対して、盲目のピアニスト役を演じ、珍妙な絡み合いを見せた。
 この場面の撮影に立ち会ったジェームズ・エイジー(1909〜55)は、キートンがすべての演技を即興で演じ、チャップリンの製作チームに強烈な印象を与えたことを述べているそうだ
(*5)。ちなみに、二人の共演シーンは本来はもっと長かったらしいのだが、あまりに滑稽すぎて映画全体のセンチメンタルなムードが壊れるということでカットされたそうである(*6)

*4 グロリア・スワンソン/双葉十三郎監修/吉野美恵子訳「グロリア・スワンソン自伝」 610ページ
*5 トム・ダーディス/飯村隆彦訳「バスター・キートン」 308ページ
*6 
「バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界」 訳注328ページ
 



「ライムライト」(1952年米)
キートン(左)とチャップリン
(「世界の映画作家19/チャールズ・チャップリン」より)
 


 1957年には伝記映画「バスター・キートン物語」が製作された。チャップリンの伝記映画「チャーリー」(1992年米)に先立つこと35年。いかにキートンが好まれていたかがこれだけで解る。キートンを演じるのは「雨に唄えば」(1952年米)でもの凄いアクションを見せたドナルド・オコナー(1925〜2003)。脚本・監督には後のベスト・セラー作家シドニー・シェルダン(1917〜2007)があたっている。内容はキートンがアル中から立ち直るハリウッド版の「失われた週末」(1945年米)ともいうべきもので、史実とはずいぶんかけ離れているそうである。オコナーによって往年のギャグのいくつかが再現されており、大変に興味深い作品であるのだが、残念なことに僕は観ていない。
 



「漂流」(1921年米)
この場面が「バスター・キートン物語」
では再現されてるそうだ。
(「バスター・キートン100th」より)
 


 キートンの全盛期は、1920年から1929年あたりまでのせいぜい10年間である。しかも今日では傑作と評価される作品であっても、大部分は興業的にコケている。一方、チャップリンは実に40年以上に渡って第一線で活躍し続けた。にも関わらず、今日キートンがチャップリンと唯一比肩すべき存在となっているというのは、実は驚くに値するのではないか。キートンの偉大さを改めて感じ、敬意を表したいと思う。
 


(2003年2月22日)


(参考資料)
「世界の映画作家26/バスター・キートンと喜劇の黄金時代」1975年1月 キネマ旬報社
トム・ダーディス/飯村隆彦訳「バスター・キートン」1987年5月 リブポート
グロリア・スワンソン/双葉十三郎監修/吉野美恵子訳「グロリア・スワンソン自伝」1994年10月 文芸春秋
児玉数夫「バスター・キートン100th」1995年10月 あっぷる出版社
バスター・キートン、チャールズ・サミュエルズ/藤原敏史訳「バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界」1997年6月 筑摩書房

目次に戻る

サイレント黄金時代(10)「ほほえみと一粒の涙」へ戻る
サイレント黄金時代(10−2)「喜劇王ビギンズ〜キーストンのチャップリン〜」へ進む
サイレント黄金時代(12)「第三の天才〜ハロルド・ロイド〜」へ 進む