特別企画−ネパール映画事情(2)
FROM TOP OF THE WORLD
〜映画の中のネパール〜



バンコク→カトマンズの飛行機内から見たヒマラヤ
              (2007年1月10日撮影)
 


 前項「若い力の歌」で述べたように、僕は2007(平成19)年1月から2年間の予定で、青年海外協力隊(JOCV)の隊員としてネパールの首都カトマンズで日本語教師をしている。そのことが決まったのは、2006(平成18)年2月のことだったが、実を言うと、ネパールに決まったのはちょっぴり意外だった
(*1)
 青年海外協力隊は、開発途上国からのボランティア派遣の要請を受け、その要請に合った人材を派遣する。僕はできるだけ個人では行く機会の無い国に行きたかった。そこで最初、アフリカを希望した。ところが、僕が協力隊の試験を受けた2005年の秋募集では、アフリカからの日本語教師の要請はエジプトぐらいしかない。それならばと、アジアを希望することにした。派遣先希望の調査にはベトナム、タイ、モンゴルなどを書いておいた。この時点では、ネパールからの日本語教師の要請は無かったので、僕はネパールのことはまったく考えていなかった。
 

 ところが、ふたを開けてみると、行き先はネパール。最初の印象は「どこそこ?」だった。この時点で僕がネパールについて知っていることはと言えば、インドと中国のチベット自治区にはさまれた内陸の王国で、首都はカトマンズ。ヒンズー教を国教としていて、世界最高峰のエベレストを始めとするヒマラヤ連峰があるということぐらいだった。

 たまたま近所によく行くインド料理屋があり、そこの店員がネパール人だったので、さっそく行っていろいろ話を聞いてきた。後で調べてみると都内だけでも50件以上のネパール料理屋があった。そうした店を回っていると、ネパール通の日本人と会うことも多く、ネパール好きな日本人が思いの外多いということがわかった。その後、駒ヶ根訓練所での協力隊の派遣前訓練に入ってからも、本当はネパールに行きたかったと言っている 他国派遣の隊員仲間が多くいた。そうしているうちに、僕自身も、だんだんネパールのことが好きになってきた。



 2006(平成18)年は日本とネパールの国交樹立50周年であった。もちろん、民間レベルでは交流はそれ以前に遡る。僧侶の河口慧海(かわぐち・えかい/1866〜1945)が日本人として初めてネパールを訪問したのは1899(明治32)年のことであったし、1902(明治35)年にはネパールからの留学生が8人、日本に来ている。そういう歴史があるためだろうか、現在のギャネンドラ国王(1947〜/在位2001〜08)を始め、ネパールには親日的な人が多い。

 しかし、ネパールの政情はこの所極めて不安的であった。1996年以来、ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が反政府運動を繰り広げ、国王派、共和派の3派による抗争が続いていた。しかも、2006年4月には、マオイストと共和派の連携による、国王への大掛かりな抗議行動が起き、ストや外出禁止令が敷かれるという事件が発生した。その頃、僕の派遣もどうなるのか、相当やきもきさせられた。結局、国王が 政権を政党側に譲渡することで、抗議行動は沈静化。10月にはマオイストも和平条約に調印。2007年1月15日、マオイストも参加する議会によって暫定憲法が制定された。現在、新憲法制定のための選挙の準備が進められており、政情はかなり良い方向に向かっているようである。

*1 詳しくは僕のブログ「たこのあゆみ」(http://st-octopus.at.webry.info/)を参照のこと。
 
 



カトマンズ・ダルバール広場(旧王宮)
 

 
 
◆ネパール映画の流れ

 
 このサイトは「映画史探訪」であるから、何よりもネパール映画について紹介していきたいと思う。そこでまず手始めにネパール映画の歴史について調べようと思った。ところが、ネパール映画の歴史についてまとめた資料は極めて少ない。ほぼ世界中の映画製作状況を網羅したジョルジュ・サドゥール
(1904〜67)「世界映画史」(1980年12月 みすず書房)や、「週刊ザ・ムービー」(1998年3月〜2000年2月 デアゴスティニー)ならばおそらくはネパール映画の歴史についても触れているのであろうが、あいにくそれらの本は日本に置いてきてしまい、現在参照することができない。もし、どなたか読むことがあったら、あとでこっそり教えて下さい(*2)
 インターネット上のフリー百科事典「Wikipedia(ウィキペディア)」の英語版とネパール語版の「ネパール映画」の項目
(* 3)によると、1951年9月14日に「 Satya Harishchandra(सत्य हरिश्चन्द्र/真実のハリスチャンドラ)」(D.B.パリヤール監督)という作品が、最初のネパール語映画 として公開されたとのことである。これは、ネパール語話者の多く住むインドのカルカッタで製作されている。その後、1964年10月7日に、最初の国産映画「 Ama(आमा/母)」 が公開された。
 僕は「Wikipedia」の信憑性には少々疑いを持っているのだが、1997年に出版された「アジア読本/ネパール」に「最初のネパール語映画の制作から45年、国産映画第一号の制作から30年。」
(* 4)とあるのが、このことにあたるのだろう(* 5)。もちろん、ネパールで出版された映画関連書籍を紐解けば より詳しいことがわかるのだろうが、現在の僕の語学力ではそれは難しい。とりあえず今後の宿題にしておきたい。
 ともかく、ネパールでの映画製作の歴史はまだまだ浅いということなのである。
  
* 2 帰国後確認したが、両書ともネパール映画についてはまったく記されていなかった(2009年1月18日追記)。
*3 「Wikipedia , the free encyclopedia/Cinema of Nepal」(http://en.wikipedia.org/wiki/Cinema_of_Nepal
    「विकिपीडिया खुला विश्वकोष/नेपाली चलचित्र」(http://ne.wikipedia.org/wiki/नेपाली_चलचित्र
*4 野津治仁「それでもやっぱり映画が観たい」(「アジア読本ネパール」)262ページ
*5 逆算するとそれぞれ1952年、1967年のことになるので、「Wikipedia」とは食い違いが生ずる。
 
 
 



仏教寺院スワヤンブナート
 

 
 
映画「キャラバン」

 
 僕は青年海外協力隊(JOCV)隊員に決まるまで、ネパール映画を観たことがなかった。何はともあれ、まずはネパール映画を観ようと思い、アジア映画専門のビデオレンタルである東京・神保町の「アジア映画」に行ってみた。しかし、残念ながらネパール映画は1本も置いていない。どうやら、これまで日本国内で上映されたネパール映画は極めて少ないようなのである。しかしながら、いろいろ調べてみると、「キャラバン」(2000年フランス/ネパール/スイス/イギリス)という作品が日本公開されており、なおかつビデオ化されていることがわかった。
  
 
 



ヌワコットから見たガネッシュヒマール(標高7406メートル)
 

 
 
 「キャラバン」はネパール北部、チベットとの国境に近いヒマラヤ山脈の中にあるドルパ(Dolpa)が舞台である。カトマンズ方面からドルパへ行くためには、標高6883メートルのカンジローバ・ヒマールを超えて行かなければならず、まさに陸の孤島ともいうべき場所である。僕は2ヶ月間のネパール語の訓練を終えてからこの映画を観たのだが、まったく台詞が聞き取れない。それもそのはず、登場人物はみなドルパ語を話 している。
 ドルパの村人たちは、何十頭ものヤクでキャラバン(商隊)を組み、チベットからの塩をヒマラヤの雪山を越えて町に運び、麦を手に入れなければならない。旅の途中、命を落とした隊長のラクパに 代わり、キャラバンを率いることになったカルマ(グルゴン・キャップ)と、ラクパの父で村の長老ティンレ(ツェリン・ロンドゥップ)は対立。それぞれ別のキャラバンを率いて村を出発する。一行の前に、嵐や雪といったヒマラヤの自然の脅威が立ちふさがる…。

 
 
 



キャラバンの様子
(「Dolpo/Hidden Land of the Himalayas」より)
 

 
   
 監督・脚本のエリック・ヴァリ(1952〜)はこれが映画監督デビュー。彼はフランス人であるが、永年ネパールで生活してきた。 ジャン=ジャック・アノー(1943〜)監督の「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(1997年米)ではヒマラヤでのユニット監督を務めている。また、製作・脚本協力で俳優のジャック・ ぺラン(1941〜)が参加している。映画に出演しているのはいずれもドルパの住民で、プロの俳優は一人もいない(* 6)。しかしながら、その名演技ぶりに驚かされる。何でも、監督のヴァリは、友人でもあるドルパ人たちの人物からストーリーを考え出したとのこと。なるほど、適役であったわけだ。また、特殊効果を一切用いず、ありのままの光景を収めたこの作品は、まるでドキュメンタリーを観ているかのような印象を受ける。それでいながら、深い味わいと余韻を残す。ブリュノ・クーレによる、チベット僧の読経と女声コーラスを組み合わせた神秘的な音楽も、効果的に響いてくる 。
 
 1999年度のフランス・セザール賞において、音楽賞(ブリュノ・クーレ)と撮影賞(エリック・ギシャール)の2部門で受賞。アメリカのアカデミー賞でも外国語映画賞にノミネートされた(受賞はスペイン映画「オール・アバウト・マイ・マザー」)。もちろんネパールでもロングランヒットを記録した。

*6 若い母親役のラクパ・ツァムチョエは、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」にも仕立て屋の娘ペマ・ラキの役で出演している。
 
 
 



 キャラバンの様子
(「Dolpo/Hidden Land of the Himalayas」より)
 


 
 
◆映画「リトル・ブッダ」

 イタリアの巨匠ベルナルド・ベルトルッチ(1940〜)が監督した「リトル・ブッダ」(1993年英/仏)にもネパールは登場する。 シアトルで生活する9歳の少年ジェシー(アレックス・ヴィーゼンダンガー)は、ある日やってきたチベットのラマ僧(イン・ルオチェン)によって、ブッダ(釈迦)の魂を受け継いだ聖者の生まれ変わりであることを告げられる。やがて、ラマ僧に連れられて父(クリス・アイザック)と共にネパールへやってきたジェシーは、そこで他の転生候補者である少年と少女と出会い、仏の奇跡を目の当たりにする…。
 メインのストーリーと並行して若き日のブッダ、ゴータマ・シッダールタ王子の物語が描かれる。シッダールタ王子に扮しているのがキアヌ・リーブス(1964〜)。このシッダールタ王子の挿話の大部分は、バクタプールの旧市街で撮影されている。
 
 
 



バクタプール・ダルバール広場(旧王宮)
 

 
 
 バクタプールはカトマンズの東に位置する旧都で、世界文化遺産に指定され、中世の町並みがそのまま残っている。ネパールに来てから何度か足を運ぶ機会があったが、一瞬過去にタイムスリップしたかの錯覚を起こす。なるほど、ブッダが生きていた時代もこんな感じであったろうか。
 後になって、バクタプール生まれの職場の同僚に聞いた話では、映画のスタッフによって人工の池などが新しく作られて大掛かりに撮影されていたそうである。また、一部のシーンでは、カトマンズの南のパタンのダルバール広場(写真)も使われたようである。
 ネパールを訪れたジェシーたちは、チベット仏教の聖地ボーダナート(写真)にやってくる。ジェシーはここでもう一人の転生候補である少年ラズ(ラズ・ラル)と出会い、2人で町を抜け出す。2人がやってくる旧市街。だが、なぜかボーダナートからは10キロ以上も離れたバクタプールの町なのである。現地で暮らすようになると、こうした不自然なところが気になるようになってしまう。
 
 



バクタプール・ダルバール広場(旧王宮)
 

 
◆テレビ・ドキュメンタリーの中のネパール


 2006年10月5日から12月13日まで、僕は青年海外協力隊駒ヶ根訓練所において、70日間の派遣前訓練に入った。ネパール語の学習を始め、様々な課業や行事で忙しい毎日であった。訓練の中には「任国研究」というカリキュラムがあった。協力隊のOBが訓練所にやってきて、派遣先の国の生活や習慣についていろいろ教えてくれた。また、 隊員候補生たち自身による勉強会も組まれていた。

 訓練所の図書館には文献や資料がいろいろ揃っている。その中には映像資料もあり、映画も揃っていた。ネパールに関して言えば、ほとんどがネパールに関するテレビ番組の録画で、残念な ことに映画は1本もなかった。しかし、普段はなかなか見る機会もないだろうと思い、空き時間に、そうしたビデオをいろいろ観ることにした。
 
 
 



ヒンズー教の聖地パシュパティナート
 

 
 
 ネパールは1846年から1951年まで永い間鎖国政策を取っていた。開国直後の1956(昭和31)年には日本と国交を樹立しているが、登山関係者を別にすると、ほとんどの日本人にとってネパールは文字通り遠い国であった。「ネパールの神々に会った娘たち」(1972年頃フジテレビ)や「神々の渓谷〜ネパール〜」(1981年NHK)といったテレビ ・ドキュメンタリーを観たが、この頃になってもネパールはまだまだ遠い国であったようだ。ヒンズー教と仏教が複雑に交じり合ったネパールの風習は、我々日本人の目には奇妙なものに映る。番組の製作者側も、単なる好奇の目でネパールを見ているかの印象である。
 「ネパールの神々に会った娘たち」には、看護師としてネパールに派遣された青年海外協力隊の隊員が登場する。ヒンズー教最大の聖地パシュパティナート(写真上/下)に、死期の近づいた重病人が病院を抜け出してまで訪ねる様子が出てくる。ナレーションは彼らが「(パシュパティナートの中に)見捨てられている」という表現を取っているが、これは日本人的な見方であって、ネパール人の宗教心をまったく無視しているとしか思えない。 
 
 
 



パシュパティナートでの葬儀の様子
 

 
 
 しかし、1980年代半ば以降に製作されたドキュメンタリーの中には、ネパール庶民の真の生活に迫ろうとする姿勢で描かれた作品も多く見られるようになってくる。
 
 ネパールに青年海外協力隊が派遣されたのは、協力隊発足後5年を経た1970(昭和45)年のことである。以来、2007(平成19)年7月までに累計866人(現在派遣中は42人)がネパールに派遣されている
(*7)。これは協力隊の派遣された84ヶ国の中では10番目に多い人数である。それだけ、ネパールが日本を頼りにしていることの表れではないだろうか。
 僕は現在ネパールの首都カトマンズで活動しているが、ここは人口100万を超える大都市で、生活していて不便さはほとんど感じない。僕が観た「青年あり日本から来る/海外協力隊員の南北体験」(1982年NHK)、「ヒマラヤドラカ村でいま/地球サイズのじぶん発見」(1985年NHK)、「ナマステ 神がみの国〜ネパールにかける青春〜」(1988年テレビ新広島)などといった番組は、いずれもネパールの地方で活動する協力隊員の活動の様子を描いていた。いずれも古い映像とは言うものの、その辺鄙さには驚かされる。本当に協力隊活動が必要なのは、まさしくこうした地方なのではないだろうか。
 現在ネパールへの隊員の派遣は、近年の情勢不安からカトマンズ盆地内(カトマンズ、ラリトプール、バクタプールの3郡)に限定されている。現在地方隊員はポカラに2名いるが、彼女たちが引き上げた時点で地方への派遣は終了となる。もっとも、政治情勢が安定しつつあることを考えると、近いうちに地方隊員の派遣も再開されるであろう
(*8)。  

 カトマンズから30分もバスに乗ると、一面畑の農村に出る。仲間の村落開発普及員や野菜の隊員もこうした場所で活動しているのだが、所詮はカトマンズ盆地内。他の国に比べれば、まだまだ都会だといえるのではないだろうか。現に都心の下宿先から農村に通う仲間は、「毎日ピクニック気分」だと言っている。

*7 国際協力機構(JICA)ホームページ(http://www.jica.go.jp/activities/jocv/outline/data/results/index.html) をもとに作成
*8 2008年7月からポカラへの派遣が再開。
    
 
 



カトマンズ郊外の農村ボリケル
 

 
 
◆ドラマ「ヒマラヤの赤い自転車」


 青年海外協力隊が製作に協力したテレビドラマに「ヒマラヤの赤い自転車」(1992年TBS/ニューウェーヴ)がある。本来なら前項で紹介するべきだったのだが、ネパールが舞台となっているのでここで取り上げることにした。原作が石森史郎、脚本が朝比奈佐和、生野慈朗が演出している。国際協力事業団(JICA)が協力している他、JICAネパール事務所と、青年海外協力隊(JOCV)ネパールが現地協力として加わっている。歌手の小泉今日子(1966〜)が扮するヒロイン・井上衣里香は、カトマンズで活動する青年海外協力隊の看護師である。
 衣里香の恋人がフリーカメラマンの小野寺和人(奥田瑛二)。彼はもうすぐ協力隊としての任期の終わる衣里香を日本に連れて帰りたいと考えていた。彼のヒマラヤへの撮影旅行を案内したのが、少年ガイドのパサン(隈河大)であった。
 写真展のために日本に一時帰国する小野寺は、パサンへのお礼に日本から自転車を持って帰る約束をする。だが、彼は末期癌のために、帰らぬ人となってしまう…。彼と前妻との間の中学生の息子 ・秀人(伊崎充則)は、父の遺志で赤い自転車を持ってネパールへ向かう。だが、日本人登山隊とヒマラヤに向かったパサンの父が遭難死。父親が日本人に見殺しにされたと信じたパサンは、衣里香たちにも心を閉ざしてしまう…。
  
 キョンキョン(小泉今日子)が衣里香をキュートに好演。もちろん主題歌「風になりたい」も彼女自身が歌っている。カトマンズのどこか懐かしい町並みと、ヒマラヤの雄大な自然が美しく、それがまた見所の一つである。
 ただ、衣里香の働く診療所のスタッフが所長(大滝秀治)を始め、すべて日本人だというのが、どうも不自然に感じる。前項でも述べたように、協力隊の目標は現地の社会に溶け込みながら働くというものである。日本のNGO団体が設立した病院ならばこういうこともあるかもしれないが、現地政府からの要請で派遣される協力隊隊員がそこに赴任するようなことは、ちょっと考えられにくい。「ネパールの神々に会った娘たち」に登場 した看護師も、もちろん単身でネパールの病院に勤務していた。2007年7月現在ネパールには5人の看護師が協力隊員として来ているが、やはり彼女たちもネパールの病院でネパール人スタッフの中で仕事をしている。
           
 
 



パタン・ダルバール広場(旧王宮)
 

 
 
◆猿岩石と「あいのり」のネパール


 日本テレビのバラエティ番組「進め!電波少年」(1992〜98年)の企画としてお笑いコンビ猿岩石の有吉弘行(1974〜)と森脇和成(1974〜)の2人がユーラシア大陸縦断ヒッチハイクに赴いたのは1996年4月13日のことだった。二人は香港を出発すると、中国からインドシナ半島に入り、インド 、中近東、ヨーロッパを経てその年の10月19日にイギリスのロンドンにたどり着く。2人の日記は「猿岩石日記 PART1〜2」(1996年日本テレビ放送網)として出版され、ベストセラーとなった。すぐさま批判本( 僕は未見である)が出版されたり、実は何箇所か危険地域ではヒッチハイクでなく飛行機を使っていたことが明らかになったりと、様々な批判のあった番組だったが、今にして思うと、日本のお茶の間に見知らぬ国への好奇心を駆り立ててくれたことへの功績は大きかったように思う。その後 、この企画はドロンズによる「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」(1997年)、チューヤン(1972〜)と伊藤高史(1976〜)のコンビ「朋友」による「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク 」(1998年)へと引き継がれていく。
 さて、猿岩石の二人は1996年6月15日にインドのムジャファールからヒッチハイクでネパール入り。翌6月16日にカトマンズに到着する。ここで二人は日本から届けられた玩具を売って旅の資金を稼いだり、有吉が下痢でダウンしたりする。そして再びヒッチハイクと徒歩で6月20日にインドに再入国。さらに西へと旅を続ける…。
 目的がユーラシア大陸横断であるなら、まっすぐにインドからパキスタンに抜けたほうが明らかに近道である。にもかかわらず、なぜ二人はネパール入りしたのか…。5月30日、インドで僧院に泊まることになった2人は、そこで頭を丸めて修行をさせられることになる。その後法衣のままヒッチハイクをした二人は、ムジャファプルからネパール国境に近いモテアリを目指す。二人が僧侶で、ネパールへ巡礼に行くのだと勘違いしたドライバーの善意で、二人はネパール国境にまで連れていかれる。ここまで来たならと、二人はネパールに行くことを決めた。ネパールのインド国境近くには釈迦生誕の地ルンビニがあり、仏教の4大聖地の1つと もなっている。ちなみに残り3つはすべてインド国内にあって、それぞれ成道の地ブッダ・ガヤ、初めて説法をしたサールナート、入滅の地クシナガールである。とはいうものの、2人がネパールを訪れる必然性は薄く、これも 実は“やらせ”だったのかな、と思えなくも無い。もっとも、世界遺産のカトマンズの街は絵になるから、旅程を無視してまでスタッフが2人をそこに行かせたかったとしてもわからないことではない。


 また、フジテレビの人気番組「あいのり」(1999年〜放送中)にもネパールは登場している。「あいのり」は7人の男女を乗せたピンクのワゴン(ラブワゴン)が世界各地を旅して回るバラエティ番組。旅の途中で意中の異性に告白し、カップルが成立すれば二人で帰国。フラれた場合は一人で帰国しなければならない。
 ラブワゴンがネパールに上陸したのは2003年12月1日から2004年1月12日の放送まで。ネパールは44ヶ国目にあたる。一行はブータンから空路カトマンズ入りし、カトマンズのダルバール広場(写真)や、スワヤンブナート寺院(写真)、パタンのダルバール広場(写真上)などを観て、中部の町ポカラへ、さらに世界最高峰サガルマータ(英語名エベレスト、中国名チョモランマ)を見るため東部の町ルクラへとラブワゴンの旅を続ける…。
 一行はダルバート・タルカリ(ネパールの定食)を食べ、湖で泳ぎ、ボートに乗り、サガルマータをめざしトレッキングをする。彼らはわずか数日のネパール滞在ながら、すでに僕ら以上にネパールを満喫しているようで、何とも羨ましい。やがて、メンバーたちの間に次第に恋心が燃え上がり、ネパールを去る日、一人の女子メンバーが、男子メンバーに告白する。だが、その思いは届かず、彼女は一人で日本に帰国することになり、残る一行は次の国スリランカへと向かう。
 そういえば、僕が駒ヶ根訓練所でネパール語を教わった協力隊OGの先生が、現役の隊員(14年1次隊)だった頃、この「あいのり」の撮影隊がちょうどネパールに来ていたそうである。先生は、その際ラブワゴンに も乗せてもらったとかで、その時の写真を訓練中に見せてもらった。
  
 
 



チベット仏教の聖地
ボーダナート
 

 
 
◆河口慧海の見たネパール

  
  黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶・河口慧海(1866〜1945)は、中国や日本に伝承された漢訳仏典に疑問を感じ、仏教の原典を知るために、1897(明治30)年6月26日、チベットを目指して神戸港から出発した。河口はインドのダージリンで1年間チベット語を学ぶと、中国人と偽ってネパール経由でチベットをめざす。彼はチベットを訪ねた最初の日本人であるばかりか、ネパールを訪ねた最初の日本人ともなった。
 河口は、ダージリンからいったん汽車でカルカッタへ南下し、そこで準備を整えた後、1898(明治31)年1月25日、南西のビルガンジからネパールに入っている。ネパールでは、カトマンズの東北にあるチベット仏教の聖地ボーダナート (写真上)にも立ち寄っているが、現在ここには河口を記念した碑が立っている (写真下)。河口はネパール北部の村ツァーランに1年近く滞在し、そこで情報を収集した後、「キャラバン」の舞台ともなったドルパから雪のヒマラヤを越え、チベットに入る。1900(明治33)年3月23日にはついにチベット首都ラサへたどり着いた。
 河口はチベットに2年間滞在した後、多くの仏典を伴って1903(明治36)年日本に帰国しているが、帰路再びインドからネパールを訪ね、カトマンズでネパール大王(総理大臣)と対面した。このネパール大王とは、執政だったチャンドラ・シャムシェール・ラナ(1863〜1929)のことである。当時、ネパールにはプリトゥビ国王(1875〜1911/在位1881〜1911)がいたが、実権は執政のラナ一族が握っていたため、チャンドラ・ シャムシェールが実質的な国王であった。
 河口は帰国後の1904(明治37)年「西蔵旅行記(チベット旅行記)」を発表、評判となる。だが、その真偽については当時大いに世上を騒がせたそうである。何しろ、当時はチベットもネパールも鎖国状態で、外国人の入国が厳しく制限されていた時代であるから、彼の体験は俄かには信じられなかったのである。
 河口はネパール滞在中チャンドラ・シャムシェールからサンスクリット語の経典を譲り受ける約束を取り付けたことから、1905(明治38)年三たびネパールを訪問。3月から11月までボーダナートに滞在した後、再びチベットへ向かった。
 「西蔵旅行記」の中で河口はネパール人のことを「余程勤勉である」
(*9)と述べている。さらに、「その容貌といい小さな身体といい、その色その性質および義侠心に富んで死を厭わぬというような点においては、確かに日本人と同一の種族であると思われる程似て居るです」(*10)と も語る。すでに半年近くネパールに暮らしている僕の印象からすると、確かに容貌においてはその通りだと言える。とりわけ、北部のチベット系の山岳民族などは、色も白く日本人に良く似ている。しかし、それ以外の点はどうであろうか…。とりわけ「勤勉」という点においては、僕は今のところ河口の意見に賛同できない。もっとも、この意見は100年前のものであるし、河口はチベット人、インド人との比較の点からこうした意見を述べているということも差し引く必要があるだろう。だいたい、今の日本人に「義侠心」があるといえるのかどうか…。
  
*9*10 河口慧海「チベット旅行記(四)」118ページ
  
 
 

 

ボーダナートの河口慧海の記念碑
 

 
 
◆沢木耕太郎「深夜特急」

 沢木耕太郎(1947〜)の「深夜急行」(1986年〜1992年新潮社)は、インドのデリーからイギリスのロンドンまで乗り合いバスで行こうと決意した26歳の青年〈私〉の放浪の旅を描いている。〈私〉は香港に上陸したのを皮切りに、空路でマカオ、タイのバンコクを経て、そこからマレー半島を南下。再び空路を取りインドのカルカッタに入る。そこからは乗り合いバスでシルクロード沿いにパキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコ、ギリシア、ヨーロッパを経て、ついにイギリスのロンドンにまでたどり着く。
 作品の冒頭に 「ミッドナイト・エクスプレスとは、トルコの刑務所に入れられた外国人受刑者たちの間の隠語である。脱獄することを、ミッドナイト・エクスプレスに乗る、と言ったのだ。」という言葉が載せられているが、まさに〈私〉は仕事を投げ出し、現実の世界から自分探しの旅に出た。彼は旅の途中「自分はいま旅という長いトンネルに入ってしまっているのではないか、そしてそのトンネルをいつまでも抜け切ることができないのではないか(略)旅という名のトンネルの向こうにあるものと、果たしてうまく折り合うことができるかどうか、自信がなかった」とつぶやく
(*11)
 「深夜特急」は作者の沢木耕太郎が26歳だった1970年代前半の実際の旅がもととなっており、猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイクにも影響を与えている。「電波少年」のプロデューサー・土屋敏男(1956〜)によると、1995年の冬の深夜に訪れた本屋の文庫本コーナーで平積みになった「深夜特急」を見かけたことが、その企画の生まれたきかっけとなったという
(*12)

 さて、「深夜特急」の〈私〉は、出発から半年かかってインドのカルカッタへたどり着く。ここでネパール人のテニス選手と知り合ったことがきっかけとなって、彼はその後カトマンズへ足を向けることになる。彼はインド側の国境であるラクソールまで鉄道で行き、徒歩で国境を越えネパールのビルガンジに入ると、そこからバスでカトマンズ入りする。「着いて4日後」
(*13)にガイジャトラの祭りに出くわした記述がある。ガイジャトラは西暦で言えば8月下旬から9月上旬にかけて行われるので、〈私〉がカトマンズに着いたのもそのころだとわかる。
 〈私〉は一日3ルピーの自転車を借りて、ボーダナート(写真)やパタン(写真)を訪れる。現在カトマンズで自転車を一日借りると100〜150ルピーはするし、やはり本書中に10パイサ(0.1ルピー)と書かれているミルクティーも、5〜10ルピーなので、〈私〉が訪れた1970年代と現在(2007年)とでは貨幣価値は50倍も変わってきているようだ。だが、本書に描かれたカトマンズの印象は30年後の僕が感じたものとそう大差ない気がする。
 〈私〉はカトマンズでは青年海外協力隊(JOCV)の隊員たちとも交際するようになる。そんな中には、ネパール人女性との結婚を考える土木隊員がいた。だが、彼の恋愛は、札付きのプレイボーイ・ネパール人の介入によって、彼女が心変わりしたことで、実らずに終わってしまう。最近の若いネパール人の間ではあまりそういうこともなくなってきたようではあるが、ネパール人特に若い女性の貞操観念は、日本とは比べ物にならないくらい厳格だそうである。実際、僕の身の回りでも、たまたま地方に行くバスの中でネパール人女性と隣り合わせて、携帯番号を交換しただけの男性協力隊員が、後になって彼女の兄から「妹といつ結婚するつもりなんだ」と抗議されたということがあった。ちなみに、現地人と結婚する協力隊員というのもとても多いようで、JICAネパール事務所のスタッフの中にもそんな人がいる。
 〈私〉がカトマンズで知り合った人の中には、国立ビル病院(写真下)の看護婦もいた。彼女は〈私〉がカトマンズのドミトリーで同室となったアメリカ人男性のガールフレンドであった。ちなみに、ビル病院には現在僕の同期の仲間を始め 5人の女性協力隊員が看護師として、1人の男性隊員が理学療法士として派遣されている。ビル病院への最初の隊員派遣は今から約25年前とのことであるから、〈私〉がいたこの当時は協力隊員はいなかったはずだが、こうした身近な場所の名前が出てくるのも現地にいるからならではの楽しみだと言える。
 その後、〈私〉は約2週間ほどカトマンズに滞在し、再びビルガンジまでバスで行き、ラクソールから次の目的地デリーへ向かう。


 1996年から1998年に渡って「深夜特急」は名古屋テレビによってドラマ化された。〈私〉こと沢木耕太郎を演じるのは大沢たかお(1968〜)。3年の歳月をかけてユーラシア大陸の各地で実際に撮影された。実風景の合間にドラマが挿入されるという、擬似ドキュメンタリーとい うべき作品となっている。
 ドラマの〈私〉がネパールを訪れるのは「第2便 西へ!ユーラシア編」(1997年)の冒頭であるが、「第1便 熱風アジア編」(1996年)は〈私〉がシンガポールから電車でインドのカルカッタに向かうところで終わっているため、彼がなぜネパールに寄り道をしたのか、またどういうコースをたどったのかはドラマを観るだけではわからない。
 なお、ネパールでは、ツーリスト街のタメルや、カトマンズ・ダルバール広場(写真)、スワヤンブナート(写真)、ボーダナート(写真) などで撮影されている。ちなみに、ドラマの中で、〈私〉はタメルで皮のコートを奮発して2600ルピー(約5200円)で買う。現地で暮らしている僕らからすると躊躇するほどの高い買い物である。ひょっとしたら日本人なのでボラれてしまったのかもしれない(笑)

 ドラマには、原作には出てこない松嶋菜々子(1973〜)演じる〈私〉の恋人が登場したり、新しいエピソードが付け加えられているなど、様々な変更点が見られる。中でも一番の大きな違いは、原作でパキスタンからアフガニスタンを経て、イランへ入るコースとなっていたのが、アフガニスタン内戦の影響によって、パキスタンから砂漠を越えてイランへ入るというように変更されている点であろう。

 原作小説もテレビドラマも、異国への憧憬をかきたててくれる。こうしてこの文章を書いている今も、すぐにも旅立ちたい気持ちでいっぱいになる。
 
 
     月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。
      ―松尾芭蕉「奥の細道」(*14)
   
 
 いやそうでなくても、今日本から遠くネパールのカトマンズの地にいる僕もまた一種の旅人なのかもしれない。

*11 沢木耕太郎「深夜特急4」175ページ
*12 猿岩石「猿岩石日記1」6ページ
*13 沢木耕太郎「深夜特急3」127ページ
*14 松尾芭蕉/麻生磯次訳注「奥の細道」10ページより引用
 
 

 

カトマンズ中心部にある
国立ビル病院
 

 
◆谷甲州と「少年アシベ」

  2度映画化された小松左京(1931〜2011)の大ベストセラー小説「日本沈没」(1974年)の30年ぶりの続編が2006年に発表されて話題になった。この続編を小松と共著で執筆したのはSF作家の谷甲州(1951〜)であったが、彼は1979年から1981年にかけて青年海外協力隊の測量隊員としてネパールに滞在した経験を持っている。
 谷は山岳小説も数多く執筆しているが、そこにはしばしばヒマラヤの山が登場する。その一遍が「遥かなり神々の座」(1990年早川書店)。主人公の登山家・滝沢育夫は、ネパールから厳寒のマナスル山(標高8163メートル)を越えて秘かに中国領へ越境するチベット・ゲリラの登山隊の指揮を任される。だが、陰謀によって滝沢は追われるようになり、再びヒマラヤ山脈をネパールに向けて逃げていく…。
 チベットが中国の武力制圧によって中国領となったのは1959年のこと。その際、ダライ・ラマ14世(1935〜)を始めとする多くのチベット人がヒマラヤ山脈を越えて、インドを始め、ネパール、ブータンへと亡命している。「リトル・ブッダ」にもそうした ブータンのチベット人・コミュニティが登場するし、僕のいるネパールにもチベット人キャンプがある。また、一部の亡命チベット人たちはゲリラを組織した。そのうち、東チベット(カム)出身者で構成される のがカムパ・ゲリラである。1974年にネパール軍によって武装解除されるまで、ネパール北部のムスタンを拠点に、再三にわたってチベットを脅かしたそうである。
 「遥かなり神々の座」はこうした歴史的な背景を基にしていて、リアリティが感じられる。だが、それ以上にカトマンズのちょっとした街の描写に現実味がある。滝沢はカトマンズで、ホテルのあるタメルからアッサム通り、インドラ・チョークを抜けてニュー・ロードの突き当たりの小さな路地にあるなじみのドカン(飲み屋)を訪ねる。この記述は、現在のカトマンズの様子とも合致している。協力隊員時代の経験が作品のベースに流れているのであろう。 


 僕らやもう少し下の世代だと、アニメにもなった森下裕美(1962〜)の漫画「少年アシベ」(1989〜94年集英社) でネパールを知ったという人も多いかと思う。この漫画は、小学校1年生のアシベ少年とペットのゴマフアザラシのゴマちゃんを中心に、人々の交流を描いたシュールでほのぼのとした4コマ漫画である 。
 アシベの親友スガオ君は、父親の転勤で家族でネパールに引っ越す。そこで彼は、ネパール人少女チットや、家庭教師の聖者といった不思議な仲間たちと出会う。
 スガオ君一家は、町から近い山の中に住んでいる
(*15)。散歩に出て迷子になったスガオ君父子が偶然映ったテレビ中継をアシベが見る場面があり、その際のアナウンサーは「ネパールはカトマンズの山から」(*16)と喋っていることから、それはカトマンズ近郊の山なのだろう。しかも、ジャングルがあって、猿や虎が出てくるほど自然が豊かである。おまけにヒマラヤにもすぐ遊びに行くことができて、スキー中に偶然会ったイエティ(雪男)の子供がスガオを気に入って家にまでついて来て居ついてしまう。
 確かに、ネパールには世界最高峰のサガルマータ(エベレスト)から、標高100メートル前後のタライ平原まであって、その高低差は8000メートルを悠に超える。気候も万年雪のヒマラヤから、亜熱帯のジャングルまで多岐に富んでいて、生息する動物も豊富である。とは言え、カトマンズにはさすがに虎はいないし、カトマンズから一番近いヒマラヤのランタン・ヒマールとジュガール・ヒマールでも、カトマンズからは60キロ離れている。
 もっとも、そんな些細なことをあげつらっても、まったく無意味なことだし、それによってこの作品の面白さが変わってくるというわけでもない。今にして思えば、「少年アシベ」は、多くの少年少女にネパールという国の存在を意識させたという意味で、大きな功績があると言えるのではないだろうか。

*15 森下裕美「少年アシベ 1」52ページ
*16  同書 92ページ
 
 
   
 ネパールを取り上げた作品を思いつくままに あげていったところ、このようにいくつも浮かんできた。おかげで、「映画史探訪」という題名にもかかわらず、映画以外の作品の紹介にいささか筆を割きすぎた気もするが、ご了承頂きたい。
 ネパール行きが決まるまで、僕にとってネパールはそれほど馴染みのある国とは言えなかったが、こうしてみると、様々な人がそれぞれの理由でネパールに魅せられている 。
 僕のネパールでの生活は始まったばかり。ネパール映画を始めとして、これからどのようなネパールを見つけることができるだろうか。今からとても楽しみである。その様子はこれから、このサイトでも少しずつ紹介していきたいと思っている。
     
 

(2007年7月25日)


(参考資料)
Eric Valli、Diana Summers「DOLPO/Hidden Land of the Himalayas」1986年 Apertue Foundation
「『キャラバン』エリック・ヴァリ監督来日記者会見」(http://www.werde.com/movie/interview/caravan.html
「Cinema of Nepal―Wikipedia,the free encyclopedia」(
http://en.wikipedia.org/wiki/Cinema_of_Nepal
विकिपीडिया खुला विश्वकोष/नेपाली चलचित्र」(http://ne.wikipedia.org/wiki/नेपाली_चलचित्र
  
西澤憲一郎「ネパールの歴史―対インド関係を中心に―」1985年6月 勁草書房
石井溥編「もっと知りたいネパール」1986年11月 弘文堂
猿岩石「猿岩石日記PART1/極限のアジア編」1996年10月 日本テレビ放送網
石井溥編「アジア読本/ネパール」1997年3月 河出書房新社
下川裕治、ゼネラルプレス編・著「アジア楽園マニュアル/好きになっちゃったカトマンズ」1998年6月 双葉社
「地球の歩き方28 ネパール/2002〜2003版」2002年3月 ダイヤモンド・ビッグ社

「ドラマスペシャル/ヒマラヤの赤い自転車/決定稿(シナリオ)」TBS/ニューウェーヴ

河口慧海「チベット旅行記(一)〜(五)」1978年6月〜10月 講談社学術文庫
河口慧海「第二回チベット旅行記」1981年10月 講談社学術文庫
沢木耕太郎「深夜特急1〜6」1994年3月〜6月 新潮文庫
谷甲州「遥かなり神々の座」1995年4月 ハヤカワ文庫
谷甲州「彼方の山へ」2000年6月 中公文庫
「クロスロードインタビュー/谷甲州」2007年2月「クロスロード」
森下裕美「少年アシベ1〜4」1989年4月〜1991年7月 集英社

松尾芭蕉/麻生磯次訳注「奥の細道」1970年3月 旺文社文庫


ブログ「たこのあゆみ」(
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