第2章−サイレント黄金時代(5)

美男薄命
〜ルドルフ・ヴァレンチノ〜



早世の大スター
ルドルフ・ヴァレンチノ
 


 「美人薄命」という言葉がある。「天は二物を与えず」の例え通り、美人はその分不幸せであるということなのだそうである。また、美しい女性は美しいままでいて欲しい、老いさらばえた姿など見たくないという気持ちもこめられているに相違ない。

 少女漫画の中でも、やはりそうした美人薄命という話は多いのだが、いつからか美少女は白血病で死ぬというのがパターン化されている。そうした傾向は最近の少女漫画にも時おり見られる。例えば愛本みずほ(1964〜)の「由希子−輝くいのち−」(1995年9月講談社)では、慢性骨髄性白血病を申告された少女由希子が、死への恐怖と戦いながら骨髄バンク推進運動に全力を尽くす。だが、由希子は移植後の拒絶反応によって21歳の生涯を終えるのである。

 それにしても、いったいいつ頃からこうした「美人薄命=白血病」というパターンが始まったのだろうか。そう思ってちょっと調べてみた
(*1)
 少女まんが界の巨匠・大島弓子(1947〜)の初期の作品に「詩子とよんでもう一度」(1970年)という作品がある。時代設定ははっきりしないのだが、おそらく大正から昭和初期であろう。主人公は白血病で余命いくばくもない少女詩子。彼女の姉の婚約者である若い医師・寺内は、そんな詩子に惹かれていく。寺内は彼女を愛するがゆえに婚約までも破棄してしまう。やがて、寺内は白血病の新薬の研究のためにドイツに渡るが、その間にも詩子の病状は悪化していく。彼女の危篤の知らせを受けた寺内が帰ってきた時、詩子はすでに死の床にあった…。
 まさしく、闘病もの少女漫画の典型ともいうべきストーリーではないだろうか。あるいは、この作品が後の少女漫画に与えた影響の大きさを測り知る知ることができる。
(*2)

*1 「闘病もの」漫画については「鈴木めぐみの情熱的マンガ生活」(http://www.kt.rim.or.jp/~rakko/comic/)に詳しい。
*2 同じ大島弓子の作品にやはり白血病をテーマとした「その日まで生きたい」(1969年)というものがあるそうだが、単行本未収録のため未見である。
 

 さて、映画に目を向けてみると、「白血病もの」映画としては「愛とは後悔しないこと」という台詞とフランシス・レイ(1932〜2018)作曲の切ないメロディで知られる「ある愛の詩」(1970年米)が真っ先に思い浮かぶ。それは偶然かどうかわからないが「詩子とよんでもう一度」と同じ年に公開されている。最近でも
、「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年東宝/TBS/他)が同様に、白血病で若い生命を散らす17歳の少女・アキ(長澤まさみ)を主人公としていた(*3)

 そして1985年9月11日には、このパターンを地で行くような事件があった。「鬼龍院花子の生涯」(1982年東映/俳優座映画放送)や「瀬戸内少年野球団」(1984年YOUの会/ヘラルド・エース)等で知られる女優の夏目雅子(1957〜85)が、27才の若さで亡くなったのである。女優としてこれからを嘱望されていたにもかかわらず、まさに美人薄命を地で行っていた。しかも死因は急性白血病であったのだ。
 夏目雅子は1984年に映像ディレクターの伊集院静(1950〜)と結婚したが、翌年に病に倒れている。後に作家となった伊集院は1991年の「乳房」で吉川英治文学新人賞を受賞したが、癌で入院中の妻と病院の窓から満月を眺めるこの作品は、亡妻夏目雅子とのことを彷彿させるものであった。この「乳房」は1993年に映画化されている。また、1993年に発表された伊集院の小説「潮流」は、CMの制作を手がけることになった敏腕宣伝マンと、国民的スターの恋が描かれ、二人の恋を彷彿させる。 この恋の結末を知っている我々はなぜだかそれが無性に切なくなってくるのである。「潮流」は大和和紀(1948〜)によって「天使の果実」(全3巻/1993〜1994年)として漫画化されている。

*3 この一文は2004年11月7日追記。

 



夏目雅子(左)
「鬼龍院花子の生涯」(1982年)より
 


 さて、この薄命というのはかならずしも女性には限らないようである。映画界においては時として美男子もまた薄命に終わるよう運命づけられている。その代表がジミイことジェームズ・ディーン(1931〜55)である。彼は「エデンの東」「理由なき反抗」(共に1955年米)「ジャイアンツ」(1956年米)の3本の主演作を残しながら、交通事故によってわずか24歳の生命を散らす。最近でもリバー・フェニックス(1970〜93)が23歳で亡くなったのが印象的であった。そして彼らに先立つ薄命スターこそが、サイレント期に活躍したルディことルドルフ・ヴァレンチノ(1895〜1926)である。



ルドルフ・ヴァレンチノ
「黙示録の四騎士」(1921年)より


 ヴァレンチノは、その名が示す通りイタリア系。1895年にイタリア南部のカステラネートに生まれる。本名はロドルフォ・アルフォンソ・ラファエロ・ピエーレ・フィリベール・ググリエルミ・ディ・ヴァレンティーナ・ダントングオッラとやったら長い。日本にも大和時代には蘇我倉山田石川麻呂(?〜649)という長い名前の人がいたが、彼にはとてもかなわない。18歳の時に渡米し、ニューヨークで様々な仕事を点々としたが、ダンサーとしてジゴロのような生活を送っていたとも言う。やがてミュージカルの地方巡業に参加してサンフランシスコに渡る。1914年に映画「My Official Wife」のダンス・シーンにエキストラとして出演したのが映画デビューであった。その後、そのエキゾチックな容貌が買われて何本かの映画に彼の経歴そのままの好色感として出演している。
 出世作となったのは1921年の「黙示録の四騎士」。脚本家のジューン・メイシス(188?〜1927)が、「若き人の目」に出演していたヴァレンチノに注目し、監督のレックス・イングラム(1892〜1950)に推薦したのである。ここでヴァレンチノは南米の畜産王の孫のプレイボーイを演じている。彼はラテンファッションに身を包み(写真上)ながら、アルゼンチン・タンゴを踊る。そして、相手の女性と激しい接吻を交わす。



「血と砂」(1922年)
 


 黒い髪に、切れ長の細い目。彼の魅力はまさしく「エキゾチック」な美貌。「エキゾチシズム」とは、辞書で引くと「異国情緒、異国趣味」とある。何とも不思議な言葉だが、実際ヴァレンチノは、従来のハリウッドにはないタイプの男優であった。
 その後彼は「血と砂」(1922年米)でスペインの闘牛士を、「シーク」(1921年米)とその続編の「熱砂の舞」(1926年米)ではアラブの族長(シーク)を、「荒鷲」(1925年米)ではロシア貴族を演じている。僕は観ていないのだが、「ヤング・ラジャー」(1922年米)ではインドの王様をも演じているそうだ。まさにエキゾチックな役柄ばかりである。もちろん、ここで言う「エキゾチシズム」とは、あくまで当時のアメリカ人が感じていたものではあるのだが…。
 ヴァレンチノは無名だった頃、先輩スターの早川雪洲(1889〜1973)の豪邸で働いていたことがあった。早川はわが国日本が生んだ最初の国際スターなのだが、彼もまたエキゾチックな魅力で人気を博していた俳優である。ヴァレンチノを「シーク」役に推薦したのは早川であったという
(*4)。なお、早川については次項で取り上げたいと思う。

*4 早川雪洲「武者修行世界を行く」 187ページ

 


「血と砂」(1922年)
 

 2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロは世界中を震撼させたが、犯人がイスラム原理主義者たちであったことから、事件とはまったく無関係のアラブ系の人たちが言われ無き迫害を受けたというニュースがしばしば伝えられた。その頃の新聞に、こんな記事が載っていた。ある研究者が、ハリウッドで製作された無声映画から現在までに至る909本のアラブ人が出てくる映画を調べてみたところ、偏見無くアラブ人の姿を伝えたものはわずか12本に過ぎなかった
(*5)
 「シーク」の主人公は、酒場で白人の踊り子を見初めると、強引に誘拐して自分の物としてしまう。そしてこともあろうか、その踊り子もまたシークに魅かれていくのだから、女心は良く分からない。しかもシークは実は砂漠で拾われたスコットランドの伯爵であったいう設定であるから、白人優位主義がミエミエである。先の記事では触れられていなかったが、「シーク」こそまさしくアラブ人を偏見に満ちた目で見た映画であったと言えるだろう。ただ、1920年代のアメリカにとってアラブはまだ遠い国であったのだから、やむを得ないことであろう。

*5 「アメリカ アメリカ」(「朝日新聞」2002年1月1日)



「熱砂の舞」(1926年)


 さて、ほぼ同じ頃アメリカで人気を博していた美男俳優には、「世界の恋人」と称されたジョン・ギルバート(1895〜1936)や、リチャード・バーセルメス(1895〜1963)といった、どちらかといえば優しく甘い風貌の俳優が多い。ところが細く切れ長の目でじっと女性をにらみつけるヴァレンチノは、どこか冷たい印象を受ける。そして女性に対しても誠実であるよりはむしろ、不誠実である。いや、存分に女たらしの雰囲気すら醸し出している。「シーク」は強引に女性を誘拐するし、「黙示録の四騎士」では人妻と不倫の恋に落ちる。
 だが、当時の女性ファンはそういった部分にエクスタシーを感じたのであろう。当時の女性ファンは、ヴァレンチノの映画を観に行くのに際して、わざわざおめかしをして出かけ、ラブ・シーンではどよめきが生じたと言う。それはわが国日本でも同様で、映画評論家の淀川長治(1909〜98)の姉も、ヴァレンチノ映画を観に行く前には「心をうきうきさせながら鏡台に向かって化粧をしていた」
(*6)そうである。
 
 ヴァレンチノは、一途な男よりはむしろ、複数の女の間で揺れ動く男を演じることが多い。「血と砂」の主人公は、妖艶な未亡人との愛に溺れ、幸せな家庭を崩壊させたばかりか、ついには自らの生命までも失う。「コブラ(毒蛇)」(1925年米)では、妖艶な人妻からの誘惑を退け、やがて一途な愛情までも友情のために捨てる。サイレント期最大の女優アラ・ナジモヴァ(1879〜1949)と共演した「椿姫」(1921年米)ではアルマンを演じているが、これだって女によって身を堕としていく男の一種には違いない。

 実生活でのヴァレンチノはどうであったのか。ヴァレンチノの伝記映画は何度か製作されている。僕はケン・ラッセル(1927〜2011)監督による「バレンチノ」(1977年米)を観た。ロシア出身の世界的バレエ・ダンサー、ルドルフ・ヌレーエフ(1938〜93)がヴァレンチノを演じている。ヴァレンチノのスターとしての成功談よりはむしろ、彼を取り巻く女性達に重きを置いたスキャンダラスな作品となっている。

 ヴァレンチノは生涯2回結婚している。最初に結婚したのは女優のジーン・アッカーで、1920年に結婚したがわずか6時間で離婚したとか…。翌年には「椿姫」で競演したアラ・ナジモヴァの衣装デザイナー、ナターシャ・ランボヴァと再婚している。このナターシャは、やがて夫ヴァレンチノの演技から、契約、出演作品にまで口を出すようになる。「バレンチノ」では、彼女がそういったことを占いに頼っていたことが描かれていた。そのため、ヴァレンチノは3年後にナターシャとも別れることになる。彼はその後ポーラ・ネグリ(1894〜1987)と婚約するが、彼の死によって実ることはなかった。

 当時のヴァレンチノの人気ぶりを示すデータとして、当時、世界中にある1万5千の映画館で、彼の姿に酔った女性は5千万人にのぼるとする推定があるそうだ
(*7)。だが、皮肉なことに、そんな彼がどうやらホモセクシャルであったとの根強い噂がある。その根拠の一つとして、ヴァレンチノの2人の妻、ジーンとナターシャがいずれもレズビアンであったということがあげられる。二人ともアラ・ナジモヴァと関係があったらしい。彼と二人の妻との間に通常の性交渉が無かったということが離婚裁判の際に証言されている。また、彼自身も人前に出る際には足首にナターシャからもらったブレスレットをはめ、香水をつけ、チンチラを裏打ちしたコートを身につけていたことも、その噂に拍車をかけた。映画「バレンチノ」では、彼がピンクのパフを投げつけられるシーンが出てくるが、“Pink Powder Puff”とは俗語で同性愛者を意味している。世界中の女性を虜にしていていた彼が同性愛者とは、何とも皮肉なような気がするが、僕はそれもありかな、と思わないでもない。

*6 淀川長治「淀川長治自伝 上」107〜108ページ
*7 「世界シネマの旅3 朝日新聞日曜版」(1994年6月 朝日新聞社)の「血と砂」項 74ページ


 1926年、人気絶頂の最中、ヴァレンチノは胃潰瘍で倒れ、そのまま8月23日に31歳の若さで亡くなった。あまりの唐突の死に、様々な憶測が飛びかった。捨てられた女性によって砒素を盛られたとか、間男された夫に殺されたとか。実は梅毒だったとか…。いずれにせよ世界中の女性ファンはパニックに陥り、ニューヨークでは暴動が発生したらしい。棺の運ばれた教会は1万2千人もの群衆で囲まれ、埋葬には1万人が参列した。その後も後追い自殺をした女性がいたり、死後も彼の墓に花は絶えないという…。

 「美人薄命」は最初にあげた言葉だが、俳優としての絶頂期に死んでいったヴァレンチノもまた「美男薄命」と言えるのではないだろうか。ジミイ(ジェームズ・ディーン)と同じように、ルディ(ヴァレンチノ)もまた死ぬことで伝説となったのである。
 


 ジミイの墓には今でも花が絶えないとか。ヴァレンチノの場合もやはりそう言われている。毎年彼の命日には13本のバラ(赤いバラ12本と白いバラ1本)を供え続けた謎の喪服の女がいたという。しかし、ヴァレンチノが死んでから今年(2002年)で76年。死んだ当時思春期だったとしても、当時のファンはもはや90歳近い。さすがに今ではそんなこともないのかも知れない…。

 ふと、日本の夏目雅子の場合はどうなのかと疑問に思った。彼女の墓は夫である伊集院静の菩提寺である山口県防府市の大楽寺にある。大楽寺はヒマワリの名所としても知られているが、機会があったら一度は行ってみたいと思っている。
 

(2002年8月7日)


(参考資料)
師岡一夫、横溝良夫編「永遠の青春ルドルフ・ヴァレンチノ/彼の劇的な生涯とその作品」1983年5月 無声映画研究会
淀川長治「淀川長治自伝 上」1985年6月 中央公論社
筈見有弘編「黄金期ハリウッド男優 ヴァレンティノからディーンまで」1988年8月 芳賀出版
ケネス・アンガー/海野弘監修/明石三世訳「ハリウッド・バビロンT」1989年3月 リブロポート
シネマハウス編「男優伝説U 朝までビデオ14」1992年4月 洋泉社
「世界シネマの旅3」1994年6月 朝日新聞社
小達スエ「ふたりの雅子」1997年7月 講談社
*著者は夏目雅子の母
早川雪洲「武者修行世界を行く」1999年2月 日本図書センター

大島弓子「詩子とよんでもういちど」(「誕生/大島弓子選集第1巻」所収)1986年4月 朝日ソノラマ
愛本みずほ「由希子―輝くいのち―/感動ノンフィクション!!」1995年9月 講談社コミックスフレンドB

「鈴木めぐみの情熱的マンガ生活」(http://www.kt.rim.or.jp/~rakko/comic/
 

目次に戻る

サイレント黄金時代(4)「ファースト・アクション・ヒーロー」へ戻る
サイレント黄金時代(6)「日本人の肖像〜早川雪洲とハリウッドの外国人〜」へ 進む